『モンテ・クリスト伯 ―華麗なる復讐― 』第9話 感想

モンテ・クリスト伯 ―華麗なる復讐― 第9話 を見ました。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので未見の方はご注意ください。

 

 

第8話は、旅行中だったので見ていません(^^; 第8話を見ない上で第9話を見たのですが、私にとってはそれだけ「どうしても見たいドラマ」ではなかったということで。それでも、最終回を見た後では、感想を書いてみたくなりました。主人公を演じたディーン・フジオカさんが、とても良かったので。

貴族然とした、冷たい表情の端々に現れる人間ぽさ、人の良さみたいなもの。復讐してても、拭いきれない虚しさ。

復讐劇の最後は、真海が暖であると、つまり人は、他人になどなりきれないと、そういう結末であったと思います。

これ、復讐するのが暖でなく、幸男だったら。そして神楽や入間だったら。復讐相手を、確実に全員殺していたでしょう。ためらわず。

暖はそういう人ではなかったから。悪にはなりきれない。幸福そうなカップル、信一朗と未蘭に、昔の自分たちの姿を見た時点で、なんかもう復讐の遂行なんて無理な雰囲気になっちゃってた。

「許さない」と叫ぶ信一朗を見る、暖の悲しい目。不幸な結末しか待っていない復讐の醜さを、自らの哀れな姿を、見せつけられているようで。あれは信一朗じゃなく、自分自身の姿だったんですね。

このドラマに今ひとつ入りこめなかった理由は、すみれがあまり魅力的でなかったからです。暖にとって、復讐の一番の原動力になるすみれが、それだけ大切で、かけがえのない存在には思えなかった。

自分が暖だったら、すみれの言動に幻滅して、愛は消えてたなあ。少なくとも、暖が真海として現れた時点で、すぐに反応するすみれであってほしかった。あれほど愛し合って信じ合った間柄であれば。

たとえ他の人と結婚しても。

暖は死んだと聞かされていたのだし、幸男の本性を見抜けなかった、その事実は仕方のないこととしても。それでも暖と再会したら。なんのためらいもなく「暖!」と呼んで、「生きてたのね。よかった!」と泣いてくれるすみれなら。暖が執着するのも無理ないし、すみれを取り戻そうとする暖の姿に悲壮感が増したと思うのですが。

いくら年月が、苦難が容貌を変えてしまったとしても。暖を暖と見抜けなかった、そのことはどう考えても、それがすみれの真実なのです。

もし再会のとき、すみれがとっさに駆け寄り、暖を抱きしめて、「お帰り、暖」とでも呟いていたら。あるいは。他の人と結婚しているその事実の前に、ためらって駆け寄ることは出来なくて、すんでのところで踏みとどまって。理性で必死に他人行儀を装いながら、それでもこらえきれない涙で、「暖!」と名前を呼んでくれたら。

物語は一層、せつないものになったでしょうけど。結局、すみれの中で暖は、過去の人になってしまっていたから。そんなすみれを追いかけて、暖が取り戻すことに意味を見出せない。

>あんたがちゃんと待っていれば、真海さんはこんなことしなかった

愛梨のセリフに、ふんふんとうなずいてしまいました。いや、本当にそう思う。

他の人への憎しみより、すみれへの愛情の方が勝ってたでしょうから。もしすみれが暖を待ち続けていて、「復讐なんてやめよう、二人で幸せになろう」なんて言っていたら、暖はその通りにしたと思う。

暖はすみれをなくした。だから取り戻そうとした。だけど、暖の好きだったすみれはもう、どこにもいませんでした、と。そういうお話だったような気がします。いないものを、取り返せないのだから復讐は無駄なこと。

最後の晩餐シーンは、オペラ座の怪人を意識したもののように思いました。駄目だと知りつつ、すみれに嘘をつかせる暖。

無理やり、結婚の言質をとったところで、虚しいだけなのにね。それでも言わせずにはいられなかった。失った未来。欲しかった幻。

幸男と神楽を尋問して、彼らの真実を見せつけた上ですみれに問うた暖。選択は、すみれにゆだねられた。それでもすみれは、気持ちの上では、暖を選ばなかった。暖への愛情ではなく、幸男や神楽、娘、多くの人を復讐から救うために暖を選んだ。暖の中では、その瞬間、すべてが終わったでしょう。

>やっぱり 最後に愛は勝つんだ

このセリフの意味。それは、暖が、本当にすみれを愛してたということではないかと。

ここでKANを持ってくるセンスは好きです(^^)

もうどの方向から見ても、どこをひっくり返しても、暖の好きだったすみれはいない。暖を愛してくれたすみれはいない。そういうことですね。

その一方で、暖はすみれを愛し続けていた。ずっとずっと。すみれの心が自分にないとわかっても。

それがわかったとき、暖は幸男も神楽も解放しました。無意味な存在となったすみれを含めて。

暖らしいです。憎い相手を殺すのではなく、自分を消そうとした。もう何も、残っていないから。生きる意味を見失った。

最後は意味深な映像で終わっていましたけど。あの砂浜を歩く人影は、暖なのか。

私は、暖はあのまま死んでしまったような気がします。人影は、視聴者への救いであって。あのまま消えてしまうのは、あんまり寂しいので。暖の絶望は、この先を生きるにはあまりに深く。

それにしても、もう少し愛梨が魅力的な存在だったらなー。そう思う最後でした。暖が惹かれる要素が全く見えず。だから、暖が愛梨と踏み出す新しい生活、というのが想像できませんでした。

『モンテ・クリスト伯-華麗なる復讐-』第7話 感想

ドラマ『モンテ・クリスト伯―華麗なる復讐―』第7話を見ました。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

 

 

主役の柴門暖を演じるディーン・フジオカさん。このドラマに合ってますね~。冷たい表情がとても似合うのです。目の奥が凍ってる感じ。端正な目鼻立ちは、笑顔がない方がより、強烈なインパクトを残します。

私、この方を初めて見たのは朝ドラの五代役だったのですが、とにかくオーラがある俳優さんだなと思いました。好き嫌いでなく、目を引きつけられるのです。それで、見ているとゾワゾワするのです。

なんだろうこのゾワゾワ感。見ていると、不安になる。

だからそのディーン・フジオカさんが、復讐する男を演じると聞いたとき、単純に見てみたいな~と思いました。ディーンさんて、熱さ寒さで言えば寒さだし、喜劇悲劇でいったら悲劇の方が似合う。

そして7話の感想ですが、7話のクライマックスは、ディーンさん演じるモンテ・クリスト伯の仮面が剥がれた瞬間でした。切なくて、暖の表情に魅入られました。

復讐に燃える暖も、かつての恋人、すみれ(山本美月さん)の前では、自分を偽ることができない。動揺でモンテ・クリスト伯を演じられなくなる。

すみれを見たときの悲しい顔。

不意に現れたすみれに、「お引き取り願います」と強い言葉を浴びせた時点で、言葉とは裏腹、もうすみれに負けてる(^^; その後、目を合わせることもできず背中を向けたままなのは、すみれを前にしたらなにもかもばれてしまうと、それがわかってるから。

すみれからみたら、ずーっと背中を向けたまま。なにを考えてるのか、どんな表情してるのか、わからない真海。

だけど視聴者からは、すっかり暖の顔に戻り、すみれの誤解にくやしさをにじませる真海の表情が、よく見える。この辺りのカメラワークが秀逸です。

>わかったよ、最初に会った時から

このセリフは重い。きっと、暖が一番諦めて、そして欲していた言葉だから。それ聞いた瞬間、もう全部許しちゃってるね~たぶん。すみれのことは、何もかも。

それまでは、理不尽な怒りかもしれないけど、暖はすみれに怒っていたと思うのだ。なんでよりによって幸男(大倉忠義さん)なんかと結婚するんだ、と。わかってくれ! 気付いてくれ! どうしてよりによって、幸男なのか?と。

