『レベッカ』観劇記 その6

 昨日のブログの続きです。舞台『レベッカ』を見た感想を書いていますが、ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

 マキシム役の、山口祐一郎さんについて。

 前回見たときに気になっていた、感情が激したときの甲高い声が、全然目立ちませんでした。意識的に低くしたのでしょうか? それとも見ている私のとらえ方の問題なのか? ともかく、この点は、今回全く気になりませんでした。

 モンテカルロのシーンでは、全体的に「陰」を感じないのが残念でした。これ、とても勿体ないと思いました。山口さんは、陰を漂わせるのが上手な役者さんだと思うのに・・・。

 モンテカルロでのマキシム。絶対、落ち込んでいたはずです。そして物思いにふけっていたはずです。ふとした瞬間に、心はいつも、マンダレイに飛んでいたり。レベッカの面影を甦らせて、苦悩していたはずなのに、そういうところがあまり伝わってきませんでした。

 普通に陽気な紳士に見えてしまったのです。煩悶が見えなかった。煩悶、とまで言ってしまうとやりすぎになってしまうのかもしれませんが、ともかく、あまり謎めいたところを感じませんでした。

 ヴァン・ホッパー夫人に呼ばれたときは、もっともっと迷惑そうでもいいんじゃないかなと。紳士だからご婦人の招待は断らない。でも、内心は独りになりたがってるし、ずかずかと遠慮なしに踏み込んでくるヴァン・ホッパー婦人の無神経さを見下している、みたいな。声にもっと、冷たさがあったらよかったなあ。

 それと、「わたし」に興味を示すシーンが、普通の「若い女の子に目を奪われる男」に見えてしまって、それはちょっと、どうかなあと思ってしまいました。

 たぶん、マキシムは最初、ヴァン・ホッパー婦人にアゴで使われている少女に、同情したんだと思うんですよね。それで、義侠心みたいなもので、「わたし」に優しくしたところがあったんだと思うんです。それは全然、恋愛とは関係のないところで。

 だけど山口さんのマキシムを見ていると最初から、恋愛モードっぽい枠で、「わたし」を見ているように、興味をもっているように感じられて、それがちょっと違和感を感じてしまいました。マキシムは、そんなに簡単に心を動かされる人じゃないだろうと。もともと真面目な人だと思うし、ましてレベッカにつけられた傷が癒えていない段階ですから。

 マキシムと「わたし」の間に、最初からあまり壁がないように感じてしまうのも、残念でした。マキシムは始めのうち、「わたし」に対して特別、大きな期待もしていないし、年齢差も感じていたと思うんですよ。しょせん、年の離れた子供、みたいに思っているところがあって。女性として意識しているより、子供という意識が強かったんじゃないのかなあと。

 モンテカルロではもっと「わたし」との間に一定の距離をおいて、他人行儀に接していた方が、紳士としては自然ではないかなあと思いました。舞台を見ていると、少しなれなれしさ、みたいなものを感じてしまいました。

 「わたし」は、雇い主の女性に見下されてる、ちっぽけな女の子。連れ出してあげれば、本人も気晴らしになってうれしいだろうし、自分にとっても、独りでレベッカの思い出と対峙するよりは気が楽。双方、得になることなんだから、という気楽な思いつきで、マキシムは「わたし」を、思い出の丘(崖?)に連れて行ったのかなあって。

 それが思いもかけず、そのちっぽけな女の子が自分を慕ってくれて、どうやら恋しているようで。熱っぽい目でいつも、自分の姿を追いかけている。レベッカからは、決して得られなかった熱情。そりゃ、マキシムだって思われて悪い気はしないだろうし、一途な姿についほだされて、キスしちゃったのかなあ。

 いやーしかし、そのキスが、まさに、とどめを刺す一撃になってしまったわけで。罪深いことをしたものだと思います。あの状況でキスされて、「わたし」がマキシムを忘れられるはずもなく。マキシムにしてみたら、あの時点では結婚なんてまったく考えていなかっただろうし。つい、衝動的に、愛おしくてしてしまった軽いキスだったのでしょうが。

