私の宝物に手を出す奴がくれた、勇気の話

このところ、寝る前によく、目を閉じて頭の中で口ずさむフレーズ。『オペラ座の怪人』です。

>Insolent boy!  This slave of fashon,  basking in your glory!

>Ignorant fool!  This brave young suitor,  sharing in my triumph!

歌というか、ミュージカルの一節なんですが。
このフレーズ、かなり好きなのです。

劇団四季だと、こんな風に日本語に訳されてます。

>私の宝物に手を出す奴
>無礼な若造め 愚か者め

この翻訳のセンスには感嘆します。歌詞をちゃんとメロディに乗せて、かつ簡潔に原詩を変換、そして不自然にみえない、というのは。
元の英文のように、全てもれなく韻を踏んで、というのは無理でしたが。でもちゃんと、「若造め」「愚か者め」って少なくとも一か所は、対比させてるところが聞いていて心地いいです。

「私の宝物に手を出す奴」って、ファントムが激怒しちゃってるところがなんとも微笑ましい。いや、こんなこと言っちゃったら、さらにファントムには激怒されそうですが。でも、なんだか可愛いとすら思ってしまう。嫉妬まるだしすぎて。

私の宝物、だなんて表現は。中学生の初恋っぽくていいですね。
たぶん、本当に慎重に慎重に歩み寄って。払いのけられる怖さにおののきながら、それでも情熱に突き動かされて、クリスティーヌを追い求め。

師という立場で、重々しく、彼女を歌姫へと導いたのに。
あっさり、恋敵ラウルの登場で、大人の仮面が剥がれおちるから。

もうね、言ってることが中学生、というか、小学生の喧嘩みたいなんですもん。

以下、私が想像したファントムの心の声(* ̄ー ̄*)

☆おい、お前。冗談じゃねえっつーの。
☆俺がどれだけあの娘を大事に見守ってきたか、お前わかってんのかよ。
☆今日の舞台の成功も、俺が裏で動いた結果なんだぜ。
☆それを、いきなり来たお前が、大胆にもデートに連れ出すなんて、どんだけずうずうしいかっていう話よ。あん?
☆ぽっと出が、いきがってんじゃねーよ。
☆どこの貴族のおぼっちゃんか知らねえけどよ、身の程を知れっつーの。
☆今日の成功は、俺とあの娘のもんであって、お前なんかが首つっこむ権利、まったくないんだからな。

ああ、ファントム。素直すぎて、なんとも言えません。

なんだかね、きっとラウルのしたことは全部。鏡のように。ファントムのやりたかったことなんだろうなあって思います。

もっと早く。なんのためらいもなく、クリスティーヌに惹かれたなら素直に彼女の手をとり、誘いたかったんだろうなあ。
しかめつらした、教師の顔なんていう途中経過を、すっ飛ばして。

私は、insolent という単語を、この歌で覚えました。だから、なにか英文を読んでいて insolent と出てくると、いつもこの、insolent boy を思い出します。ファントムの、悔しさがにじみ出た歌。

boy ってところがまた、いいのです。ファントムは、若さにも嫉妬してると思います。若さは、可能性ですから。(そう。五代君もめぞん一刻で言ってました。)

本来、クリスティーヌの相手は、boy でちょうどいいんです。だって、クリスティーヌは girl だから。どうみても、woman って感じではないなあ。

girl が 見目麗しい幼馴染の boy に再会した。二人はたちまち時を超え、惹かれあった。

ファントムが歯ぎしりするのも無理ありません。それだけ二人はお似合いだったし、傍目にも、心は通じ合っていたのでしょう。

ただ、ファントムにしてみたら、最悪のタイミングです。ようやく一歩、クリスティーヌに近付けた夜だったから。彼女のために設定した舞台。初めての成功。二人だけの秘密。
それが、そのまま他の男への再会へのきっかけになってしまったのですから。

それにね。最大の弱点。ファントムはクリスティーヌの前に、姿を表すことをためらっていた。たとえ顔を仮面で隠していても。自分の醜さが彼女をおびえさせ、二人の関係はたちまち破綻するのではないかと怯えていた。それなのに、いきなり現れた若い男は、クリスティーヌを夢中にさせる容姿を備え、しかも自信に満ちている。彼女に拒絶される不安など、みじんもみせない。その自信も、さぞかし、ファントムのコンプレックスを刺激したことでしょう。堂々たる求愛。ファントムには、できなかったことだったから。