自分だって、幸男がそういう裏切りをする男だと全く気付かずに罠にはめられたわけだから、すみれに「気付け」というのも無茶な話なのですが。

暖は、すみれにそこまで求めるのは無理とわかっていてなお、怒らずにはいられなかったと思うのです。理屈じゃない怒り。

その怒りの原点に、「初めて真海として会ったとき、すみれが暖と気付いてくれなかった」ことがあったのではないでしょうか。

実際、すみれは気付いていたようには思えますが、少なくともその時、「あなたは暖よね?」というストレートな言葉がなかったから。

本当に大好きだった人ならわかるはず。長い囚われの日々が姿形を変えたとしても。すみれなら、目の前にいて、見つめ合ったら。

暖は、心の中でそう考えていたんではないだろうか。すみれが、気付いて声をかけてくれることを祈っていたように思う。たとえそのことが、復讐計画を妨げることになったとしても。

結局、真海として初めて向き合ったときにすみれは、暖の名前を呼んでくれなかった。その事実が、暖を傷つけたことは想像に難くありません。

>でもそのとき、幸男が救ってくれた

すみれの言葉に、思わず拳を握りしめる暖。悪いのは幸男ではなく自分だと、何度も繰り返すすみれ。すみれの誤解を聞き流せずに、真海の仮面がボロボロと崩壊し始める。

必死に感情を押し殺そうとするけど、苦しさに顔が歪みます。

>あなたは何もわかってない。悪いのは幸男なんだよ。

ここの、「あなたは」っていう他人行儀な言葉に、暖の最後の抵抗を感じました。それは、真海の仮面をかぶり、復讐を最後まで遂行することへの固い決意です。でも次の瞬間、我慢できずに振り返ってしまうのよね(^^;

振り返ってすみれと至近距離で見つめ合った暖の目は。怒りよりも悲しみが勝っていたような。憎しみや怒りではなく、悲しみ。だって、そもそも自分たちを引き裂いたのは幸男で、すみれはそれを知らずに幸男と結婚し。子供までもうけていたのだから。こんな悲劇はない。

幸男を単純に憎み、復讐できたならまだいい。でも、その幸男の妻が、自分の愛する人だったら? どうすればいいというんだろう。暖の戸惑いと悲しみが、溢れていました。真実をぶちまけたところで、すみれを困らせるだけで何も解決はしないのだけど。それでも、言わずにはいられなかった、暖の深い悲しみ。

衝撃の告白に、すみれがどう反応したのか、そこは省略されていましたが。それはもう、茫然自失って感じだったのかなあと想像します。

とにかく。子供がいますからね。幸男との間に生まれた子供。その子にとっては、大切な父親なわけです。もはや、切り捨てることができない血の繋がり。それだけに、暖の告白はすみれにとって絶望以外の何物でもない。

このドラマ。悪役の高橋克典さんと新井浩文が、役にぴったりはまってます。大倉さんは、いい人にみえてしまうところがちょっと惜しい。もうちょっとゾっとする怖さがあってもいいかも。二面性というか。

稲森いずみさんもいいですね。登場しただけで、目を引きます。

江田愛梨役の桜井ユキさんは、凄みがないところが残念かなあ。過去の傷をあまり感じられないのです。それと、真海に対しての愛情があんまり伝わってこなくて。どちらかといえば、入間瑛理奈役の方が似合うのではないかと、そんなことを思いました。

7話のラスト。たぶん、愛梨は幸男を助けてしまったのでしょうね。でもそれは、幸男の子供に、自分の子供時代を重ねた、というだけではなく。きっと真海のことが好きだから、幸男を死なせることができなかった。

幸男が死ねば、真海が何の憂いもなくすみれ親子を助けることがわかっていたからです。なんなら、すべての復讐が終わった後、真海はすみれと結婚するかもしれない。愛梨はそこまで予想したのではないかなあ。それまでずっと真海と行動を共にしてきて、真海のすみれへの深い愛情を、誰よりもわかっている人でしょうから。

すべての復讐が終わった後、愛梨は真海と共に生きる道を夢見ているのでしょう。では真海は。暖は、何を望むのでしょうか。

続きが気になります。

ドラマ『コントレール~罪と恋~』 感想

 ドラマ『コントレール~罪と恋』の感想を書きます。以下、ネタバレ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。『運命に似た、恋』についても、触れておりますので、ご了承ください。

 『コントレール』は、NHKで4月15日から6月10日まで放送されていたドラマです。なぜ今さら、という感じですが、感想を書きたくなった理由は、『運命に似た、恋』の第1回放送を見たから。運命…の方を見て、改めて『コントレール』の良さに気付いたというか。

 描き方によって、ドラマって全然違うなあっていう。

 私は断然、『コントレール』の方が好き。大人なドラマで過激なシーンもあり、決して昼間に家族団らんで見るタイプの作品ではありません。ただ、本当に綺麗です。主役お二人が、とにかく綺麗。眼福。

 『運命に似た、恋』を見たいと思ったのも、主役二人の名前に惹かれたからだったのですが、第1話が終わったとき、がっかりしてしまいました。原田知世さん演じる桜井香澄の、軽さ。斎藤工さん演じる小沢勇凜(ユーリ)の薄さ。ドラマの世界に入りこめず、白けてしまって。
 共感もできなかった。クリーニングのお客さんから、あっさり高額なお下がりをもらう香澄や、いくら誘われたとはいえ無関係な世界のパーティーへ、しかもコスプレして出かけてしまう浅はかさ。

 そして何より、ユーリが駄目すぎた(^^;
 好きな相手が騙されて変な服装させられ、ピンチだというのに、笑うかなあ、そこでっていう。なんの救いにもなってない。自分が香澄だったら、あの場で助けてくれるどころかみんなと一緒になって笑ってるユーリには、一瞬で冷める。その後どんなにとりつくろっても、愛情が蘇ることはないだろう。

 原田知世さんも、斎藤工さんも、影や寂しさを感じさせる俳優さんで。斎藤さんは、ガラスの家での好演が印象深かった。『運命に似た、恋』はもっと、静かで激しい恋愛ドラマなのかと思っていたら、予想を悪い意味で裏切る展開でした。

 
 その点、『コントレール』は凄かったです。もうね、第1話が、最高潮だから。こういうドラマも珍しいなあと思う。

 あらすじはといいますと、石田ゆり子さん演じる青木文(あや)と、井浦新さん演じる長部瞭司(りょうじ)が偶然出会い、お互いに惹かれあうんだけど、実は以前、あやの夫を不可抗力の事故のようなもので死に至らしめたのが瞭司ということがわかって…という、なかなか重い話です。
 
 でも、第1話はとにかく、主人公二人の演技に引き込まれてしまいます。

 石田ゆり子さん美し~。思わず実年齢を確認してしまいましたが、そりゃ瞭司もカレー食べに来るだろうなあと。あんなオーナーのいる店だったら、毎日通う常連さんがいっぱいいそうです。
 あやの役がとても合ってます。もう石田さんがあやなのか、あやが石田さんなのか。そのものになりきってました。

 これ、石田さんがあやの役じゃなかったら、ドラマの魅力が半減してたと思います。ただ綺麗なだけじゃなくて、そこに不幸な影や、だるさや、事件へのやりきれなさや、周囲へのうんざり感をそこはかとなく漂わせた女優さんじゃなきゃいけないから。
 そして適度に肉食、適度な色気。過剰だと引いちゃうし、少なすぎたら魅力がない。

 石田ゆり子さん、奇跡のバランスでした。この役ができるの、石田さんしか考えられない。

 そしてそれは瞭司役の井浦新さんも一緒。井浦さんでなければ、このドラマは成立しなかった。正義感と、もろさと、ピュアなところを言葉じゃなく、全身で表現してた。
 
 寂しい同士の恋愛。生き物の本能なんだと思います。異性に救いを求めてしまう瞬間。

 ただ、私が思うに、愛情の深さはあやの方に軍配が上がる。瞭司はたぶん、引きずられた。あんな美女が、ぐいぐい迫ってくるのですから、事情はよくわからずとも、恋愛とか抜きにしても、「キスして」って言われたら、抱きしめることがあやを助けることになることはわかったはず。
 そして瞭司自身も、罪の意識から人との接触を避けながら、本当はずっとぬくもりを欲していただろうから。両者の利益が一致する、なんていうと、身も蓋もない言い方かもしれませんが。

