なんとなく見始めたら、意外に面白かったドラマ。
以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので未見の方はご注意ください。
いろいろツッコミどころはありますが、主人公二人は役にはまってて魅力的だと思います。特に、福山雅治さんは、神代広平という役にぴったりです。
無表情なシーンが特に、いいなあと。
普通、感情を出さないと、怒ってるみたいに見えたりしがちだと思うんですが。福山雅治さんの場合、怖くみえない。
その、感情をあらわにしない顔がいいのです。なんというか、興味をそそられるというか。
逆に、ふっと引き込まれてしまうというか。
企業カウンセラーの神代と、整備工場で働く佐野さくら(演じるのは藤原さくらさん)の物語なのですが、二人の年齢差が、ドラマの始まる前から話題になっていましたね。実年齢だと、さくらさん20才、福山さん47才。その差は27才。親子でもおかしくない。
ただ、ドラマを見ると、二人の間に恋愛感情があったとしても自然な雰囲気に思えるんですよ。福山さんはかっこいいし年齢なりの頼りがいもあって、二十歳の女の子が憧れるのも、そりゃそうだよねと。
私は福山さんに関しては、昔より今の方がかっこいいなあと思います。昔はチャラいお兄ちゃんにしか見えませんでした(^^;
今もチャラくないとはいいませんが、チャラさが薄まり、その分、大人の男性の魅力が増したんじゃないかと。
元音楽家が、知り合った女性との交流を通じて自分の過去と向き合い、変わっていく。そんな設定を聞くと、どうしても連想してしまうのが、90年代のドラマ『WITH LOVE』。
職業に元か現かの違いはあれど、音楽を通じての触れ合い、癒し、変化は、『WITH LOVE』と同じこと。
過去に、失った恋人との痛い思い出がからんでいることも、両作品共通の設定。
神代の場合は、まだ宍戸春乃(新山詩織さん)と、どのような別れがあったのか、詳細はまだ明らかになっていませんが。確かなのは、春乃がもう、亡くなっているという事実。
亡くなった春乃の妹、夏希(水野美紀さん)のセリフは意味深です。
>逆にこれでよかったのかもね。
>これでさくらちゃん、お姉ちゃんみたいに広兄に・・(口ごもる)
>利用されなくてすむんだね。
夏希が、思わず口にしようとした言葉、私には、「これで広兄に、殺されなくてすむんだね」、のように聞こえました。あくまで想像ですけど。実際には、音になっていない。
なかなか過去をふっきれない、いつまでも春乃の影を追いかけ続ける神代に対しての苛立ちが、夏希の本音が、思わず言葉になりそうになった瞬間ではなかったかと。
軽々しく口にしていい言葉ではないとわかっているから、夏希はすんでのところで飲みこんだものの。
彼女が今も心の底で、姉の死の責任を神代に求めているということ。それを神代が知ってしまった事実は重いのではないでしょうか。
お互いに少しずつ遠慮して。本当の気持ちを隠しながら、もどかしい距離で接している神代と夏希。
大人には、ずるさも駆け引きもある。
神代に特別な悪気があるわけではないのでしょうが、彼は夏希の恋心を利用して、ちゃっかり家に居候している。自分で部屋を借りないのは、寂しいからなのかなと。
ドラマの冒頭では、別の女の人の部屋で同棲してたみたいだし。でも別に、真剣に付き合ってるふうでもなく。
(ちなみにこのドラマ冒頭の、ベッドいちゃつきシーンは非常に気持ち悪かったです)(^^;
企業カウンセラーという職業を選んだことも。人の心とがっちり向き合う生活を選んだのは、人が好きだからでしょう?