その刺激が、ファントムを動かすエネルギーになったのには、感慨を覚えます。運命の糸は繋がっていて。ひとつの模様が、また次の模様を織りなす。決して、断片ではない。

もしもこの日、ラウルが現われなかったら。
きっとファントムは鏡の向こうに、クリスティーヌを誘わなかっただろうなあ、なんて思うのです。

舞台が成功して、クリスティーヌに感謝され。ますます尊敬の念を向けられて。そしたらファントムはきっと照れながら。もしかして彼女の手をとりたい、もう少し距離を縮めたい、なんて思いながらも。

いやいや、待て待て。もう少し。ゆっくり時間をかけて、近付いた方がいい。あせればこれまでの良好な関係を、壊してしまうことになるかもしれない。多くを望めば、失うかもしれない、と。

逆に慎重になっただろうなあと想像します。

でも、吹っ飛んじゃったんですね、たぶん。ラウルが現れたものだから、怒りが臆病を凌駕しちゃったわけです。あんな奴にあっさりかっさらわれるくらいなら、自分が連れていく、と。少なくとも勝利の夜、彼女と祝杯をあげる権利があるのは、ラウルではなく自分の方なのだと。

鏡の向こうの世界。地下のファントム帝国へ、初めてクリスティーヌを連れていく決心ができたのは、皮肉にもラウルの登場があったからこそ、だと思いました。

自分にはない fashion の世界の住人であるラウル。恐れることなく、あっさりsuitor になり得たラウル。そんな彼をみつめるファントムの胸中は、いかばかりでありましょう。

クリスティーヌを思うあまり、あと一歩が踏み出せなかったファントムの、背中を押したのはラウルだったのだと、そう思います。

>basking in your glory

この your glory は、クリスティーヌの舞台での成功を表していると考えたのですが、違うのかなあ。your は、クリスティーヌを指すと思ったのですが。
でも、ネットで、ラウル自身の栄華を示すような訳をみたので、はっとしました。

たしかに、これってラウルに向かって言っている言葉なら、そうなりますね。「お前」=「ラウル」になる。

でも、私はなんとなく、ファントムがラウルだけでなく、ラウルとその横にいるクリスティーヌ、2人に向かって呟いているようにも、思えたんです。

若造め、こしゃくな、と怒っているのは確かに、ラウルに向かって、ですけれども。
そのすぐ後で、クリスティーヌに向かい、「可愛いクリスティーヌよ、奴(ラウル)は、お前さんの栄光に酔いしれておるよ」と、寂しく、困ったように、けれど彼女自身には聞こえないくらいの小さな声で、甘えるように訴えているイメージです。

ラウルには憤怒の形相で。
クリスティーヌには雨に濡れた子犬の目線で。

あくまで、イメージですが。
やれやれ、困った若造だ、と肩をすくめてみせるファントム。心中の怒りを抑えて、少しはクールに振る舞って、クリスティーヌの方をちらりと見たりして。同意を求める視線で。

あからさまな憤怒、激情と。
その一方で、クリスティーヌに向ける顔は、平静を装っていそうです。大人として、顕な感情の発露は見苦しいと、若者にはない余裕をみせたいのでしょう。

言葉だけをとらえたら、怒り心頭って感じですが。
でも、激怒しているファントムが、ふっとクリスティーヌを見るとき、とっても優しく笑いそうなんです。彼女を怖がらせないように。

音楽と詩だけで、想像は果てしなく広がります。『オペラ座の怪人』の中でも特に、上記のフレーズは気に入っています。今日もやはり、寝る前にはこの一節を、頭の中で繰り返すことでしょう。

愛の形と攻撃性についての一考察

 愛した人が、自分でない他の誰かに夢中。

 こういう状況下で、もし怒りがわき出でたなら、その矛先はどこに向かうのが普通なんでしょう?

 男の場合は、彼女自身を恨む、と聞いたことがあります。
 女の場合は、相手の女性を悪者にするとか。

 前回のブログでは、ちらっとALW『オペラ座の怪人』について触れましたけども。
 私はファントムの、純粋すぎるほどのクリスティーヌへの憧憬を可愛いと思ってしまいますね。

>Why should I make her pay for the sins which are yours?

