『狼の牙を折れ』門田 隆将 著 感想

『狼の牙を折れ』門田 隆将 著 を読みました。以下感想を書いていますが、ネタバレ含みますので、未読の方はご注意ください。

テロというと、アメリカやヨーロッパ、そして中東のイメージが強い。日本はテロとは無縁な感じもするけれど、考えてみればあのオウム真理教の事件などは、国家転覆を本気で狙った、本格的なテロだったなあと思う。内乱罪も外患誘致罪も適用されないのが不思議だった。オウム事件で適用がされないなら意味がないし、適用が無理なら無理で、新しい法律を作らなくてはいけない大事件だった。

そして、オウムの事件よりさかのぼること20年あまり。東京駅前のオフィス街が爆破されるという信じられない大惨事があったという。今の駅前の繁栄を見ると、まるで夢のようというか、本当に?という気持ちになる。

事件当時私はまだ幼児だったので、どんな報道があったのか、などは全く覚えていない。ただ、事件としてそういうものがあった、という事実だけは、なんとなく知っていた。テレビか雑誌か、後年、なにかで知識を得たのだと思う。

今回、私はこの本を読んで事件の凄惨さに驚き、犯人グループに対しては怒り、そして公安警察の地道ながんばりには、尊敬の念を覚えた。

特に、公安の仕事というのは大切だけれども決して表に出ないというところが、ちょっと気の毒な気もした。どんな手柄をあげたところで、名前が知れて世間から賞賛を浴びることはないから。

警察内部にも派閥はあって、その中での権力争いはあるだろうけど、犯人を絶対に捕まえる、という強い思いだとか、犯罪を憎む気持ちは共通のものだ。日々、こうした警察のおかげで日本の治安はしっかり守られているんだなあと、あらためて感謝の気持ちがこみ上げてきた。

犯人グループには、全く共感できなかった。もちろん、どんな政治思想を持とうとも、それ自体は自由だけど、自分たちの思い通りにしたいから一般人を巻きこんでテロをする、というのは許されないことだ。すごく不思議なんだけど、理想の社会を思い描くところまではいいとして、グループを組んだとしても、そのとき「ビルを爆破しよう」という話になったら、反対する人はいなかったのかな。だって、そこのビルで働く人は労働者だよね? そこに資本家階級はいないと思う。いくら犯人グループが気に入らない企業だったとしても、そこで働く人たちがターゲットになるのは、意味がわからない。

また、仮に、そこで働く人をエリートとだとして憎んだとしても、ビルには大勢の人が働いているわけで。そこの会社以外の人も存在する。たとえば日雇いで、すごく安い時給で単純作業をしている人もいるかもしれなくて。生活のために必死で働いていたり、子供を食べさせるために休み返上で働いてる人もいるかもしれない。その人たちも巻き込んでしまうのか。

また、その会社とかビルとか全く関係なく、ただ道を通りがかった人も犠牲になってしまった。その人の人生、奪う権利は誰にもどこにもない。どんな立派な思想であったとしても、無関係の人を巻きこんでいいわけがない。

一人、二人ではなく。組織として、こうしたテロを容認し推進する団体が、現実に存在するということが恐ろしかった。

最も印象深かったのは、警察がやっとのことで犯人を逮捕しようとする、その日の朝。逮捕を報じる朝刊が販売されてしまったこと。読みながら、あまりの展開についていけず、「ええ~~!!」と声に出してしまったほどです。

考えられません。ジャーナリズムってなんなんでしょう。その新聞を犯人が読んで、逃げてしまったらこれまでの努力は水の泡です。もちろん、それを知った土田警視総監は記事をとめるように、輪転機をとめるように頼むのですが、産経新聞の福井(警視庁クラブ詰めの記者で、まとめ役のキャップ)は断ります。

もちろん、土田警視総監は、とめなければならない理由を丁寧に説明したのですよ。「もし(犯人に)気づかれたら、捜査官だけでなく、一般市民にも被害が及ぶ可能性がある」と。

これだけ言われて、その意味がわからないわけはありませんよね。新聞記者なのだから、言葉に対しての感覚は人一倍鋭敏なはず。なのに。とめないのです。産経新聞…

この産経新聞の記者を軽蔑します。こんなことがあっていいのか、と思いながら読み進めました。読んでる私ですら、苛立ち、怒鳴りつけたいような気持ちになったのですから、その場にいた土田警視総監の気持ちはいかばかりか、と。裏切られた気持ちになったでしょうね。全部秘密にしてきたわけではなく、出せる情報は出すし、お互いさまで協力できるところは協力してきた関係だったでしょうに、一番肝心なところで、これは裏切りです。

 

>「明朝、現場での特ダネ取材を産経だけに約束しましょう。だから、報道は夕刊からにして欲しい。お願いします」

>土田は、福井に頭を下げた。

 

この描写を読んで、胸がいっぱいになりました。きっと土田警視総監も、怒りはあったと思います。だけどその怒りはぐっと押し込んで、頭を下げたんです。そして、低姿勢で頼んだのです。とにかく、逮捕前に逮捕を朝刊が報じるなんてこと、あってはならないんですから。どうしてこの産経新聞の記者にはそれがわからないのか、私にはまったく理解できませんでした。

>「一般市民の命」と「スクープ報道」との鬩(せめ)ぎ合い

と、文中では表現されていましたが。

これ、どう考えても「一般市民の命」の方が重いです。どんなスクープであれ、一般市民の命を危険に晒していいわけがありません。逮捕に失敗したら、グループはどんな反撃にでるかもわからない。そのリスクを考えるとぞっとします。なぜこの記者は平気だったんだろうか。逮捕が失敗に終わったら、後日、最初の事件よりもっと大規模な、もっと残酷なテロが起きるかもしれない。そのとき平気でいられるのでしょうか。自分には関係ないと?

福井の上司である、産経新聞の青木編集局長と藤村社会部長は、「容疑者の名前と住所は掲載しない、容疑者の住む地域には当該朝刊を配らない」というような配慮を提案しますが、そのとき、同席していたスクープ記者たちはなかなか納得しなかったそうです。

もちろん、実名を知るためにものすごく大変だった、その努力が報われない、紙面に載せられない、という記者の悔しさはわかります。でも。こんな大事な逮捕前の局面で、なお「実名を載せろ」と言いきれるその神経。

私は福井の言動にもかなりびっくりだったのですが、新聞社の中では彼はまだ、良識派のほうだったのですね。もっともっと過激な、現場の記者たちがいた。容疑者の実名を朝刊に載せて何が悪い、という考え方があった。

結局、産経新聞は、容疑者が住むエリアの配達を遅らせて、本人が逮捕以前に記事を目にしないようにする遅配作戦を行ったそうです。

でもさー、そのエリアに配らなくても、他では配るんでしょ? 容疑者の仲間が他の地域に住んでて、新聞見て容疑者に電話して知らせたら終わりなのでは? マスコミが警察の捜査の邪魔をする(それも逮捕という、一番の大事な局面で)というのは、やっぱりひどい話だと思いますし、ちょっと考えられない事態です。

一方、土田警視総監は、NHKに電話をして、自ら明日の逮捕情報を伝えました。そしてNHKの報道解禁を午前八時半とし、それまでは一切報じないという協定を取り付けました。

(ちなみに民放に関しては、たとえ新聞に記事が出ても、裏どりに手間取るだろうから、早朝からの放送はないに違いないと考えたそうです。しかし取材力のあるNHKはそうはいかないと)

警視総監から電話を受けたNHKが、良識ある判断をしてくれてよかったです。ここで、「知った以上、ジャーナリストとして報道しないわけにはいかない」とか言い出したらとんでもないことになります(^^;

産経新聞は、逮捕を朝刊で報じるだけでなく、逮捕の瞬間のスクープ写真まで撮ろうとするのですが、私は最後まで、「なんなんだ(怒)」という気持ちで読み進めました。容疑者が記者の不審な動きに気付いたらどうなるのか。なんでこう、最後まで警察の邪魔をするのでしょうか。逮捕してからなら、いくらでも取材すればいいし、その情報は社会の役に立つだろうけど。逮捕そのものを危険にさらすような行動は、許されないと思います。