誰かと深く向き合うことは面倒。けれど独りは寂しい。
夏希には心を許しているから、神代にとって夏希の家はとても心地がいいわけで。彼は夏希の気持ちに気付かないふりをしながら、彼女にとっては残酷な同居を、甘えるようにして続けている。
そして、さくらに対しても。神代はさくらの恋心を利用して、彼女の吃音を直そうと試みている。その過程において、彼女が生み出すであろう音楽に興味を持ち、聴きたいと願っている。
夏希も、さくらを利用しているのは事実。音楽を使って吃音の治療を試みる。その時に、音楽担当が神代である必要性は全くないわけで。
音楽から離れてしまった神代を音楽に戻そうとする行為は、お姉ちゃんを忘れて私を見て、というアピールのように思えるのです。過去にとらわれて動き出せない神代を、ただ単に思いやっているのとは違う。その向こうに、自分との未来をどこか、夢見ているような。
そして、そんないろいろ複雑な思惑の絡む大人二人と対照的だからこそ、さくらの若さが光るのです。
単純。もうね、神代や夏希からしたら、さくらの恋心なんてバレバレで。そして、さくらが吃音を治したいと思ってるその気持ちは、まぎれもなく本物で。彼女は人とのコミュニケーションがうまくいかないことを、諦めてない。なんとかしたいと思っている。吃音が治ったら、世界は変わるんじゃないかと期待してる。
なにより、さくらは、吃音を恋心に利用していない。そこが大人二人と違うところ。
さくらが今の自分を変えたいと、焦る気持ちはわかります。まだ若いから、世界が狭いわけです。その狭い世界、職場での女性同士の人間関係。はっきり言って、さくらの同僚3人は最低の部類。あんな同僚と一緒にいたら、逃げ出したくなるのも無理はない。同僚たちの会話の節々に現れる、侮蔑の心。
さくらを下に見てるんだろうなっていうのが透けて見えるのです。だから、さくらがやっと予約した歓迎会の店を自分たちが勝手に変えても、彼女らは心なんて痛まないのです。自分たちが逆のことされたら、絶対怒るだろうに。
私はタバコ吸う人は大嫌いなのですが、さくらがタバコを吸うのは許せてしまう。いや、もちろん早々にタバコなんてやめてほしいけど。さくらの今までの人生で、彼女がタバコを吸わざるを得なかったのはわかるような気がするのです。 まず第一に、さくらはタバコで吃音の症状が緩和すると信じていたから。愚かですけど。治したいという藁にもすがる思いがあったのかと。
そしてね。さくらが無理して付き合ってる女子の同僚3人。これがタバコ吸ってるからね~。さくらが吸ってしまうのも必然だと思いました。さくらは彼女たちから浮かないように、必死に合わせてるから。可哀想に。
周りがタバコ吸う人間ばかりだったら、吸わないのが異端になってしまうわけです。もしさくらがタバコを吸っていなければ、彼女の職場での立ち位置がどうなっていたか。
きっとこの先、さくらはタバコをやめると思います。神代と出会い、音楽を知って、自分に自信をもてたなら。違うステージに立つことができます。そのステージにはもう、タバコを吸う同僚3人はいない。違う人間関係が広がっているはず。そこにはタバコを吸う人たちはいないのではないかと、希望的推測。
さくらが神代の前で初めて歌った、『500マイル』という曲。ゆっくり朴訥としたメロディに乗って、どもらずに言葉を伝えられた初めての経験。途中、涙したのは、嬉しかったんだと思います。ああ、ちゃんと伝えられる。みんなと同じようにしゃべれるんだって。
「抑えて」という繰り返しのフレーズで詰まったとき、映像としては語られない、さくらのこれまでの人生がバーッと目の前に広がるような気がしました。我慢我慢の人生だったのかなと。いつも自分の心を抑えて、抑えて、抑えて生きてきた。言いたいことも飲みこんできた。
でも今は違う。真っすぐに自分を見て、新しい世界にいざなってくれる人がいる。もう我慢しなくていい。抑えなくいい。自分の中にある感情を、素直に出していいんだって。
さくらの人生の、大きな転換点。音楽との出会い。
そりゃ、神代先生に惚れちゃいますわな。この状況で、惚れるなっていう方がおかしい。
神代は、ずるさも持っているけどその反面偉いなと思うのは、さくらの心を知りながらも、引くべき一線はきっちり引いているところです。そんな神代の姿勢が明示されるシーンがこれ。すっかり神代のことが好きになったであろうさくらの、決定的な一言。
>タバコ吸う女って、嫌じゃないですか?