 直訳したなら、(お前の罪を、なぜ彼女に償わさせねばならぬ?)でしょうか。

 

 ファントムがラウルに向かって叫ぶこの台詞、好きなんです。

 子供っぽいというか、ファントムがむきになっている様子がリアルに伝わってきます。

 クリスティーヌとラウルのラブラブっぷりはファントムもよくわかっているのでしょうに、心の底ではそれを理解しているのに、自分自身をも偽って絶対にそれを認めないという意地。

 ファントムの中では、あくまで悪者はラウル。
 クリスティーヌはラウルに騙された無垢なお姫様なんですよね。

 クリスティーヌが自分の意志でラウルを選んでいる、という事実を、認めたくないのです。認めたらそこで、終わりだから。
 クリスティーヌに愛されることで築けた幻の城。
 お姫様がいなければ、廃墟にしかならない。

 これは、私の中のイメージのファントムですが。
 もしもクリスティーヌのキスがなくても、ファントムはクリスティーヌに傷ひとつ、つけることはできなかったんじゃないかなあ。
 甘い幻想かもしれませんが。

 なんというか、口ではどんなに脅すようなことを言っても、ファントムはクリスティーヌに勝てないというか、クリスティーヌが傷付くことに耐えられない、人のような気がするのです。
  だからもし、クリスティーヌがラウルを選び、死の覚悟をしたとしても。

 その首にロープをかけたところで、ファントムはそれ以上はできなかったのではないのかと。
 震える手。激しく葛藤する心。

 もっと自分勝手な人だったら、クリスティーヌに拒絶された時点で怒髪天を衝き、自分の人生もこれで終わりだと無理心中を図ったかもしれませんが。

 なんだろうなあ。私のイメージするファントムは、そういうことできなさそう。
 口汚くクリスティーヌの選択を罵り、ラウルに憎しみをぶつけ、それでも最後には彼女を許してしまうのではないかと。

 クリスティーヌがファントムに複雑な思いのこもったキスをしたのは、ファントムにとって暗闇に射す一条の光であったと思いますが。だからこそ観客も悲劇的な結末の中にわずかな救いを見出し、慰められるのですけれども。でもでも、それは物語の中の彩りにすぎず、それがあったからこそクリスティーヌとラウルの無傷の解放は実現したのだ、とまでは思えないんですよね。キスなしでも、結果は同じだったのではないかと。

 最初から勝負は決まっていたのかもしれない。(ファントムが完敗という意味で)
 だって、ファントムはクリスティーヌが大好きだったから。
 クリスティーヌが他の人を選んだところで、心の奥底ではそれを許容してしまったのではないかと。

 己の醜さを知らないわけではないから。むしろ人一倍敏感に、好きな人の心を察する繊細さを持っているだろうから。

 というか。むしろわかってたんだろうなあ。クリスティーヌがキラキラした白馬の王子様に惹かれている気持ちも。痛いほどに。

 彼女がもし

☆私はラウルと共に生きます。
☆あなたに何をされてもその決意は変わらない

 なんて、きっぱり言い切っていたら。
 ファントムの絶望は、キスという救いもなしに、ただただもう、大きな影となって彼を覆い尽くしていただろうけど。

 それでも彼はきっと、クリスティーヌが好きで、だからこそ傷つけられなかったはず、と思います。
 そして、身を裂かれるような思いで、結局のところ、やはり二人をそのまま地上に送り返したのではないかと。

 まあ、このへんは私の勝手な解釈ですが。そういうファントムだからこそ感情移入してしまうし、憎めないんですよね・・・。
 これ、ファントムが激怒してクリスティーヌをラウルもろとも惨殺するようなキャラだったら、『オペラ座の怪人』はこんなにも人気の舞台にはなっていなかったんじゃないかと。

 全てを許し、包み込む愛。無条件の愛、ですよね。

 見返りを求めない。愛されなくても構わない。ただただ、あなたが好きです。あなたの幸せを祈りますっていう。

 嫉妬の炎で愛する人をメラメラ焼き尽くす『ガラスの仮面』の紫織さんには、ぜひ見ていただきたい演目です(笑)

 あ、紫織さんには『ガラスの仮面』内なら聖さんの生きざまを学んでもらうってことでもいいかもしれない。

 彼ほど禁欲的に献身愛を捧げてる人はいないんじゃないかと。

 聖さんは速水さんのこと好きだと思うんですが、もうこれは一方的に与えるのみ、の愛ですね。なにか受け取っても、即座に倍返ししちゃうんじゃないかっていうくらいの深い愛。謙虚にもほどがあるだろうっていうくらいに、相手を縛らない愛情。

 一応お仕事で仕えてるってことになってますけど、その形態は聖さんにとってとても都合のいい、居心地のいいものだろうなあと思います。「仕事ですから」の一言で、自分の愛情が顕になることを避けられる。涼しい顔で堂々と、惜しみない愛を注ぐことができる。