本は最後の最後まで、驚くべき展開でした。逮捕した7人のうち3人の、想像もできなかった形での出国…

そのうち浴田由紀子は国外で逮捕され日本に送還されましたが、佐々木規夫と大道寺あや子の2人は、現在も逃走中だということです。

すべてが、ドラマでもなく映画でもない、実際の話。ノンフィクションであるという事実が、読後、重くのしかかってきました。

最後の最後まで、引き込まれて一気に読み終えました。事件に関わった人たちの人生が、それぞれぎゅっと詰め込まれた、中身の濃い本だと思いました。

『はいからさんが通る』 大和和紀 著 感想

『はいからさんが通る』のアニメ映画が公開、ということで、『はいからさんが通る』ブームが再び起きているみたいです。

上野公園近くの弥生美術館で、展覧会があるということで行ってきました。原画の展示、懐かしいセリフの数々に、自分が小学生だった頃の、感動が蘇ってきました。

初めて読んだのは、小学校6年生だったかなあ。夢中になって、何度も読み返して、しばらくは少尉のことで頭がいっぱいになっていたっけ。

二次元の世界の人を、初めて好きになりました。それが少尉でした。伊集院忍。もう名前が異次元だもんね~。伊集院光さんとか、伊集院静さんとか、もう、名前聞いただけで、ドキドキしたものです。少尉の面影を重ねようとして、実際の姿を知ったときには勝手に衝撃を受けたり(^^; 勝手に期待して、勝手にがっかりするのも失礼かとは思いますが。でも伊集院という姓をつけた背景には、お二人ともそれなりの思いがあったのかと、想像します。

以下、漫画の感想を書きますがネタバレを含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

 

「はいからさんが通る」には4人のイケメンが登場します。帝国陸軍少尉、伊集院忍。主人公紅緒の幼馴染、藤枝蘭丸。出版社編集長、青江冬星。少尉の部下、鬼島森吾。

一般的に誰が一番人気があるのかというと、少尉が一番で、次点が編集長。二人から大きく票が離れて、鬼島と蘭丸かなあ、という感じだと思いますが。

私の個人的な好みでいうと、少尉一択です。少尉しか見えません。 だから、紅緖が編集長と結婚しようとした気持ち、わからないんですよね。今、あらためて読み返してみても、やっぱり編集長は編集長で、職場の上司という存在にしか見えなくて、紅緖が惹かれる気持ち、わかりません。

一応、紅緖も編集長に、異性として惹かれる部分が少しはあったわけですよね。それがあっての結婚で。

紅緖も、基本的には色恋で結婚しようとしたわけではないですけども。伊集院家を助けるために編集長が自分の生き方を変えた、その男気に報いるために、というのが結婚の裏事情ですけども。

なんだかなあ、今読み返すと、紅緖も編集長も、それでいいんですか?と問い詰めたくなります。紅緖に関して言えば、結婚式当日にも、少尉の幻を見てるくらいですし、全然気持ちをふっきってなどいないわけで。他の人への消えない思いを抱えたままの花嫁。お礼の気持ちで夫婦になる。男女の愛情でなく。

そして編集長も。平気なんだろうか。愛されていないことを知りつつ、お礼の気持ちで結婚する花嫁を、迎え入れるということ。編集長の性格からすると、紅緖から何を言われようとも、結婚とか拒みそうだけども。「お前さんに憐れんでもらわなくとも結構」そう言って、紅緖にはそれ以上何も言わないまま、伊集院家を助けて身を引きそうなんだけどなあ。

さて、この漫画には、小学生の時と、40代の大人になって読み返したときと、感想が違ってきた部分がいくつか存在します。以前のブログでも少し書いた記憶があるのですが、まず、ラリサの夫として暮らした過去を理由に、記憶が戻っても紅緖の元へ戻らなかった少尉の行動について。

これは、大人になったらわかる。子供の時は無邪気に、「なんだよー、ラリサと暮らしてようが別にいいじゃん」なんて思ったけれど。

ラリサと暮らした日々の重さ。そしてラリサの病。そりゃ、紅緖の幸せを考えれば考えるほど、このまま波風を立てずサーシャのフリをし続けようと思いますわな。少尉が少尉であると声を上げるには、少し時間が経ちすぎてしまった。少尉がいない状態で、時が流れてしまったから。少尉不在という世界が、ゆるやかに固まりつつある中で、それをすべてひっくり返せば傷つく人がいる。

それと、私も。もし紅緖の立場だったら、やっぱりちょっと、抵抗あるかもしれないと思ってしまいました。ラリサの夫として暮らした月日を。全然平気、とは言えないかもしれない。なにかあれば、そしてことあるごとに、そのことが胸の奥で深く、静かに痛みそう。

お互いに相手を思いやれば、別離は賢明な選択で。もちろんスパっと割り切れないからこそ、苦しみながらも。

もし関東大震災がなければ、二人がもう一度結ばれることはなかったんだなあと、そう思います。

そして、そもそもこの漫画で一番ひどい人というのが、実は少尉のおばあさまではないかと気付いてしまった今日この頃。

だって、自分が想い人と結婚できなかったから、自分たちの孫同士を結婚させようって、単純にひどい話で。じゃあ孫の気持ちは? 結ばれなかった悲しみと同じものを、孫に背負わせるわけですよね。そのせいで、孫は自分が好きな人と結婚できないわけだから。

しかもおばあさまの夫、おじいさまは生きているのに。自分の妻が、自分ではない元恋人との約束を、生涯忘れず果たそうとしているのを知って。どんな気持ちになるでしょう。私だったら、裏切られたと思うだろうな。一緒に暮らした長い月日を、全部否定されたような気持ちになるでしょう。

『はいからさんが通る』には数々の名場面がありますが。中でも印象深いのは、政治犯の疑いをかけられて拘留された紅緖を助けるために、少尉が大河内中将に会いにいくシーン。

>うっかりはずすのを忘れていた

>帝国軍人ともあろうものがこんなものを

そう言って、軍服姿の少尉が、耳のピアスを外すのです。ロシアの亡命貴族サーシャから、伊集院忍に戻る瞬間。ジグソーパズルの最後のピースが、ぴたっとはまるように。そのとき、紅緖のために少尉に戻ったその姿を、本当にかっこいいと思いました。

紆余曲折、ドラマチックな二人の恋。改めて読んだけれど、展開も結末も知っているのに、読みながら涙してしまいました。それぐらいパワーのある作品です。コメディで茶化してるところも多いのに、真剣なシーンではさっきまでのおちゃらけが嘘のように、ぐぐっと強い力で引き込まれます。

ストーリーもいいけど、絵柄の力も大きいと思いました。なぜなら、アニメ化された映画の予告を見て、まったく心惹かれなかったからです。少尉も紅緖も、漫画原作通りでないと、まるで別作品のようで。同じストーリーをたどっても、違う作品のようになるだろうと想像しました。

思えば、1987年の実写版の映画も、原作漫画からは大きくかけ離れていました。南野陽子さんの紅緖、阿部寛さんの少尉、やっぱり原作とは違う。

 

弥生美術館での「はいからさんが通る」展、大盛況でした。次から次へと入館者がひっきりなしです。ほぼ女性で、みんな懐かしそうに展示に見入っていて。きっと、あの原画を見たら、一瞬で、みんな少女の頃に戻るんだと思います。

私もそんな一人でした。

『ラヴィアンローズ』村山由佳 著 感想

『ラヴィアンローズ』村山由佳 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので未読の方はご注意ください。

 

 

村山由佳さんの本を読んだのは初めてです。天使の卵シリーズというのが気になってはいたものの、今だ読んだことがなく。初村山さんがこの、『ラヴィアンローズ』になりました。

単行本の拍子のピンクのバラが美しい。そして、花束を結ぶ細いリボンのような書体の、La Vie en Rose も素敵。表紙を見ただけで、わくわくします。

全体的に読みやすかったし、続きが気になってどんどんページをめくりました。そして、率直な感想は。登場人物がみんな、あまりいい人ではなかった(^^;

主人公の藍田咲季子の性格には、読んでいて苛立ちを感じました。モラハラ夫に翻弄される描写が長くあって、もしかしたら作者的には咲季子=可哀想な被害者 みたいな位置づけがあったのかなと思うのですが、咲季子は決して、弱者ではないんですよね。経済的にも恵まれていて、もし離婚しても生活に困ることはない。考慮すべき子供もいない。独りで暮らすだけの知性も、胆力も十分に持っている女性なのに。

仮にモラハラに気付かず、苦しんでいるならまだ理解できる部分もあるんですけど、咲季子ははっきり気付いてますからね。自分が夫に不満を抱えていると。なのに、そうでないふりをしている。

嫌なら別れるべきだと思いました。耐えることで咲季子=被害者、みたいな構図が成り立ってしまうのが、ある意味卑怯ではないかなあと。夫婦って、鏡みたいなものだと思います。咲季子が不幸なとき、夫の道彦もやはり不幸なのです。夫だって、コンプレックスを払拭できず、迷路にはまりこむばかり。一緒にいても、お互いを傷つけあっている。

むしろ、別れた方が幸せな二人。咲季子も、道彦も。なのに、なんとなくずるずると生活を続けている。けれど、その生活がいつまでも(お互いに老衰で亡くなるまで)続くとは思えなくて。いつか、破綻がくるのは目に見えている。どちらが我慢できなくなるか、たぶんそれは、咲季子だろうなあと。