対する神代の答えには痺れました。
>別に。
顔色一つ変えず、クールに言い放つのですね。非の打ちどころがない模範解答ではないですか。
だってもし「嫌だ」と言えば、さくらは嬉々としてタバコをやめるだろうし、そうなれば神代は、さくらの恋心に気付かないふりができなくなる。
そしてもし「嫌じゃない」と言えば、これまたさくらは嬉々としてタバコをくわえるだろうし、そうなればやっぱり、心に気付かないふりができなくなる。知らないふりが、あまりにも嘘くさくなってしまう。
「別に」って、絶妙な答えだなあと思って。さすがモテ男、積んでる経験が違うのか(^^) とっさにきっちり白線を引きましたね。浮かれたさくらが、どうしても飛びこえられないハードル。つまり、「彼女にする女なら気にするが、関係のない女はどうでもいい。喫煙者だろうと構わない」という心の声。それを一言で言いきった。その短さ、冷たさがまた、天に昇ったさくらの心を、しっかり地面に引き戻す。
藤原さくらさんは、佐野さくらさん役にぴったりです。藤原さんの演じる、少し不器用で、純粋で、一生懸命なさくら。もどかしさや、内面にある葛藤、抱えてきた悲しみ、。たまに見せる笑顔が、最高にキュートなのです。
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ドラマ『愛していると言ってくれ』感想 その3
ドラマ『愛していると言ってくれ』の感想を書きます。これで感想を書くのは3度目になります。時間を置いてみると、自分の中で新しい思いも生まれたりするんですよね。最初に見たときには、気付かなかったようなこともあったり。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので未見の方はご注意ください。
ふっと、もう一度見たくなったので見ました。懐かしのこのドラマ。
感想を手短に書きますと、このドラマって結局のところ、「晃次が恋におちて、フラれる話」なんだなあ、としみじみ。
人が恋におちるって、そうそう、こういうことなのよねっていう、いわば恋のあるある(^^;
誰かを好きになるのは理屈じゃなくて。トヨエツの演じる晃次は、決して積極的でもなく、出会いを求めていたわけでもなく。どちらかといえば人を避けて、誰かと親しくなることを恐れていたような人だったと思うのですが。そんな人でも、偶然見かけた常盤貴子さん演じる紘子に出会ったその瞬間から、勝手に心は走り出す~という。
紘子の顔が好み? しぐさが? 笑顔が? リンゴをとってもらったときの反応が? そのすべてが、晃次にとっては、ズキューンときちゃったんだろうなあと思いました。でなければ、紘子にああいう照れたような顔は見せなかっただろうし、夜の公園で稽古中のところを、そっと見てたりしなかっただろうなあ。
まあ、大前提として、人さまの家のリンゴを勝手にとってはいけませんが(^^; たとえ枝が、道路にはみ出していたとしてもね。
私、最初にこのドラマを見たとき、印象としては紘子の愛情>晃次の愛情だったのです。特に物語の前半は。若くて無邪気で、なんのためらいもなく素直に愛情をぶつけてくる紘子が、もう一方的というくらいに晃次に向かっていって、それに引きずられるように晃次も次第に、紘子を好きになる、みたいな。あくまで紘子主体の、そんな印象があったのですが。
今見返すと、これ、ひとめぼれしてるのは晃次の方だ~ということに気付いてしまいました。もう最初から、惹かれてます。
リンゴをあげて、相手を見たときにズッキューンときて。でももう会うこともないと思っていたら、夜の公園で偶然に見かけて。相手がそれを覚えててくれて、話しかけてくれて。それからまた、絵を描いてるときに再会して。本当はドキドキしているのに、紘子はなにも気にせずに気軽に話しかけてくれて、でもうまく答えられなくて。最初からうまくいかないとわかっているし、何も期待なんてしていないけど、それでも心は勝手に走り出す。
だから、目で追ってしまう。紘子の姿を。公園の売店。褒めてくれた色の絵の具を投げてみたり。
唐突に去っていったのは、反応をみるのが怖かったからだね。相当、変な行動だもんね(^^;
いやいや、でも相当だわ。晃次って、女の子に絵の具投げたりするキャラか?っていう。
普段は絶対そんなことしないと思うよ。他の誰にも。それくらい、どうしようもなく恋におちちゃってたんだなあってことが、今はわかる。
公園の野外舞台も、見てたの1度じゃないもんね。
そしてもう言い逃れできない最大の証拠は、家に招いたことだなあ(^^) いくら足にけがしたからって、自分の家に入れないよね、もし他の人だったなら。紘子だから、家に入れてしまったのだと思う。名前も知らない、ほぼ初対面に等しい異性の家に、なんの抵抗感も抱かずいそいそと行ってしまう紘子も紘子だけど。いや、まずいでしょ。たまたま晃次はいい人だったけど。