 あやは、瞭司に一目ぼれしたのだと思います。顔が好みのどストライクだったのでしょう。理由も理屈もなく、初めて目を合わせた瞬間に、魅入られてたのが伝わってきました。

 対する瞭司は。そこまであやに、運命を感じたとは思えなくて。

 たぶんですけど、弁償の封筒持ってきたときは、別にあやのことをどうとは思っていなかったんじゃないかと。ただ、看板を壊した責任感で訪ねてきたわけです。それで、会ってみるとあやはいい人そうだし、美人だし。夜、仕事帰り、疲れてちょうどお腹もすいていたところに、カレー食べていきませんかと言われたらそりゃ食べるでしょう。

 このお話は、あやがぐいぐい行かなかったら、成立しなかった。瞭司は引いてますからね。決して自分からあやのところへ、向かってはいかない。次の日にドライブインに食事に来たのも、通り道だったというのが大きかったと思う。わざわざ回り道はしてないはず。

 本当なら、カレーを食べた夜で終わっていた。だけどあの日、家を飛び出したあやが泣いてて振り返ったとき、瞭司がいた。そこからの急展開は強引なんだけど自然で、お互いに相手が必要で、親しくなることで痛みが緩和されていく感じが伝わってきました。

 このドラマ、盛り上がりという点では、1話が最高潮です。後は、そこからどう着地するか、ですね。

 結局、別れを選んだ二人でしたが。私はそれがよかったと思います。瞭司が声を取り戻し、ひこうき雲のトラウマを乗り越えたのはあやのおかげですが、じゃああやと結婚して彼が幸せになれるかというと、それは違うような。瞭司は純粋な恋愛対象としてあやに愛情を感じていたのではなく、あやに助けられたというその事実が、感謝や思慕をごっちゃにして恋愛もどきの一時的な感情の昂りを生み出していたような。
 声が出なくなり、袋小路にはまっていた瞭司ですから。どちらに歩いていけば出口があるのかわからず、暗闇でもがいていたのを導いてくれたのがあやで、でもそれは本当に恋愛なのか?っていう。

 思うに。恋愛は条件ではなく。なぜだかわからず、だけどその人と一緒にいたい。ただそばにいるだけで幸せ、というものではないかと。理屈ではなく。
 あやの姿には、それを感じました。瞭司に引き寄せられてる、見えない糸の磁力。

 瞭司は、違っていたような気がします。桜の下であやを久しぶりに見たとき。綺麗だと思い、見とれはしたけれど、抑えきれないほどの「近付きたい」衝動はなく。涙を流したのも、静かな涙で。もし本当に心底好きになっていたら、あんなに静かに泣くのではなく、もっと激しく感情を爆発させていたと思うのです。

 どうせ結果として二人は別れるのに、短い付き合いに何の意味があったのかと一瞬思ってしまったけれど。でもその短い付き合いが、あやをまた新しい人生に押し出す力となり、瞭司の声を取り戻す治療薬となったわけで。

 ただ一つ、このドラマで残念だったのは、原田泰造さんが、瞭司のライバルである佐々岡滋役を演じたこと。佐々さんのイメージ、泰造さんだと何かが違うのです。しっくりこない。泰造さんだと、泰造さんにしか見えなかった…。

 とにかく石田ゆり子さんと井浦新さんの組み合わせが抜群で、その他の気になる点を全部、見えなくするぐらいに輝いてました。この二人だから、魅力的でした。余韻を残す、ドラマです。

ドラマ『ラヴソング』 終わってみての感想

 ドラマ『ラヴソング』全話見終っての感想です。ネタバレを含んでおりますので、未見の方はご注意ください。
 結局、このドラマは第3話が、最高潮でした(;´▽`A“
 3話のワクワク感に引きずられるようにして、全話見たのですが、3話以上に盛り上がった回は一度もなく。
 なんか、最後の方なんて、神代先生(福山雅治さん)の顔色が悪いのが気になっちゃって。真美(夏帆さん)に、なんでさくらをきちんとフってやらなかったんだみたいに責められるシーンなんて特に。
 そこはもう、違うだろうと。
 恋愛に慣れてなくて、どちらかと言えば鈍いさくらにだって、フラれた、脈がないということは、はっきりわかってた。神代先生は音楽以外のことで自分に興味をもってない、なんてこと、誰に言われなくても理解してたんですよ。
 きちんとフってやんないから、さくらが失踪したのか?
 いやそれ、違うよねっていう。
 御門違いな叱責と。それを真面目に受け止めちゃう神代と。なにを書きたかったんだろう、このドラマ。
 最初はもっとこう、年齢差や過去がハードルになる、微妙な恋愛みたいなものを描くはずだったんじゃないのかなあ。3話までは、そういうのが、確かにあった。
 人を癒すのも傷付けるのも、結局は人なのだと。出会いと別れを繰り返しながら、影響を与え、また与えられながら。思いやること。思いやるからこそ、近付けないこと。
 4話以降は、切なさがなかったのです。どこにも。
 二人を結びつけるはずの歌も、インパクト弱かったなあ。
 全部がうまくいくというのも、嘘っぽくていかにも作り物みたいで。
 嫌な上司は嫌な上司のままの方が、リアル。同僚たちもなぜか最後は、いい人たちに変わってしまった。
 主人公は家庭に恵まれないという設定だったけど、その分、あり得ないほど強い絆で結ばれた、親とも兄弟ともいえるような、存在の友人がいて。そうすると、歌に救いの光を見出していく、という経過がぼやけてしまう。
 そこまで、追いつめられているわけでなく。孤独感の中でギリギリ、生きているやりきれなさもなく。普通に、それなりに幸せで平穏な毎日なのでは?という。
 吃音が、ぎりぎりまで主人公の生活を追いつめているようにも見えなかった。上司もただ叱責するのではなく、神代の元に連れていってあげてるし。
 もっと、神代の過去や音楽プロダクションでのあれこれや、そういうものにさくら達が翻弄されるのだと思っていましたが、結局一番の山は、さくらの喉の大病ということで。それはドラマとして、あまりにも安易な展開ではないかと。最後に病気が出てくる必然性を、まったく感じませんでした。
 あと由紀さおりさんが、謎でした。もっとキーパーソンになるのかと思ったのですが。誰も予想できないようなすごい伏線を張ったのかと楽しみにしてたのに、放置されたまま唐突に終わって、ぽかーんです(^-^;
 ドラマの中で、一番いい味を出してるなあと思ったのは、空一役の菅田将暉さんでした。脚本と演出がうまくいったら、もっと輝いたのではないかと。
 言動が乱暴なんですけど、そういう乱暴な態度でしか、愛情を表現できない悲しさが透けてみえて。
 こういう人だと、表面的なもので誤解も大きいだろうなあ。
 さくらより、よほど空一(そらいち)の方が、生きづらいのではないでしょうか。高みを目指して、もがけばもがくほど、深い沼の底に沈んでいくような。
 さくらを大事にしようとすればするほど、唐突な行動で嫌われたり。
 調理師の勉強に励もうとすればするほど、生活費のための仕事が重くのしかかったり。
 空一の生きづらさと、さくらの孤独がクロスして、そこに神代が関わって。
 空一が神代を尊敬しながらも、たやすくさくらの心を奪う神代に嫉妬して、嫉妬しながらもやっぱりどこかでは認めてて、みたいな。
 矛盾するいくつもの感情に、悩まされる空一を、見たかったような気がします。
 あと、このドラマで本当に残念だったのは、さくらにも神代にも、お互いを好きという感情をあまり感じなかったこと。(4話以降の話です。3話はそれを上手に描いてたと思う)
 神代にとってのさくらは。
 音楽が好みというだけで、それ以外の感情をもてない相手にしか見えませんでした。最終話では、神代はさくらを好きだった、と自覚したことになってますが。
 画面を見ていてそういう感情は感じられませんでした。好きな相手を想う表情じゃなかったなあ。
 そしてさくらも。
 どうしようもなく惹かれ、片思いに絶望する、神代はそんな相手には見えませんでした。
 3話が素晴らしかっただけに、4話以降はまるで、別のドラマのようでした。
 じゃああの後、どう展開していたらよかったか、といいますと。
 まず、神代にはしばらく、さくらとの一定距離を絶妙に保っていてほしかったですね。職業として、産業医としての事務的な優しさしか見せない。それを徹底的に押し通すっていう。
 中途半端に受け入れることの残酷さ、期待させることの悲しさを知っている人だと思うから。たやすくさくらの人生に関わるほど、神代の傷も浅くはないはずですし。
 ポーカーフェイスを保てないほど、3話の神代はいっぱいいっぱいだったと思うので。
 自分でそれがわかった以上、神代はさくらから離れようとするんじゃないかなあ。
 そして、さくらはそれ故に苦しむ、っていうね。
 理由がわからない。自分の何かが、神代の中の、触ってはいけない部分に触れたっていうのはわかるわけです。優しかった人の豹変。
 そして諦めようとするんだけど、どうしようもなく惹かれて。神代の態度の一つ一つに、目を凝らして、敏感に反応して、一喜一憂して。
 そういう展開だったら、ぐいぐい引き込まれただろうあなって思います。
 そんな中で、プロダクションとの契約があり、大人の事情があり、っていうドラマだったなら。喉の大病なんて、出てくる余地などないくらい、盛り上がったんじゃないかと。
 それにしても、3話の終わり方は本当に印象的でした。今もときどき、ふっと思い出しては、余韻に浸るほどです。どうして4話以降が、ああなってしまったのか。そこが、とても残念なドラマでした。
 