 「わたし」にしてみたら、人生の分岐点ですよ。たぶん初めてキスしたんだと思う。本当はマキシム、大人の分別があるなら(結婚する気もないなら)、あんなとこでキスなんてするなよ~と思っちゃうわけですが、まあ結果的には、流れで結婚することになってよかったのかな(^^;

 「わたし」がマキシムを見つめる、その視線の熱さは一幕も二幕も変わらず。むしろ時の経過とともに強くなっていくわけですが。真相の告白を受けた後では、さらに愛情は深くなったとさえ思うのですが。対するマキシムはどうでしょうか。

 確かに、マキシムは「わたし」を好きだと思う。愛してるのかもしれない。だけどその愛は、「わたし」がマキシムに注ぐものとは、異質のもののように感じました。

 「わたし」は可愛いです。あんなに真っ直ぐに、あなたが好き光線を発射され続けたら、そりゃあもう、ある意味、マキシムは救いを求めるような気持ちになってしまうと思う。だけどマキシムの声は、「わたし」に恋していなかった・・・ように聞こえました。

 マキシムはもしかしたら、許してもらえる相手を探していたのかもしれない。全部を知った上で、受け入れてくれる相手。自分以外の誰かに許してもらうことによって、レベッカの死、自分の罪を忘れたかったのかもしれない。

 「わたし」が告白の後にも、態度を変えなかったこと。両手を広げてマキシムのすべてを受け入れてくれたこと。そのことがどんなにか、マキシムを癒しただろうと思います。彼はたった一人で、レベッカの影と戦っていたから。

 だけど、マキシムは「わたし」を本当の意味では愛さなかった。最後まで・・・。というのを、今回の観劇で感じましたね。

 かみ合わなさ、のようなものが伝わってきたというか。ああ、本当に好きな相手ではないんだなと思わせる空気があったというか。マキシムと「わたし」を見ていたら、「わたし」が片思いをしているようにも思えました。

 たぶん「わたし」は気付かない。「わたし」の目には、マキシムのすべてが見えていない。

 山口マキシムの歌は、やはり今回も凄かったです。

 山口さんの歌を聴くと、心が震えるんですよね。自分の感情がざわざわと波打っていくのがわかる。あの声。なんて声してるんだろうと思う。やっぱりその声は特別で、胸に響きます。

 「ああ強くなろう」という歌詞のところが、特によかったです。マキシムが心底、そう思っているのが伝わってきて。

 マンダレイ炎上シーンの歌のところでも、父から受け継いだ誇りうんぬんという言葉があったと思うのですが、そして、ベアトリスの言葉にもあったと思うのですが、マキシムは名門の跡取りだったから。

 幼い頃から、弱音を吐くことを恥として育てられたんじゃないでしょうか。恐さや弱さをぐっと飲みこんで、どんなことに対しても、たった一人で戦ってきたんじゃないかと。

 レベッカに出会い、そのキラキラした生命力に惹かれ、彼女と結婚して彼女になら、自分の弱さを打ち明けられると思った。きっとレベッカは豪快に笑い、マキシムの悩みを軽々と、半分背負ってくれるのではないかと、そう期待する部分があったんではないでしょうか。

 だけど駄目だった。だからマキシムはやっぱり、独りで戦わなくちゃならないと思った。強くならなくては。自分がマンダレイを背負っているのだから、誰にも弱さをみせるわけにはいけないと。そんなマキシムが、自分に言い聞かせるように歌っている「強くなろう」という言葉。

 「わたし」にレベッカの死の真相を告白する歌、『凍りつく微笑』も迫力でした。マキシムが冷静さを失い、感情に流され、その理性のほころびから垣間見えるレベッカの姿。

 「ねえ、子供ができたら嬉しいでしょう」という言葉にこめられた、ぞっとするほどの悪意。レベッカの浮かべた、氷のような微笑が想像できました。

 マキシムが両手を天に差し伸べるようにして歌うところ、その姿がよかったです。

 「わかってた。わかってた。彼女の勝ちと」その悲痛な、マキシムの叫び。レベッカの影に長いこと苦しめられ、抗い続け、そして敗北を認めざるを得なかったマキシムの悲鳴。勝ち目のない戦いだったのだと、その苦しさを爆発させています。