聞こえないってどんな感じか聞かれて、「夜の海の底にいるような感じ」だなんて、正直に話す義理なんてないのに。好きな人の前では、自分をわかってほしいっていう気持ちがわいたのかな。
好きっていう気持ちは自然なもの。コントロールできないもの。勝手に走り出して、その人がそばにいるだけで嬉しくて、幸せな気持ちになって。
それをあらためて、考えさせられたドラマでした。
晃次も紘子も、好きになろうとして相手を好きになったのではなく。いつの間にか、そうなることが必然だったように。お互いを必要としていた。
第1話で、晃次が自分が描いた絵を紘子にプレゼントしたシーン。もう、これはプロポーズといってもいいんじゃないかと。画家の作品て、その人の心そのものだもんね。僕の心を君にっていう意味。きっと、無意識なのかわかっててやってるのか、その両方なのか。絵の具どころじゃないですよ、もう絵、そのものですもん。
でもその後すぐに、何も告げず引っ越してしまったのはなぜなのか。
私はそこに、晃次の諦めを感じます。
どうせ、うまくいかない。幸せにする自信もない。こんな自分だから。好きだけど、さよなら。せめて君に、僕の心を。この絵を。
引越を告げるほど(関係を深めたいと願うほど)晃次は自分自身にうぬぼれてなんかいなかったのだと思います。
そしてこのドラマ。もうひとつの見どころは、岡田浩暉さん演じる健ちゃんの片思い。本能的なものって、どうしようもないんだなあということを、これでもかとばかりに突き付けられた気がします。
健ちゃんは、紘子とお似合いだから。条件的なことを考えても、紘子と健ちゃんはぴったりなわけですよ。幼馴染だから、同じような環境で育ってる。年も近い。お互いの家族のことだって、よく知っているだろう。加えて健ちゃんは、紘子を愛してる。きっといつまでも大切にしてくれる。なのに、どうしても駄目なんだ。健ちゃんじゃないんだよね。いい人、友人としては好き。でもそれは、恋人じゃない。
もう全話通してだもんね。惜しみなく注がれる愛情。優しさ。見返りを求めずに、健ちゃんはいつも傍にいて、見守ってくれて。
でも努力じゃないんだ。誰かを好きになる気持ち。紘子はどうしても、健ちゃんを好きにはなれなかった。
なのに紘子が健ちゃんと一夜を共にしたってのも、本当に愚行だと思いますが。翌朝の紘子の表情がね、これがまたものすごく素直で。どよ~ん、てしてるの(^^; これ、相手が晃次だったときの、あふれる幸福感との対比がすごい。もうその時点で、健ちゃんとの未来は、一生無理だろと。見てる私は思ってしまいました。嫌なのを我慢して、こんなはずじゃなかったって思いながら健ちゃんと夫婦になるのは間違ってる。いつか破綻する。
ただね、好きでも一緒に幸せにはなれないっていうのは、あるんだなあと思いました。
紘子の決定的なセリフです。
>あなたと一緒にいてもつまんない。
>だって手話ってすごい疲れるし、それに
>好きなCDだって一緒に聴けないもん
私がもし晃次の立場だったら。この瞬間に、すべてが終わります。
紘子はひどいこと言ってるけど、でもそれって、紘子の本音で。それをどうこう言っても仕方ない。だってそれは本当の気持ち。普段は我慢してるだけで、それはいつも、紘子の中にくすぶり続ける気持ちだから。
喧嘩だから、売り言葉に買い言葉だから、というのは言い訳にならない。いいも悪いもなく、紘子にその思いがあるなら、二人はこの先、一緒に暮らしていけない。いつかまた、紘子は爆発するし、晃次は傷つく。
私なら、この時点で完全に諦めます。
>悪かったね
そう返した晃次は大人だなあ。あそこでごちゃごちゃ言っても、紘子は興奮してまた何か、叫び出すだけだろうし。
それでも結局、暴言を許して先に進もうとしたのは、晃次がどうしようもなく紘子を好きだったから、なんでしょうね。理屈では、いろいろわかっていても。
私は以前の感想で、最終回のラスト、紘子はともかくとして晃次には、やり直す気持ちはないだろうと書きましたが。よくよく考えてみると、もしそうなら、わざわざリンゴをとってあげることはなかったかなあという気がしてきました。
あのとき、リンゴをとろうとしていたのが紘子だと、晃次にはわかっていたはずです。知らん顔して、立ち去る選択もあったのに。敢えてあそこで紘子と再会したのはなぜか。
やっぱり好きだから?なのかな。忘れられなくて、だからせっかくのチャンスに目をつぶることができなかったのかと。自分でも馬鹿だと思いつつ、紘子の前に姿を見せずにはいられなかった。そして、紘子が以前と変わらぬ笑顔で微笑んでくれたら?