結局、その予想通りになるわけですが。咲季子はデザイナーの堂本裕美と出会い、不倫関係になる。

読みながら、そりゃそうだろうなあと思いました。不満があって、心の底では白馬の王子さまを探しているときに現れた相手。ルックスが好みで、自分と美的センスが合う相手。芸術肌の咲季子にとって、こういう感覚的なものは外せない条件でしょうから。

でも、その相手との出会いにも、なんとなく咲季子は自分の立場を利用しているように感じてしまいました。可哀想なモラハラの被害者、としての自分を。

本当に弱い人なら、モラハラから抜け出せないのも気の毒だと思いますが。咲季子は力を持ちながら、敢えてその立ち位置にとどまっているように思えてならないのです。可哀想な被害者、としての心地よさ。そこでは自分が被害者だから。救われるべきお姫様だから。

デザイナー堂本と、咲季子は、薄っぺらさも似ているなあと思いました。心よりも体で結ばれている相手のような。結局、大事なのは自分なのです。相手への思いやりは二の次。

堂本は最初こそかっこよく描かれていましたが、すぐにボロボロと仮面がはがれます。危険性も考えず、自分がもらうプレゼントのために、ルールを守らず電話したりとか。私だったら、その時点で堂本にげんなりするけどなあ。だって、相手を大事に思えば、慎重になって当然の関係性なのだし。もしかしたら咲季子が逆上した夫から暴力受けたりって、簡単に想像できてしまうではないか。なのに、その危険性より、自分がもらうプレゼントの方を優先するって、その時点で咲季子はちっとも大事にされてない。ATMって、このことなのかと思う。

危険を承知で、それでも送られてきたメッセージの内容が、「プレゼント1つじゃなくて、複数でもいいかな?」とか、私ならその瞬間に冷めるなあ。ああ、この人の愛情って、こんなものだったのかと。

まあ、そもそも不倫関係の始まりからして、咲季子の緩さがありましたが。どうしようもない感情の昂りでそうなったのなら仕方ないかなとも思いますが、車で自宅に戻ると言われた時点で、じゃあ降ろしてくれときっぱり言えばよかった。降ろしてくれないなら、信号でとまったときに降りればよかったし。そもそも車から降ろしてくれない相手なら、その後は2度と二人きりにならなければそれだけで、以後は危険性を回避できる。

ずるずると、そういう沼地の関係に陥ったのには、咲季子にも罪がある。堂本にも罪がある。

結局、夫の道彦もモラハラ最低夫ではありますが、咲季子も似たようなものだし、堂本も同じレベル。堂本を紹介した川島も、似たり寄ったり。咲季子を良く知っている川島には、咲季子と堂本を仕事で結び付けたら、結果どうなるかわかってたはずだしなあ。

ドロドロな不倫関係の末に起こった悲劇。その醜悪さと、咲季子の作った庭の美しさの対比がドラマチックです。薔薇が美しく咲けば咲くほど、その影で複雑に絡まる人間模様。人工的な薔薇には、素朴な美しさはない。プライドで塗り固めた、表向きの清潔さ。

咲季子も人工的だなと思いました。庭に道彦を埋めて、平気でいられることがまず、理解できない。まるでロボットみたいに感情がない。本当に庭を愛していたら、そこに人間を埋められるはずがない。見るたびに思い出してしまうでしょう。手塩にかけた大切な庭に、最大の罪の片棒を担がせるだろうかっていう。

夫婦関係も友人関係も仕事関係も。出会う相手、縁のある相手はみんな、同じレベルなんだなあということを思いました。とんでもない相手とは、そもそも出逢わない。そのことを考えさせられた本でした。

 

『累犯障害者』山本譲司 著 感想

 『累犯障害者』山本譲司 著 を読みました。以下、感想です。

 これは良著です。世の中の真実に光を当てた本だと思いました。私も今、知的に問題のある親戚の面倒を見ていますから、書いている内容にはとても共感しました。著者の思いには、すべて同感です。差別にならないよう、とても気を遣って書いているのも感じました。そうなんです。すぐに、差別だ差別だと叫ぶ団体も世の中にはいます。そしてそういう団体こそが、結局はこうした気の毒な障害を持つ人たちを、追い込んでいるのだと思います。

 ホームレスの多くが、知的に問題があったり、精神障害があったりする人達なのは、見ていてすぐにわかります。本当に重度の人は福祉の手が差し伸べられますが、病気や障害でも軽度なら、福祉の手から滑り落ちてしまう。自由という名のもとに、不衛生で非人間的な生活を強いられていて。私はホームレスに関しては、以前からそう思っていましたが、この本で刑務所の実情も知り、これはなんとか、改善していかないといけない問題だと思いました。

 ホームレスも刑務所も、結局一緒なんですよね。行き場がなければ、そのどちらかをうろうろさまようしかない。誰も導いてはくれず、そして原始的な本能は残る。お腹は空くし、人にバカにされれば腹が立つし、誰かに持ち上げられれば嬉しくて、善悪の判断もつかずに、騙されていることにも気付かない。

 そして、親子二代、三代にわたって問題を抱える家族の話も、身にしみました。結婚相手も、生まれた子供も、自立した生活をしていく能力に欠けていたり。いくら結婚や出産が自由とはいっても、不幸が連鎖していくのは残酷な話です。私が面倒をみている親戚A(80代)も、知的に少し問題があります。けれど結婚し子供を複数もうけました。そして今、かつての結婚相手や子供達がどうしているかといえば、決して幸福な生活はしていません。Aが結婚し、子供をもうけたことを、私はよかったとは思えないのです。生きていれば命があればいいという話ではない。幸せに生きてこその人生だと思います。

 
 一人で生きていけない人。判断力のない人を、ほいっと世の中に放り出せば、不幸でしかない。
 管理者がいる生活を、福祉で実現することができたらいいのになあ、と思います。決められた生活が幸せという人もいるのです。自由は、自由を理解し選択する能力がある人にとって価値のあるもので、そうでない人にとっては逆に管理や束縛の方が幸せなこともあるのです。

 人生は自己責任とはいっても、認知や判断力に問題のある人に対して、至れり尽くせりではなくても、基本的な部分だけでも手助けするシステムがあればいいなあと思います。後見人のシステムや、生活のための施設を作るということ。そして、弱者を守るための法の整備も、大切なことです。

 知的に問題がある人が、性産業に従事するということには、胸が痛みます。自由だから、ではすまされない問題です。この本の中にその一端が書かれていますが、これが現実なんだと思います。

 こんなこと言ったら失礼なのかもしれませんが、タレントの坂口杏里さんを見ても、せつないものがあります。ホストクラブで借金があったといいますが、返済能力のない人に貸す、貸し手側の責任も大きいです。あまりにも法外な借金には、法律で規制をかけたり、専門家の相談窓口を設けたりといった救いがないと、自己責任の一語で片付けるにはあまりにも気の毒で。

 過去、社会問題化したサラ金も、金利のグレーゾーンにきちんと罰則を設けることで、被害が激減しましたよね。なぜ最初からそれをしなかったのか、法整備に時間がかかったのは、それまでに甘い汁を吸った人がいるのかなと思います。法で縛れば、闇にもぐる業者が増えるだけ、という意見もあるでしょうが、少なくとも簡単で気軽な借金は防げます。

刑務所の中というのはなかなか知ることのできない世界ですが、そこに存在する障害者の問題に、鋭く切り込んだ深いノンフィクションでした。著者の山本さんに敬意を表します。大変なテーマを、よく書いてくださったと思います。

『殉愛』百田尚樹 著 感想

 『殉愛』百田尚樹 著 を読みました。以下感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

 読後、一番に思ったのは、百田さんどうしちゃったんだろ…ということです、悪い意味で(;;;´Д`)ゝ 

 ノンフィクションのはずなのに、一方的な立場からしか書かれていません。記述は全部、さくらさんかさくらさんを擁護する人たちへの取材に基づくもので、この本は全編、さくらさんを褒めたたえる内容になっています。

 娘さんやKさん、Uさん、そして前妻さえも、ひどく性格の悪い人のように描かれているのですけれども。本当にそうなのだろうか?と、なにかもやもやした気持ちが残ってしまいました。

 特に娘さんに関しては、本当にお気の毒だと感じました。
 小さな頃に両親が離婚。お母様が亡くなり、たかじんさんのお母様の元で育てられたとのこと。こうした背景があったなら、なおさら、たかじんさんが亡くなるときに会うべきだったと思うのです。

 もちろん、父と娘の間でいろんな思いや、行き違いがあったのかもしれませんが、たかじんさんがたとえ「会いたくない」と言ったとしても、娘さんには、「会う権利」があるし、それはたかじんさんの思いよりも優先されるべきです。だって、親なのですから。