 エピローグ。地中海でのその後の生活を歌う、「わたし」の背後。窓ガラスの向こうから、緑のライトが差し込むようなセット。これは夢に出てくるマンダレイのお屋敷を表しているのでしょうか。この雰囲気がすごく素敵なのです。

 どこか懐かしい、せつない、幻想的な光。

 「わたし」は幸せだったのだろうか。マキシムはきっと、「わたし」以上に何度も、あのマンダレイの夢をみたに違いないと思います。

 「わたし」が、うなされるマキシムの声に目を覚まして、隣で眠るマキシムの寝顔を見たとき。月光に照らされたその寝顔を、どんな気持ちでみつめただろうと、そう思うのです。

 まだまだ進化し続ける舞台、『レベッカ』。6月に入ったら、もう1度見ようと思っています。どんな新しいレベッカが見られるのか、とても楽しみです。 

『レベッカ』観劇記 その5

 5月17日(土)ソワレ。シアタークリエで上演中の『レベッカ』を見てきました。感想を書いていますが、ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。本音で書いているので、少し辛辣な意見になってしまっているところもあります。ちなみにブログのタイトルは「観劇記その5」になっていますが、これは5回見たという意味ではなく、観劇記として書くのが、5度目という意味です。

 

 今回で、観劇は2度目。席は前回と同じくセンター後方。傾斜がついているので、前の人の頭が全く気にならず、かなり見やすかったです。

 この『レベッカ』という舞台は、帝国劇場に似合うミュージカルだと思いました。舞台と客席の近さは臨場感につながるのですが、むしろ『レベッカ』には、距離感があった方が幻想的で迫力が出るのかなあと。クリエよりももっと大きな劇場で。客席と舞台にある程度の境界線を意識しながら、別世界を覗き見るような形が合うような気がしました。

 自分のすぐそばにあるような物語とは、また違うように思うのです。2度目に見て、それを強く感じました。距離感こそが夢のような雰囲気を盛り上げ、荘厳な空気を醸し出すのではないかと・・・。

 役者さんの熱演を近くで見られるという利点は、たしかにその通りなんですが、演目によってはむしろ、大劇場でこそ活きる物語があると思います。

 たとえば2006年に帝劇で上演された『ダンス・オブ・ヴァンパイア』などは、クリエで見たいと思わないですからね。ちょっと話が逸れてしまいましたが(^^;

 では、今回の観劇の感想を思いつくままに書いていきます。

 山口祐一郎さんの演じるマキシムは、、大塚ちひろさん演じる「わたし」とかなり温度差がある演技だと思いました。

 大塚さんの「わたし」は本当に、まっすぐに愛をぶつけてくる。その純粋さを可愛いと思い、マキシムの心が揺らぐんですけども。やはり若くて綺麗な女の子に、あんな風に慕われたら悪い気はしないわけで。

 ただそれが、本当の愛にはつながらなかった、というのが伝わってきたような気がしました。

 「わたし」は熱い。

 マキシムは冷たい。

 マキシムはやはり、レベッカの影に囚われてましたね。最初から最後まで。

 マンダレイのお屋敷の壁に、ツタの模様が描かれているのがとても象徴的です。ツタは、きっとレベッカの隠喩。シルビア・グラブさん演じるダンヴァース夫人が哀れに見えました。意地悪な人というより、レベッカに囚われた被害者的な面を強く感じてしまって。

 レベッカがまだ小さな女の子だった頃からお世話をしてきて、お嫁入り先にまで伴われた彼女。

 レベッカとはそんなに年が違わないのかなあと想像しました。しかし、生まれながらの身分の差を、実感せずにはいられない日々なわけです。

 そう、ダンヴァース夫人にとってのアイデンティティは、「レベッカが一番信頼しているメイドとしての自分」にあったんだなあと。カリスマ性のある、小悪魔的なところに魅了される一方で、自分が仕える相手が一流の主人であってほしいという、そんな彼女自身の願いもあったのかな。

 どのみち、メイドという身分からは一生逃れられない。間違っても、大きなお屋敷の女主人になどなれるはずもなくて。だったら、メイドの中でも一番上になりたい。自分の仕える主人こそ、一流の、誰からも崇拝される人であってほしいと。主人が皆に評価される人物=その主人に仕える自分は素晴らしい、みたいな思いがあったんじゃないかと思いました。

