2012年を振り返る

 2012年も今日で終わりです。

 今年は私にとっても、ひとつの区切りというか、特別な年でありました。

 来年はどんな年になるのでしょう。静かな大みそかです。

 マヤ歴は12月22日で終わりましたが、その日、私の心の中にも、それに連動するような「終わり」がありました。

 2012年は、大きな区切りの年になりました。

ドラマ『世紀末の詩』 第七話 感想

 ドラマ『世紀末の詩』の感想を書きます。以下、ネタばれ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

 第七話は、大江千里さん演じるパン屋さんのオーナー、石田が、なんともいえない雰囲気でした。

 なにより、目の奥に狂気があるから。この人は狂ってるんじゃ?と、得体のしれない不安に襲われる目でした。

 そして実際、石田はある意味狂っていたわけですが…。
 この結末には、既視感があり。そう、いつか世界びっくりニュース的な番組で、これに似たケースがあったような。

 愛する人を失ったら、正気ではいられない。正気で生きていくのには、この現実はつらすぎる、ということなのでしょうか。それにしても。やっぱり理解はできないし、実行している石田自身がちっとも幸せそうでなく、毎日泣き暮らしているところが、悲しいというか救いがないというか。

>とても美しいが、一方愚かな犯罪です。

 百瀬(山崎努さん)の態度は、いつになく優しかった。人に対しては基本、厳しい感じの人なのに。それは、正気を失った相手をなんとかこちら側の世界に引き寄せようとする、真摯な姿勢であったのでしょうか。
 幼子をあやすような大人目線でもありました。
 対等であれば厳しくもなるでしょうが、百瀬は石田が正常ではないと思っていたから。

>あなた正気なんですね。
>当たり前だ。
>どうやら誤解していたのかもしれない。苦しんでいたとは。

 痛切な表情の百瀬。うーん、その気持ち、わかるような気がします。いっそ完全に狂っていたら、痛みも苦しみも感じずにいられたでしょうに。
 毎日毎日、どんな気持ちで愛する人と、向き合っていたのだろうと。魂の抜けた、その体と。
 石田の中に残った、理性の部分は。

 想像すると拷問です。
 毎日、見せつけられるということではないですか。その人がもうこの世にはいないということを。

 これ、絶対、うれしくてやってたんじゃないだろうなあと。石田本人も、苦しくて、つらくて、でもそうせざるをえなくて、やっていたということなのでしょうか。
 毎日、自分の心を痛めつける儀式のように。もうその儀式そのものは、自分の意志ではどうしようもない、強い力に操られていて。自分では抜け出すことができなくて。

 だから百瀬に暴かれたことを、心のどこかではほっとしていたと思うのです。

 誰かがとめてあげなかったら、拷問は永遠に続いていた。それを考えると、百瀬が気付いて本当によかったと思います。その儀式さえなければ、いつか記憶は薄れていくから。その毎日の儀式だけが、つらい現実をまざまざと、まるで今日初めてわきあがった痛みのように、日々、新しくしていたと思うので。

 これでやっと、石田は楽になれたんだと思います。とまった時間は少しずつ、また流れ始めるでしょう。

 この七話の最後で、亘(わたる)と里見(木村佳乃さん)がしんみり語り合うシーンがあるのですが。このときの亘(竹野内豊)さんの表情は、とても深いです。

 憧れていた里見が、コッペパンの伝説を言い訳にしつつ、自らキスをしてくるという、亘にとっては最高に嬉しい状況のはずなのに。

 実際キスされた亘の目に浮かぶのは、一瞬の戸惑いと、喜び以外のなにか。複雑な、一言では言い表せないような、いろんな思いがごっちゃまぜになった表情を浮かべるんですよ。

 それは、「嬉しい」という顔ではなかったように、私には思えました。

 一番近付いたときに、その人に対する本当の気持ちがわかることって、あるのかもしれません。遠くから見ていたときには、確かに好きだと思っていたのに。触れた瞬間、あれ?と違和感を感じる寂しさみたいな。

