悟りの夢

 数日前に、面白い夢をみた。

 

 夢の中で、悟りのようなものを開いたのだ。今まで謎に思っていたこととか、全部わかって、「ああ~!!!そうだったのか~!!! でもこれって、もともとわかっていたのに、全部忘れていただけだったよな。そうそう、そうだったんだよ。これだったんだよ」と、ものすごく納得していた。

 

 なのに、起きたらその、悟りらしきものの内容だけが、すっかり抜け落ちていた(^^;

 

 どうしても思い出せない・・・・・・。

 思い出せるのは、その「わかった」ときの、「そうだったのか~~~!!!」という激しい感情の動きだけ。自分が自分でなくなったような、天地がひっくりかえるような、ものすごい衝撃があった。なのに。起きたら肝心な内容が思い出せない・・・というのは、残念でならない。

 

 いったい、夢の中で私は、なにが「わかった」んだろうか。

 わかって嬉しかったのは覚えているのになあ。

 思い出そうとすればするほど、そのときの興奮だけが蘇ってくるのです。

 

 中途半端に夢を覚えてることに、なにか意味はあるのだろうか。

 夢って不思議。だけど面白い。

花を食べた日

 ボリジの花が、咲き乱れています。ということで、初めてボリジを食べました。ムシャムシャと。

 ボリジはハーブの一種です。はっと目を引く、澄んだブルーの花が特徴。花びらは五枚。その可憐な色と形から、星に例える人がいるのも納得です。
 地上に、こぼれ咲いた星に見える。

 色が特に、綺麗なんですよ。なんとも言いようのない、明るい青。和名をルリチシャというそうですが、なるほど、「瑠璃」なんですね。

 花は砂糖菓子にして食べるのがメジャーのようですが、生でも大丈夫と聞いたので、ボール一杯に摘み取った花を洗った後、そのままムシャムシャと食べてみました。

 口の中に広がるほのかな甘み・・・。優しい甘さは、どこか懐かしい。子供時代を思い出しました。
 そうそう、幼馴染と蓮華の蜜を吸ったときの、あの味なんです!

 繊細な後味。くどくはなくて、口のなかにふわっと広がって、ゆっくり消えていきます。その甘みは癖になる。ついつい、何度もボリジに手が伸びてしまいました。

 夕暮れ時、みかんの花の芳香に包まれながら空を眺めていると、時間が経つのも忘れてしまう。
 みかんの花は白くて小さくて、なのになぜ、あんなにもよい香りを強く放つのだろうか。

 そしてその香りは、時間がたつにつれて一層、濃くなっていくのです。いったん日が沈んでしまえば、あっという間に辺りは暗くなり。月の光がぼんやりと照らす果樹園は。

 虫を誘っているのでしょうか。夜の闇が濃くなれば濃くなるほど、風に乗る芳香の心地よさに、思わず深呼吸してしまいます。昼より夜の方がよほど、香りは強いです。そこに立っているだけで、香りのベールに包みこまれます。

 傍で揺れてる梅花空木。清楚な姿に惹かれ、鼻を近付けて匂いを確認。見かけ通り、謙虚で清純な香りでした。百合や薔薇のような、個性の強さはありません。近付いてみなければ香りの有無がわからないほど、ささやかな主張です。

 みかんの花の芳香は、それよりずっと強くて。少し離れた場所にいても、無視できないほどの力で、人を引き寄せます。それは、果実であるみかんとはまた違った、独特の甘さを秘めていて。

 何度も何度も、その香りを胸に吸いこみました。

魔女の家が気になる

 川沿いを自転車に乗って走ると、風が気持ちいい。私は横目で、またあの家を見た。

 いつも、気になるあの家。
 私は勝手に、「魔女の家」と呼んでいる。人さまの家を魔女の家だなんて呼ぶのは失礼なことではあると思いつつも、どうしても見るたびに、心の中でつぶやいてしまうのだ。

 川沿いの道は、田園地帯。田んぼに囲まれた、一区画だけ小高い土地の上に、その家はある。風変わりで、初めて見たときから強烈な印象を残した家。

 真っ白な壁の色は、ケーキに使う生クリームだと思った。その上に乗っかったのは、主張の強い緑の屋根。外国によくあるような、原色のお菓子の色を連想させる。目を引くけど、おいしそうなんだけど、うっかりつまんだら甘くて甘くて、思わずお茶を一気飲みするような、そんな緑。

 窓の位置は、均一ではない。壁も、あちこち引っ込んだり、出っ張ったり、複雑な構造になっている。これだけ外側のデザインに凝ったのなら、きっと部屋の中も、忍者屋敷のようになっているに違いないと思わせるような形。

