映画「闇の歯車」 感想

映画「闇の歯車」を見ました。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので、未見の方はご注意下さい。

いや~この映画、瑛太に始まり、瑛太に終わった作品でした。今まで瑛太をイケメンと思ったことは一度もないのですが、佐之助を演じた瑛太の暗い色気が半端ないです。これ、瑛太が佐之助を演ってなかったら、もっと凡庸な作品になっていたんではないでしょうか。

この作品に出ている瑛太は間違いなく、「色男」でした。現代劇より、時代劇の方が合ってるんじゃないかなあ。今まで瑛太がどんなドラマに出ていても、ふ~ん、と流していた私の目が、予告の時点で釘づけになりましたもん。誰、この人?って。

それも、正統派の正義の味方、じゃないところが合っているんですよね。背負う闇が、透けて見えて。やさぐれた影の部分に、思わず目を奪われるのです。

伊兵衛を演じた橋爪功さんも、裏で糸引く感じがなんともいえないドス黒さで、最初の柔和な商人顔からどんどん変わっていく姿に引き込まれました。佐之助とはいいコンビ。

伊兵衛は人の弱さにつけこむんだけど、決してごり押しをしないのね。時間をかけて、相手が自分から「やる」と決意するのを待つ。見事に絡み取られた佐之助。押し込みという悪事を働くのに、どうして素人複数を巻きこむのか。それは、迷った人を流れに乗せるっていうシステムでもあるんじゃないでしょうか。

自分だけじゃない。他にも仲間がいるっていう。そうでないと、少なくとも若旦那の仙太郎さんがなぜ一味に加わってるのか、その意味がわからないもの。腕っぷし弱そうだし、弥十の開錠技術みたいな特技もないし。

弥十を演じた大地康雄さんも凄みがありました。うらぶれてるんだけど、なにか裏がありそうな佇まいだったり。ただの酔っ払いが管を巻いてるのとは、ちょっと違う感じ。

伊黒清十郎を演じた緒方直人さんは、実直な感じが役にぴったりでした。最後、あれはわざと討たせたんですね。それもあっさりではあまりにも相手に無礼だから、それなりに討ちあった後で、というところに繊細な心遣いを感じます。まじめに優しく生きてきただろうに、どうして?という人生になってしまいましたが、あれはやはり、女性に弱かったということなんだろうなあ。すがりつく人を拒めなかった。

映画の中で、私が最後になってやっと気付いた点があるんですが、押し込み後、なぜかきえさんをそっとつけまわす佐之助の真意は、きえさんを守ることにあったんですね。なんだ~勘違いしてた。てっきり未練で追いかけ回してるのかと思っていたよ。おくみさんに逃げられたもんだから、再会したきえさんに執着してるのかと。この佐之助という人も、女性には弱いのですなあ。

それと、伊兵衛が捕まったとき、佐之助を知らないと言い放った場面。私は「あれ、伊兵衛は意外にいい人なんだなあ。佐之助がきえさんを守ろうとする気持ちに感動して、佐之助を助けてあげたのかしら」なんて思ったのですが。

牢屋での賄賂シーンを見てわかりました。いや、これ伊兵衛は生き残る気まんまんなのですね。これで最後なんて思ってない。誰かの気持ちにほだされるほど、やわな神経はしていない。佐之助を知らないと言いきったのは、保身以外のなにものでもない。あそこで佐之助もろとも破滅するのではなく、生き残る可能性に賭けた、ということなのだと。

登場人物のほとんどが破滅する中、真のボスは居酒屋のおっちゃんというところも、意外な感じがしてよかったです。案外、ああいう凡庸な日常の中にとんでもない真実が隠されていたりするんだなあ。

だけどツッコミどころがひとつ。佐之助は元々殺しにだけは手を染めてなくて、それが最後の自分の中での矜持みたいになっていたけど(押し込みも殺しはなしで、という前提だったし)、あれだけためらいもなく人を刺せる人が、殺しにだけは過剰反応するっていうのが解せませんでした。いやいや、人を刺してる時点で殺人と変わらないでしょう。たまたま助かってるだけで、亡くなってもおかしくない。

それと、あれだけの大金、預かってたお金を奪われた商家のその後は、たとえ命を奪われなくても死んだも同然で。自死に追い込まれることがわかりきっていながら、「押し込みでも殺さないからOK」みたいなところが、偽善に思えてなりませんでした。直接手を汚さないから何なの?っていう。結局、やってることは殺人だと思うのです。