 

ドラマ 『ラヴソング』第3話 感想

 ドラマ『ラヴソング』第3話の感想を書いています。以下、ネタバレ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。
 この第3話は、気が付くとさくらの視点で、神代を見ていました。特に、一番印象的だったのは、ライブ前の屋上シーン。
 これがねー。私には怖かった(^^;
 ちょっと浮かれながら、「先生のこと想って歌ってもいいですか」なんて告白もどきをしたさくらですけども。神代の沈黙が怖い。返事がない。それを待つ恐怖感といったら。
 もし自分だったら、耐えられないだろうと思いました。いくら浮かれてたとしても、この重い空気感にはさすがに気付く。それが、自分の思っていた方向ではないということに。
 神代は優しい人だと思うのですよ。
 さくらにギターも買ってあげてたみたいだし。企業内カウンセラーとしての業務を逸脱してて、心配になるくらい。それに明るいし、軽口も叩くし、そういう人がですね、黙り込んでしまうっていう、この重さ。
 さくら、やっちまったなーと。固唾をのんで画面を見守りました。なんて答えるんだろうって。
 YESかNOか。どっちにしろ、うまい返しなんてないと知りつつ。
 YES→さくらに変な期待をもたせてしまう。心を弄ぶ嘘をつくことになる。ただしさくらの初舞台は成功する。
 NO→さくらが落ち込み、初舞台は大失敗に終わる。おそらく今後、さくらは夏希の治療を受けない。
 さくらの吃音を治してあげたいと思っている神代が、どう答えることがベストなのか。それにしても、私には長すぎる沈黙に思えました。実際には短い時間のことだったのかもしれませんが。見ている私には、苦しいくらいの時間でした。
 神代の顔でなく、背中が映ったときには、この人は今どんな顔をしているんだろう、と。果てしなく想像が広がりました。普通じゃない、というのはわかったので。なにかとても考えこんでるような。真剣になっているんだろうな、と。
>次に進む、か
 そのつぶやきは、さくらに向けたものではなく。まるで自分に言い聞かせるように。こうすることが正しいんだと確認しているかのように思えました。
 その上での言葉。
>じゃ、今夜は君だけを想ってギターを弾く
 言葉だけをとらえたら、甘い決め台詞みたいに思えますが、このときの神代の表情といったら。
 こんな顔を目の前で見たら、凍り付くんじゃないかと。だって、神代がめっちゃ怒っているのがわかるから(^^;
 それは、さくらだけを怒っていたのではないでしょうが。
 暴力的に(神代にとっては)、春乃との記憶を蘇らせる、さくらへの苛立ち。
 いつまでも過去に囚われ、感情をコントロールできない自分への情けなさ。
 そして、すべての根源である春乃への、たぶん理不尽な怒り。
 神代の過去になにがあったか、詳しいことはこれから明らかになるでしょうが、彼が春乃の死にとても傷ついていることだけは確かです。好きな音楽も封印してしまうほどに。
 
 最後、アンコールを拒否して、舞台を降りる神代。そりゃそうだろうなあと思いながら見てました。「じゃ、今夜は君だけを・・・」って、さくらに告げたときにすでに怒ってたし、いっぱいいっぱいだろうなと想像できます。
 普段は大人な神代ですが、一番弱いところを突かれたら、身を守るのに精一杯で。
 さくらを思いやる余裕がないのですよね。
 さくらはトイレに直行して泣けるだけ、まだいい。若くて、女の子だから、それができる。
 でも神代は。
 大人の男はどんなにつらくても、平気な振りをするしかないし。まして、過去を知る夏希の前で、弱い姿は見せられないのだろうなと、その胸中を想像しました。
 第3話は、なんといっても、神代の背中です。
 屋上で、さくらの告白もどきに黙りこむ背中。言葉はなくても、たくさんのものを語っているような気がしました。

ドラマ『ラヴソング』 第2話までの感想

 なんとなく見始めたら、意外に面白かったドラマ。
 以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので未見の方はご注意ください。
 いろいろツッコミどころはありますが、主人公二人は役にはまってて魅力的だと思います。特に、福山雅治さんは、神代広平という役にぴったりです。
 無表情なシーンが特に、いいなあと。
 普通、感情を出さないと、怒ってるみたいに見えたりしがちだと思うんですが。福山雅治さんの場合、怖くみえない。
 その、感情をあらわにしない顔がいいのです。なんというか、興味をそそられるというか。
 逆に、ふっと引き込まれてしまうというか。
 企業カウンセラーの神代と、整備工場で働く佐野さくら(演じるのは藤原さくらさん)の物語なのですが、二人の年齢差が、ドラマの始まる前から話題になっていましたね。実年齢だと、さくらさん20才、福山さん47才。その差は27才。親子でもおかしくない。
 ただ、ドラマを見ると、二人の間に恋愛感情があったとしても自然な雰囲気に思えるんですよ。福山さんはかっこいいし年齢なりの頼りがいもあって、二十歳の女の子が憧れるのも、そりゃそうだよねと。
 私は福山さんに関しては、昔より今の方がかっこいいなあと思います。昔はチャラいお兄ちゃんにしか見えませんでした(^^;
 今もチャラくないとはいいませんが、チャラさが薄まり、その分、大人の男性の魅力が増したんじゃないかと。
 元音楽家が、知り合った女性との交流を通じて自分の過去と向き合い、変わっていく。そんな設定を聞くと、どうしても連想してしまうのが、90年代のドラマ『WITH LOVE』。
 職業に元か現かの違いはあれど、音楽を通じての触れ合い、癒し、変化は、『WITH LOVE』と同じこと。
 過去に、失った恋人との痛い思い出がからんでいることも、両作品共通の設定。
 神代の場合は、まだ宍戸春乃(新山詩織さん)と、どのような別れがあったのか、詳細はまだ明らかになっていませんが。確かなのは、春乃がもう、亡くなっているという事実。
 亡くなった春乃の妹、夏希(水野美紀さん)のセリフは意味深です。
 