 聖さんはマヤにも好意を抱いているようですが、それは「速水さんが愛した少女だから」というのが根底にあるのではないでしょうか。

 あなたが好きな人だから。
 私もその人が好きなのです、っていう。

 嫉妬という感情を飛び越えて。
 速水さんの愛するものを皆、聖さんは愛してしまうんじゃないかと、思ってしまう。

 速水さんが聖さんの愛情に気付く日は来ないだろうけど、聖さんはそれでもちっとも構わないんだろうなあ。

 以上、愛の形についてあれこれと考え、書いてみました。

『オペラ座の怪人』ラストシーンの解釈

アンドリュー・ロイド・ウェバー『オペラ座の怪人』のラストシーン。原詩と訳詞の違いについて、今日初めて気付いたことがあるので、語りたいと思います。ネタバレも含んでおりますので、舞台や映画など未見の方はご注意ください。

『オペラ座の怪人』は、ファントムのこんな言葉で、幕が下ります。

>You alone can make my song take flight
>it’s over now, the music of the night

(直訳:君だけが、私の歌をはばたかせることができる。今終わった、音楽の夜)

※この直訳は私が勝手に書いたものです。参考まで。

私は以前のブログでも書いたように、この原詩より、下記の劇団四季訳詞の方が好きです。

>我が愛は終わりぬ
>夜の調べとともに

この日本語訳だと、You alone can make my song take flight(直訳: 君だけが私の歌をはばたかせることができる)の部分は全く訳されていないのですが、私はそれを全然気にしていませんでした。この部分に、全く必要性を感じていなかったのです。
だからこれまで、日本語訳でそれが抜けても全然オッケーという気分だったのですが、今週、オペラ座ファンのSさんからメールをいただき、あらためて考えました。

Sさんは、この一文は「決して省略してはいけない重要な言葉」だとおっしゃいました。

それで、もう一度この英語を何度も反芻するうちに、はっと閃いたことがありまして。

これ、たぶんラストシーンのファントムの心情をどう捉えるかによって、言葉が変わってくるんじゃないのかなあと。

あの最後の場面で。

わずかに残った希望の糸。
ファントムはそれでも、クリスティーヌに敢えて告白しますよね。

Christine, I love you と。

指輪を返して去っていくクリスティーヌ。
私がもしファントムの立場であったなら・・・・。

私の中で、クリスティーヌは消えます、ハイ。その瞬間。

たぶん、自分の中の世界が壊れる、と思うんですよ。彼女とのいろいろも、すべて色を失うというか、過去になるというか。
あ、もちろんクリスティーヌを責めてるとか失望するとかじゃなくてね。あー、全部終わった。というかそも自分がクリスティーヌに抱いた感情そのものが、間違いだったんじゃないかなあっていう。

なんて愚かなことをしてしまったんだろう。
身の程も知らずに。
最初から最後まで全部、間違いだった。
クリスティーヌに愛されようなどと。共に暮らそうなどと、夢見たことは間違っていた。

壁から剥がれ落ちたタイル。
1枚、2枚程度なら、拾い上げて修復するでしょう。

でもそれが、ボロボロと際限なく落ちてきて、もはや残ってるタイルなんて無きに等しい状況になれば。

もう修復とかいうレベルじゃなくなって。
その壁はもう、諦めるしかなくて。
そしたらむしろ、それを壊したくなりませんか?

大切なお気に入りの壁。ボロボロと崩れるタイルを、必死で拾い上げ、なんとか元に戻そうと努力を続けたその後で、「もう絶対に無理」なほどに、その壁が崩壊したなら。

むしろ、そこに僅かに残ったタイルを自分の手で剥がす、という暴挙に出てしまいそうなんです。自虐といってもいいような、乱暴な感情。

タイルが落ちるたび、痛くて痛くてたまらなかったのに。もう一線を越えたら、開き直ってむしろ、自分の手で壊したくなるという皮肉。

中途半端なくらいなら、むしろこの手で全部なくして、そのなんにもなくなった空間で深呼吸したい、みたいな思い。

私はオペラ座のラストを、そんなふうに捉えてました。

安全地帯の初期の曲に、『デリカシー』というのがあります。その一節が、この場面にはふさわしいかもです。

>こわれすぎて いい気持ちにも
>なれそうだから

この曲、初めて聴いたときから妙に印象に残っていて。

絶望の向こうにある、妙な明るさ、みたいなもの。
ある一点を越えたら、もうどうでもよくなって。
それは、事態が好転したとかそういうことでは全くないんですけど、自分の中で、今まで悩んでたことがもうどうでもよくなって、むしろ今までの痛みがある種の快感に代わる瞬間というか。

この『デリカシー』という曲の歌詞、全体を見るとまた、印象が違うんですけどね。私はこの、上記の一節だけが妙に頭に残ってまして。

苦悩の果ての、転換点というのでしょうか。
つきつめてつきつめて、ガラっと変わる瞬間を表すのに、言い得て妙な一節だなあと思ってました。壊れ過ぎて、逆にいい気持ちになるって、皮肉すぎる(^^;