映画全体、決して明るくはなくて、みんな幸せにはなれないし、でも引き込まれる作品でした。役柄によって、ものすごく輝く役者さんがいる、ということも知りました。時代劇の瑛太は、一味違います。

映画『昼顔』 感想

映画『昼顔』を見ました。感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

 

 

地上波初放送、ノーカット版ということで、興味深く見ました。ちなみにテレビドラマで放映されてたときも見てました。ドラマ版の感想としては、利佳子(吉瀬美智子さん)サイテー、加藤(北村一輝さん)勘違い俺様男、紗和(上戸彩さん)欲望むきだし過ぎ、北野(斎藤工さん)据え膳乗っかり、でした。

映画の感想を一言で言うなら、「乃里子(伊藤歩さん)が離婚に同意してたら一秒で終わった話」です(^^;

不倫は周りを傷つける、というのは本当にその通りなんですけど、不幸な結婚生活も、それと同じくらい罪深いものだと思います。すべての結婚が、うまくいくわけではなくて。互いに永遠を誓っても、その先の生活の中で、「こんなはずじゃなかった」というのが出てきてしまうのは仕方ないことで。

人間は理性があるから動物とは違う社会生活を営み、結婚という契約があるわけですが。本来動物でしたら、「好き」がそのまま繁殖行為につながり、情や制度でカップルを続けることはない。

動物と同じになれ、というわけではないですが、ある程度の相性、というものは、結婚生活に不可欠ではないかと思いました。

なんだか知らないけど好き、だとか。馬が合う。みたいなことです。努力ではなく、一緒にいるのが心地よい、安心する。そしてなにより、相手と一緒にいたい、と自然に思えること。

結婚し、一緒に生活をしてみて、どうしても相手と合わないとわかったら。あるいは、相手以上に好きな人がもしもできてしまったら。離婚もアリだと思うし、むしろその状況で不毛な同居生活を続ける方が、誰の得にもならない。夫や妻、どちらかが「絶対離婚しない」と言ったところで、相手の気持ちが離れてしまったら、意地を張る権利などないと思うのです。結婚は奴隷契約ではない。相手の気持ちを縛ることはできない。

ただし、子供がいる場合は別ですね。子供がいたら、安易に別れるべきではないと思う。離婚は親の都合であって、子供にとって自分の父親と母親が別れることほどつらいことはない。そして、離婚したからといって、親子の縁は切れないのです。夫婦の縁は切れても、親子の縁は切れない。

子供がいるなら、親の気持ちよりも子供を優先すべき、と思います。親にはそれだけの責任がある。だから、産む前に相手との生活をきちんと見極めないといけません。離婚するのなら、子供を授かる前に、です。ただ、あまりにも相性が悪すぎて大ゲンカが日常、というところまできたら、いくら子供がいても別れた方がいいのかもしれない。「子供のために離婚を我慢した」なんて、言われながら育つ子供は不幸すぎます。

要は、結婚は慎重に、出産はさらに慎重に、相手を見極めて、ということですよね。それでも失敗したら、それはもう、離婚するしかない。

ドラマを見ていたときには、紗和の北野先生への好き度合が、とても大きいなあと思っていました。本能で惹かれる感じです。

でもそれに対して、北野先生は同じだけ愛情を返してくれる、というよりも。紗和に流されて据え膳を…という感じに見えました。それは、ドラマで紗和の方から初めてキスしようとしたとき、思いっきり突き飛ばしていた態度で思いました。背徳感からそうした、というよりも、紗和をそこまで好きではなかった、という証拠のような気がして。

背徳感というなら、ふたりっきりで秘密のお出かけという時点でもう裏切ってますしね。その上で、本当に好きな相手といい雰囲気になって、キスされそうになったら、普通はそのまま流されてしまうのではないかなあ。

ドラマで紗和を突き飛ばした、あの瞬間。あれこそ本能のようなもので。迫ってくる相手に言いようのない嫌悪感を抱いた瞬間、にしか見えませんでした。

ただ、紗和の熱量がねえ。北野先生にしてみたら。突き飛ばして傷付けたのをすまなくも思っただろうし、それだけ愛されてるっていうことへの優越感もあっただろうし。最初は、ちょっといいかな、くらいで付き合い始めたものの、紗和の熱情に押されて押されて、不倫の高揚感もあって、妻との生活に感じていた違和感を背景に、どんどん紗和との逢引にのめりこんでいった、というように見えたのです。