>逆にこれでよかったのかもね。
>これでさくらちゃん、お姉ちゃんみたいに広兄に・・(口ごもる)
>利用されなくてすむんだね。
 夏希が、思わず口にしようとした言葉、私には、「これで広兄に、殺されなくてすむんだね」、のように聞こえました。あくまで想像ですけど。実際には、音になっていない。
 なかなか過去をふっきれない、いつまでも春乃の影を追いかけ続ける神代に対しての苛立ちが、夏希の本音が、思わず言葉になりそうになった瞬間ではなかったかと。
 軽々しく口にしていい言葉ではないとわかっているから、夏希はすんでのところで飲みこんだものの。
 彼女が今も心の底で、姉の死の責任を神代に求めているということ。それを神代が知ってしまった事実は重いのではないでしょうか。
 お互いに少しずつ遠慮して。本当の気持ちを隠しながら、もどかしい距離で接している神代と夏希。
 大人には、ずるさも駆け引きもある。
 神代に特別な悪気があるわけではないのでしょうが、彼は夏希の恋心を利用して、ちゃっかり家に居候している。自分で部屋を借りないのは、寂しいからなのかなと。
 ドラマの冒頭では、別の女の人の部屋で同棲してたみたいだし。でも別に、真剣に付き合ってるふうでもなく。
 (ちなみにこのドラマ冒頭の、ベッドいちゃつきシーンは非常に気持ち悪かったです)(^^;
 企業カウンセラーという職業を選んだことも。人の心とがっちり向き合う生活を選んだのは、人が好きだからでしょう?
 誰かと深く向き合うことは面倒。けれど独りは寂しい。
 夏希には心を許しているから、神代にとって夏希の家はとても心地がいいわけで。彼は夏希の気持ちに気付かないふりをしながら、彼女にとっては残酷な同居を、甘えるようにして続けている。
 そして、さくらに対しても。神代はさくらの恋心を利用して、彼女の吃音を直そうと試みている。その過程において、彼女が生み出すであろう音楽に興味を持ち、聴きたいと願っている。
 夏希も、さくらを利用しているのは事実。音楽を使って吃音の治療を試みる。その時に、音楽担当が神代である必要性は全くないわけで。
 音楽から離れてしまった神代を音楽に戻そうとする行為は、お姉ちゃんを忘れて私を見て、というアピールのように思えるのです。過去にとらわれて動き出せない神代を、ただ単に思いやっているのとは違う。その向こうに、自分との未来をどこか、夢見ているような。
 そして、そんないろいろ複雑な思惑の絡む大人二人と対照的だからこそ、さくらの若さが光るのです。
 
 単純。もうね、神代や夏希からしたら、さくらの恋心なんてバレバレで。そして、さくらが吃音を治したいと思ってるその気持ちは、まぎれもなく本物で。彼女は人とのコミュニケーションがうまくいかないことを、諦めてない。なんとかしたいと思っている。吃音が治ったら、世界は変わるんじゃないかと期待してる。
 なにより、さくらは、吃音を恋心に利用していない。そこが大人二人と違うところ。
 さくらが今の自分を変えたいと、焦る気持ちはわかります。まだ若いから、世界が狭いわけです。その狭い世界、職場での女性同士の人間関係。はっきり言って、さくらの同僚3人は最低の部類。あんな同僚と一緒にいたら、逃げ出したくなるのも無理はない。同僚たちの会話の節々に現れる、侮蔑の心。
 さくらを下に見てるんだろうなっていうのが透けて見えるのです。だから、さくらがやっと予約した歓迎会の店を自分たちが勝手に変えても、彼女らは心なんて痛まないのです。自分たちが逆のことされたら、絶対怒るだろうに。
 私はタバコ吸う人は大嫌いなのですが、さくらがタバコを吸うのは許せてしまう。いや、もちろん早々にタバコなんてやめてほしいけど。さくらの今までの人生で、彼女がタバコを吸わざるを得なかったのはわかるような気がするのです。 まず第一に、さくらはタバコで吃音の症状が緩和すると信じていたから。愚かですけど。治したいという藁にもすがる思いがあったのかと。
 そしてね。さくらが無理して付き合ってる女子の同僚3人。これがタバコ吸ってるからね~。さくらが吸ってしまうのも必然だと思いました。さくらは彼女たちから浮かないように、必死に合わせてるから。可哀想に。
 周りがタバコ吸う人間ばかりだったら、吸わないのが異端になってしまうわけです。もしさくらがタバコを吸っていなければ、彼女の職場での立ち位置がどうなっていたか。
 きっとこの先、さくらはタバコをやめると思います。神代と出会い、音楽を知って、自分に自信をもてたなら。違うステージに立つことができます。そのステージにはもう、タバコを吸う同僚3人はいない。違う人間関係が広がっているはず。そこにはタバコを吸う人たちはいないのではないかと、希望的推測。
 さくらが神代の前で初めて歌った、『500マイル』という曲。ゆっくり朴訥としたメロディに乗って、どもらずに言葉を伝えられた初めての経験。途中、涙したのは、嬉しかったんだと思います。ああ、ちゃんと伝えられる。みんなと同じようにしゃべれるんだって。
 「抑えて」という繰り返しのフレーズで詰まったとき、映像としては語られない、さくらのこれまでの人生がバーッと目の前に広がるような気がしました。我慢我慢の人生だったのかなと。いつも自分の心を抑えて、抑えて、抑えて生きてきた。言いたいことも飲みこんできた。
 でも今は違う。真っすぐに自分を見て、新しい世界にいざなってくれる人がいる。もう我慢しなくていい。抑えなくいい。自分の中にある感情を、素直に出していいんだって。
 さくらの人生の、大きな転換点。音楽との出会い。
 
 そりゃ、神代先生に惚れちゃいますわな。この状況で、惚れるなっていう方がおかしい。
 神代は、ずるさも持っているけどその反面偉いなと思うのは、さくらの心を知りながらも、引くべき一線はきっちり引いているところです。そんな神代の姿勢が明示されるシーンがこれ。すっかり神代のことが好きになったであろうさくらの、決定的な一言。
>タバコ吸う女って、嫌じゃないですか?
 対する神代の答えには痺れました。
>別に。
 顔色一つ変えず、クールに言い放つのですね。非の打ちどころがない模範解答ではないですか。
 だってもし「嫌だ」と言えば、さくらは嬉々としてタバコをやめるだろうし、そうなれば神代は、さくらの恋心に気付かないふりができなくなる。
 そしてもし「嫌じゃない」と言えば、これまたさくらは嬉々としてタバコをくわえるだろうし、そうなればやっぱり、心に気付かないふりができなくなる。知らないふりが、あまりにも嘘くさくなってしまう。
 「別に」って、絶妙な答えだなあと思って。さすがモテ男、積んでる経験が違うのか(^^) とっさにきっちり白線を引きましたね。浮かれたさくらが、どうしても飛びこえられないハードル。つまり、「彼女にする女なら気にするが、関係のない女はどうでもいい。喫煙者だろうと構わない」という心の声。それを一言で言いきった。その短さ、冷たさがまた、天に昇ったさくらの心を、しっかり地面に引き戻す。
 藤原さくらさんは、佐野さくらさん役にぴったりです。藤原さんの演じる、少し不器用で、純粋で、一生懸命なさくら。もどかしさや、内面にある葛藤、抱えてきた悲しみ、。たまに見せる笑顔が、最高にキュートなのです。
 

ドラマ『愛していると言ってくれ』感想 その3

 ドラマ『愛していると言ってくれ』の感想を書きます。これで感想を書くのは3度目になります。時間を置いてみると、自分の中で新しい思いも生まれたりするんですよね。最初に見たときには、気付かなかったようなこともあったり。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので未見の方はご注意ください。