また始まってしまうのでしょうか、二人の新しい物語。
本当に終わらせたつもりなら、完全に諦めたなら、街ですれ違ったって、気付かないふりするもんなあ。好きって気持ちは、本当にどうしようもないものです。不幸になるとわかっていても、その人を求めてしまう。一緒になっても、またいっぱい喧嘩して、いっぱい傷つくだろうに。それでも。
目の前に現れたら、知らんふりはできないものなのかもしれません。
ドラマ『高校教師』 感想
1993年放送のこのドラマ。今あらためて見ると、昔と感想が違います。
以下、ネタバレ含んだ感想ですので、ドラマ未見の方はご注意ください。
昔見たときは、いろいろありながらも純愛の話だと思ったんですよね。
でも今は違う。
今、改めて見たときに、、桜井幸子さん演じる二宮繭と、持田真樹さん演じる相沢直子の、「ずるさ」を感じてしまう自分がいました。
同時に、脚本を書いた野島伸司さんの、強烈な女性不信感も伝わってきたような…。こんなふうに女性を見ていた人が結婚できた、ということが不思議に思えてしまい。その後の人生で、なにがあったんだろう。聞いてみたいです(^^;
キャスティングはぴったりでしたね。
羽村隆夫を演じた真田広之さんは正統派二枚目で。だけど画面を通して見る羽村先生はとにかくダサく。
これ、上手いな~と思いました。
本当に洗練されてない人がこの役をやったら、惨めすぎて見るのがつらくなってしまうと思うから。真田広之さんだからこそ、羽村先生になれたというか。
不本意ながらバスケ部顧問になり、運動神経のなさを生徒から批判されるシーンとか、見てると本当に運動一切駄目な人に見えて、すごいと思いました。実際にはスポーツ万能だろうになあ。
羽村先生は、ぎりぎりのバランスが重要だと思いました。
果てしなくダサいってのも困るのです。誰にも見向きもされない、視聴者から見てもなんの魅力もない人であってはならないという。
かといって、モテすぎてもダメ。婚約者を失ったときの悲壮感が出なくなってしまうから。生徒からキャーキャー言われてたら、繭につけこまれる心の隙が生まれなくなってしまう。
つけこまれる、とか言ったら言い過ぎなのかもしれませんが。
今、あらためてドラマを見ると、繭をひどいなあと思ってしまうのです。
実際、繭の立場だったら。本気で羽村先生を好きになればなるほど、近づけなくなるのが自然ではないのかなあ。
助けてって、無記名で手紙を書くのは、まだわかる。
でも、あんな風に明るく積極的に、大胆に近付くことが、果たして愛なんだろうかっていう。
自分が女子高生だったときのことを、思い返してみました(^^;
当時のことを思い出してみると、高校生ってもう立派に、大人みたいなことを考えていて。相手の立場を思いやるってことも、十分できるわけです。
繭が羽村先生に近付けば、羽村先生はどんどん立場をなくして。
そして繭は、羽村先生が弱ってるところに、すっと入りこんだのがずるいなあと思ってしまったり。
真面目な先生ですから、たぶんどんな誘惑をされても、プライベートが順調なら決して一線を越えること、なかったと思うんですよね。そもそも、女子高生と二人きりでデートとか、ありえない。
それが、ずるずる繭に押しきられる形になったのは、自分が傷ついていたところに優しく近付いてきたひとだった、というのが大きいかと。
本当に好きだったのか? それは愛なのか? それよりも同情と、たまたまそこに、彼女がいた、というのが理由だったのでは?