ドラマでは、逃避行先の別荘で二人が引き離されるとき、子供みたいに泣きわめいていたのがとても印象的でした。もう結婚すればいいじゃん(^^;と思いましたよ。私が妻なら、そんな夫を見たらドン引きして自分から別れるなあ。そこまで好き合ってるなら、どうぞお好きに、という感じです。子供がいなければ、大人だけの話し合い。

私には、北野先生に執着し続ける乃里子が異常に見えました。あの人と結婚生活続けるのはちょっと厳しい。

ドラマで生木を引き裂くように別れさせられた二人。映画は、その三年後を描いています。三年後、偶然に再会した二人は、当然のようにまた、燃え上がります。そりゃそうだ、という感じで、乃里子に気の毒という感情が一切わかない展開です。

もう、ドラマの時に十分描いてましたからね。北野夫婦の破綻。紗和は離婚しましたが、そりゃそうだろうと思いました。あれだけの大騒ぎがあれば、離婚になるでしょう。その点、紗和の夫は紗和に対しての愛情もちゃんとあったし、常識もあった。壊れた関係を続ける不毛さを、ちゃんとわかっていたのですね。北野夫婦が別れなかったこと。乃里子が意地で、北野先生を奴隷のように自分の思い通りにさせたこと、そこが、悲劇の発端だったような気がします。

映画では、北野先生と紗和のいちゃつきっぷりがなんとも(^^) 北野先生からしたら、紗和は決して自分のプライドを脅かさない存在。その安心感。同じ業界にいるわけではないので、妻とライバル関係にはならないですしね。乃里子との生活に疲れた北野先生にとって、一途に自分を慕ってくれ、家事もばっちりな紗和の存在はどんどん大きくなったでしょう。

自転車二人乗りのときの、紗和の幸せそうな顔。高校生か!と。

その一方、相手の気持ちをつなぎとめるために、自殺未遂をやらかした乃里子。こういうのは最低です。なんなんだこの人。北野先生が送ってきた、目に見えないトゲだらけの夫婦生活、垣間見えました。この人はいつも、こうして夫を支配してきたのかな。おそらく、「あんたは一度私を裏切ったんだからね」という、一段上の態度、無言の圧力が常に存在する、冷え冷えとした夫婦生活だったことでしょう。

映画を見ているうちに、どんどん乃里子が嫌いになり、紗和と北野先生を応援し始める自分がいました。だからこそ、最後のあの事故で、怒りがピークに達しましたね。

もはや不倫じゃなくなってる。この状況で、北野先生との結婚を無理やり続けようとするのは、相手に対する暴力だ。殺してまで自分に従わせようとする傲慢さ。最後、問い詰められて車中で死んだ目をする北野先生が印象的でした。諦めたんですね、すべてを。乃里子は狂ってた。

映画の中で、紗和と北野先生がお互いに疑心暗鬼になるシーンは、よかったです。あれが現実だなと思うから。

紗和の、自分が裏切ったことがあるから相手を信じられない、みたいなセリフがずしりときました。

なにも乃里子がヒステリーをおこすまでもなく。不倫の末に一緒になったカップルは、最初から重荷を負うのです。お互いに、「また不倫をするのでは?」という、答えのでない永遠の枷を。不倫に罰を、というのなら、それが一番の罰なのではないですかね? 解きようのない重い鎖です。一生涯つきまとう不信だから。同じことを、また繰り返すかもしれないという疑惑。

それを乗り越えて結婚生活を送れたなら、二人は本物なんでしょう。

最後の最後で、紗和の妊娠、にはびっくりしました。これは北野先生と紗和、ダメすぎるな~。離婚も成立しないうちに妊娠とか、無責任すぎる。いい大人がなにやってるんだか。

北野先生が乃里子との生活、もうこれ以上我慢できなくなってしまった経緯は理解しますし、同情もするけれど。だからといって紗和と、子供ができるようなことするなよ~と思いました。そこは我慢してほしい。いずれ一緒になる、ちゃんとする、と決意したなら。どうして待てないのか。せめて、それこそが乃里子への誠意であり、紗和への優しさじゃないのかと。いくら紗和が能天気に誘ったとしてもね。