 まして、娘さん自身は他の報道でインタビューに答え、たかじんさんの入院先も、末期がんのことも知らなかったと主張されているようです。それが本当なら、この『殉愛』で悪者にされてしまっているのは、あまりにもひどい話だと思いました。『殉愛』だけ読んだ人には、娘さんはとても非情でお金に汚い人だと誤解されてしまいます。

 私は宝島社の検証本『殉愛の真実』の方を先に読んでいるので、いろいろ『殉愛』の矛盾が気になってしまう、というのもあるのですが、仮にこの『殉愛』を先に読んでいても、おかしいと感じたと思います。

 あと、この本は最初から最後まで、とにかく未亡人であるさくらさんを、賛美した内容になっていて、そのことにも違和感を感じました。
 二人の愛、を謳う本なら、たかじんさんも美化されているのかと思いきや、たかじんさんはだめな男として描かれているんですよね。女性関係のだらしなさなど。そして、おそらくさくらさんだけに打ち明けた心の内面、本当にこれは公開すべき内容だったのかなあ、と疑問です。
 二人だけの間のこととして、胸に秘めていてもよかったのかなと。この本を世間に発表することを、たかじんさんは本当に喜んでくれたのでしょうか。

 人それぞれ、考え方は違うと思いますが。
 もし私がたかじんさんだったら。自分がつけていたメモなどは、公開してほしくないです。そして、勝手かもしれませんが、自分の中の醜い部分は、そっと隠したままでいてほしいのです。いいことならともかく、恥ずかしい内容などは、世間に向けて公表してほしくないです。

 妻なら、もう少し夫を美化した内容を、本に載せるよう求めるのが通常ではないかと。
 たかじんさんが浮気癖のあるどうしようもない男である、という内容が本に載ることで、結果的に妻であるさくらさんは、ダメ夫を支える素晴らしい妻である、という印象が強いのですが。

 あれ、この本て、愛を描いた本じゃなかったっけ?
 一方的に、さくらさんサイコー、という、さくらさんの本になっていると感じました。

 そして最後に、これは一番まずいだろうと思ったのが、聖路加国際病院で亡くなった後、たかじんさんをお風呂にいれてあげる、という場面です。
 医師が「お亡くなりになりました」と言って、死亡診断書を書くために病室を出た後、寺田さんというナースマネージャーが「お風呂に入れてあげる?」とさくらさんに聞いて、寺田さんの許可のもとで、たかじんさんの体を入浴室に運んだとのことですが。

 体を洗ったり、洗髪したり、湯船に入れたりしたそうです。

 それは、たかじんさんが亡くなった後ですから、いわゆる湯灌のことですよね。でも、病院内に湯灌の施設なんてあるのでしょうか。これ、もしかして普通の入院患者さんが使う入浴室なのでは? だとしたら、いくら有名人とはいえ、衛生上からもとんでもないことだと思うのですが。もしそうだとしたら、美談でもなんでもないです。単なる非常識な行為になってしまいます。

 その点がとても気になりました。

 この『殉愛』、読んで感動は全くありませんでした。むしろ、??と思う点が多すぎて、百田さんどうしちゃったんだろうっていう疑問がわいてきます。
 これを、本当に感動の話だと信じきっているのなら、ちょっと…。

 闘病には各自、いろんな背景があるし。命に係わる病気なら、各々、家族は壮絶な看護になると思うんですよね。それは、誰かがすごいとか、すごくないとかではなく。誰だってそうだと思うんです。
 家族のために必死になるでしょう。
 読み終わって、たかじんさんの最後の2年が特別だとは、思いませんでした。

 どんな人生もその人の生き方であるので、この『殉愛』出版を含めて、たかじんさんの生き様だったんだろうと思いますが、娘さんに対してはお気の毒に思います。父に愛されていないように、本の中では描かれていたけど、それはやっぱりひどい話です。

 そういうことは書くべきではないと、そう思いました。

『殉愛 原節子と小津安二郎』西村雄一郎 著 感想

 『殉愛 原節子と小津安二郎』西村雄一郎 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタバレを含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

 

 なぜこの本を読んでみようと思いたったのか。それは、この本のタイトルが『殉愛』だったからだったりします(^-^;

 今年になってかなりの話題になったあの本。そう、百田尚樹さんの本が、同じ題名でしたね。百田さんのはまだ私読んでないんですが。金スマでその本の宣伝をしていたのを見まして。本のタイトルがすごいなあと。

 殉死という言葉はありますが、殉愛とは。
 金スマを見たとき、百田さんはどうやってこんな言葉を思いついたんだろうと思っていたら、2012年にすでに、同じタイトルの本が発行されていたではありませんか。それがこの、西村雄一郎さんのお書きになった、『殉愛 原節子と小津安二郎』だったわけです。

 もうその時点で、私の中の百田尚樹さんに対する尊敬の気持ちが、すーっと冷めていきましたね。だって、本のタイトルがまるかぶりって、ライターとしてどうなんでしょうか? それも、辞書に載っている言葉ではなく、造語で。

 一般的によく使われている言葉で、しかも二文字という短い言葉なら、タイトルがかぶるのも仕方ないです。

 でも「殉愛」でかぶるのは意図的でしかないでしょう。特別な言葉です。実際出版する前に、必ず調べていたはずですから。もしこの言葉を本当に偶然に思いついたのだとしても、同じタイトルで以前出版されたものがあったら、それを避けるのが当然だと思います。

 百田さんが出演したそのときの金スマの内容も、見ていてあまり納得できないもので。私は、どこかもやもやした気持ちを抱えていたところに、もうひとつの『殉愛』本の存在を知り。百田さんのは、たかじんの後妻のお話でしたが、西村雄一郎さんのものは原節子と小津安二郎を取材したものだと知り、ぜひ読んでみたいと思いました。

 原節子さん。
 私は出演する映画を一本も見たことないのですが、原さんが、小津監督の死後に、芸能界から姿を消した、伝説の女優さんということは知っています。
 たとえ映画界から姿を消したとしても、請われて少しだけ、テレビドラマにゲスト出演したり、雑誌のインタビューに登場したり、そんなことがあってもおかしくはないのに。ただの一度も公的に姿を現さないというところが、とても神秘的です。他の女優さんではありえないことでしょう。

 そこには何か、強い意志があるわけで。それを知りたいと思いました。もしそれが、以前からよく言われているような、小津監督への敬愛の念からだとしたら、「殉愛」という激しいタイトルにもふさわしい、愛の形だなあと思いまして。

 そんなことが、実際にあるのだろうかと。

 原さんと小津さんの間にあったものはなんだったのか。
 読み終えてまず思ったのは、世間で言われるほど、原さんと小津さんの間にあった感情は、大きなものではなかったなあ、ということです。

 意外でした。そこには人がうらやむような愛の形があるのかと思っていましたが・・・。もちろんこれは私の個人的な読後の感想なので、読者それぞれに読後の解釈は違うとは思いますけども。私は、二人の間にあったのは、「敬愛」のようなものかなあと、そんな感想を持ちました。

 なぜ原さんが完全な引退を選んだのか。
 そこには、小津さんへの思いとはまた別に、様々な要素が絡んだのではないかと思います。白内障を患った後、撮影中に目を傷めて入院したのが、一番大きかったのかもしれません。目が見えなくなったら、という恐怖は相当なものです。
 撮影に入ってから、いちいちライトに注文をつけることは、女優さんにはその権限がないでしょうし、目を失うリスクを考えたら、引退を選ぶのも無理ないわけで。

 そして、年齢的なこともあったのかな。主役から、上手に脇役へとシフトしていくことが、難しかったのかもと。出演作のほとんどが主役級で、毎年のようにたくさんの映画に携わって。もう十分やり尽くしたと、満足してしまったのかもしれないと想像しました。

 きっと小津監督の作品で評価を受け、自分の中で達成感もあったと思うのです。だから小津監督が亡くなったとき、この先の自分を考えて、芸能界ではない、静かな世界に身を置きたいと考えたのかもしれません。

 私はこの本を読むまで、原節子さんという女優は、小津監督への愛情が大きすぎたあまりに、小津監督の死を乗り越えられなかった。それが原因で引退した、と思っていました。でも、語られるいくつかのエピソードを読むと、原さんも小津さんも、それぞれ別に好きな人がいたり、してるんですよね。

 たとえば、原さんの場合は、一番好きだったのが義兄の熊谷久虎さんだと思います。その他にも、噂のあった助監督もいたそうだし、ただ結婚をしなかったというだけで、普通に恋愛はいろいろあったのかなと。

 一方、小津監督に関しては、これは私は突っ込みを入れたいです。
 なぜなら、1935年(昭和10年)から、少なくとも1952年頃まで、小田原の芸者さん、栄(さかえ)さんと付き合っていて、結婚の話も出ていたというではありませんかw(゚o゚)w

 そして1952年、小津監督と栄さんの結婚話が出たとき、同時に原節子さんとの結婚の話も出て、なんと栄さんが遠慮して身を引いたと言われているそうです。

 全然殉愛じゃないじゃ~ん←(ツッコミ)