 二人とも美男美女で、夢のように美しいシーンではありますが。亘の瞳の奥にある戸惑いが、とても印象的でした。里見を見送るときにも、あふれだす愛情ではなく、別のなにかがそこにはあったような。

 この亘の表情が、最終話の決断に、つながっていくのかなあと思いました。

ドラマ『世紀末の詩』 第五話 感想

ドラマ『世紀末の詩』の感想を書きます。以下、ネタばれ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

第五話は、三上博史さん演じる星野と、純名里沙さん演じる留美が繰り広げる、愛と信頼についての物語。

車椅子の星野は、一見優しい似顔絵描きの青年なんですけど、実は過去に、たくさんの前科があり。

昔、彼は犯行現場から逃げる途中、事故に遭って。病院で留美そっくりのマリア様のような人を、夢うつつの意識の中で見てから、自分の過去を反省し別の人生を生きていたのです。似顔絵を書くのも、過去の自分を懺悔するがゆえ。せめてもの、自分にできる善行だったわけで。悲しみや苦しみを抱えた人を、助けるため。絵で元気づけようという意志があったんですよね。

でもそんな中で留美と出会い、留美の大切なエメラルドの指輪を、本物にすりかえてあげようと善意からしたことが、皮肉にも彼女に不審を抱かせてしまう。

結局、星野を疑った留美の行動は、星野を殺してしまうわけですが。

星野がミアの前で独白したように、彼の心は本当にがらんどうだったのか? 心なんてなかったのか?

星野に本当に心がなければ、懺悔はしなかったと思います。

雨に濡れた留美が、初めて現れたときに。お代は結構ですよと優しく彼女を受け入れてあげたのは、恋愛というより、慈愛の心だったような気がします。一瞬で愛した、なんて、星野は一目ぼれを強調してましたけど。

そうは見えなかったなー。むしろあのときの星野こそ、留美にとってはマリア様だったと思うのです。どん底のとき、優しく手を差し伸べてくれた人。無償の愛。

エメラルドをこっそり本物に変えるなんてことは。一歩間違ったら迷惑そのものかもしれないわけですが(^^; 偽物のエメラルドでも、留美にとってはお母さんの大切な思い出がつまっているわけで。

本物にしてあげたら、彼女は喜ぶだろう。偽物なら可哀想だから…という星野の価値観自体が、彼の生きてきた過去を象徴しているように思います。
でも、善意は善意なわけです。
星野にとっての善意。よかれと思う気持ちに、一点の曇りもなかった。

さんざん悪いことをしてきて、逃げる途中で事故に遭い。病院のベッドの上で死ぬかもしれないと思ったときに恐くて恐くて。助けを求めたときの、その気持ち。
星野が一番恐かったのは、自分が死んだとき、地獄におちるということ。
そのとき、マリア様の幻影に救われたからこそ。彼は生き方を変え、贖罪の日々を送ることができた。

ラストで星野は、生きることを放棄して、迫りくる電車の前でとても穏やかな表情をします。それどころか、静かに微笑んでその瞬間を迎えるのです。それは、今死んでも地獄に行くことはないと、信じていたからではないでしょうか。やっとすべての罪を償うことができたからこそ、死ぬことができる、と。
マリアの化身である留美に出会い、その留美によって死の国へ導かれるのなら。もう恐くはないと思ったのでしょう。

キャスティングもいいんですよね~。三上博史さんの、翳りのある目がいいのです。留美でなくても、不安になってしまいます。純朴でいい人だと、単純に信じきれない何か。
私も、この人はきっと結婚詐欺師で留美を騙していたというオチなんだろうなあと思いつつ見ていました。まさかラストであんなドンデン返しがあるとは。