 ふっと、もう一度見たくなったので見ました。懐かしのこのドラマ。

 感想を手短に書きますと、このドラマって結局のところ、「晃次が恋におちて、フラれる話」なんだなあ、としみじみ。

 人が恋におちるって、そうそう、こういうことなのよねっていう、いわば恋のあるある(^^;

 誰かを好きになるのは理屈じゃなくて。トヨエツの演じる晃次は、決して積極的でもなく、出会いを求めていたわけでもなく。どちらかといえば人を避けて、誰かと親しくなることを恐れていたような人だったと思うのですが。そんな人でも、偶然見かけた常盤貴子さん演じる紘子に出会ったその瞬間から、勝手に心は走り出す~という。

 紘子の顔が好み? しぐさが? 笑顔が? リンゴをとってもらったときの反応が? そのすべてが、晃次にとっては、ズキューンときちゃったんだろうなあと思いました。でなければ、紘子にああいう照れたような顔は見せなかっただろうし、夜の公園で稽古中のところを、そっと見てたりしなかっただろうなあ。

 まあ、大前提として、人さまの家のリンゴを勝手にとってはいけませんが(^^; たとえ枝が、道路にはみ出していたとしてもね。

 私、最初にこのドラマを見たとき、印象としては紘子の愛情>晃次の愛情だったのです。特に物語の前半は。若くて無邪気で、なんのためらいもなく素直に愛情をぶつけてくる紘子が、もう一方的というくらいに晃次に向かっていって、それに引きずられるように晃次も次第に、紘子を好きになる、みたいな。あくまで紘子主体の、そんな印象があったのですが。

 今見返すと、これ、ひとめぼれしてるのは晃次の方だ~ということに気付いてしまいました。もう最初から、惹かれてます。

 リンゴをあげて、相手を見たときにズッキューンときて。でももう会うこともないと思っていたら、夜の公園で偶然に見かけて。相手がそれを覚えててくれて、話しかけてくれて。それからまた、絵を描いてるときに再会して。本当はドキドキしているのに、紘子はなにも気にせずに気軽に話しかけてくれて、でもうまく答えられなくて。最初からうまくいかないとわかっているし、何も期待なんてしていないけど、それでも心は勝手に走り出す。

 だから、目で追ってしまう。紘子の姿を。公園の売店。褒めてくれた色の絵の具を投げてみたり。

 唐突に去っていったのは、反応をみるのが怖かったからだね。相当、変な行動だもんね(^^;

 いやいや、でも相当だわ。晃次って、女の子に絵の具投げたりするキャラか?っていう。

 普段は絶対そんなことしないと思うよ。他の誰にも。それくらい、どうしようもなく恋におちちゃってたんだなあってことが、今はわかる。

 公園の野外舞台も、見てたの1度じゃないもんね。

 そしてもう言い逃れできない最大の証拠は、家に招いたことだなあ(^^) いくら足にけがしたからって、自分の家に入れないよね、もし他の人だったなら。紘子だから、家に入れてしまったのだと思う。名前も知らない、ほぼ初対面に等しい異性の家に、なんの抵抗感も抱かずいそいそと行ってしまう紘子も紘子だけど。いや、まずいでしょ。たまたま晃次はいい人だったけど。

 聞こえないってどんな感じか聞かれて、「夜の海の底にいるような感じ」だなんて、正直に話す義理なんてないのに。好きな人の前では、自分をわかってほしいっていう気持ちがわいたのかな。

 好きっていう気持ちは自然なもの。コントロールできないもの。勝手に走り出して、その人がそばにいるだけで嬉しくて、幸せな気持ちになって。

 それをあらためて、考えさせられたドラマでした。

 晃次も紘子も、好きになろうとして相手を好きになったのではなく。いつの間にか、そうなることが必然だったように。お互いを必要としていた。

 第1話で、晃次が自分が描いた絵を紘子にプレゼントしたシーン。もう、これはプロポーズといってもいいんじゃないかと。画家の作品て、その人の心そのものだもんね。僕の心を君にっていう意味。きっと、無意識なのかわかっててやってるのか、その両方なのか。絵の具どころじゃないですよ、もう絵、そのものですもん。

 でもその後すぐに、何も告げず引っ越してしまったのはなぜなのか。

 私はそこに、晃次の諦めを感じます。

 どうせ、うまくいかない。幸せにする自信もない。こんな自分だから。好きだけど、さよなら。せめて君に、僕の心を。この絵を。

 引越を告げるほど(関係を深めたいと願うほど)晃次は自分自身にうぬぼれてなんかいなかったのだと思います。

 そしてこのドラマ。もうひとつの見どころは、岡田浩暉さん演じる健ちゃんの片思い。本能的なものって、どうしようもないんだなあということを、これでもかとばかりに突き付けられた気がします。

 健ちゃんは、紘子とお似合いだから。条件的なことを考えても、紘子と健ちゃんはぴったりなわけですよ。幼馴染だから、同じような環境で育ってる。年も近い。お互いの家族のことだって、よく知っているだろう。加えて健ちゃんは、紘子を愛してる。きっといつまでも大切にしてくれる。なのに、どうしても駄目なんだ。健ちゃんじゃないんだよね。いい人、友人としては好き。でもそれは、恋人じゃない。

 もう全話通してだもんね。惜しみなく注がれる愛情。優しさ。見返りを求めずに、健ちゃんはいつも傍にいて、見守ってくれて。

 でも努力じゃないんだ。誰かを好きになる気持ち。紘子はどうしても、健ちゃんを好きにはなれなかった。

 なのに紘子が健ちゃんと一夜を共にしたってのも、本当に愚行だと思いますが。翌朝の紘子の表情がね、これがまたものすごく素直で。どよ~ん、てしてるの(^^; これ、相手が晃次だったときの、あふれる幸福感との対比がすごい。もうその時点で、健ちゃんとの未来は、一生無理だろと。見てる私は思ってしまいました。嫌なのを我慢して、こんなはずじゃなかったって思いながら健ちゃんと夫婦になるのは間違ってる。いつか破綻する。

 ただね、好きでも一緒に幸せにはなれないっていうのは、あるんだなあと思いました。

 紘子の決定的なセリフです。

>あなたと一緒にいてもつまんない。
>だって手話ってすごい疲れるし、それに
>好きなCDだって一緒に聴けないもん

 私がもし晃次の立場だったら。この瞬間に、すべてが終わります。

 紘子はひどいこと言ってるけど、でもそれって、紘子の本音で。それをどうこう言っても仕方ない。だってそれは本当の気持ち。普段は我慢してるだけで、それはいつも、紘子の中にくすぶり続ける気持ちだから。

 喧嘩だから、売り言葉に買い言葉だから、というのは言い訳にならない。いいも悪いもなく、紘子にその思いがあるなら、二人はこの先、一緒に暮らしていけない。いつかまた、紘子は爆発するし、晃次は傷つく。

 私なら、この時点で完全に諦めます。

>悪かったね

 そう返した晃次は大人だなあ。あそこでごちゃごちゃ言っても、紘子は興奮してまた何か、叫び出すだけだろうし。

 それでも結局、暴言を許して先に進もうとしたのは、晃次がどうしようもなく紘子を好きだったから、なんでしょうね。理屈では、いろいろわかっていても。

 私は以前の感想で、最終回のラスト、紘子はともかくとして晃次には、やり直す気持ちはないだろうと書きましたが。よくよく考えてみると、もしそうなら、わざわざリンゴをとってあげることはなかったかなあという気がしてきました。

 あのとき、リンゴをとろうとしていたのが紘子だと、晃次にはわかっていたはずです。知らん顔して、立ち去る選択もあったのに。敢えてあそこで紘子と再会したのはなぜか。

 やっぱり好きだから?なのかな。忘れられなくて、だからせっかくのチャンスに目をつぶることができなかったのかと。自分でも馬鹿だと思いつつ、紘子の前に姿を見せずにはいられなかった。そして、紘子が以前と変わらぬ笑顔で微笑んでくれたら?