 だからこそレベッカが不慮の死を遂げたことで、ダンヴァースの自信は大きく揺らぐんですよね。レベッカがいない世界に、自分の存在価値などあるのだろうかという。

 そこへもってきて、新しいミセス・ド・ウィンターとしてやってきた新妻「わたし」は、なんの取柄もなさそうな、ただの女の子。仕えることに誇りを持てる相手ではない。

 こんな子供が、マンダレイの女主人になる・・・。

 ダンヴァース夫人が感じた憤りは、わかるような気がします。

 どうしようもないことではあるし、「わたし」に罪があることではないけれど。ダンヴァース夫人にしてみたら、ますますレベッカへの思いが募る結果になってしまったわけで。

 シルビアさんの演じるダンヴァース夫人の声には、嫌味を感じませんでした。いい人っぽいと思いました。感情を押し殺したような低い声ですが、その向こうには、邪悪なものを感じなかった。

 マキシムの愛を確認してめきめきと強くなり、自信をつけ、ダンヴァース夫人の思いがこもったキューピットの像を割ってしまう「わたし」の前で、ダンヴァース夫人は弱く、儚い人に思えました。

 大塚ちひろさんの演じる「わたし」に関しては、最初からすごく強い人に見えるのが残念でした。後半はそれがぴったりなんですが、マキシムとの出会いから、その愛を確信するまで。もっと自信のない、弱々しいイメージでもいいんじゃないかなと。そうすれば、マキシムからレベッカの死の真相を聞いた後の、劇的な変身ぶりが際立って、もっと舞台が盛り上がるのではと思いました。

 大塚さんは2006年の『ダンス・オブ・ヴァンパイア』のサラ役よりも、この「わたし」役の方が合ってます。マキシムへの思いを歌い上げる声の力強さは、ぴったりです。

 それから、ヴァン・ホッパー夫人役の寿ひずるさん。素敵でした。セリフのよどみなさ、間の取り方、引き込まれてしまいます。

 ヴァン・ホッパー夫人が絡むシーンは、この舞台の中でもコミカルなシーンが多いわけですが、見事にアメリカンな夫人のキャラを演じきっていました。たぶんヴァン・ホッパー夫人は、世界は自分を中心に回っていると信じきっているキャラだと思うのですが、寿さん、なりきっていましたね。

 マキシムとやりとりするシーンで強く感じたのは、マキシム役の山口さんが、安心して寿さんに委ねているという空気です。寿さんに任せておけば安心、みたいな。

 実際、本当にリラックスして楽しめる場面でした。危なげなく笑ってみていられる。

 寿さんは、ヴァン・ホッパー夫人そのものでしたから。たとえなにか、ちょっとしたアクシデントがあっても、きっとヴァン・ホッパー夫人は動じることなく、その場をうまく回していくだろうなあという確信がありました。

 

 一番最初に登場する場面で、ヴァン・ホッパー夫人が着ているドレス。ターコイズブルーというんでしょうか。とても綺麗な色で、いかにも、ヴァン・ホッパー夫人が好みそうな色だなあと思いました。すごく印象的です。

 最初の登場にあの色を使うことで、視覚的にも、彼女がどんな性格かということをよく表現できていたと思います。

 色といえば、仮装舞踏会のテーマカラーが、赤・黒・白なんですね。この色彩感覚も、いいなあと思って見ていました。仮装だからといって、奇を衒って無秩序になってしまうと、見る方も気持ち悪くなってしまうと思うのです。そこが、赤・黒・白の大枠の中での、バリエーションということになると、全体的に調和がとれていてすっきりしていました。

 パーティーで大騒ぎ、といっても、そこはかとない気品があって、さすがマンダレイという雰囲気です。

 ファヴェル役の吉野圭吾さん。体を横から見たとき、細いのに驚きました。スマートなんですね。でもスマートすぎて、私が想像するジャック・ファベル像の、あざとさが出ていなかったような気がしました。

 私が想像するファヴェル。どちらかというと、恰幅のいい、浅黒い肌の男性なのです。

 ダンスシーンは堪能しました。要所要所で、ピタっと決めてくれて所作が美しいです。バレエを見ているようでした。足を上げる位置も高いのです。あのダンスをするなら、吉野さんくらい細い方が見栄えがいいと思いました。