そして純名里沙さんの留美役がまた、はまっていました。なんというか、留美には百パーセントの被害者意識がみえて。それが見ていて、すごく苛々させられるというか。
男運が悪いから、と、今までの不幸な恋愛のすべてを相手のせいにしてましたが。1回ならともかく、何度もそういう相手ばかりを選ぶ、というのは留美自身にも、なにかそうした人を引き寄せるものがあったように思うのです。そして、たとえば婚約者に全財産を奪われた責任は、自分自身にもあったはず、と思います。強盗にあったわけではないんだから。自分の意志で、お金を渡したということで。どんな嘘をつかれたとしても、その行為は異常でしょう。判断能力がない人だったら気の毒かもしれないけれど、留美は十分、それだけの知性を持っていたと思うし。

彼女にはどこか、被害者意識に包まれることで、安心している部分が見えるというか。屈折した精神構造が垣間見えたような。

ほら、私また傷付けられちゃったよ。可哀想な私。可哀想に、可哀想に、って・・・言いながら、酔ってるみたいな。

絶対自分の考えが正しいと証明されたわけでもないのに、人の命を平気で危険に晒す、という傲慢さも嫌でした。星野が悪人で留美を騙している、という確率がいくら高くても。それは百パーセントではないわけで。
星野を悪人と決めつけた留美の結論がもし合っていたとしても。じゃあ、もし、なにか事情があるのだとしたら。車椅子も詐病ではなく、本当に歩けないのだとしたら、あんなふうに線路に彼を放置することは、彼を殺すことになるわけで。どうしてちゃんと向き合わなかったんだろう、と思ってしまいます。
正面から、まっすぐに聞いてみたらよかったのに。
もし、星野にはそうするだけの価値もないと思うなら、黙って去ることだってできたのに。

留美はその後、幻のマリアに出会った星野が改心したように、これからは違う生き方をするのでしょうか。
想像にすぎないけれど、なんとなく、留美は変わらないような気がする…そういう留美だから、二人の最後は、あんな悲劇で終わってしまったような気がします。

留美は、星野の死後に彼の両足が義足だったのを見て驚いていましたが、それすら知らなかった、ということが、二人の距離を表していたような気がします。

二人の間には、男女の恋愛感情みたいなもの、なかったんじゃないかなあと。星野が留美に抱いたのは、この人を救ってあげたい、癒してあげたい、という慈愛めいた気持ちで。一方、留美が星野に抱いたのは、恋ではなくて、助けを求める、救いを求める気持ちで。そう。まるで神様に祈りを捧げるみたいに。留美は今までの傷を全て癒し、今度こそ決して裏切らない、究極の存在を求めてたのではないかと。

留美はだから、星野の足に触れたことが、なかったのかなあ。
恋愛で結ばれた恋人だったら、足には触れていたような気がするのです。当然、そしたら義足のこともすぐにわかったわけで。

そうじゃなくて、留美にとって星野は、「私を助けて。あなただけは私を裏切らないで」という存在だったから、足に触れたいと思うことも、なかったのかなあと。

>愛ってのは、信じることですらないのかもしれん。愛ってのはただ、疑わないことだ。

百瀬の言葉が、重かったです。確かに、信じるということは、疑える余地を残した上での行為ですから。そもそも疑うことすらしないなら、信じる、なんて行為は意味をなくしてしまう。

このドラマは毎回、その回に応じた四行詩が最後に出てくるのですが。この回の言葉がまた、素敵でした。

>ハローベイビー
>泣かないで
>偽物の愛をつかまされたら
>僕がホントのにかえてあげるよ

二重の意味にとれますね。
偽物の愛をホントのにかえる行為は、偽物のエメラルドを本物に変えようとした星野の好意を表すのか。それは、本物のエメラルドこそ唯一の価値あるもの、という、狭い視野での善意であり。純粋ではあるけれど、星野の生きてきた道のりの悲しさをも示唆していて。あるいは。