乃里子があまりにもアレなので(^^; 紗和と北野先生を温かい目で見てしまうのですが、結局のところどっちもどっちなのかもしれません。そんな映画でした。

映画『エンド・オブ・ザ・ワールド』 感想

映画『エンド・オブ・ザ・ワールド』を見ました。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

この作品は、原題が Seeking a Friend for the End of the World なんですけども、日本語のタイトル『エンド・オブ・ザ・ワールド』の方が、原題よりも合っているなあと思いました。だって、主人公は友達を探していたわけじゃないから。彼が探したのは、地球最後の日にふさわしい、心から愛する人とのロマンチックな日々。

結果は、ほろ苦く、でも温かかった。

アメリカ映画なのだから、最後は絶対大団円。もしかして、奇跡が起こって、地球に衝突するはずの小惑星が直前で軌道を変えたとか、そういう大どんでん返しがあるんじゃないかな、なんて私の期待は、あっさり裏切られたわけですが。

うん。なんだろう、この観終えた後の、胸に残るほんのりとした温かさは。二人とも、そこから先を生きられなかったことはわかるのに。それでも、二人はとても幸せな気持ちで、旅立ったような気がして。

『エターナル・サンシャイン』の製作に携わったのと同じ人が、『エンド・オブ・ザ・ワールド』の製作にも名を連ねていました。わかる~(*^-^) この温かさは、同じものだ。同じテイスト。

エターナル・・の方は、異性の愛。そしてこの、エンド・・の方は、友情かな、と、私は思いました。ちょっとだけ表現は違うけど、でもその根底には、深い愛があるのです。だから私もその愛に触れて、ほっとしたし、癒された。

そうか、そう考えてみると、原題の Seeking a Friend の言葉に託された製作者の思いも、わからなくはない。

恋人を求めたけど、それは違うと気付いて、だけれどもかけがえのない、人生最後の日にそっと寄り添ってくれる、大切な友人をみつけました、という話なのかなあと。

私は主人公のドッジとペニーの間に、いわゆる、恋を見出すことはできませんでした。ドッジは、ペニーのことを女性として好きなのではないと思う。ただドッジは、友人としてペニーの幸せのために手を差し伸べたのだと思います。そばにいて、添い寝して「大丈夫だよ」って言ってあげることが、ペニーにとって一番の慰めになると知っていたから。

そしてペニーも。地球最後の日を前に怯えて、緊張して、非日常の中で気持ちが昂って、それを恋だと思ってるけど、冷静になってみたら絶対、ドッジはタイプではないと思う(^^;

二人は元の性格が違いすぎるからね。

ペニーは子供っぽいところがあって、あと数日で命が終わるという極限状態を独りで耐えることはできなくて、誰かを求めた。ドッジはその手をとった。たとえ地球最後の日であっても、彼は泣いている小さな女の子をほっておけない人だったから。そういうことなんだと思いました。

この映画の終わり方が好きです。静かで、穏やかで、優しい空気が流れて。ふっと意識がとぎれる。そんな終わり方。後味がいい。ペニーがどんな気持ちで最後を迎えたのか、よくわかる。

ドッジはたぶん、高校時代の恋人オリヴィアに今手が届く、となったときに気付いてしまったんだろう。ああ、なにもかも幻だったって。思い出のままならずっと、美しい。好きだった気持ちも、好かれていたことも、当時は本当のことだったろうけど、もうあの日の二人はいない。
昔のオリヴィアなら、手紙を寄こさなかった。言外に助けてのメッセージをこめて、離婚を知らせることは決してなかっただろうから。

ペニーが眠っている間に、お姫様だっこして彼女を小型飛行機に乗せる姿がかっこよかったです。
ドッジは嘘をつかなかった。飛行機の約束、ちゃんと守ってあげた。きっと起きてたらペニーはあれこれ言い訳して、ぐずぐずと飛行機に乗らなくて、そしたら時間がもったいないから。黙って飛行機に乗せてあげたドッジの優しさ。そして、限られた時間を、快く息子のために使う父の優しさ。

映画の中には、人生最後の日々を、思い思いに過ごす人々の姿が描かれます。暴動や、略奪もあり。

でも虚しいよね。最後に人を傷つけて、楽しいだろうか。たとえ裁かれないとしても。投石し、火を放ち、雄叫びをあげて。うーん、これはわからない感覚だ。もはやお金目当てではないし、純粋に暴動を愛する、そういう人たちもいるということか。