2004年にアメリカで製作された映画版の『オペラ座の怪人』。この映画版のラストが、まさにこれだと思うんですよね。鏡を、どんどん自分で割っていくじゃないですか。
あれ、ファントムの世界が崩壊する、心が粉々になるのをそのまま絵で表していて、すごいなあと思いました。私が想像するファントムの内面って、まさにあんな感じだったから。

想像するに、あのときファントムの中で、クリスティーヌの存在はかなり、薄くて。
もう全部、過去のものなんです。
あそこにあるのは、残っているのはただ、ファントムの内面世界。その世界を自ら、バリバリと凶暴に破壊していく。跳ねたガラスの破片が、恐らくいろんなところに飛び散って、血も流れるんでしょうけど。その痛さなんてもう感じないくらいに、根本的なところからもう、崩れて、なくなっていく、絶望感が、至福に変わる。

それでちょっと、もう狂っちゃってるんですよね。痛みを幸福と認識してしまうくらいに。あのとき流れる壮大な音楽は、もう天空のメロディで。むしろ幸せ~、これ以上ないくらいの幸福感。

アハハ~アハハ~と、頭の上に蝶々が舞ってる。
何もかもどうでもよくなってる。
ただ壊すのが、楽しくて楽しくて。全部なくなってしまえばどんなに素敵だろうと、破壊衝動に突き動かされて。

クリスティーヌという、平凡な少女(決して歌は天才的ではなかったと思う)に抱いた、ごくごく当たり前の、普通の恋愛感情が。あのラストでは、個人的な生生しさからむしろ、神々しいような、圧倒的な広い深い、歓喜の波に変わるような気がして。

正しいのか正しくないのか、とか、これは現実なのだろうかとか、夢なのだろうかとか。
もはやそういう次元をすっ飛ばして、その先にある境地。

許容範囲を越えたことによる、人間の本能的な防御反応なのかもしれません。このままでは耐えられない、と判断したからこそ、その楽園のような境地に達するという・・・・。

鏡をガンガン、気持ちがいいほど叩き割っていくファントムの姿。
やっと楽になれたのかもしれないって。

と。こういう解釈の仕方をすると、あの

>You alone can make my song
take flight

という部分は、あんまり重要じゃなくなってくるんですよね。
もう、ファントムにとってクリスティーヌのことは過去になってしまっているから。うーん過去というのも、微妙に違う・・・忘れたわけじゃないけど、もはやそこにポイントが置かれていない、気がするのです。

クリスティーヌというのが、唯一無二の存在ではなくなっていて。クリスティーヌは、ひとつの象徴だったというか。ファントムにとって、救いを求めた、救いを得られると思った、淡い期待を抱いた、そんな相手として。
そこにはクリスティーヌの個性はもうなくて、偶像みたいなものがぼんやりと残っているような。

駄目だったなあ。結局なにも残らなかった。夢をみただけ。ハハハ、全部壊してしまえ~。ああ、この世界はなんて、脆いんだろう。みたいな。

この時。ファントム目線で見ると、そこにあるのはファントムの内面世界だけで。クリスティーヌはもはや、「こんな自分でも愛してくれると思った偶像の幻影」でしかなくなっているような。
もう、クリスティーヌとファントムを結ぶ絆、切れちゃってると思うんです。これはファントムが切ったんではなくて、あの指輪を返された瞬間に、自然消滅しているような。

私はそんな解釈をしたので、上記の英語が劇団四季訳で省略されていても、全然気にならなかったのです。

でも、そもそもラストの大事なシーンにこの

>You alone can make my song take flight

という言葉が入っていたということは。これは元々、この時点での、ファントムからクリスティーヌへの変わらぬ熱情を表しているのではないかと、今になって初めて気付いたのです。

そうか~と。それでやっと理解できたのです。過去形の could ではなく、現在形 can を使っている理由。

今も変わらず、強い思いを抱いているからなのですね。ファントムはクリスティーヌに対して。
そりゃもう、クリスティーヌには決定的にお断りされているわけですから、これ以上なにを望むとかはないんですけども。
ただ一方的に。見返りを求めず。
胸から勝手にあふれだす思いを、ファントムはクリスティーヌに捧げてるんだなあ。

わかってるけど。自分を選んではくれないことは重々承知の上で。それでも思いだけは、クリスティーヌの元に飛んで行ってしまっているわけです。決定的な破局を、思い知った後でさえも。だから現在形で訴えているんだ。今も変わらず、(おそらくこの先もずっと)、君だけが私の音楽の天使。君でなければ、私の音楽は翼をもたないと。