何度も恋人に騙された留美に、僕が今度こそ本物の愛をあげるよ、という星野の決意表明なのか。

この詩の持つ、言葉の後ろの優しい気持ちが、心に響きました。

ドラマ『世紀末の詩』 第二話 感想

 ドラマ『世紀末の詩』の感想を書きます。以下、ネタばれ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

 第二話は、斉藤洋介さん演じるコオロギさんと、遠山景織子さん演じる鏡子さんの物語。

 鏡子は目が見えない女性で、コオロギさんとは仲のいいカップルだったのですが、手術で目が見えるようになった途端にコオロギさんの元を離れ、眼科のお医者さんと付き合うようになってしまいます。

>心変わりは何かのせい?
>あまり乗り気じゃなかったのに

 なぜか、オザケンの『ぼくらが旅に出る理由』の曲の一節が、頭をよぎりました。

 鏡子をひどい女性だとか、手術さえしなければ二人は幸せだったのにとか、そういう意見が出ることを意図してつくられたお話?という感じがしましたが、私は鏡子の選択を非難したくないです。

 鏡子は悪くないと思う。心変わりは誰のせいでもない。誰かを好きになることも、その後、なにかが違って別れてしまうことも、それはそれで仕方のないことのような気がしました。
 無理をして同居や結婚をすれば、その方が悲劇だから。

 問題は、別れ方ですよね。鏡子がコオロギさんを罵ったり、たとえ本当のことであっても、別れの理由に彼の人格を傷付けるようなことを言ったりすれば、ひどい奴だな~とは思いますけども。

 ドラマの中では、鏡子は十分にコオロギさんを思いやっていたし。

>あなたが、コオロギさん?
>え?
>ううん。ごめんなさい。想像してた顔と少し、違ってたから

 上記は、手術後に初めてコオロギさんを見た時の鏡子の言葉。このときはドキドキしたなあ。なんだか、この先に続けてとんでもなく失礼なことを言うんじゃないかという予感がして。そういう彼女を見たくなかったし。そのことで傷付くコオロギさんも見たくなかったので。
 「想像していたのと違う」という言葉は確かに意味深でしたが、このときの鏡子さんは、別にそれ以上ひどいことを言うわけでもなく。ごめんなさい、という言葉にも本当に素直な気持ちが表れていたと思いました。

 その後彼女が、手術を担当した袴田吉彦さん演じるイケメン医師のアプローチを受け、「今までありがとう。ごめんなさい」ってただそれだけ書いた置き手紙を残してコオロギさんの家を出て行ってしまったことは。その置き手紙には、彼女なりに精一杯の気持ちがこめられていたんだ、と思います。

 コオロギさんの家を出たことがひどいというなら、そもそも彼女は、じゃあどうすればよかったのか、という話で。

 目が見えるようになり、コオロギさんとの生活に違和感を覚えて、それでもそういう気持ちを押し殺して暮らしていくことが、二人にとっての幸せなのかどうか。

 私がコオロギさんなら、好きな人にそんな無理などしてもらいたくないです。悲しいけれど、でも失恋するならするで、それはもう仕方のないこと。人の好悪は、義理とか押しつけで成立するものじゃないわけで。

 むしろ、鏡子が「今までお世話になったしなあ」とか、「ここで急に別れを告げたら、私ってひどい人になっちゃう?」とか、そういう気の遣い方をしたら、その方がいやらしく思えてしまいます。

 もう愛情なんてないのに、「自分がひどい人になるから」という理由で、ずるずるコオロギさんの元にいたら、その方が残酷かと。

 置き手紙の文字も。「今までありがとう。ごめんなさい」って、実はすごく誠実な内容じゃないかと。つらつらと長文で言い訳することもなく、本当のことを書き連ねて、無駄にコオロギさんを傷付けることはなかったわけですから。
 どう書くべきなのか。鏡子も悩んだのではないでしょうか。決して、うれしい気持ちで、後のことはどうとでもなれ~と、いい加減な気持ちで書いたわけではないと思います。