パーティーで、乱痴気騒ぎ、というのはわからなくもないですが。でもこれも、本当に性格によるでしょうね。ドッジにとっては、むしろこうした大騒ぎは苦痛でしたね。

見終って、私もしみじみと考えてしまいました。残された時間が3週間なら、私はなにをするだろうかと。

旅行で行ってみたい場所はあるのですが、きっと交通機関はマヒしているだろうからそれは無理だろうし、世界が混乱する中で遠出するのは少し怖い。

一番に思いついたのは、庭か、もしくは近所にある、うちの畑で。青い空でも眺めながら、きっと一日中、のんびりゴロゴロするだろうなあと。ピクニックじゃないけど、水筒と、それからサンドイッチなんか持って行って。
そして、夕日の美しさを堪能するのだ。茜色に染まる雲、光と影のバランス。やがて暗くなったら、西の空に金星が輝くのを見る。レジャーシートに寝っ転がって、星座をみつける。この季節は蚊も多いだろうから、蚊取り線香もっていかなくては。

私、たぶん、それを最後の日までずっと続けるね。ときどきは、自転車にも乗るかもしれない。風をきる感覚が気持ちいいから。それでまた庭や畑に戻って。大きく深呼吸したり、咲いてる花を愛でたり。空気に混じるハマユウの香りをかぎ分けたり。

そうか、私の究極のゴールって、そこだったのかと。自分でも少し、驚きました。最後の日にやりたいことって、あんまり大したことじゃなかった。ていうか、今でも休日にはやっているようなことだった(;;;´Д`)ゝ

じゃああれだな、私ってものすごく幸福な日々を送っているんだな、日常で。

そんなことを、気付かせてくれた映画です。

映画『イントゥ ザ ウッズ』感想

 映画『イントゥ ザ ウッズ』を見ました。以下、感想を書いていますがネタバレ含んでいますので、未見の方はご注意ください。

 おとぎ話が嫌いな女性はいない・・と思います。私もその一人です(゚ー゚) ということで、おとぎ話の有名キャラが多数出演、しかもディズニー、きっと絵本の世界が現代技術で美しく立体的に再現され、かつハッピーエンドなんだろうなあという期待の元、行ってまいりました。

 結果、私の予想していたストーリーとは、全然違っていました(^^; 

 いえ、嫌いじゃないんですけど。
 映像は確かに美しかったですし。
 でも、予告のCMだと、子供が喜びそうな感じに作られてましたが、これ完全に大人向けです。子供が見たら、ぽか~んで、訳がわからずつまらないだろうなあと思いました。

 大人の目からみた童話、お話の中に隠された数々の暗喩を感じ取る、という映画ですね、これは。

 始まりはいきなりのミュージカル風です。歌が始まってワクワクしましたし、前半は進行もスピード感ありましたが、後半は長すぎ。そして後味も悪いです。

 物語の主人公がみんな、善人ではないところがシュールでした。

 おとぎ話の、めでたしめでたしのその後、ですね。
 後半のメインは、『ジャックと豆の木』に出てきた巨人夫婦VSおとぎ話の主人公達、なんですけども。これが、悪役であるはずの巨人夫婦が気の毒で・・最後巨人の妻が死ぬシーンは、何とも言えない後味の悪さが。

 巨人の妻にしてみれば、踏んだり蹴ったりなんですから。
 地上から小さな男の子がやってきて。可愛がってあげてたのに竪琴や金の卵を盗まれ。あげくに夫がその子に殺された。そりゃあ、復讐にやってくるのも無理ないというか。

 それなのに、総攻撃受けちゃいますからね。死ぬほどの罪を、彼女は犯したのだろうか、という。

 登場人物達はみんな、それぞれ一癖ある童話の主人公。

 特に目を惹いたのは赤ずきんちゃんを演じたリラ・クロフォード。純真無垢な赤ずきんちゃん、という一般的なイメージとは全く違う、オリジナルな赤ずきんちゃんを見事に演じていました。歌がうまく、大人びた物言いや堂々たる振る舞いは、可愛いというよりも、どちらかといえばその逆方向の印象をもたらしていたような。

 ジョニー・デップ演じる狼は、思っていたほど重要な役ではありませんでした。ジョニー・デップである必要があったのかどうか。疑問です。

 そして、私は彼女の演じる赤ずきんちゃんが、映画『エスター』の女の子に見えて仕方なかったです。年齢的に、女優さんが同一人物のはずはないのですが。

 というか、パン屋さんで無銭飲食の赤ずきんちゃんて、どうなんだろう(゚ー゚;
 映画が始まってそうそう、驚かされました。これからどうなってしまうんだろうかと。しかも、おばあちゃんのためだからいいじゃん、という言い訳のあげくに、パン屋の奥さんの好意に乗っかり、さらに多くのパン、そしてそれを運ぶバスケットまで要求って、どれだけ厚かましいんだかわかりません。