あのラストの時点で。

1.ファントムはもう、崩壊している。もうこの世界の何物をも、彼にとっては意味を持たない。

2.ファントムの気持ちは、クリスティーヌの選択に関わらず常に彼女の元にあり、そしてこれからもあり続ける。彼が彼である限り、ファントムはクリスティーヌを愛し続ける。

この2つの考え方があって、それによって

>You alone can make my song take flight

という言葉の重要性が変わってくるんですね・・・きっと。
私は1の解釈だったんで、2のような考え方は新鮮でした。

これ、英語詩は2の解釈で書かれてると思います。1の解釈だったら、きっと could になってたはず。
それでもって、劇団四季の訳者の方は、1の解釈をされたのではないでしょうか。

だからこそ、敢えて

>You alone can make my song take flight

上記の訳を抜かして、日本語訳を作り上げたのではないかと、そんなふうに想像してしまいました。

日本語と英語の字数の違いとか、そういうものもあるかもしれませんが、ここ、最大の見せ場ですもんね。2の解釈であれば、原詩の一文をまるまる抜かす、ということはなかったと思います。なんとかして、その一部の訳だけでも、日本語に変換していたはずです。

私は最初から1のように考えてファントムに感情移入してたんですが、一般的にはどちらの捉え方が主流なんだろう?
1派か2派か。
国によっても、それは違ってくるんでしょうか。