 それから、フランク役の石川禅さん。前回見たときにはなんとなく、気の弱そうなイメージがあったのですが、歌声が力強く、美声なので驚きました。うーん。これは、フランクというよりは、マキシムのイメージに近いのかも。

 私のイメージするフランクは、朴訥な感じなのですが、石川さんのフランクには、主役的な二枚目の匂いを感じました。

 ベン役の治田敦さんですが、体全体の動きがとても自然で、ベンそのものになりきっているのが伝わってきました。歌よりも、動きに魅入られてしまいました。ベンは、体で言葉を表現しているのかなあと。

 ただちょっと違和感があったのが、最初に「わたし」と出会ったときに、あまり警戒感を抱いていないように見えてしまったのです。最初から、ある程度「わたし」を信頼してしまっているように感じてしまいました。

 ベンはレベッカの件で、初対面の人間に対してナーバスになっている一面があって当然だと思うんですよね。きっと、貝殻を褒められたのをきっかけに、一気に打ち解けたんじゃないかなと。だから、それまでの警戒心をもっと大げさに出した方がいいんじゃないかなあと思ってしまいました。

 長くなりましたので、続きは後日。

レベッカの目線 マキシムの目線 その3

 昨日のブログの続きです。舞台『レベッカ』を見て思ったことなどを書いています。ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

 こういう強烈な体験をしてしまうと、どこかでちゃんと断ち切らない限り、幸せにはなれないと思いました。たとえばマキシムを助けてくれる人が目の前にいても、それが正しく見えなくなってしまうんじゃないでしょうか。普通ではなく、独特のフィルターを通して見てしまうようになるから。レベッカの透明な腕が、彼をぎゅっと抱きしめて、幸せな道へと向かわせない。

 レベッカの見えない腕で操られていることにすら気付かずに、その手の導く方へ、ふらふらと歩いていく。

 マキシムが不幸であればあるほど、レベッカは高笑いをして彼をさらに、地獄へ地獄へと誘う。この世で、幸せになんて絶対させないという、恐ろしい執念。

 山口さんが演じたマキシムを見ていたら、こんなレベッカ像が浮かんできました。最初はモノクロで輪郭も定かでない人物が、カラーになり、言葉を話し、音楽を身に纏ったのです。私は山口さんの声の向こうに、数えきれないほどの物語を、見たような気がしました。マキシムがそこに到るまでの物語です。

 こんな風に、観客の心に、目の前に広がる舞台以上の幻想を描き出す演技って、すごいなあと思いました。もちろん、脚本や演出や美術、衣装、音楽という連携があってこそですけれど、やはり中心にいるのは役者だと思うので。幾人もの手を経て彩られた物語を、最後に、観客に渡す役割はやっぱり俳優さんです。

 それで、山口さんの場合、歌が凄い。台詞もいいけど、歌でも鮮やかに伝わってくる。声に感情が乗っているのです。目を凝らせばいくらでもその奥に、風景が広がっている。だから客席にいながら、私は瞬時に別次元へ、マキシムの暮らす土地へ飛べたような気がしました。

 今回の観劇は、席が後ろの方だったのでよけいに、歌を堪能しました。表情の細かい部分は見えないので。声が伝える情報は、劇場という空間の中では日常以上に、大きいのだと思います。

 山口さん自身は、マキシムをどうとらえているんだろう? どんな目でレベッカを見て、「わたし」に出会い、そしてレベッカを回想しているんだろう? 山口さんがどんなマキシムを心に描いているのか、聞いてみたいです。きっと独特の言葉で、その目に映る景色のことを解説してくれそうですね。

 死者には勝てない。そんな言葉を思い出しました。

 いい思い出だけが残るそうです。だから、その後どんなに素敵な人が現れても、一番はその、亡くなった人だそうです。生きていればその人の嫌な面を見ることになったかもしれない。でも、記憶の中のその人はもう、意地悪なんてしないから。いい思い出だけを繰り返し、たどることになるわけで。日がたつごとに、遠い日の風景は美化されていきます。