 その家には生垣も、柵もない。堂々と、田んぼの中に建っている。平凡な田園風景の中に突然現れた、童話の世界。まるでおとぎ話に出てくる、魔女の家だなあと思う。洋風だ。日本の家、の感じが、まるでない。

 どんな人が住んでいるのかなあ、と気になっていた。
 きっと個性の強い人だろうなあ、と想像していた。これだけインパクトのある家に住むんだから、きっとそういう人なんだろう。

 新築のとき、周囲を圧倒するかのようにピカピカで、そして田んぼの中で、周りを圧倒するかのように目立っていたその家に異変が現れたのは、半年もしない頃。長雨がいけなかったのか、真っ白な壁に黒っぽい汚れが目立つようになる。最初は点々にすぎなかったその汚れが、日を追うごとに面積を増していくのを、私は散歩のたびに確認していた。

 あの、生クリームのような輝くばかりの白さが、こんなときには皮肉にも、家の衰えを一層際立たせる効果をもたらす。きっと家主も、それを気にしたのだろう。しばらくたつと、あの生クリームの壁は塗りかえられた。なんと、一転して目立たない茶色へと、変わってしまった。

 たぶん、山小屋風、ログハウスをイメージしているんだと思う。単色ではなくて、不均一なグラデーションがついていた。天然木をそのまま使ったような、ナチュラルなイメージを醸し出している。確かに、汚れは全く目立たなくなった。しかし、以前の家の個性は、どこにもなくなってしまった。

 屋根もそうだ。いつの間にか、あの生き生きとした、目にも眩しい緑は、しだいにくすんで、黒っぽく変色してしまった。

 地味な色目の壁、年代を感じさせる屋根。
 初めてみたとき、思わず息をのんで「魔女の家だ~」と見上げたときのあの衝撃は、もう感じることができない。

 平凡な家になってしまったなあ、と、私は少しがっかりしていた。家は、普通に周囲の景色に埋没してしまう。こういう家なら、他でもよく見かける。どこにでもある、建売住宅の均一デザインのようなものだ。

 だが二階を見て、私の考えは変わった。やっぱりここは魔女の家なのである。どこにでもある家ではなく、ここにしかない家なのだと実感する。

 二階の大きな窓。カーテンがかけられる代わりに、そこには絵が飾ってあるのだ。絵は、窓の外に向けて表が向けられているから、目を凝らせば何が描いてあるか、認識できる。

 とても不思議な絵だった。一本の木。幹を見れば、樹齢何百年という感じの老木で、葉っぱは一枚もついてない。枯れているのか、冬だから落葉しているのか。乾燥した枝が、奇妙にねじれた形で四方に広がっていて。
 背景には荒野が広がっている。空気は暗い。草なんてほとんど生えてない。石がごろごろと転がっていて、後は土。それも、豊穣という言葉からは程遠い、恐らく、人間が長らく足を踏み入れたことのないような、不毛の土地を思わせるような、大地のさま。
 

 地平線の上に広がる空は、不安をかきたてるような暗い色で。夜明けなのか、日暮れなのか、それとも年中曇天なのか。太陽の光が射さないのは、今だけでなく過去も未来もそうなのでは、と、思わず絶望するような混沌の色だった。

 それは、この世の果て・・・とタイトルをつけたくなるような、そういう絵だったのである。

 やっぱりこの家は魔女の家なのだ、と、私は妙に納得した。どんな人が住んでいるのか、ますます興味がわく。こんなに寂しい、荒涼とした風景を描く人の心の内は、どんなものなのだろうか。

 建てたばかりの、お菓子の家のような甘ったるさにも心惹かれたけれど。こんな風に目立たない風体に形を変えた後でさえ、そこには強烈な個性がある。
 

 この世の果てか。はたまた異世界か。
 寂しさを感じさせる絵ではあったが、どこかノスタルジックでもあり、その場所に行ってみたいなあ、と私は思った。架空の場所だろうか。モデルはあるのだろうか。あの絵の場所に立ったら、いったいどういう気持ちになるだろうか。

 私は、これからもその家をこっそり「魔女の家」と呼び、その絵を遠くから、楽しみに鑑賞するだろう。

冬、午後3時の光の色

 冬の日の午後3時。

 それを過ぎると、光が色を変える、と思う。

 学生時代、ずっと家庭教師のバイトをしていた。

 ある年、受験する子に、つきっきりで教えていた。一日2時間なんてレベルでなく、朝9時から夕方の5時まで。その子の部屋で、ペンを走らせるその子からふと目を離して、窓の外を見ると。