『オペラ座の怪人』、深いですね。想像がいろいろふくらんでいきます。

オペラ座の怪人 三者の三重奏

今日はミュージカル『オペラ座の怪人』の、音楽の部分について書きたいと思います。ネタバレも含んでおりますので、舞台を未見の方はご注意ください。

私はあの、the point of no return が始まって、怪人が最初に”Past the point of no return

“と口にするときに流れる、ズンズン、というひそやかな弦楽器の低音が好きなのです。

あの、ドンファンの勝利。劇中劇の場面です。ズンズン、という擬声語も変かもしれませんが、他にうまい表現を思いつかず・・・。

それは、ひたひたと押し寄せる夜の波のイメージです。

波は弱く、水は透き通り、手ですくってみれば、ただの海水でしかないのだけれど。

重なっていく波は、破滅を予感させるような、暗い力を持っていて。潮はどんどん満ちていくけれど、それは押し寄せるばかりで、一向にひく気配がない。

月の出ない砂浜を想像します。

果てのない、真っ暗な闇。

さあ始まりますよ~っていう、あの不穏な感じがいいのです。

またもう一つ、別のイメージを挙げるなら。中世貴婦人のドレスの裾。

重たく厚い生地が微かに床を擦り、陰謀うずまく宮廷へ突き進んでいく、ような。

空気に人々の感情が溶けている、それも暗黒面の、です。

裾を引く貴婦人の、能面のような表情。

薄暗い城の中。

陰鬱なドレスの色。冷たい石の床。

さあ悲劇が始まる。

悲劇とわかっていての、ファントムのあがき。

勝利はなくても、いざ踏みださずにはいられない、悲しい怪物の、最後の舞台。

いろんなイメージが、音楽の始まりと共に、どっとあふれ出すのです。

あと好きなのは、ラウルがジャイアンみたいに、単純な音の波を力任せに歌い上げるところ。

不器用で、あきらかに音楽面ではファントムに遅れをとっていて、でも精一杯の思いをこめて、力技で歌い上げるところ。

劇団四季訳だと、この部分。

>命はここで消えても 君への愛に生きる

詞はともかく、このメロディラインがいい。武骨で素朴で、衒いがなくて。

この辺の、ラウルとクリスティーヌ、ファントムの三重奏は、いつ聴いても胸がつまる。それぞれの思いがあふれて、濁流となり渦を巻く場面だから。

そしてそんな場面でファントムの旋律は上下に激しく揺れ、ラウルとの格の違いを見せつけるから。

複雑で難しい音の流れを、ファントムはこれでもかとばかりに容易く、軽々と歌い上げるのだ。そして、クリスティーヌに問いかける。

わかるだろう、君ならば。

ラウルには理解できない。あの朴念仁には到底想像もつかない、音楽の極致。選ばれたものしか許されないこの世界に、君は今、背を向けようとしているのだ。

さあ、聴くがいい。私の音楽。私の世界。

ラウル、あの若造には永遠にわからないだろう。

君の感じたこの陶酔。天上の世界。

ラウルには決して、手をかけることのできない私たちだけの音楽。

クリスティーヌ。考え直すのだ。

君は音楽を知っている。私の音楽を、世界を。ほらこんなにも、妖しく美しい。君に捧げた音のすべてを。

必死、とも、露骨、とも思えるほど、ファントムは全力でクリスティーヌを揺さぶりにかかるんですよね。

ここは詞よりも、音楽の力を強く感じます。

見事に、三人の感情がそのまま、音で表されているようで。

劇団四季の訳で、この部分の音楽もいいです。

>クリスティーヌ、許してくれ

>君を思ってやったのだ

このときの、「君を思って」で、急上昇する音がたまりません。

見えないけど、ファントムの魔法の縄が、ラウルの首を締めあげてるのがわかるから。

ラウルは死を意識しながら、それでもクリスティーヌを守ろうと必死。

そして、感極まっているのが伝わってくるのです。

最後のときが近づいた、と。

死を覚悟した瞬間に、爆発するクリスティーヌへの思い。

それがそのまま、この跳ね上がるメロディラインに表されているような。

一気に放出された感情は、凝縮された分、純化されていると感じます。

隠すこともためらうことも、照れることもない。

ラウルは正々堂々と、ファントムに宣戦布告しているのだと感じます。

オペラ座の怪人、大好きです。

オペラ座の怪人~原詩と日本語訳詩、それぞれの良さ

ミュージカル『オペラ座の怪人』について、原詩と劇団四季の日本語訳のそれぞれ好きなセリフについて語ります。劇中のネタバレも含んでおりますので、舞台を未見の方はご注意ください。

私が大好きなこのミュージカル。音楽の素晴らしさも勿論ですが、その妙なる調べに乗せられて観客の耳に届けられる言葉もまた、宝石のように美しく、胸に深く響くのです。

ちなみに私が一番好きな言葉はこれ。

>Why make her lie to you, to save me

この言葉が歌われるのは、舞台後半のクライマックス。ラウルとクリスティーヌ、ファントムが声を張り上げ、それぞれの思いを激しくぶつけあう場面でのこと。これはラウルの台詞。

直訳すれば、こんな感じになるでしょう。

>なぜ彼女に嘘をつかせるのか、私(ラウル)を助けるために

この言葉は、本当に痛い、と思う。

痛い、というのは、ファントムにとって痛い、という意味です。

私は激しく入り乱れる三人の主張、その嵐の中で、ファントムの胸にグサリと柄まで突き刺さるナイフの音を、聞いたような気がしました。

ファントムは十分わかってる。

どれだけバカげたことをクリスティーヌに要求しているか。

俺を拒めばお前の恋人殺すぞ! と脅しているのだから。

ああ、そんな言葉、なんの慰めになるというんだろう。

嘘でもいいから、クリスティーヌの唇からファントムへの愛の告白を聞きたいと?

そんなもの、心のこもらない音の羅列にすぎないのに。

耳に届いた瞬間、虚しく消え去るその言葉と引き換えに、今まで築いたクリスティーヌとの信頼関係がすべて崩れてもいいと?

墓穴を掘る、とはまさにこのこと。

ファントムは自分で、自分が埋まる穴を掘ってしまった。

クリスティーヌが偽りの愛の言葉を口にすればそれは、ラウルを助けたいという真実の心を表すわけで、つまり完全なる失恋。

ラウルのためなら、嘘だってつきますよーという宣言なわけで。

心にもない愛の言葉ほど、虚しいものはありません。

むしろない方がまし。

自分の身に置き換えて考えてみれば、その痛みがわかる。

完全な片思い。その相手の想い人を人質にとり、愛を要求してそれが何になるというのか。

その人が引きつった表情で、偽りを口にすれば。どんなにか、どんなにか惨めな気分になるだろう。

愛のために犠牲になる、美しい恋人同士の姿を、みせつけられるだけじゃないか。

それくらいなら、なにも聞かされないほうがいい。

黙って去って行かれたほうがいい。

でもこのときのファントムの激情は制御不能。獣のように猛る憤怒の炎、我が身を焼いてもとめられないのですね。バカげたこととわかってはいても、偽りの愛でも求めてしまう。

そんな状態のクリスティーヌと暮らすこれからの未来には、絶望しか待っていないでしょうに。

to save me この、me の言葉が一番最後に来るのがまた、深いんですよね。

me はラウルですから。

ファントムが一番憎いライバル、そのライバルを、救うために・・・という。

その他、私が好きな原詩はこの部分です。

>Pitiful creature of darkness . . .

>What kind of life have you known . . .?

直訳すればこんな感じでしょうか。

>暗闇に生きる哀れな怪物

>どんな人生を知っているというの?