 また始まってしまうのでしょうか、二人の新しい物語。

 本当に終わらせたつもりなら、完全に諦めたなら、街ですれ違ったって、気付かないふりするもんなあ。好きって気持ちは、本当にどうしようもないものです。不幸になるとわかっていても、その人を求めてしまう。一緒になっても、またいっぱい喧嘩して、いっぱい傷つくだろうに。それでも。

 目の前に現れたら、知らんふりはできないものなのかもしれません。 

ドラマ『高校教師』 感想

 1993年放送のこのドラマ。今あらためて見ると、昔と感想が違います。
 以下、ネタバレ含んだ感想ですので、ドラマ未見の方はご注意ください。

 

 昔見たときは、いろいろありながらも純愛の話だと思ったんですよね。
 でも今は違う。

 今、改めて見たときに、、桜井幸子さん演じる二宮繭と、持田真樹さん演じる相沢直子の、「ずるさ」を感じてしまう自分がいました。

 同時に、脚本を書いた野島伸司さんの、強烈な女性不信感も伝わってきたような…。こんなふうに女性を見ていた人が結婚できた、ということが不思議に思えてしまい。その後の人生で、なにがあったんだろう。聞いてみたいです(^^;

 キャスティングはぴったりでしたね。
 羽村隆夫を演じた真田広之さんは正統派二枚目で。だけど画面を通して見る羽村先生はとにかくダサく。

 これ、上手いな~と思いました。
 本当に洗練されてない人がこの役をやったら、惨めすぎて見るのがつらくなってしまうと思うから。真田広之さんだからこそ、羽村先生になれたというか。 
 不本意ながらバスケ部顧問になり、運動神経のなさを生徒から批判されるシーンとか、見てると本当に運動一切駄目な人に見えて、すごいと思いました。実際にはスポーツ万能だろうになあ。

 羽村先生は、ぎりぎりのバランスが重要だと思いました。
 果てしなくダサいってのも困るのです。誰にも見向きもされない、視聴者から見てもなんの魅力もない人であってはならないという。
 かといって、モテすぎてもダメ。婚約者を失ったときの悲壮感が出なくなってしまうから。生徒からキャーキャー言われてたら、繭につけこまれる心の隙が生まれなくなってしまう。

 つけこまれる、とか言ったら言い過ぎなのかもしれませんが。
 今、あらためてドラマを見ると、繭をひどいなあと思ってしまうのです。

 実際、繭の立場だったら。本気で羽村先生を好きになればなるほど、近づけなくなるのが自然ではないのかなあ。
 助けてって、無記名で手紙を書くのは、まだわかる。
 でも、あんな風に明るく積極的に、大胆に近付くことが、果たして愛なんだろうかっていう。

 自分が女子高生だったときのことを、思い返してみました(^^;
 当時のことを思い出してみると、高校生ってもう立派に、大人みたいなことを考えていて。相手の立場を思いやるってことも、十分できるわけです。

 繭が羽村先生に近付けば、羽村先生はどんどん立場をなくして。
 そして繭は、羽村先生が弱ってるところに、すっと入りこんだのがずるいなあと思ってしまったり。

 真面目な先生ですから、たぶんどんな誘惑をされても、プライベートが順調なら決して一線を越えること、なかったと思うんですよね。そもそも、女子高生と二人きりでデートとか、ありえない。

 それが、ずるずる繭に押しきられる形になったのは、自分が傷ついていたところに優しく近付いてきたひとだった、というのが大きいかと。
 本当に好きだったのか? それは愛なのか? それよりも同情と、たまたまそこに、彼女がいた、というのが理由だったのでは?

 羽村先生が繭に向けた感情は、恋愛というよりももっと、別のものだったような気がするのです。

 繭のそれは、恋愛感情だったのかもしれないけれど。
 でもそこには、羽村先生への立場を思いやる、気遣いのようなものがなくて。私は繭を好きにはなれませんでした。
 好きになればなるほど、だから動けなくなるっていうのがなかったような。
 繭はあくまで、自分中心のように見えてしまい。

 「助けて」「あなたが好き」「助けて」

 繭の心中は、すべてそれで占められているようで。

 助けてほしかった? でも、羽村先生のことは思いやれない? 子供だから? 十分大人に見えるのに?
 誘惑すれば、きっと羽村先生は自分を選んでくれる。そんな繭の気持ちが透けて見えたのは、私が汚れた大人になったからなのでしょうか(^^;

 相沢直子に関しても、共感できないところが多かったです。
 被害者になったのに、京本政樹さん演じる藤村先生をまだ、慕っているようなふしが見える部分とか。

 うーん、それはないと思う。ああいう事件がおこってなお、先生への愛情が勝る、とか。あり得ないなあと思いつつ見ていました。脚本を書いた野沢さんが、そういう目で女性を見ていたとしたら、女性不信もいいところで。

 直子はあんなことがあった後で、藤村先生への愛情を残していただけでなく、赤井英和さん演じる新庄先生にたやすく、なんの警戒心もなく近付き、心を許してしまうとか、そのへんがすごく不自然に思えました。本当なら近付けないと思う。むしろ以前よりももっと。

 藤村に生理的な嫌悪感をもよおすようになってなお、脅迫に屈せざるを得ない悲劇、ならまだわかるのですが。

 藤村先生を演じた京本政樹さんのキャスティングはぴったりでした。美形で、生徒から大人気で、でも目の奥に闇があって何かが壊れてる。

 優しい顔で正論を説く、その裏の顔のギャップがすごかった。
 赤井英和さんの新庄先生と、見事なまでに対照的なのがいいんですよね。最初は新庄先生が偏屈で嫌味な人物かと思いきや、実は誰よりも生徒思いで、熱血漢で。
 無骨だし口下手だし、特別かっこよくもない新庄先生が一番、教師としてはまともだったような。

 高校教師。1993年には、普通に22時から放送されていたんだなあ。内容はかなり重いし、本当は深夜枠でもおかしくないかと。うっかり子供が見てしまったら、かなり影響を受けそうです。

 電車に乗り、繭にもたれるように、目を閉じた羽村先生。はっきりしない最後も当時、話題を呼びましたが。
 私はあれを、心中だと思いました。
 もう死ぬしかない、と決めたのは、繭のような気がします。主導権は、繭にあったような気がするのです。繭が生きようと訴えたら、羽村先生もきっと、そうしたはずだと。たとえ罪人になったとしても、です。

 結局、羽村先生は繭に引きずられてしまったのだと思いました。いろんな意味で。もちろん大人なのだから、羽村先生にも大きな責任はありますが。

 でもこれは、純愛のドラマではない、と、思いました。

 自分が羽村先生の立場だったらどうしただろうか、と考えてしまいます。

ドラマ『相棒 season13』最終回 感想

 あまり熱心に見ていたドラマではなく、むしろ見ていた回の方が少ないくらいなのですが。最終回は気になっていたので、見た感想を少しだけ書いてみたいと思います。ネタバレありですので、未見の方はご注意ください。

 

 水谷豊さん演じる杉下右京に感じた違和感・・・。

 右京さんは、犯罪者になってしまったカイト君に、「待っています」なんて言う人ではないと思う・・・。

 ここが、どうしても??でした。右京さんて、そういうキャラじゃないと思うなあ。絶対許さないと思うけど。そして、二度とカイト君に会うこともないと思うのです。

 逆に、会ってどうするというんだろう。なんて言葉をかけるんだろう。二度と、信頼できないだろうに。

 右京さんのキャラだと、あの空港でもしカイト君が話そうとしても、そのまますーっと立ち去ってしまうんではないかと。無言のまま。何を言われても、振り返ることなくそのまま行ってしまいそうです。
 もちろん、カイト君のことを憎んでるとかではなく、自分自身を許してないと思うんですね、右京さんは。
 一緒にいながら、上司でありながら気付けなかったことを。
 だから、カイト君に請われたところで、今さら彼と話すことなんて絶対ないだろうなあ、と思うわけです。

 あそこで、「待っています」だなんて、一番右京さんに似つかわしくない言葉で。右京さんはそんな、嘘をつくだろうかと。

 待ってて、どうなるんでしょう。二度と一緒に仕事ができるわけではないのに。かといって、お友達として仲良く、という存在でもないわけで。お世辞とか同情とか、そういうものは右京さんに似つかわしくないのに、カイト君に変な期待持たせて、どうなるというのか。涙するカイト君は、その言葉の虚しさを知っていたように思えました。

 待ってるわけないし、未来なんてないもんなあ。右京さんから、本音でない偽りの言葉が出てくるくらいに、二人の距離が離れてしまったことを知ってしまったからこその、カイト君の涙なのかもしれません。

 でもカイト君も変だった。
 普通、空港には行かないだろうと思いました。行ってどうするのかと。三年も右京さんと一緒にいて、どんな人かよくわかっているだろうに。空港で優しい言葉を聞きたかった? 許してほしかった?