羽村先生が繭に向けた感情は、恋愛というよりももっと、別のものだったような気がするのです。
繭のそれは、恋愛感情だったのかもしれないけれど。
でもそこには、羽村先生への立場を思いやる、気遣いのようなものがなくて。私は繭を好きにはなれませんでした。
好きになればなるほど、だから動けなくなるっていうのがなかったような。
繭はあくまで、自分中心のように見えてしまい。
「助けて」「あなたが好き」「助けて」
繭の心中は、すべてそれで占められているようで。
助けてほしかった? でも、羽村先生のことは思いやれない? 子供だから? 十分大人に見えるのに?
誘惑すれば、きっと羽村先生は自分を選んでくれる。そんな繭の気持ちが透けて見えたのは、私が汚れた大人になったからなのでしょうか(^^;
相沢直子に関しても、共感できないところが多かったです。
被害者になったのに、京本政樹さん演じる藤村先生をまだ、慕っているようなふしが見える部分とか。
うーん、それはないと思う。ああいう事件がおこってなお、先生への愛情が勝る、とか。あり得ないなあと思いつつ見ていました。脚本を書いた野沢さんが、そういう目で女性を見ていたとしたら、女性不信もいいところで。
直子はあんなことがあった後で、藤村先生への愛情を残していただけでなく、赤井英和さん演じる新庄先生にたやすく、なんの警戒心もなく近付き、心を許してしまうとか、そのへんがすごく不自然に思えました。本当なら近付けないと思う。むしろ以前よりももっと。
藤村に生理的な嫌悪感をもよおすようになってなお、脅迫に屈せざるを得ない悲劇、ならまだわかるのですが。
藤村先生を演じた京本政樹さんのキャスティングはぴったりでした。美形で、生徒から大人気で、でも目の奥に闇があって何かが壊れてる。
優しい顔で正論を説く、その裏の顔のギャップがすごかった。
赤井英和さんの新庄先生と、見事なまでに対照的なのがいいんですよね。最初は新庄先生が偏屈で嫌味な人物かと思いきや、実は誰よりも生徒思いで、熱血漢で。
無骨だし口下手だし、特別かっこよくもない新庄先生が一番、教師としてはまともだったような。
高校教師。1993年には、普通に22時から放送されていたんだなあ。内容はかなり重いし、本当は深夜枠でもおかしくないかと。うっかり子供が見てしまったら、かなり影響を受けそうです。
電車に乗り、繭にもたれるように、目を閉じた羽村先生。はっきりしない最後も当時、話題を呼びましたが。
私はあれを、心中だと思いました。
もう死ぬしかない、と決めたのは、繭のような気がします。主導権は、繭にあったような気がするのです。繭が生きようと訴えたら、羽村先生もきっと、そうしたはずだと。たとえ罪人になったとしても、です。
結局、羽村先生は繭に引きずられてしまったのだと思いました。いろんな意味で。もちろん大人なのだから、羽村先生にも大きな責任はありますが。
でもこれは、純愛のドラマではない、と、思いました。
自分が羽村先生の立場だったらどうしただろうか、と考えてしまいます。
ドラマ『相棒 season13』最終回 感想
あまり熱心に見ていたドラマではなく、むしろ見ていた回の方が少ないくらいなのですが。最終回は気になっていたので、見た感想を少しだけ書いてみたいと思います。ネタバレありですので、未見の方はご注意ください。
水谷豊さん演じる杉下右京に感じた違和感・・・。
右京さんは、犯罪者になってしまったカイト君に、「待っています」なんて言う人ではないと思う・・・。
ここが、どうしても??でした。右京さんて、そういうキャラじゃないと思うなあ。絶対許さないと思うけど。そして、二度とカイト君に会うこともないと思うのです。
逆に、会ってどうするというんだろう。なんて言葉をかけるんだろう。二度と、信頼できないだろうに。
右京さんのキャラだと、あの空港でもしカイト君が話そうとしても、そのまますーっと立ち去ってしまうんではないかと。無言のまま。何を言われても、振り返ることなくそのまま行ってしまいそうです。
もちろん、カイト君のことを憎んでるとかではなく、自分自身を許してないと思うんですね、右京さんは。
