『通りすがりのレイディ』新井素子 著 感想

『星へ行く船』シリーズ 新井素子 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれ含んでおりますので未読の方はご注意ください。

番外編である『星から来た船』を読んだら、本編を読み返したくなり、久しぶりに星~の世界を訪れました。

懐かしいなあ。これ、私が中学生のときに夢中になって読んだ本なのですが。久しぶりに読んだら、当時とは全然違う感想を持ちました。

まず。主人公のあゆみちゃんに対して。

中学生だった私は、あゆみちゃんが大好きでしたし、すっかりあゆみちゃんの気分になって物語を楽しんだものでしたが。今改めて読みなおすと。

う~む。あゆみちゃんには共感できないな。今の私があゆみちゃんに出会ったら、多分、あんまり好きにはなってないし、近付かないだろうなあと。

このシリーズは5冊で完結してます。中でも、私は『通りすがりのレイディ』が一番好きです。タイトルが秀逸。
通りすがりのレイディ。う~む、簡潔にして的確、そして、深遠な言葉の羅列。

この『通りすがりのレイディ』は、ドラマや映画になったら凄く面白い作品だろうなあって思います。今ならCGもあるし、火星における近未来の生活を、嘘っぽくなく作れるのではないでしょうか。

キャスティングは。

あゆみちゃんが、京野ことみさんかな。
そして所長は、陣内孝則さん。
レイディは鈴木京香さんで、太一郎さんは…どうだろう。思い浮かばないや。皮肉屋で自信家で、でも実力あって、う~ん。誰だろうなあ、芸能人で言うと。

『通りすがりのレイディ』(以後、『通り~』と略します)は、中学時代に読んだ時と今とでは、感想が違ってくる作品です。

今になって、「それはないだろう~」とツッコミを入れたくなる部分がいくつかあるので、書いてみたいと思います。

まず。レイディは木谷氏と結婚したとしても、太一郎さんの弔い合戦が終わるまで、子供を産むような人じゃないと・・・思う。これは本当に、そう思う。

太一郎さんでさえ、やられてしまったほどの巨大な組織、陰謀ですよ。それを相手に、たった一人で(結婚して木谷氏と二人で、かもしれないけど)戦おうとしている聡明な彼女が、子供を産むはずは、ない。

まあ、木谷氏は分別ある大人の男性なので。本人がどうしても、とそれを望むなら。レイディさえ木谷氏を信用すれば、二人が結婚して、共に闘うっていうのは、ありだと思うんですよ。木谷氏を危険にさらすこと、これはまあレイディの中では許容範囲かも。
でも、その最中で子供を産むなんて無責任なこと、レイディに限って、ありえない。

そして、子供を「太一郎」と名付けるにあたっては、本当に、狂気の沙汰としか思えません。レイディは、そこまで愚かで失礼な人ではないだろうと。
なんといっても、太一郎さんが初めて(と思う)惚れた相手ですからね。

生まれた子供に、前彼の名前をつける…こんなひどい話って、あるんでしょうか。相手の人にも失礼だし、子供に対しても、こんな馬鹿にした話って、ないと思うんです。

名前って、とても大事なものだから。親が子供に贈る、最大のプレゼントじゃありませんか。それを、いくらなんだって、前カレの名前をつけるって、感傷は自分一人の胸の中にそっとしまっておきなさいっていう話です。それは、現夫や子供を、愚弄するようなセンチメンタリズムでしかない、と思います。

あとね、事件解決の後に、病室でレイディと再会したときの太一郎さんなんですが。

「夕飯が腐っちゃったでしょ!」とひっぱたかれて、逆に、「こっちにはこっちの事情があったんだ!」とレイディをひっぱたき返すシーン。
ありえないなあ、と思いました。

太一郎さん。女性に手をあげる人じゃないと思う。基本的に。
それプラス。夕飯が腐っちゃったっていうレイディの言葉にこめられた万感の思い、悟らない人ではないと思う。

聞いた瞬間。誰より深く、レイディの悲嘆と苦しさを、理解したんではないだろうか。レイディは、太一郎さんのことを、片時も忘れてはいなかったのだから。思い出にするよりも、その傷口をいつまでも疼かせることで、自分を支えてきたのだ、レイディは。
それがわからない太一郎さんでは、ない。彼が、レイディを叩けるはずが、ない。