 それを許すパン屋の奥さんは、人がいいのを通り越して、詐欺師に騙される典型的な人に思えました。とめる旦那さんの方がまともだと思いますが、奥さんに強く言えないところが優しくて、いまどきの夫ぽいです。

 パン屋さんのお隣には、悪い魔法使いのおばあさんが住んでいます。でも、一応物語上は、悪い魔女になってるんですが、悪いというよりも、気の毒な人で。

 この魔女のメタファーは、いわゆる「毒母」でしょう。親としての権限で、娘の一生を縛り付けようとする、一見、よき母。

 隣人に豆を盗まれたのは、魔女のせいじゃないのに。母親の言葉は魔女を永遠に縛り付ける。縛り付けすぎて、肉体にも変化が起きてしまうほどに。たぶんあれは呪いじゃない。魔女の自責の念が、顔も体も、変えてしまったような気がしました。
 本当は、呪いなんてなかったのかもしれません。母親の言いつけを守れなかった魔女自身の、自傷行為のようなものだったりして。意識的ではなくとも。

 そしてそんな毒母に育てられた魔女自身も、自覚なきまま、立派な毒母に成長します。可愛がって可愛がってラプンツェルを育て、小さなときから教えこみます。私の言葉だけが真実。外には危険がいっぱい。私の言うことさえ聞いていれば、守ってあげる。お前はいつまでも私のそばにいるのだよ、と。

 しかしラプンツェルはあっさり王子様と駆け落ち。魔女はひとりぼっちになり。あげく、王国崩壊の危機に、自分なりの解決策を見出すものの、周囲にそれを全否定され、やけになったあげく自死のような最後。

 あれ、アメリカ映画って最後は必ずハッピーエンドじゃなかったっけ? 魔女が孤独と怨嗟の中で救いもなく消えていくのを、私は気の毒な思いで見ていました。

 うーん、一般的なアメリカ映画だと、ここで救いの手が差し伸べられるか、もしくは生き返るんだけど。結局そのまま・・・。

 王子様二人が、自分の恋こそ悲恋だと、どちらが悲劇のヒーローかを、競うようにして歌うシーンは笑ってしまいました。王子様、かっこいいというより、ちょっとお間抜けな感じです(^-^; そしてシンデレラの王子様は、日本人が思う王子様よりもワイルド系? 西洋だと、無精ひげの王子様がセクシーなのかしら?と。日米の違いを感じました。
 たぶん日本だと、もっとこう、男っぽくないイメージが、王子様にはあると思います。髭はないなあ。

 そして、ねばねばピッチで、シンデレラを捕まえようとする姑息さが、どうにも王子様ぽくない。それに、シンデレラをみつける方法が、靴のみって、ほんと、よく考えてみると激しく変です。顔は?声は?スタイルは? 三日間も踊った相手の判別法が、靴? 靴のサイズさえ合えば、誰でもいいのかと。

 あげく、いきなり不倫シーンが始まってしまうのには驚きました。まさに大人の映画です。ディズニー映画ということで、子供も見るのにいいのか? これはあらかじめ、大きく宣伝しておくべきだと思いました。あくまでも、大人向けの童話ですよ、と。

 そして不倫の代償は。
 王子のあっさり心変わりの描写は、不倫の儚さを見事に描いてますね。あげくの、信賞必罰。罰というのには、あまりにも重いのかもしれませんが。
 こうなって初めてあの人のすばらしさに気付いたの、と、女性がまるで何事もなかったかのように、日常に戻ろうとした矢先、あっさり・・・でした。
 私はここでもやはり、どこかに救いがあるんだろうと思っていて。実は大丈夫でした、とか、魔女の魔法で、とか逆転があるのかと思っていたのですが、本当にそのまま・・だったので、少し驚きました。救いがなくて。

 パン屋の夫婦は、あれだけ子供に固執していたのに。夫婦ともに、いざ子供が生まれたら、あっさりと、子供を裏切るようなことをしていましたね。妻は王子様と。夫は赤ん坊をシンデレラに押し付けて。