 コオロギさんも、あれこれ言われなくても彼女との「合わなさ」は、十分感じていたような。
 他の人がどう言おうと、本人同士がお互いを好きならそれで話は丸く収まるわけで。そうじゃなく、コオロギさんも鏡子さんも、お互いに「引け目」を感じていたからこそ、ぎくしゃくしていた部分があったと思います。

 心変わりは誰のせいでもないし。
 合わないと思うなら、別れるのがお互いの幸せ。そう思いながら、ドラマを見ていました。
 目は、そりゃあ見えないよりは、見える方がいいわけですよ。もし、コオロギさんが「こんなことなら、手術なんて受けさせるんじゃなかった」と思ってるんだったら、それはそれで嫌な人だなあと。あ、もちろん、彼はそんな心の狭い人ではないですが。

 確かに、見えないときには二人はうまくいっていたし、そのままの暮らしが続けば、幸せも続いたかもしれない。だけど、目が見えるようになったこと自体は良いことなわけだし、そのことによって二人の関係が変わってきたのなら、それもひとつの真実なのかと。

 ただ、コオロギさんが必死に働いて用意した手術費は、返してあげて~と思いますが(^^;
 手術はすべて、鏡子のためですからね。鏡子が負担すべきものでしょう。コオロギさんはお金返されても受け取らなさそうですが、そこは人として、鏡子はきっちり「ありがとう」って感謝しつつ、返さなきゃいけないよなあと思います。
 そして、コオロギさんはそのお金で、新しい彼女とおいしいものでも食べにいったり、新生活を始める資金にしたらいいかも・・・とか、余計なお世話と思いつつ、そんなことを考えてしまいます。

 結局、相性だなあと思うんです。
 人にはそれぞれ、合う相手というのがいるわけで。条件じゃなく、なんだかわからないけど「好き」って感情がわいちゃう相手。

 コオロギさんにも、この世のどこかに、そういう相手はいるはずで。別にイケメンじゃなくても、お金持ちじゃなくても、そういうの関係なく、コオロギさんの心を好きになってくれる人がいるんだから。その人と幸せになればいい。
 (しかし、そういう人が現れたとき、今度はコオロギさんがその人を好きになれなかったりして・・・。恋愛は難しい(^^; )

 私はこの回で、「愛はあると言え」と、泣きながら百瀬(山崎努さん)にくってかかる亘(わたる)に、心を打たれました。竹野内豊さんは、泣きの演技がすごいです。これが『WITH LOVE』でクールな作曲家を演じていた人と同一人物だとは・・・。

 『WITH LOVE』のときの竹野内さんは、本当にクールで。感情を顕にしないし、喜怒哀楽を心のずっと深いところにしまいこんだまま、な感じがしましたが。『世紀末の詩』の亘は、とても素直。泣き顔を見せることへの羞恥もなくて、純粋なのです。純粋だからこそ、回が進むごとに成長していくのがよくわかりました。

 たとえばこの第二話、コオロギさんと初対面のときの亘は本当にひどかった。転げまわって笑ったりして。いくら「星の王子様じゃなかった」からといって、あれはひどい・・・。
 幼くもあり、鈍感だったりした亘が、いろんな人と触れ合い様々な愛の形を知る中で、成長していく。最後には潜水艦で旅に出る・・・という結末を思うとよけいに、この二話で、人を笑って転げまわっていた亘との違いが、感慨深いです。

 愛はある、と、私自身は思いました。亘は気付いてないと思うけど、亘自身が証明しちゃってます。亘はコオロギさんに共感して、いつもはそれなりに尊敬していた百瀬に対し命令形の言葉を使うほど激昂し、涙を流した。
 亘の中に、愛があったから、ですよね。

 亘の中に愛がなければ、コオロギさんの件は、ふ~ん、で終わってしまったでしょう。コオロギさんの痛みを思い、彼女に憤り、愛があってほしいと痛切に願った、その姿こそが、愛そのものであったと思うのです。

 亘の中に存在する。他者を愛おしく思う気持ち。それは、愛でした。