一緒にいながら、上司でありながら気付けなかったことを。
だから、カイト君に請われたところで、今さら彼と話すことなんて絶対ないだろうなあ、と思うわけです。
あそこで、「待っています」だなんて、一番右京さんに似つかわしくない言葉で。右京さんはそんな、嘘をつくだろうかと。
待ってて、どうなるんでしょう。二度と一緒に仕事ができるわけではないのに。かといって、お友達として仲良く、という存在でもないわけで。お世辞とか同情とか、そういうものは右京さんに似つかわしくないのに、カイト君に変な期待持たせて、どうなるというのか。涙するカイト君は、その言葉の虚しさを知っていたように思えました。
待ってるわけないし、未来なんてないもんなあ。右京さんから、本音でない偽りの言葉が出てくるくらいに、二人の距離が離れてしまったことを知ってしまったからこその、カイト君の涙なのかもしれません。
でもカイト君も変だった。
普通、空港には行かないだろうと思いました。行ってどうするのかと。三年も右京さんと一緒にいて、どんな人かよくわかっているだろうに。空港で優しい言葉を聞きたかった? 許してほしかった?
カイト君が動揺したり泣いたりするのは、初めて右京さんに自分の犯罪を告白する、そのときしかないと思いました。そのときこそ、二人の関係が決定的に断絶するときですから。なのに、そこでは案外平然としてて、空港で大泣きって、不自然な感じです。
逆に、自然だと感じたのは、カイト君が、二件目以降の犯行の理由を「わからない」的に言っていたところ。
これは正直な感想なのではないかと思いました。
たぶん、いろんな要素が混ざり合っていたのではないかと。犯罪者への憤りもあり、ヒーロー扱いされることの心地よさもあり、そして何より、どこかで右京さんへの反発もあって。
カイト君なりに、正義と信じていたものが、右京さんの前では全否定されるから。
いろんな思いがあって、ふらふらと犯行を重ねていたのかなあと。一つの明確な理由や、定義があったわけではなく。だから、犯行理由を問われたとき、真摯に答えようとすればするほど、「よくわからない」になってしまうのかなあ。○○だろう、と言われればそんな気もするし、××だろうと言われれば、それも否定できないし、みたいな。
あと、カイト君は案外孤独だったんだなあと思ったのは、恋人の悦子さんのことです。彼女はなんで最初の犯行で、彼の心の闇に気付かなかったのか。結局、同棲していて、子供までできる間柄であっても、心の深い部分で語り合うことはなかったんだなあと。
だから、もうどうしようもないところまで追いつめられて初めて、カイト君がダークナイトだったと気付いたわけで。遅い、遅すぎる。
最初の犯行、それから二度目、三度目、カイト君にはものすごい葛藤があったはずです。同棲してる恋人で、心の深いところで繋がっていたら、それは気付かないはずないだろうなあと思うのですが。
むしろ、右京さんよりも、悦子さんこそカイト君の心に近かったはずなのになあ。
このドラマは、いつも杉下右京を演じる、水谷豊さんの目の鋭さにどきりとさせられます。怖いなあと思ってしまう。普通刑事ドラマって、主役はいい人のはずなんですけども。
でもそういうところが、逆にドラマの魅力にもなっているんでしょう。最終回の余韻が、数日たった今もまだ、私の心に残っています。
ドラマ『永遠のゼロ』 感想
ドラマ『永遠のゼロ』を見ました。以下、感想を書いていますが、ネタバレ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。ちなみに一夜は見ておらず、二夜と三夜だけを見た感想です。
ドラマは三夜放送されるということで、映画よりも時間が長い分、映画で見られなかったいろんなエピソードがきっちり描かれるのではと期待していたのですが、残念でした(^^; なにがって、キャスティングです・・・。