 大人のような知恵を持たないジャックを騙し、赤ずきんちゃんやシンデレラ、ラプンツェルから持ち物を強奪した、でも許されると思っていた。なぜなら「子供がほしい」から。そのためなら、許されると本気で信じていた、妻の姿が強烈でした。
 そのために他人を傷つけてもいいと考える時点で、間違っているのになあ。

 ラストは、なんともいえないものでした。
 ハッピーエンド・・・なのか、一応・・・いや、なんか違う、気が(^^;

 後半部分は、要らなかったような気がします。前半のスピード感がよかったです。歌も素晴らしい。

 into the woods, into the woods と何度も繰り返されるフレーズに、期待感が膨らみました。思わず駆け出したくなるような、軽快なメロディ。これからどんな物語が始まるんだろうと、わくわくするような曲でした。

映画『美女と野獣』 感想

  映画『美女と野獣』を見ました。以下、感想を書いていますがネタバレ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

 童話の世界が、現代の映像技術でどう表現されるのか、わくわくしながら見に行ってきました。
 結果。圧巻です~~。おとぎ話の世界がリアルに、目の前に広がっていました。野獣の心を象徴するような、荒れ果てた寂しいお城。植物に覆いつくされ、飲み込まれていくような石壁。領土を取り囲む、意志を持った魔法の森。こういうファンタジーや幻想的な色づかい、大好きです。

 この映画を見終って、感想を一言述べるとするならば、これに尽きます。

 古今東西、美しい少女はその美しさゆえに、残酷(^^;

 映画の中のセリフ、すべて完璧に覚えているわけでないので、細かい部分は間違っているかもしれませんが。たとえばこんなシーンがあったんですよ。
 恐ろしい容貌の野獣と、ダンスをする代わりに、家族との面会を要求するベル。たしか、昔読んだ童話では、心優しい少女として描かれていましたが、映画のベルはずいぶん強く、勝気な面を持っています。

 二人きりの舞踏会。私がリードするからと、ベルは最初から自信満々です。その上から目線はどこから来るんだ、と突っ込みたくなるくらいです。どちらかといえば、消極的な野獣と。勝ちを見据えたかのような、余裕のベル。二人きりの舞踏会。

 踊るうちに、あれ、なんだかいい雰囲気です。ベルは、取引とは思えないほどリラックスした表情で。野獣に対しまるで好意を持っているかのように、安心して身を任せ、踊り続けます。まあ、ああいうダンスはそういうものだと言われればそれまでですが、二人の距離はみるみる縮まって、まるで本当の恋人同士みたい。

 当然、野獣は勘違いします。うん。あれは私が野獣でも、勘違いしてます。たとえ始まりがあんなであっても、踊り続けるベルの表情には、親しみと好意があふれていたから。

 野獣の口から、自然に言葉がこぼれるのです。

>愛してくれるか?

 その瞬間、ベルは表情を一変させ、あらん限りの力で野獣を思いっきり突き飛ばします。親の仇に初めてあったかのような、ものすごい勢いで。

 私は見ていて、野獣が気の毒になってしまいました。ないわ~。いくらなんでもあれはないわ~。ひどすぎる。
 野獣が自分を好きなことを知っていて、ダンスを取引の材料にしたあげく。嬉しそうに幸せそうに笑ってみせて。安心しきった表情で、体を預けるようにして踊ってみせたのに。

 野獣は聞いただけです。なにも無体なことをしようとしたわけではありません。ただ、嬉しくなって、期待してしまっただけではありませんか。たとえベルが実際野獣を嫌いだったとしても、あの豹変ぷりは鬼畜です。

 全身全霊で野獣を突き飛ばし、憎悪に燃えた目で見据えたあげく、いくつものひどい言葉で罵ります。

 王子の格好なんてして! だとか。別にいいじゃありませんか(^^; まあ実際王子なのですし。体は呪いで野獣かもしれませんが。そこでさらっとそういう言葉が出てくるベルの方が怖いです。

>残酷で孤独な野獣のくせに!!