私がいいなと思うのは、known を使っているところです。spent ではなくて。

もしここでspent を使ったとしたら、

What kind of life have you spent となり、平凡な台詞になってしまう。

(どんな人生を送ってきたの?)と。

でも、ファントムの人生は。どんなものであったかということに焦点をあてるより、そもそも「普通の人間の人生」というものを想像できないんだと、そこを指摘する方がより、悲劇なわけです。

アブノーマルな人生を送ってきた、だけならまだ平凡な不幸かもしれない。

しかしファントムがファントムであることの本当の悲劇は、「普通の人の人生を頭で想像することすらできない」ことにあるのではないかと、そう考えます。

いわゆる平凡な幸せ、ささやかな幸福を、空想すらできないほどの闇。その中で苦悩し続けたのがファントムなわけです。

だからこそ、ファントムの悲哀が浮き彫りにされる。

そんな中でみつけた、たった一つの希望なのに。

初めて救われると思ったのに、と。

あなたは「人生」を知らない、と、静かに語りかけるクリスティーヌの胸中。

だからこそ、「教えてあげる。私があなたと共に生きるから」というキスに、つながっていくのかなあと思います。

>God give me courage to show you

>you are not alone

直訳だとこんな感じですかね。

>神様は私に勇気をくれた

>みせてあげる あなたは独りじゃない

ここ、劇団四季の訳詞が絶妙なんです。劇団四季だと、こんな風に歌ってます。

>今見せてあげる 私の心

これ、「女の心」と歌ったときもあるそうですが、「女の心」だったら雰囲気ぶち壊しですね。

生生しくて嫌すぎます。

ファントムに媚を売るクリスティーヌが浮かんでくるようで。

ファントムの愛を逆手にとって、優位にたって上から目線の同情を返しているようで。オペラ座の怪人の世界観がひっくり返るような気がします。

それに対して、「私の心」であれば。

これは、原詩よりももっといい言葉だなあと思います。

原詩のように、あなたは独りじゃない、と言うよりも。

私の心を見せます、というのが、あの場のクリスティーヌにはふさわしいのではないかと思うのです。

独り、という狭い言葉の領域ではなくて。

心。そこにはすべての要素が入れられるから。

どんなこともすべて。その心にたっぷりつめこんで、そうしてその心をファントムに見せたなら。

ファントムはきっと、すべてを理解できたはず。

そんな「心」を体現したキス。

だからこそ、ファントムは愛を返す。クリスティーヌに。

クリスティーヌがファントムを慈しむように。ファントムもクリスティーヌを、柔らかな愛で包みこむ。

観客が心をうたれるのは、生まれて初めて愛を知ったファントムの感動に、共鳴するからではないでしょうか。キスされたからといって、ファントムに言葉があるわけではありません。流れるのは音楽だけ。

台詞はないけれど、その音楽に乗って、ファントムの震える感動が伝わってくるから。

私が、原詩よりも劇団四季の訳の方が優れていると思うのは、物語最後の台詞もそうです。

>You alone can make my song take flight

>it’s over now, the music of the night

直訳するとこんな感じでしょうか。

>きみだけが、私の歌を羽ばたかせることができた

>今終わりを告げる、音楽の夜

劇団四季だとこうなります。

>我が愛は終わりぬ

>夜の調べとともに

傑作です。これ以上にぴったりの言葉、ないと思う。

すべての訳詞の中で、一番素晴らしい言葉だといっても、過言ではないと思う。

この中の一語が欠けても、あるいは一語余分なものがついても、この壮大なラストにはつながらないと思います。

音楽がいいんですよね。

幾重にも幾重にも、大きな波が舞台をさらっていく感じで。

終章にふさわしい広がりを感じます。重厚で気高く、そして決して、悲劇一辺倒ではない終わり方。波の中に青空が見えるような。

変なんだけど、波だからそこには青空なんてないんだけどイメージとして。

ファントムの陰鬱な人生、鬱屈した思いのすべてが、昇華されたことを予感させるようなラストなんですよね。

夜の調べ、というところに、ファントムの芸術魂を感じたり。

きっと、美しいものにあこがれ続けた人生だったわけで。

だから一生懸命、美しい音楽を描き続けた。そして愛しい人に捧げ続けた。

それは決して、真昼のまばゆい音楽じゃなくて。

ファントムは夜しか知らないから、その夜の優しさを、暗闇の美しさを懸命に表現したんですよね。その夜の音楽が、圧倒的な暗闇の中で終わっていく。でもそれは敗北じゃない、新しい道である、と。

最後に音が、弱く、弱く消えていくところもツボです。

まるで幻みたいに。

ファントムの存在自体、果たして現実のものだったのか?みたいな。

懐かしい過去の記憶のように、ぼんやりと薄れて、手のひらをするりと滑り落ちるような危うい感覚。

最後の音が消えると、思わず深呼吸したくなりますね。

すべては夢であったのか? と。