 殉愛どころか、そういうのを世間では二股というのではないでしょうか。むしろこの場合、「私なんか・・・」と遠慮してそっと身を引き、決して週刊誌に暴露話を売ることのなかった栄さんの方こそ、殉愛ですよね。小津監督ではなく。

 小津監督は、原さんとの愛を温めつつ、一方で栄さんとも。
 大人の愛ってそんなものかしら┐(´-`)┌

 小津監督と栄さんとは、二度も結婚の話があったそうで。親戚を含む周囲も、二人が結婚するだろうと思っていたそうです。ちなみに、一度目の結婚が流れた理由は、栄さんが家族を食べさせなくてはならなくて、彼女が芸者で稼がないといけないという・・・栄さんけなげです。

 やっと家族のためでなく、自分のために生きることができるときがきて、今度こそ結婚となった、その時。相手には有名大女優との結婚話が持ち上がった。そこで、何も言わず静かに身を引くことができた栄さんには、本当に真の愛情があったんだろうなあと、そう思いました。

 想像ですが、小津監督と原節子さんの関係は、生々しい男女間の愛情というよりもむしろ、お互いを尊敬しあう、一歩引いたものだったのかなあと思いました。それは恋愛ではなくて。

 そして、恋愛という観点でいうなら、本に出てくる登場人物で一番純情だと思ったのが、映画プロデューサー、藤本真澄(さねずみ)さん。私は最初、この方を、「さねずみ」さんではなく、「ますみ」さんと読んでしまいました。

 そうです! 女優に一方的な愛を捧げ続けるその無骨さ、不器用さ、純粋さ。そしてその名前。きっと、『ガラスの仮面』の速水真澄(ますみ)のモデルは、この人です。だって速水さんは養子になる前の旧姓、「藤村」ですもの。
 「藤本真澄」と「藤村真澄」。偶然でしょうか? そこに関連性を推し量るのは、ロマンチックすぎるでしょうか。

 映画の世界で大成功し、権力を手に入れ、華やかな世界で大金持ちになった藤本さんは、当然、女性からモテモテだったと思います。けれど生涯独身を貫いた。それは、心の中に、原節子さんがいたからなのではないでしょうか。

 引退したにも関わらず、原節子さんには、毎月東宝から給料として、いくらかのお金が支払われ続けたそうです。その影には藤本さんの意向があったとか。1960年代には、もう結構ですと、原さん側から断りの申し込みがあったそうですが。そのときの藤本さんの胸中を想像してしまいました。
 お金という形でわずかでも繋がっていた細い糸が切れてしまう寂しさは、いかばかりだったろうかと。

 引退した女優に東宝から払われる異例のお給料は、藤本さんにとっての、届かない思いそのもので。

 その他にも、藤本さんは原さんの土地の取得などに、関わっていたそうです。

 そして、そんな藤本さんが何を語っていたかというと。

>原節子に、実は惚れてたンだよ、昔だけどね
(中略)
>それで、あきらめたのさ。しかし俺は、本当だよ、
>商品に手をつけたことは、一人もいなかったね。
>“清く正しく美しく” が我が社のモットーだからね

(『シナリオ』別冊「脚本家 白坂依志夫の世界」)

 この言葉を、信じます。根拠はないけど、そんな気がするから。
 もし藤本さんが原さんと一線を越えちゃっていたら、それこそ、
別に原さんでなくても、誰かと結婚していたと思うんですよね。
 そして、藤本さんは会社からの給料という形でなく、個人的に
原さんを援助していたと思う。もし二人の関係がそうだったなら。

 逆に、清いものであったからこその、東宝からの給料だったのだと、
そう思います。
 原さんが、東宝からでないと受け取らないことを知っていたから、
藤本さんはそのように手配をしたのだろうし。
 そんな藤本さんの配慮を知りつつ、原さんはしばらくの間、給料を
受け取っていたのだと思います。
 二人の間には、言葉にならなくても、静かに通じるものがあったのかなと
そんなことを想像しました。

 この本を読んで一番に感動したのは、小津監督よりも藤本真澄さんのことでした。
 こんな人が実在したのですね。
 まるで、漫画や小説の中に、出てくる人のように思えました。 

『洗脳 地獄の12年からの生還』 ToshI 著

 洗脳 地獄の12年からの生還 ToshI 著 を読みました。以下、感想です。

 

 壮絶でした…。
 なにもかも順調なときなら、きっと洗脳されるような隙はないでしょうが、人間関係に悩み、苦しんでいるときには、危ないですね。本来宗教は、人を救うものであるべきなのに、ToshIさんが入った宗教は、お金をとるばかりか暴言と暴力で人の尊厳を破壊し、ToshIさんの知名度を利用してまた新たな被害者を狙う、という、恐ろしいものでした。

 芸能人が周囲の心配をよそに、宗教にはまる、というのは時々聞きますが、有名人でお金持ち、というのは孤独なんだなあと、あらためてそう思いました。身内ですら信用できないなら、誰を信じればいいのか。

 本を読んでいると、信者時代にも、100パーセントの信仰があったわけではなくて、その時々において教祖や妻に対して、???と思うところもあったみたいですね。当時、テレビに映った姿を見ると、盲信していたようにみえたのですが、その影にはいろんな葛藤があったんだと、読んでみて初めて知りました。

 こうして自分の体験を語ることは、これまでToshIさんの名前が勧誘に使われたことへの贖罪になっていますね。そして、今まで宗教とか洗脳とか興味がなかった人でも、ToshIさんの本ということで興味を持って読めば、洗脳の恐ろしさを知り、被害を未然に防ぐことができると思いました。

 暴言と暴力で人を洗脳する、というのは、たぶん洗脳が解けた後だと、なんであんなことで騙されちゃったんだろうと思うけれど、その瞬間にはなんの疑いもなく、すーっと心の奥底に入りこんでしまうものなんでしょう。

 ToshIさんを救ったのは、「おかしい」というご自身の絶対的な感覚と、それをサポートしてくれる周囲の人々でした。どちらが欠けても、脱出は成功しなかったと思います。

 世の中には、本当に無償の愛で他人を助けてくれる人がいます。ひどい人もいるけどその一方で、同じ振り幅で善の方向に動く人もいるのです。

 バンドメンバーの絆にも感動しました。誤解や喧嘩があっても、年月を経てわかりあえる瞬間がある。その絆は、本当に素晴らしいものだと思います。かけがえのない仲間は、ToshIさんの宝物です。

 どんな宗教も、末端の信者さんはたいてい、純粋な善人ですね。そして心から他人の幸せを願い、布教に全力を尽くします。よかれと思って、人を誘います。だからといって、その宗教の幹部が、同じように善人であるとは限らなくて。

 いろいろと考えさせられる本でした。

『青い鳥』 野沢尚 著 感想

『青い鳥』野沢尚 著を読みました。以下、感想をかいていますが、ネタバレしていますので未読の方はご注意ください。

 あの名作ドラマ『青い鳥』の小説版です。ドラマでは描かれなかった、登場人物たちの細かなエピソードも載っています。映像では、表情を読み取るしかなかったものが、文字として心理描写されているので、また新鮮な気持ちであのドラマのことを思い出しました。そしてあらためて、ドラマのことを考えたとき、自分が以前とは違った感想を持っていることに気付いたのです。

 主人公の理森(よしもり)、そして運命の相手、かほり。
 二人の絆は運命的で、とても強いものだ、と思っていました。敢えての過去形です。

 今は、そう思っていません。
 小説版のかほりの生い立ち、そして理森の子供時代を知ったから。

 理森は、かほり親子に振り回されてしまった・・・と思っています。相思相愛の二人が、手に手をとって駆け落ち、なんていう純愛ではないと思うのです。

 かほりは、理森でなくても、他の人でもよかったのでは?と思えてなりません。
 田舎の閉塞した空気、名士の妻という立場の息苦しさ、そこから連れ出してくれるのであれば、それが、「理森」である必然性はなかったでしょう。もちろん、夫の広務よりも好感の持てる相手、という条件はつきますが。

 夫よりも気持ちが許せて、自分を今よりもっと自由にしてくれる相手。それがたまたま、理森だったように思いました。だから、かほりには逆らえない激流のような情熱は、なかったと思います。そして、それは理森も同じこと。

 本を読み終えて思ったのは、理森は「助けたい人」だったんだなと。誰かを助けたかったのではないでしょうか。誰かを助けることで、子供時代の自分を救いたかった。なんの過去も痛みも持たない女性には理解できない闇を、彼は抱えていた。