 カイト君が動揺したり泣いたりするのは、初めて右京さんに自分の犯罪を告白する、そのときしかないと思いました。そのときこそ、二人の関係が決定的に断絶するときですから。なのに、そこでは案外平然としてて、空港で大泣きって、不自然な感じです。

 逆に、自然だと感じたのは、カイト君が、二件目以降の犯行の理由を「わからない」的に言っていたところ。

 これは正直な感想なのではないかと思いました。

 たぶん、いろんな要素が混ざり合っていたのではないかと。犯罪者への憤りもあり、ヒーロー扱いされることの心地よさもあり、そして何より、どこかで右京さんへの反発もあって。

 カイト君なりに、正義と信じていたものが、右京さんの前では全否定されるから。

 いろんな思いがあって、ふらふらと犯行を重ねていたのかなあと。一つの明確な理由や、定義があったわけではなく。だから、犯行理由を問われたとき、真摯に答えようとすればするほど、「よくわからない」になってしまうのかなあ。○○だろう、と言われればそんな気もするし、××だろうと言われれば、それも否定できないし、みたいな。

 あと、カイト君は案外孤独だったんだなあと思ったのは、恋人の悦子さんのことです。彼女はなんで最初の犯行で、彼の心の闇に気付かなかったのか。結局、同棲していて、子供までできる間柄であっても、心の深い部分で語り合うことはなかったんだなあと。
 だから、もうどうしようもないところまで追いつめられて初めて、カイト君がダークナイトだったと気付いたわけで。遅い、遅すぎる。

 最初の犯行、それから二度目、三度目、カイト君にはものすごい葛藤があったはずです。同棲してる恋人で、心の深いところで繋がっていたら、それは気付かないはずないだろうなあと思うのですが。
 むしろ、右京さんよりも、悦子さんこそカイト君の心に近かったはずなのになあ。

 このドラマは、いつも杉下右京を演じる、水谷豊さんの目の鋭さにどきりとさせられます。怖いなあと思ってしまう。普通刑事ドラマって、主役はいい人のはずなんですけども。
 でもそういうところが、逆にドラマの魅力にもなっているんでしょう。最終回の余韻が、数日たった今もまだ、私の心に残っています。 

ドラマ『永遠のゼロ』 感想

 ドラマ『永遠のゼロ』を見ました。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。ちなみに一夜は見ておらず、二夜と三夜だけを見た感想です。

 ドラマは三夜放送されるということで、映画よりも時間が長い分、映画で見られなかったいろんなエピソードがきっちり描かれるのではと期待していたのですが、残念でした(^^; なにがって、キャスティングです・・・。

 どうしてかなー。一番ひどいと思ったのが、景浦役の、柄本明さん。柄本さんが悪いんじゃなく、柄本さんを起用した人が間違っていると思いました。柄本さんの場合、どうしても志村さんとのコントの印象が強いし、見ていて「これは景浦じゃない」という違和感がすごくて。
 映画版の田中泯さんがはまり役だっただけに、とても残念です。景浦の役は、このお話の重要な鍵のはずなのに。そこを外してしまうと、ドラマ全体の仕上がりが間延びしたものになってしまう。

 せっかく、これだけの時間を使って描くのになあ、と残念でなりません。飛行機の特撮とか、ロケ地の建物には予算の関係上そんなに費用はかけられなくても、役者さんの演技で魅せてくれたら素晴らしいものになったと思うのです。一人一人がじっくりと宮部を語る、それだけの時間が十分にあったのに。今回、ドラマ化に関して、映画よりも一番有利な点はそこです。長い時間をかけて描けるということ。だからこそ、キャスティングがすごく大切だったのになあ。

 なぜ景浦役を柄本明さんにしたのでしょう。

 あと、演出もひどいと思いました。景浦が宮部の孫と会うときの、部屋着のようなくたびれた服と、無精ひげ。景浦は元暴力団幹部のはずなのに、宮部の孫に会うとき、そのような格好をするのは考えられません。本当なら、もっときりっとした格好で現れたはずです。たとえ年をとっていたとしても。
 そして目の奥には凄みを宿していたでしょうし、触れれば切れるような空気を、ときに漂わせるような人物だったと思うのです。背筋もぴんと伸びて。

 柄本さんだと、キャラが違いすぎます。田中泯さんの演じた景浦のことを、何度も思い返してしまいました。田中泯さんの異様なオーラは、映画を見終えた後も、強い印象をいつまでも観客の心に残していたと思います。

 ともかく、この景浦役のミスキャスティングがドラマの方向性を、決定づけてしまったような気がしました。他に良い点があっても、総合的にみたとき、このミスキャストの負を挽回できていないです。

 他に気になったのは、戦後の松乃があまりにも綺麗な服を着て、髪も乱れず顔にも生活の疲れがなく、苦労したという設定に説得力がまるで感じられない点です。特に、大石とレストランで食事をしたり、その後、話をしたりするシーンなどは、戦後というよりも現代の空気を感じました。真っ白なブラウスの襟。貧しいながらも精一杯のおしゃれというよりは、普通の、豊かになった時代の日本を思わせました。70年代くらいの印象です。

 松乃が景浦に助けられるシーンも、想像していたのとずいぶん違っていました。きれいな着物を着て、決して不幸にはみえない、やさぐれてもいない松乃の姿。囲われ者といっても、それなりに幸せそうにさえ見えてしまった。だから景浦が助ける意味が、薄れてしまうのです。景浦が投げつけた財布から、札束が舞うのも興ざめでした。

 景浦は松乃を助けに来たのではなく、たまたま組の抗争で押し入ったら、そこに松乃がいたという設定。これもなんだか、残念な気がしました。
 
 苦しんでいる松乃を知り、闇に乗じてたった一人で乗り込む。そして松乃に財布を投げ、「生きろ」と万感の思いをこめて叫ぶ景浦であってほしかったです。

 これは映画のときもそうでしたが、戦後の松乃の窮乏ぶりが描かれていないと、大石が登場する意味がなくなってしまうと思うのです。松乃が豊かで幸せであるのなら、大石が助ける必然性もないし、関わることそのものが、単なるメロドラマになってしまいますから。

 ドラマの中で、若いときの大石を演じた中村蒼さんは、はまり役だと思いました。生真面目な感じが、まさに大石、という感じで。宮部の目に、妻子を託せる相手として、映るだけの力を持っていたと思います。真面目さや責任感だけでなく、誰かを守るために必要な知性も、十分に感じられて。

 広末涼子さんの演じる慶子もよかったな。高山と藤木の間で、傷つきながら、打算もありながら、祖父を知ることで変わっていく姿が見事でした。
 あと、永井を演じた小林克也さんもよかった。最初、小林克也さんと気付かなかったです。あまりにも自然な演技で。
 
 ドラマは、映画にはかなわなかったと思いました。キャスティングと演出さえ違っていれば、超える可能性は十分あったと思いますが。残念です。