 光が色を変えているのだ。

 私は、その風景が好きだった。

 たとえば、ランダムに様々な季節、時間のその場に置かれたとして。それがいつなのか知らされずに、ぽんっと、その場所に放り出されたとする。それでもどんなに似た風景の中でも私は、間違えずに「これが冬の日の午後3時」だと、当てることができるという確信があった。光の量が同じでも、冬の日の午後3時には、独特の色があったから。

 まだ明るいのに、終わりを予感させる光だから。

 とても寂しくて、静かで。まだ十分明るいのに、さよならを言われたようで、でもなす術がない。

 絵本の長者の話を思い出す。

 なんだっけな。富も権力も手に入れて、それで扇で沈みかけた陽を呼び戻すんだよね。

 そんな傲慢な長者の願いなんて、かなうはずがないと思いきや、太陽は扇の動きに合わせて、引き戻されて。

 それで長者は大喜びするんだけど。

 結末は、やっぱり長者がどん底に突き落とされる話だったような。詳細は覚えていないけど、悲劇に終わった、という曖昧な記憶がある。

 やっぱりね。太陽を自由にするなんて、そんなこと、できやしないんだ。

 なんて、当たり前のことを、繰り返し思った記憶がある。

 冬の日の午後3時。

 ファンヒーターでよく暖められた部屋。

 ペンの走る微かな音。

 窓の外には、淋しい光。隣のビルを、明るく照らしだす。だけどその光は、終わりを暗喩して、せつない。

 もうすぐだなあ、と私は思う。

 今は、夕暮れとは程遠い明るさで。その明るさだけみたら、まるで午前中のようにも見えるけれど。

 私にはわかる。終焉を含んだ光の色。

 そして、時を経てもやはり、冬の日の、午後3時の光の色は変わらないなあと思うのだ。

 暗室のような、隠れ里のような静かな部屋から引越した。

 光あふれる、風通しのよいこの部屋に越してきて。

 レースのカーテンが、風に揺れるのをぼんやり見ていたり。

 窓越しの光がまぶしいのを、空の色を、いい天気だなあって眺める休日の午後だったりするのだが。

 3時を過ぎれば、光の色はやはり、寂しさを伴う。光量だけでみれば、いっそ強烈にも思えるのに、この色はいったい、なんなんだろうか。

 3時を過ぎたら終わりの時間だと、いつからそう思いこむようになったのか。

 記憶を辿れば、昔半年を過ごした研修所でも、やはり3時は自分の中で区切りの時間だった。

 厳しい門限は、たしか19時、それとも20時。

 3時過ぎだとて、外出して買い物や食事を楽しむには、十分な時間はあったと、今になればそう思うし、わかるのだけれど。

 やっときた休日。疲れきって、ようやく体が回復するのはいつも、お昼すぎで。外出でもしようか、という気持ちになれるのは、たいてい2時か、3時。

 それで、葉ずれの音を聞きながら、ベッドに寝転がりながら諦めるのだ。

 もう3時だから。休日はもう終わりだ。今から出かける時間はない。

 あーあ。あっという間に、なんにもしないまま終わっちゃったな。

 いつだったか。

 3時過ぎの光の中で、同室の友達に、そんなことを告げたことがある。

 「本当は遊びに行きたかったんだけど、もう3時も過ぎたしね」

 彼女は呆れた顔をして、何度も主張した。

 「3時なんて、まだ全然早いじゃん。いくらだって行けるのに。

 なんで3時過ぎるとダメなの? 普通に、余裕で帰ってこられるよ」

 彼女は正しかった、と、今思う。

 そうだねえ。

 時間だけを考えたらきっと、門限までには相当の余裕があった。

 私が3時を終わりの時間と考えたのは、あの光の中に、終わりの寂しさを見ていたからだと思う。だから、そんな光の中、出かけていく気分にはなれなかったんだ。

 あせるのは、嫌だから。

 時間に追いかけられ、じりじりと追いつめられるのが嫌だった。それは、夢の中でもよくある光景で。

 夢の中。たいてい、私はそこを去らなければいけないのに、荷物がまとまらなくて。

 どれが自分の荷物だったかわからなくて、あせって探しているのだ。これで全部、忘れ物はないっていう確信が持てず、いつもうろうろ、落ち着かずに歩き回る。取り残される不安感で、早くしなければと焦るのに、どうしても動けない。

 