 理森が、幼馴染の美紀子を選ばなかった理由は、そこにあると思いました。
 だけど、もしかほり親子が清澄の町に現れなかったら、理森は美紀子と自然な流れで一緒になっていたと思います。美紀子の思いを、拒むほどのはっきりした意志を、理森は持っていなかったと思うからです。
 心の奥深くに眠る、自分自身の痛みを、かほり親子に投影した。だからこそかほり親子を助けずにはいられなかった。けれど彼女たちに出会わなければ、きっと理森は美紀子と、平穏な幸せを手に入れたでしょう。
 美紀子と一緒になれば、違う人生が、もっともっと幸せな人生が、理森にはあったのではないかと思いました。優しい美紀子と歩む人生は、きっと理森を癒し、暖かな光となったと思うのです。

 本に書かれたかほりの過去を読んで、これは広務が相手でも理森でも、普通に結婚生活を全うするのは無理だなと思いました(^^; いいとか悪いとかではなく、生きる価値観が違いすぎる、生きてきた世界が違いすぎるからです。

 

 理森とかほり、無事に夫婦になれたとしても、その先の展開が、予想できてしまう。

 かほりは、理森が夜勤の日に、一人で居酒屋に飲みにいっちゃうでしょうね。罪悪感はないのです。ただの、気晴らしです。それでも理森が知れば不快に思うであろうことは予想できるので、おそらくこっそりと。
 そしてそのうちに、だんだん気が緩んで。行く回数が増えると思います。別に浮気とかじゃなくて。単純にお酒で憂さ晴らししたいのと、それからお酒の場の陽気な雰囲気が好きで。
 いつか理森にばれます。当然怒るでしょうね。俺が夜勤のときに何やってるんだと。誌織もまだ小学生なのに、夜にひとりにして危ないじゃないかと。

 そしたらかほりは反発しますね。私だって羽を伸ばしたいときがあるの。誌織は寝てたから、私が出かけたって大丈夫だと思った。
 きっと理森は言うでしょう。「それならなんで、あらかじめ俺に言ってくれなかった?」
 かほりは答えたでしょう。「言ったらあなた、気持ちよく私を送り出してくれた? 駄目だって言うに決まってる」

 正論なので、理森は反論できずに黙りこむでしょうね。険しい目のままで。かほりも負けずに、怒りを隠そうともせずにまっすぐに理森を見上げて。

 そして数日後、かほりは居酒屋で出会った、ちょっといいなと思っているお客さんに、愚痴をこぼすでしょう。
 「どうして別れないんだ?」
 問われたら、きっと悲しい目をして答えるのです。
 「あの人には、恩があるから。子供のことも全部、助けてくれた人なの」

 お客さんは、義憤に燃えますね。
 恩を売って相手を縛ろうだなんて、とんでもない奴だ。目の前にいるこの不幸で美しい女を幸せにできるのは、俺だけだ、と。

 あれ、どこかで見たパターン。そう、広務が悪者になって(まあ実際悪かったと思いますけど)、理森とかほりが盛り上がったときと同じなんですよね。
 理森は無口だし、そこまで単純ではないので、かほり親子と実際に逃避行を始めるまでには、「どうして別れないんだ?」なんて無責任なことは口にしませんでしたけど。そういうところも、理森はすごく良識があったなあと。いくら自分がちょっといいなあと思う相手でも人妻だから。誤解を招いたり、相手に期待をもたせるようなことを、言ったりはしなかった。今あらためてドラマのことを思うと。誘惑するのはいつも、かほりなのです。

 自分が誘惑してるつもりはないでしょうけど。たぶん性格なんだろうな。結果的にはものっすごく、かほりは理森を誘惑しちゃってるわけですよ。
 会って間もない男性に、「この町から私を、連れ出して」とか、言っちゃうんだから。書いてて思ったけど、本当に凄いセリフだなあ。

 私がこのドラマの中で二番目に印象に残っている、あの赤いカサが風に飛ばされるシーン。雨にうたれて、天を仰いで、そして理森と目を合わせたかほり。でもかほりの目に、理森は特別な存在として映っていなかったような気がするんですよね。かほりにとって、理森は町人の一人にすぎず。
 そして理森も。
 確かに、吸い込まれそうに美しくて、儚い人で。でも彼が何より心を動かされたのは、そのときのかほりがあんまり、寂しそうにみえたからではないでしょうか。雨が、とまらない涙みたいに。この人も、なにかにひどく傷ついて、泣いている人なんだと。そのことが、理森の心に深く、突き刺さったような気がします。

 かほりは、理森を深く愛していなかったからこそ、「連れ出して」なんて軽く言えちゃうわけですよ。もし本当に大切な相手だったら、絶対に口に出せないセリフ。だって、あんまりにも申し訳なさすぎるから。理森が自分と一緒になって、幸せになれるかどうか。いくらかほりだって、わかっていたはずです。不倫の汚名。子供がいる責任。
 本気で好きだったら、言えないだろうなあ。

 理森の行動を見ていると、かほりへの愛が高まって、やむにやまれず逃避行したというより、かほりの積極的な姿勢に押し切られたって感じるんですよ。自分から行動起こしてることは、ないといってもいい。いつもかほりが、導いてる。
 乙女が原での告白も、かほりから。あんな場所で二人きりになったのは、理森がうかつだったといえばそれまでですけど。でもその前に、広務がかほりを思いきり傷つけたから。かほりに聞かれているとも知らず、彼女を金で買った高価なオモチャ扱いしたから。
 それは気の毒に思いますよね。誰でも配偶者からあんな言い方されたら、目の前真っ暗になると思います。理森はかほりを、そんな最低な夫のところへそのまま送り返すのが忍びなかった。星空を見て、夜風に吹かれて。少しでもそれが、かほりの慰めになるならと思って、寄り道したんだと思います。たぶん理森も、つらいときに乙女が原でひとりで、星を見ていた日があったんでしょう。

 だからこそ、、私はかほりをずるいなーと思ってしまう。自分がつらいからって、優しい人を巻きこんじゃいけません。すがる手を、振り払えない人だとわかっていたくせに、「答えなくて、いいからね」なんて、あんまりにもみえみえのセリフ。

 乙女が原の一件の後。かほりはどこかで、「理森はもう私の物」という勝利を確信していたように思います。だからきっと、その後の理森のつれなさを疑問にも感じたし、苛立たしかったでしょう。別荘に誘うとか、もうねー、どんだけ自信があるのかと。そして、それがどれだけ、理森の将来を傷つけるか、まんざら知らないわけでもないでしょうに。

 一貫して、かほりに押し切られる形の理森ですけど。唯一自分から、かほりに別荘で会うことを持ちかけたときがあって。でもあれって、絶対別れ話だよな~と思うのです。長野支社に行くことを決めたと、自分の口からはっきり告げたかったのでしょう。妙な期待とか、希望とか、それは逆に残酷だから。

 かほりと誌織の逃避行。そこに理森がいなければならなかった理由。やはり、かほりの身勝手さだなと思ってしまうのです。
 広務はとんでもない奴ですから、そこから逃げたいと思うのはわかります。でもそれに、他人を巻きこんじゃいけないのです。相談するなら、しかるべき公的機関でなくては。
 なんなら舅になるはずだった純一郎に相談してもよかったかも。彼は、息子とかほりの結婚を望んでいなかったから。きれいに別れて息子に泥を塗らないなら、かほり親子の旅立ちを喜んで見送っただろうし、当面の生活費となる手切れ金も渡したと思いますよ。スキャンダルになるくらいなら、お金で解決したかったでしょう。広務が激高しないよう、別れ方もそれなりに考えてくれたはずです。広務が激高しない別れ方・・・たとえば、かほりが酔って大勢の前で醜態をさらすとかね。とにかく嫌われるように、百年の恋もさめるように、振る舞えばいいのです。「あんな女、こっちから別れてやる」と思わせるように。

 かほりの死の責任、私は、すべて広務にあると思っています。いくら怒っても、あそこまで追いかけるのは異常すぎる。理森を殺そうとしたのも、常軌を逸しています。でも、どうして理森はかほりの死に関して、すべての罪を引き受けたのでしょうか。

 もちろん、たとえ自殺であっても、守りきれなかったのは殺したのと同じだ、と考えていたこともあるでしょうが。詩織ちゃんの存在も大きかったのではないかと。
 当然、理森の関係者が面倒をみるわけにはいかないし。かほりに頼りになる身内はいない。施設か、広務か、その二択しかなくて。
 広務は、異常な人ではあっても、今まで詩織をいじめるようなことはなかった。だったらせめて。詩織が寂しい思いをしないように、せめて、父という存在がある場所で育ってほしいと。それに、純一郎は世間体を考える人でしょうから、その点も安心です。世間からみて、むごいと思われるような扱いはしないはずで。

 成長した詩織は、山田麻衣子さんが演じてらっしゃるのですが、ベストキャスティングです。
 無邪気な子供時代の鈴木杏さんから、果てしない闇を抱えた目の山田麻衣子さんへ。その対照的な明と暗が、ドラマを一層盛り上げたと思います。