 精神的呪縛や記憶を、完璧に消すことなんて、無理なのかもしれません。いくつもの過去が、現在のその人を作り上げるわけで。「わたし」が出会ったとき、マキシムはすでに「レベッカ」を心に抱いていた。そして「わたし」が好きになったのは、レベッカごとの、マキシムだったと。

 ここらへんの感情は、高橋留美子さん原作の「めぞん一刻」、五代くんにも通じますね。実はこれを書いているとき、私の頭の中には五代くんの台詞が頭の中にありました。お墓の前での誓い。名シーンです。

 マキシムにとってレベッカは。いい思い出ばかりではなかったかもしれないけどとにかく強烈で、魅力的な人だったでしょうね。どこかで繋がるものを、直感で感じたのだと思います。たとえ破滅することがわかっていたとしても、近付かずにはいられないほど。

 舞台をバトンに例えるなら。

 ほい、って手渡されて、渡された観客が、そのバトンをしばし握り締めて、物語の世界に身を浸す。そのバトンを持っていると、遠い記憶が甦ってうずうずするみたいなところがあって。そして、その刺激が絵筆となる。観客は、バトンに自分の思う色を塗る。

 だから、元は同じものでも、見た観客の数だけ、違うバトンが出来上がって。

 きっと何度も見に行けば、そのたびごとに、違う色が塗られていくバトン。私が見た日の『レベッカ』バトンには、まだ白い部分が所々ありました。何の色にも染まっていない代わりに、どんな色にでも変わることのできる可能性。

 次の観劇日には、どんな色のバトンがもらえるんだろうか。楽しみに待っています。何度も、舞台を思い返しているのです。

レベッカの目線、マキシムの目線 その2

 昨日の続きです。舞台『レベッカ』を見て、レベッカとマキシムの関係について考察していますが、ネタバレしていますので未見の方はご注意ください。

 そのとききっと、レベッカは幻を見たでしょう。マキシムの後妻として迎えられた、良家の子女。レベッカの思い出から逃れるかのように、マキシムが選ぶのはおそらく、自分とは正反対の女性。無邪気な笑顔。幼さを宿す横顔、素直な言葉。

 「マキシム。愛してます」

 「マキシム、ありがとう。私も大好きよ」

 自分がどうしても言えなかった言葉を、なんのためらいもなく口にして、そしてマキシムの抱擁に、うっとりと頬を染めるその人。レベッカはきっと、想像の中のその人を、メラメラと燃える炎の熱さで、にらみつけたはずです。

 レベッカの胸中は、こんな感じだったと思われます。

 レベッカの番外編。以下、勝手に短編で書いてみました。

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 どうして私が死ななきゃならないの? 

 どうして完璧なこの私が、負けなきゃいけないの?

 マキシムの妻はこの私。

 それなのに、私はこのまま忘れ去られようとしている。

 いつか、陽だまりの庭で、少女はあどけなく尋ねるだろう。

「前の奥様を、愛してた?」

 マキシムの顔は、さっと曇って。そして困ったように一瞬黙り込み。それから、とってつけたような笑顔でこう返すのだ。

「昔のことさ。今は君が、ミセス・ド・ウィンター。もう2度と、そんなこと口にしないでくれ」

 ああ、そんなの耐えられない。

 レベッカの想像は、痛みを伴いながらもふくらみ続ける。日一日と、このマンダレイからレベッカの影は消えていく。マキシムの心からも、不快な前妻の姿は色あせていき。

「マキシム、赤ちゃんができたの」

「本当かい? 僕たちの子供が」

抱き合う2人の幻影。マキシムは少女を軽々と抱き上げ、喜びのあまりくるくると回転させ、それからはっと気付いて、優しく地面に下ろす。

「体を大切にしなくてはいけないよ。僕たちの子供だ。このマンダレイで育つんだ。みんなみんな、この子のものになる」

 ときは、穏やかに過ぎていくだろう。マキシムと、その新妻。2人はもう、レベッカの名前を口にすることなどなく、この地で笑いさざめき、そして年をとっていく。私がいるべき場所に、私はいない。替わりにいるのは、私とは似ても似つかぬ凡庸な顔の娘。なにも知らないくせに。私が欲しかったものをみんな手に入れて、幸福に酔いしれている。