どうしてかなー。一番ひどいと思ったのが、景浦役の、柄本明さん。柄本さんが悪いんじゃなく、柄本さんを起用した人が間違っていると思いました。柄本さんの場合、どうしても志村さんとのコントの印象が強いし、見ていて「これは景浦じゃない」という違和感がすごくて。
映画版の田中泯さんがはまり役だっただけに、とても残念です。景浦の役は、このお話の重要な鍵のはずなのに。そこを外してしまうと、ドラマ全体の仕上がりが間延びしたものになってしまう。
せっかく、これだけの時間を使って描くのになあ、と残念でなりません。飛行機の特撮とか、ロケ地の建物には予算の関係上そんなに費用はかけられなくても、役者さんの演技で魅せてくれたら素晴らしいものになったと思うのです。一人一人がじっくりと宮部を語る、それだけの時間が十分にあったのに。今回、ドラマ化に関して、映画よりも一番有利な点はそこです。長い時間をかけて描けるということ。だからこそ、キャスティングがすごく大切だったのになあ。
なぜ景浦役を柄本明さんにしたのでしょう。
あと、演出もひどいと思いました。景浦が宮部の孫と会うときの、部屋着のようなくたびれた服と、無精ひげ。景浦は元暴力団幹部のはずなのに、宮部の孫に会うとき、そのような格好をするのは考えられません。本当なら、もっときりっとした格好で現れたはずです。たとえ年をとっていたとしても。
そして目の奥には凄みを宿していたでしょうし、触れれば切れるような空気を、ときに漂わせるような人物だったと思うのです。背筋もぴんと伸びて。
柄本さんだと、キャラが違いすぎます。田中泯さんの演じた景浦のことを、何度も思い返してしまいました。田中泯さんの異様なオーラは、映画を見終えた後も、強い印象をいつまでも観客の心に残していたと思います。
ともかく、この景浦役のミスキャスティングがドラマの方向性を、決定づけてしまったような気がしました。他に良い点があっても、総合的にみたとき、このミスキャストの負を挽回できていないです。
他に気になったのは、戦後の松乃があまりにも綺麗な服を着て、髪も乱れず顔にも生活の疲れがなく、苦労したという設定に説得力がまるで感じられない点です。特に、大石とレストランで食事をしたり、その後、話をしたりするシーンなどは、戦後というよりも現代の空気を感じました。真っ白なブラウスの襟。貧しいながらも精一杯のおしゃれというよりは、普通の、豊かになった時代の日本を思わせました。70年代くらいの印象です。
松乃が景浦に助けられるシーンも、想像していたのとずいぶん違っていました。きれいな着物を着て、決して不幸にはみえない、やさぐれてもいない松乃の姿。囲われ者といっても、それなりに幸せそうにさえ見えてしまった。だから景浦が助ける意味が、薄れてしまうのです。景浦が投げつけた財布から、札束が舞うのも興ざめでした。
景浦は松乃を助けに来たのではなく、たまたま組の抗争で押し入ったら、そこに松乃がいたという設定。これもなんだか、残念な気がしました。
苦しんでいる松乃を知り、闇に乗じてたった一人で乗り込む。そして松乃に財布を投げ、「生きろ」と万感の思いをこめて叫ぶ景浦であってほしかったです。
これは映画のときもそうでしたが、戦後の松乃の窮乏ぶりが描かれていないと、大石が登場する意味がなくなってしまうと思うのです。松乃が豊かで幸せであるのなら、大石が助ける必然性もないし、関わることそのものが、単なるメロドラマになってしまいますから。
ドラマの中で、若いときの大石を演じた中村蒼さんは、はまり役だと思いました。生真面目な感じが、まさに大石、という感じで。宮部の目に、妻子を託せる相手として、映るだけの力を持っていたと思います。真面目さや責任感だけでなく、誰かを守るために必要な知性も、十分に感じられて。
広末涼子さんの演じる慶子もよかったな。高山と藤木の間で、傷つきながら、打算もありながら、祖父を知ることで変わっていく姿が見事でした。
あと、永井を演じた小林克也さんもよかった。最初、小林克也さんと気付かなかったです。あまりにも自然な演技で。
ドラマは、映画にはかなわなかったと思いました。キャスティングと演出さえ違っていれば、超える可能性は十分あったと思いますが。残念です。