 山田さん演じる詩織は、目の奥が真っ暗なのです。
 けれど、それがリアルだと思いました。実の父が暴力男で、やっと逃れて新しいお父さんができて。でもうまくいかなくて、お母さんは自分を連れて別の男の人と駆け落ちして。あげく、その男の人に崖から突き落とされて死ぬ。結果、天涯孤独になってしまう。お母さんが駆け落ちした男の人は、自分も好きだった人だから、よけいになぜ?と思ったでしょうね。どうしてお母さんを殺したの?って。真実を聞きたいと思うのは当然だし、裏切られたと恨んでも無理ありません。
 そして引き取られた相手が、自分のあんまり好きじゃない、しかもお母さんが逃げ出した相手だっていう、この絶望ね。そして逃げる場所も、帰る場所も、どこにもないわけです。

 そりゃあ、そういう目にもなるよなあと思いました。出所した理森が、誌織を気にかけるのも当たり前です。でも何にもできない。

 物語の最後。結局理森は誌織と結ばれるわけですが。
 正直、ひどいな・・・と思ってしまいました。理森が気の毒で。理森の性格で、立場で、詩織を突き放すことはできないから。それは愛というより、同情ではなかったかと。

 私思うんですが、理森は誌織じゃなくても、幸せになれたんではないかなあ。美紀子と一緒に過ごす幸せが、容易に想像できてしまう。理森の青い鳥は、美紀子です。近すぎて見えない。ドキドキもない。でもささやかで、かけがえのない幸せ。

 ただ、誌織は理森じゃなきゃだめでしょう。仮に理森と結ばれなかったら、一生理森の影を追い続けて生きたような気がします。あの暗い目のままで。理森には、それがわかったんじゃないでしょうか。だから、19歳になった詩織に求められたら、応えざるを得ない。

 ドラマは、キャスティングが秀逸です。理森は、豊川悦司さんじゃなきゃ駄目だし、夏川結衣さんが演じるからこそのかほりだったし、広務を佐野史郎さんが演っていなければ、物語の色が全然違っただろうし。美紀子のけなげさは永作博美さんでなければ出せなかったし、詩織を表現できたのは、鈴木杏さんと山田麻衣子さんだったからこそ。

 ただ、前田吟さんの役は、もうちょっと暗い役者さんでもよかったかなあと思わなくもありません。前田さんだと、悲しみを抱えたまま前へ進むというより、悲しみを全部記憶から消して、前へ進むタイプにみえてしまうから。奥さんに逃げられたことも、過去になってしまっているように感じました。そして奥さん役のリリィさんも、ちょっとおとなしすぎるかなあと思ってしまった。理森のお母さんなら、もう少し、派手な部分があってもいいのかなと。逃亡した罪悪感や月日が若い日の面影を消したとしても、ふとした瞬間に垣間見える激しさや、情熱、みたいなものを。きっと持ってる人だと思うから。そうじゃなきゃ、いくらなんでも、理森とお父さんを残して、他の男の人と消えたりしない。

 青い鳥は、いつだって、手の届く場所にあるんだろうと思いました。ただ、それを手に入れられるかどうかは、わからない。どんなに近くにいても、その存在に気付かなければ。

 理森の青い鳥、美紀子は。
 結婚したら、一緒になったら理森を幸せにする自信があって、だから告白したんだと思いました。そこがかほりとの違いです。かほりは、自分が相手を幸せにするかどうか、そこはあまり気にしていないと思うから。
 理森の幸せを考えたら、「連れ出して」なんてとても言えない。

 もし美紀子が、理森と一緒になって理森を幸せにする自信がなかったら、どんなに好きでも、黙っているだろうなと思いました。

 理森は、かほりにも誌織にも同情していた。特に、自分のせいで母親を奪ったと、詩織には罪悪感を抱いていた。だから詩織には逆らえない。詩織が望めば、一緒になることも厭わない。
 なんの負い目もないかほりにさえ、人生を捧げた理森だから。

 詩織はかほりに似てるのかもしれません。もし理森を大事に思うなら、本当に好きなら、二度と会わないという選択もあった。母を殺したと恨んでいた、真実を知りたかった15歳ならともかく。19歳になって、理森が自分たち親子のためにどれだけの犠牲を払ったかを知ってなお、自分の気持ちを優先して、彼を求めるのは、それってどうなんだろう?と。

 ドラマを初めて見た時から時が経ち、あらためて小説版も読むと、ドラマに対する思いも変わってくるなあと、実感しました。

『神童』山本茂 著 感想

 ずっと昔に見て、忘れられない映像がある。

 神童と称えられたヴァイオリニストの少年。さらなる高みを目指し、アメリカへ渡った彼は不慮の事故により夢を断たれて帰国。ひとりで生活することも難しい体になった彼と、彼を介護し続ける父親。

 そんな二人が暮らす家には、薔薇が咲いていた。 

 手入れの行き届いた庭、大きな家。咲き乱れる薔薇に彩られた夢のようなお家。

 黙々と、息子の回復を信じて介護する父と。

 少年の顔には相応の時間が流れていたけれど、一切の苦悩から解き放たれた顔には、穏やかな笑みがあった。

 いつか、その少年が旅立ったとニュースで知った。父親よりも先に旅立ったことが、幸せだったのか、不幸だったのか。
 幸せと言えば、なんて残酷なことをと眉をひそめられるだろうか。
 けれど不幸と言えば、それもまた違う気がする。

 外国がまだ遠い異国だった時代。日本と隔絶された地でたったひとり、懸命に芸術を追求し続けた日々。それはこの上ない幸せと、この上ない不幸が同居した、彼だけの人生であり、運命だったのだと思う。

 神童と呼ばれることを、彼が本気で喜んでいたとは思えない。
 彼は、彼にとって大切な人が、自らの弾くバイオリンを褒めてくれるというただ、そのことが嬉しかったのだと思う。
 そしてバイオリンは小さな男の子のすべてになり。
 彼が本当に不幸と思い心底恐れたのは、大切な人に見捨てられるという不安感ではなかっただろうか。

 バイオリンを褒められれば褒められるほど。
 それを失った時自分にはなにが残るのかと、たまらない恐怖だったように思う。

 それでもバイオリンがあった。だからがんばれた。けれどその奏法をもし、根本から否定されたとしたら? 

 気持ちを推し量ることは、想像にしかすぎないけれど…。

 彼が旅立ち、その音だけが残った今。耳に響く音は、あまりにも透明で。その透明すぎる完璧なフォルムが哀しみを誘う。年を重ねれば、誰でも色がつくはずだったから。その色がないまま、彼は旅立ってしまったのだと、否応もなく思い知らされる。駆け出して、そのまま行ってしまったことが悲しい。
 その線は流れるように続いて、完璧で、でも色を持たない。この先、この技術に彼なりの彩りがつけられたなら、どんなに素敵だったろうかと、考えても詮無いことを、つい思ってしまう。

 音を聴けば、いつでもあの薔薇の家と無垢な彼の笑顔が、胸をよぎるのである。

 

『わりなき恋』岸惠子 著 感想

 『わりなき恋』岸惠子 著を読みました。以下、感想を書いていますがネタばれ含んでいますので、未読の方はご注意ください。

 あまりにも主人公と著者である岸惠子さん自身が重なるので、これはもう小説というより岸さんの自伝なのかな~と思いつつ、わくわくしながら読みました。本が発売された頃には、相手の男性の名前も、具体的に取り沙汰されてましたし。

 主人公、伊奈笙子は69才のドキュメンタリー作家で、お相手の男性は一回りも年下の会社員、九鬼(くき)兼太。最初の出会いは飛行機、ファーストクラスでの隣同士。

 出会いの場面には、ぐいぐい引き込まれてしまいました。お互いに隣を気にする気持ち、それから「プラハの春」で話が一気に盛り上がり、心の垣根が取り払われていく過程。

 そりゃあ好きになるだろうなあと。このときの九鬼はとてもスマートに描かれていて、かっこよかったです。笙子に対しての言動が、いちいち紳士でした。

 そして九鬼の目に映る笙子が、とびきり新鮮に魅力的にみえたのも当然だと思いました。かつて遠い存在だった、自分とは違う世界の人。それが実際会ってみると、美しいだけではなく、プラハの春を語る唇からは、知識と意思と、興味深い過去があふれ出る。惹かれますよね。もっと話してみたい、と思っただろうし、話はいつまでも尽きなかっただろうし。

 それは笙子にしても同じこと。放った言葉が、きれいに打ち返されてくる心地よさ。なかなかそういう相手に巡り会えることは、なかっただろうから。

 九鬼の、別れ際のさりげなさも素敵でした。ふいっと消えてしまうと、余韻が残るから。笙子の中に、強い印象を残したのもうなずけます。

 そして再会の演出もまた、ロマンチック。お店に、あらかじめ笙子へのプレゼントを託しておいたのですよ。小さな深紅の薔薇の花束。そして笙子の好きな銘柄の、チョコレート。