 私が手にするはずだったまばゆい景色。

 私が受け取るべきあの人の愛情。

 小娘は、そ知らぬ顔で笑っている。

 そんなことが、あっていいものだろうか。

 レベッカは愕然と膝をつく。

 なら、そのすべてを奪ってやろう。

 マキシムは私のもの。私が初めて愛した相手。マキシムの一生を、私で埋め尽くす。

 レベッカが死ぬとき、マキシムも同時に死ぬのだ。この世に残るのはマキシムの屍。マキシムは生涯、私と添い遂げる。このマンダレイの緑に私の姿を見、私の声を聞き、私と寄り添って、私以外には目もくれずに。マキシムの目は、私以外を映さない。どんよりと濁って、過去の幻だけを追い続ける。そんな彼に、誰が恋をするだろうか。

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 おそらく、彼女の心境はこんな感じだったのではないでしょうか。

 彼女の冷徹な理性は、蓄えた情報を総動員して、マキシムが最も激昂する状況を導き出します。そして、マキシムの手によって、自殺を遂げます。

 マキシムの怒りが、レベッカには心地よかったはずです。それは無関心よりずっと、レベッカが欲しかったもののはず。彼女が恐れていたのは、たぶん、マキシムが呆れ果て、レベッカをその手にかけるまでの価値もない相手だとして、軽蔑の表情で背を向けてしまうこと。

 レベッカは、自らの賭けに勝利をおさめたのです。

 ファヴェルとの逢引に怒ったマキシムが、ボート小屋へやって来たこと。

 レベッカの言葉に反応して、彼がその手を汚したこと。

 私は、山口さんの歌の、この部分が特に印象深くて。

>彼女はゆっくりと、立ち上がった

 山口さんの声の向こう。目の前に見えましたよ。ぼーっと白く浮かび上がる、レベッカの姿。死を前に、限りなく優雅な、ゆるやかな動き。マキシムの目に焼き付けるかのように、彼女の持てる力をすべてふりしぼって、美しさを演じてみせた。2度と他の女性を、愛さないように。

 歪んだ心も狂気も、すべてそのなだらかな曲線の肢体に隠して。

 浮かべた天使のような、微笑み。これから起こる惨劇を、最高に盛り上げるために。

 レベッカはきっと、笑っていたでしょう。ぼやけていく意識の中には、マキシムがいて。自分ひとりが寂しく、無の世界へ消えていくわけではないことが、レベッカにはわかったはず。これで、マキシムは永遠に私のものだと、満足したに違いありません。マキシムの性格を、熟知していたはずですから。誰も見ていなかったからと口をつぐんで知らん振りできる、そしてすべてを忘れてしまえる、そんな彼ではないことを、一番知っていたのはレベッカです。

 彼は後悔の念で、何度も何度もレベッカを思い出さざるをえない。

 その苦悩を、十字架を、見届けるようにしてレベッカは死んだのだと思います。

 

 なんという迷惑な人でしょう(^^;

 マキシムも、こんな人に愛されたらたまったものじゃありませんね。

 しかし、この狂気がまた、レベッカの魅力の一つだったのかもしれません。

 長くなりましたので、続きは後日。

レベッカの目線、マキシムの目線 その1

 舞台『レベッカ』を見て、レベッカとマキシムの関係について考察してみました。以下ネタバレしていますので、ご注意ください。

 山口さんには、マキシム役が合っていると思います。実際に舞台を見て、そう思う。小説を読んで、心に描いていた通りのマキシムが、そこにいたから。

 それで、このところぐるぐる頭の中で回っているメロディがある。

>ああ消えるならば すべて消えてしまえ

 これです。何度も何度も、山口マキシムの歌うこのメロディと歌詞が、頭の中で回り続ける。1回しか観劇していないのに、ここのメロディラインはとても印象的なのだ。心のどこかで、マキシムは、もうずっと前から願っていたかもしれないですね。心の奥の奥の、そのまた奥の。誰も見ることのできない場所で、レベッカの幻影がマンダレイごと消えてしまえばいいと。