それに、この場面。
もし太一郎さんなら。あゆみちゃんのいないところで、ちゃんとレイディと対峙したと思う。二人きりの場を作ること、太一郎さんなら簡単にできるし。
久しぶりの再会を、あゆみちゃん抜きにすることは、レイディに対する礼儀だったと思う。それをやらなかった太一郎さんは…魅力が半減してしまう。

私が『通り~』で一番心に残ったのは、レイディが語る、太一郎さんの昔からの癖。
自宅で人を待つ時、カーテンを左側に半分寄せる、その癖。

中学生の頃は、「あ~そうか。昔はレイディを待っていたけど、今はあゆみちゃんが恋人で、だからあの日はあゆみちゃんを待ってたんだな。あゆみちゃんが訪ねてくる予定の日だったもんな」なんて、単純にそう捉えていたんですけど。

今読むと。私には、太一郎さんが待ち続けていたのはレイディではないかと、そう思えてなりません。

再び火星に帰って来た日から。レイディが去ってしまったと知った日から。太一郎さんはずっと。レイディを待ち続けていたんではないだろうかと。二人で暮らした懐かしい場所に留まり続けたのは、そのためで。引越すことだってできたのに。
いつかレイディが戻った日に。すぐわかるように。
使っていた調理器具も処分しなかった。それは、彼女を待っていたからではないかと。

そして私は思うのです。本編最終巻で明かされる驚愕の事実。あゆみちゃんの持つ、「感情同調能力」のこと。
この小説はコバルト、という少女向けに書かれたものであり、ハッピーエンド前提であったのは暗黙の了解で。本作を最初に読んだ当時、まさに少女だった私は素直に、「感情同調能力にも負けない愛が、太一郎×あゆみカップルにはあったのね。素敵!」なんて、無邪気に感動したものですが。

今はこう思えてなりません。
太一郎さん、思いっきりあゆみちゃんの感情同調能力に捕われちゃったんじゃないのか、と。それはつまり、あゆみちゃんが人生始まって以来の強い想いを、太一郎さんに対して抱いたから。初めて人を本気で好きになり、まっすぐに太一郎さんのことを思ったから、彼はその強烈な力に抗えなかったんじゃないかと。
もちろん、あゆみちゃんの持つ能力の特殊性ゆえに、彼がそれを「自分の意志である」と勘違いしてしまったのは、無理もありません。それに、どこかでそれを疑ったとしても、証明する術などどこにもなくて。

四六時中。日を追うごとに強くなる思い。あゆみちゃんから発せられるその思い。
あゆみちゃんが強力な感情同調能力の持ち主であったなら。その思考波の中で、どれだけ太一郎さんは自由でいられたのか、疑問です。

上記のようなことを考えつつ、P28の場面を読むと、感慨深いです。

昔、太一郎さんの部屋で彼と共に過ごしていた幻の恋人の存在を、知りたくて、でも聞きたくなくて、苦悩するあゆみちゃんを前に。
たまんない表情。完全に優しい表情になって、語りかける太一郎さん。

>「あのね」

言いかけた言葉は、あゆみちゃんが電子レンジのチャイムを口実に逃げ出して、最後まで続くことはなかったのですが。

あれって、本来の太一郎さんの最後の抵抗だったのかも、なんて。
あのときだけは、感情同調能力の呪縛、少しだけ解けていたのかも。だから、あゆみちゃんには理解できない、優しい表情になったんだろう。レイディと過ごした記憶が、大きな力になって太一郎さんを動かした。
あゆみちゃんの能力はそのとき、少しだけ、負けたのかも。

そう思うと、P105の描写にも、最初に読んだときとは違う感覚を覚えるのです。

>「今は、あの人、あなたを待っているの?」

レイディには、他意はなかったでしょう。きっとレイディは知っていた。太一郎さんが、自分を待っていたこと。彼がそういう人であること、誰より深く、理解していた。だから、聞いた。

勝てないよ、あゆみちゃん。
でも勝っちゃう。
だって、感情同調能力者だから。無敵だもんね。

『通りすがりのレイディ』は、シリーズの中でも一番の傑作だと思います。

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