 なぜ、そのチョコを選んだのか。それは、笙子が機内で5個ももらっていたのを見ていたから。好物なのをちゃんと、チェックしていたんですね。

 でも、こういうことする人は間違いなくプレイボーイでしょう。遊び慣れてるのが透けてうかがえます。

>そうか、ぼくこういうの慣れていないんです

だとか、

>学生時代を通してもこんな手紙は書いたことがありません

だとか、

>これまでにこんなに愛したことはないんだ

だとか。

 本の中に、「今までの人生で一番に、笙子だけを愛している」宣言が何度も出てくるのですが、これがもう嘘っぽくて、安っぽくて興ざめしました(゚ー゚;

 本当にそうなら、絶対口に出さないよなあっていう。

 笙子ほどの人が、どうしてそれに気付かないんだろうっていう。本当であればあるほど、言葉にするのをためらうはずなのになあ。

 私がこの本の中で一番好きなのが、飛行機の中での二人の出会いでした。それを頂点に、どんどん盛り下がってしまうのが残念だったな…。

 だって、その後の九鬼がちっともかっこよくないのです。それどころか、ずるい男の典型というか。なのになぜ、笙子がそれに気付こうともせず、二人の関係を「愛」という綺麗事に飾ってみせるのか。

 想像ですけど。笙子の寂しさが、そして年齢を重ねたことによる自虐が、九鬼につけいる隙を与えたのかなあと思いました。

 もし笙子が九鬼と、せめて同い年であったなら。私は笙子が、彼と深くつきあうことはなかったような気がしてなりません。

 九鬼の、笙子に対する態度には傲慢さがあります。出会いのときはまだ、遠慮があったんですよね。だから、素敵だったけれど。

 転換点になったのは、再会したときに額を合わせて笙子の熱をはかった瞬間。

 このとき、二人の関係性が決まってしまったような気がします。笙子は、弱くなってしまった。無遠慮な行為を、咎めなかったから。

 逆に九鬼は、自信を深めたのではないでしょうか。これはもう、大丈夫、みたいな(^-^;

 私は、笙子が九鬼を本当に愛してたとは、思わないんですよね。出会いの場での一文。

>男は笙子の好みのタイプではなかった

 もうこれが、すべてを表していると思いますよ。タイプでない、というのはもう決定的なことで。たとえそれが好感に変わったとしても。タイプでない、という原始的な感覚は、熱烈な恋や、どうしようもない感情には、変わりようがないのではないかと。

 それなのになぜ、ずるずると二人はつきあったのか。愛というと、清いもののように響きますが、私はそんなに崇高なものでもなかったんじゃないかと、そう感じました。

 まず、九鬼は笙子をどう思っていたか、についてですが。

 そりゃあ、好きだったと思います。話していて、笙子のように話題が豊富で、刺激的な存在というのはなかなかいないでしょう。若くてきれいな女の子はたくさんいても、話が退屈なら飽きるのも早い。笙子は、九鬼の知的好奇心を満たしてくれる、貴重な女性だったと思います。

 そして、国際的なドキュメンタリー作家という肩書きね。はっきりいってしまえば、笙子は岸惠子さんそのものだと思うので、ドキュメンタリー作家というより、昭和の大女優として考えてみると、九鬼の気持ちがより、見えてくると思うのですが。

 九鬼の虚栄心は、大いに満たされたのではないかと。スクリーンの向こうにいた、誰にとっても遠い存在、憧れの大女優が、俺の愛人なんだぞっていう、ね。だからこそ、その関係をわりと、公にしてみせたんだと思うのです。

 蘇州でも、デートに、自分の会社の支店長やその秘書を付き添わせるとか。もうこれは、自己顕示欲以外のなにものでもないと思いました。

 そのくせ、支店長と笙子の話が弾んだら、嫉妬して不機嫌になり、無視攻撃とかね。なんて小さい人間なんだろうと、目が点になりました。自分が自慢したくて部下を連れてきたくせに。その部下と話が弾んだからって、無視ですか??

 昔の岸惠子さんなら。(もう、笙子=惠子さんとして考えちゃってます。だってこれ、私小説みたいなものだと思う)

 無視された時点でもう、九鬼をあっさり見限ったのではないですかね。ずいぶん失礼だもの。もうね、怒る価値もないと思います。だってそれが、九鬼という人の性格なのだし。そういう性格の人に、いくら怒ったところで考え方が変わるわけもない。怒るより先に、岸さんなら「あ、そ」とばかりに、荷物をまとめてさようなら。そういうさっぱりした、行動力のある女性ではなかったかと。

 でも、この小説の中に描かれる笙子は、見ていて痛々しいのです。どうしてそんなに、九鬼にすがりつくんだろうっていう。

 冷静に見て、あきらかに都合のいい女性になっちゃってるのに。

 家庭は絶対に壊さない。でも愛しているのは君だけ、とか。そんな言葉、若い女性が信じるならともかく、笙子ほど人生経験重ねてきた人間が、それ単純に信じて喜ぶの?という。

 九鬼の失礼なところはいろいろあるんですけど。まず、笙子の家にずうずうしく泊まりにいっちゃうところとかね。ちょっと食事して仲良くなったからって、女性ひとりの家に泊まりにいくかなあ、それなりの地位もある男性が。

 まあ誘っちゃう笙子がそもそもおかしいのですが(;;;´Д`)ゝ

 きっとさびしかったんでしょうね。でもこの誘いによって、見くびられたのは確かだと思います。もし見くびってなければ、九鬼は遠慮したでしょうから。

 独身女性の家に泊まりにいくなんて。たとえ何もなかったとしても、もし悪い評判でもたてば、申し訳ない話ではないですか。相手を尊重する人なら、もう少しつきあいが深くなってからならともかく、まだ知り合ったばかりで、そういう行動には出ないはず。

 まして九鬼は、妻帯者なのです。軽率な行動は、多くの人を傷付けてしまう。自分だけの気持ちでたやすく動けるような、無分別が許される立場ではないかと。

 そして、たびたびかかってくる謎の着信とかね。笙子もうすうす気付いているようないないような、微妙な描写でしたが、あれは明らかに、女性からの電話。もしかしたら、妻からなのかも? もし笙子を本当に大事に思うなら、携帯は切っておくでしょう。会える時間は限られているのに。

 笙子を不安にさせることをわかっていながら、最初から電源を切っておかないのは、それが九鬼の、笙子に対する本当の気持ちなのだと思います。言葉より雄弁に、物語ってる。

 あと、笙子が大家族への強い憧れと、疎遠になった子供、血縁者が少ない寂しさを早い段階で率直に話しているのに対し、九鬼はわりと、自分の家の話を無神経に自慢しているのが思いやりのなさ=愛のなさ、だと思いました。

 大切な相手だったら、その人が嫌がる話は避けますからね。

 どうやったら喜んでくれるだろう。どんなことをしたら嫌われるだろうって。恋におちたら、まずそれを考えると思うのです。九鬼は、あくまで自分中心。九鬼にとって、笙子はしょせん、それだけの存在だった。

 ということで、本を読み進めるにつれ、九鬼のずるさと、必死にすがりつく笙子の哀れさが際立ってきて、読むのがつらくなりました。

 最後、笙子から別れを決めたのは、綺麗事でしょう。これ、実際には、九鬼が笙子に飽きてしまったんだと思います。ますます投げやりに、態度もぞんざいになっていく九鬼に、笙子がため息をついて、形としては笙子から別れを告げたと、現実はそういうことだったんだろうなあと。

 お話としては美しいエンディングですが、そこにいたるまでには、よくある痴話喧嘩が、どれだけ、うんざりするほど繰り返されただろうかと、そんなことを想像してしまいました。すがる女性、逃げる男性。

 最後には笙子も、これはもう駄目だと覚悟を決めて。

 現実には、小説のような美しい別れなど、なかったでしょう。九鬼のそれまでの言動を見たら、想像がつきます。

 年をとっても、こんなにも美しい恋ができる、というお話ではなく。

 年をとったら、寂しいからといって変な相手にすがりつくのはあまりにも惨めだと。そんなお話だと思いました。

 なぜこの小説を岸さんが書いたのか。復讐なのかなと思いました。それと、自分の体験を脚色し美化して書くことで、本当に愛されていた、純愛だったと信じたかったのかもしれません。

 でも本当は、そっと自分の胸だけにしまっておいた方が、誰も傷付かなくてよかったのにと思ったりもします。相手にはご家族もいるわけで。

 出会いの飛行機の描写だけが、きらきらと光って素敵な小説でした。後半はもう、むしろ読みたくなかったです。二人の出会いの輝きが、汚されるような気がしました。