 心をすべて委ねた人。信じて、自分を明け渡した相手。マキシムにとって、レベッカはそんな相手だったのかなと私は思います。

 そしてレベッカも、きっとマキシムを愛してた。どうしようもないほど歪んだ、憎しみをちりばめた愛でマキシムを締め付けた。

 マキシムが自分に手をかけるよう仕向けるという、そのやり方にレベッカの執着を感じます。もしかしたら、ボート小屋ではファヴェルと待ち合わせていたものの、そこにマキシムが来ることをどこかで期待し、予感していたのではないかとさえ思います。

 レベッカほど頭のきれる人なら、きっと簡単だったはず。あからさまにならない程度に、自分の不品行を匂わす証拠を、あちこちにばらまいておくこと。それを手に入れたマキシムの出方を、レベッカはじっと、見ていたんじゃないかと。

 わざとマキシムの関心を買うように、これでもかとばかりに示威行動に出ているような。子供っぽさは、レベッカのあせりでもあり。

 だって、遊びたいならいくらでも、マキシムの気付かないところでやれるわけです。それだけの頭もあり、財力も、人脈もあるわけで。平穏にすませることはいくらでもできるのに、わざとマキシムに見せ付ける。なぜか。

 マキシムに、嫉妬に狂ってほしいから。

 マキシムに、言ってほしかったんでしょうね。

「君を愛してる。どうか僕だけを見て。君が他の人といるだなんて、耐えられない」

 モンテカルロの丘で、レベッカは仮面をとった自分を初めて、マキシムに曝け出しました。対するマキシムは、憤りながらも、虚飾の夫婦関係を生涯続けようと決めたわけで。

 これは、レベッカにはかなりの屈辱だったでしょう。

 なんとなくだけど、私の解釈だけど、レベッカはやっぱり、マキシムが好きだったんだと思うのです。だから、あの告白の後で、マキシムが現状維持を決めたことが、大ショックだったんじゃないでしょうか。

 それは、マキシムの「愛してない宣言」にも等しい。普通に考えて、愛してる人に「これから浮気しまくるけどよろしくね」なんて言われて、ああそうですかと耐えられるわけがない。それでもOKと思えるのは、相手のことをどうでもいいと思っているから。相手よりも、マンダレイの名誉を守ることが大事だと、そういうことだから。

 レベッカのマキシムへの執着には、自分を振り向いてくれなかった想い人に対する意地、それ以上のものを感じます。

 でも皮肉なもので、私はマキシムはレベッカに夢中だったと思うんですよね。気付いてないのはレベッカだけ。

 マキシムがすべてを知ったにも関わらず、レベッカと離婚しなかった本当の理由。

 どこかで夢見る部分があったんじゃないかと。一緒に暮らし始めたら、レベッカも変わってくるんじゃないかという淡い期待。それに、レベッカの告白があまりにも自分の理解の範囲を超えたもので、まさかそんな、と。信じたくなかった気持ち。

 自分をわざと、悪く見せてるんじゃないかと、悪ぶっているんじゃないかと、そんなかすかな希望にすがったのかもしれない。

 ボート小屋で、マキシムと向かい合ったレベッカ。

 余命わずかと知って、もう今さら、マキシムから愛されたいとは思わなかったのかもしれません。奇跡がおこって、もしマキシムが優しい笑顔で両手を広げてくれたとしても。すぐ目の先に、終わりの日が見えてる。去っていかなければならないのは自分だけ。その胸に飛び込んで、今さら夢を見ても、そんな幸福な日々はほんのつかの間。期限付きの虚しい夢。

 マキシムの魅力を、一番わかっていたのはレベッカだったのかもしれません。さんざん好き放題にしてきた末に出会った、初めて自分の心を動かされる相手。貴族の称号や、莫大な財産すら、個人の魅力の前には霞んで見える。世界の中心、女王のように振舞ったレベッカが、初めて屈服した相手、それがマキシムで。

 自分がいなくなれば、すぐにマキシムは後妻を迎えるだろう。

 マキシムの魅力は、自分が一番よくわかってる。

 誰もがマキシムに惹かれ、誰もがマキシムを愛するだろう。そしてその相手は、自分がこんなにあがいても得られなかった「マキシムの愛」を、たやすく手に入れるに違いない。

 レベッカはそう考え、一層深い、苦悩の海に溺れます。

 長くなりましたので、続きは後日。