 そして、夢の中ではわかっている。

 誰かに大丈夫だって言われても、この焦燥感は消えないことを。

 結局自分自身が納得しなければ、このモヤモヤは消えないのだ。

 冬の日暮れは早い。

 3時過ぎのあの、独特の光も、あっという間に消えてしまう。

 今窓の外を見たら、もうすっかり夕暮れの光だった。間違えようもないほどに。ああ一日が終わるなあと、そう思った。

月光の夜と妖精舞踏会

 満月である。

 住宅街を歩いていたら、あまりに月光が明るくて驚いた。まるで太陽みたいに、隅々まで照らし出している。光が強いから、生垣が落とす影もまたくっきり、黒々。

 ここまで明るいと、あんまり夜って感じがしないなあと思いつつ歩いていた。冬は寒い分、空気が澄んで星が綺麗だな。空気の冷たさは、そのまま清浄さを表すように思えて、深呼吸なぞしてみたり。

 あんまり明るい月夜だから、その光が落とす影を眺めていて思い出した。

 そう。子供の頃住んでいた家で、夜に見た異世界の光景だ。あんまり美しく、あんまり別次元で、強烈に記憶に残った。

 トイレに起きて。階段を降りたとき、半分眠ったような状態で、窓の外を見た。

 そこには、全く見たこともないような景色が広がっていた。

 満月の夜。

 天空高く上った月が、冴え冴えと光を投げかけていた。

 まるで昼間のように明るかったが、その光は全体的に青みがかっているようで、全く熱量というか、暖かさは感じられない。

 庭に植えられた樹木や草花を、その光ではっきりと見ることができた。

 そして、植物たちはそろって、自身の影をまとっていた。

 その明るい光の色と、影とのコントラストが、不思議な世界を形づくっていた。

 私は呆然と、ガラス窓の向こうを眺めていた。

 こんな景色は見たことがなかったから。

 この光と影、そして空気。

 それは、私が初めて見る世界だ。

 よほど強烈な記憶だったのだろう、あのときの光景は今でもはっきり思い出せるし、そのときの気持ちも、鮮やかに蘇る。

 ここは、本当に私の家なのかな。

 こんな景色、見たことない。

 毎夜、ここはこんなことになっているのかな。

 後に、外国の妖精が出てくるような本を読んだとき、私の脳内ではあのときの、月光に照らされた庭の景色が蘇った。

 妖精がいるなら、きっとああいうところに現れるに違いない。

 そして、一晩中でも、人間に見られることなくこっそりと、楽しい舞踏会を開いているに違いない。

 引っ越したのは12歳のときだった。

 その後、子供の頃の夢をみるときには、決まってあの、古い家だ。もう取り壊され、今はその地に別の建物がたっている。

 だけど夢の中に、昔の家は変わらずあり、私はそのことになんの違和感も感じない。

 子供の頃に見聞きしたことは、それだけ深く、心に刻まれるのかなと思う。

 建物の内部、ささいな傷や床の感触や、柱の曲がり具合まではっきりと、私は覚えている。

 もう現実にみることはかなわなくなったけれど、あの、満月の夜の幻想的な光景も、鮮やかな映像として思い出すことができる。

>この世界がもし、誰かのみている夢だとしても

>あなたにはそれを、夢だと知るすべはないのです

 いつか読んだ本に、そんなことが書いてあったっけ。

 こんな風に月の美しい夜に、昔の記憶をたどっていると、たしかにそんな気分にもなってくる。

 どこまでが現実で、どこまでが夢か。

 だって、夢の中ではすべてがリアルで、夢の中の自分はいつも、それが夢だなんて気付くことはない。

 私は、10年もの時間経過がある夢をみたことがある。

 とても悲しい夢で、私は泣き暮らして、毎日毎日、これが夢であってほしいとそればかり考えて。

 それでも日は昇り、また沈み、夢の中で10年もの月日が流れた。

 私はさすがに、諦めた。

 そうか、もう10年経ったのか。夢であってほしいと、毎朝目覚めるたびに願ったけれど、10年経ったのなら、認めなくちゃならない。  

 これは、現実だ。どうしようもない。受けとめなくちゃならない。

 10年泣き暮らした末だったから、諦めもついた。そして決心したとたん、目が覚めたのだ。

 あんまりリアルで、最初は戸惑った。

 え?今の、夢だったのか?と。

 パラレルワールドがもしあるなら。

 あのときの、悲しい夢もまた、どこかの世界では現実なのかもしれない、と、ぼんやり考えたりする。

 

 夢を夢と、確かめるすべはないのだと。

 考えてみれば、現実と思えることも、すべては脳が認識する結果なのであり。本当の意味で、事実を事実と確認することは、人間には無理なのかもしれない。全ては、脳に委ねられているから。脳というフィルターを通してしか、世界を認識することができないから。

 なんてことを考えていたら、すっかり夜更かしをしてしまった。

 あんまり月がきれいだから。

 月を見ているとつい、深く考えこんでしまうのである。