 言いますかねえ、そんなこと。つまり、「あんたみたいな野獣が、人間の私に愛されることを願うなんて、身の程知らずも甚だしい!」ってことですよね。なんという特権意識。
 野獣は自分が野獣であることを恥じています。その姿の醜さも、わかりすぎるほどわかっています。その人にこんなこと、言うのか。そりゃひどいわ。心に野獣を持つのは、むしろベルの方です。

 勘違いさせるようなことするなよ~、と思ってしまいました。
 野獣を誘惑して、それに乗ってきたらとたんに手のひら返し、あんまりではないですか。

 この、ベルの残酷っぷりが、物語の前半で存分に表現された上での、ラストシーン。

 死の淵にある野獣の、弱々しい問いかけ。

>いつの日にか、俺を愛してくれるか? 

 私は胸を衝かれました。そうだよね・・・前回思いっきり失敗してるからね。彼女の笑顔に惑わされ、もしかしたらこんな自分でも愛されるんじゃないかと夢をみて、次の瞬間、すべての期待を粉々に打ち砕かれた絶望。

 「いつの日にか」という言葉にこめられた野獣の弱さを、私は思いました。
 愛されていないことはわかってる。でもいつの日にか。遠い未来でもいい。少しでもその、可能性があるなら。約束じゃなくていいから、ほんの少しの希望があるなら、それでいいから。

 そのとき、ベルは前回とは違いました。間髪入れずにこう答えます。

>もう愛してる

 よかったね~よかったね~野獣さん。と、私は思わず野獣に祝福のコメントを、心の中で呟いてしまったのでした。前のがあんまりひどすぎたからね(^^; もう同情するしかなかったですもん。

 野獣役のヴァンセン・カッセルは、王子というにはちと年上? そして王子というには少しワイルドすぎるような気もしました。王子というより、王子のお父さん、王様のほうが似合うかなあ。

 こういうのは、フランス人と日本人の感覚の違いなのかもしれない、と思いました。フランスだとたぶん、華奢で若い役者さんは、浅い印象であまり人気がないのかな。フランス人が魅了を感じるのは、これくらい渋い、大人な俳優さんなのかなあと。

 ベル役のレア・セドゥさんは実年齢よりもずいぶん若く、少女そのものに見えました。あどけなく無垢で、その反面、強か、残酷。
 野獣が用意した心づくしのドレスが、どれもよく似合っていました。私が一番好きなのは、一番最初に用意された白のドレス。清楚で可愛かったなあ。純粋さを象徴するような乙女ドレスでした。野獣はどんな気持ちであのドレスを用意したんだろう、と。

 物語の中で解き明かされた、野獣の秘密は、???とすっきりしないものでした。

 愛した女性が森の精であることに気付かず、自らの手で殺してしまった取り返しのつかない罪。永遠の後悔。

 私は思いました。その森の精(プリンセス)の立場が、ベルの出現によって、おかしなことになってしまってるなあと。あんなにプリンセスを愛していたはずの野獣が、あっさりベルに心奪われ、最後はベルの愛を手に入れてめでたしめでたしって、なんか変じゃないか?
 あなたが本当に愛していたのは、プリンセスではなかったの?
 その人を失ったから、あなたは野獣になったようなものなのに。そして、深い悲しみの中で、閉ざされ荒れ果てたお城の中で、忌み嫌われる姿に変わり果てた姿を呪いながら、荒んだ時間を過ごしていたはずなのに。

 プリンセスにしてみたら、「幸せになってね」ということなのでしょうか。ベルに、野獣(王子様)の幸せを託したということなのでしょうか。私はもうあなたとは生きられないけれど、私のことなど早く忘れて、別の女性と幸せで人間らしい人生を生きてほしいと、そういうことなのでしょうか?

 その辺が謎でした。

 フランス映画なので、全部フランス語で語られる物語なのですけれども。ぼそぼそっと囁くような響きが、物語によく合っていたと思います。

 個人的には、ベルの一番下のお兄さんが、野獣の役でもよかったような気がします。そして野獣は。

 ベルにあそこまで忌み嫌われるほど、醜くも恐ろしくもありませんでした。鼻のあたりは猫科。ライオンぽいです。毛並みがよく整っていて、思わず触りたくなってしまいました。すごく毛並みがいいのです。触れたらきっと、すべすべしていると思います。

 もし私がこの映画を作ったとしたら。野獣の外見をもっと恐ろしく、嫌なものにしたでしょう。そして、ベルをもっと、優しく描いたと思います。到底受け入れられない外観の野獣に、最初は同情から、そして深く静かに惹かれていくさまを、ゆっくり描写したと思います。野獣の秘密は・・・今回とはまた、別の物にして。

 『美女と野獣』は、まるで夢の中でみるような、幻想的な物語、映画でした。