ヤギの夢

 こんな夢をみた。

 ヤギがバスを引く夢である。一匹の白いヤギが、まるで牛車のごとくバスを引っ張っていた。私はその背中に手をあてる。

 そのときの手に感じた、ヤギの骨の感覚がすごくリアルで。皮下脂肪がないから、毛と皮の下はすぐに、骨にあたる感じでごつごつしてた。私はヤギの背を撫でていた。

 ヤギの毛は真っ白ではなくて。柔らかいというより固かった。どこにでもいるような、どこかでみたようなヤギだった。特別大きくもなく、小さくもなく。

 ヤギの引くバスを見送った後、そのバスに運転手がいないのに気付いて、慌てて追いかける。暴走するのでは?という恐れが頭をかすめたけど、心のどこかで、「大丈夫」と思っている自分がいた。結果、運転手がいないというのに、そのバスは進路を外れることもなく、静かに道の端に寄って停まった。

 場面は変わり、私は授業を受けている。

 

 またか、というほど繰り返しみる夢の一つ。学校の夢だ。いつも夢の中で、はて、私の年はいくつだったけ、と思うのだが、思考には曖昧な霧がかかっていて、答えは出ない。ただ、なんとなく学校に通ってる年じゃないよな、というのは自分でわかっているようだ。

 たくさんの人が学ぶ中、私も席について講義を受ける。

 講義が終わって、前方で騒ぎがおこっているのに気付く。

 ささいな勘違いから、暴れだした人がいるのだ。ある2人を殴りつけている。最初は腹立ちまぎれに軽く突いたりしていたのが、次第にその行為はエスカレートしていく。周囲は唖然として、ただ見ているだけ。誰もとめようとしない。

 次第に、その人は理性を失って、狂ったように暴れ始めた。それは私の知っている人だった。その人が、自分でもまずいと思いながら、行動にコントロールがきかなくなっていく様子がよくわかった。

 とめなきゃ。でもそこにいくまでに時間がかかる。周囲の人、とめてくれ、と心で叫びながら私は走っていく。

 遅かった。2人は床に倒れて、ショックのあまり動けなくなってる。肉体的な痛みや怪我というより、その人を理解できない恐怖でガタガタ震えてる。なぜ殴られてるのか、なぜその人の怒りが自分たちに向いているのか、わけのわからなさに脅えている。

 周囲の非難の目が、自分に突き刺さるのをやっと実感したその人が、「大変なことをしてしまった。なぜ自分はこんなことをしたのか」と、一転。今度は自分自身を、滅茶苦茶に責め始めたのがわかる。私は最初、理性を失ってしまったその人に同情してしまうのだが、床に倒れた2人の姿に息をのむ。

 あんまりにも可哀想すぎた。

 2人はただ泣くばかりだったが、ひどい傷を負っているのがわかった。起き上がることもできずに、無残な姿を晒していた。

 この2人の倒れた姿が、あまりにも鮮明で。

 目が覚めたとき、私の心臓は激しく鼓動していた。夢というよりは、さっき目の前で見た現実のようだった。

ローレンツ博士とバタフライ効果

カオス理論の提唱者、E・ローレンツ博士が、4月16日に90才で亡くなりました。
 ご冥福をお祈りいたします。

 私が以前、ブログでちょっと触れていた、蝶のはばたきの話。あの中に出てくる、私が読んだ本の著者が、このローレンツ博士の「バタフライ効果」を引用していました。あの本を読んでそんなに日が経たないうちに博士の訃報を聞いて、びっくりです。ちなみに「ジャングルの奥深く」というのは、私が読んだ本の著者の表現なので、ローレンツ博士が実際、そういう描写をしていたわけではありません。

 バタフライ効果。ブラジルでチョウが羽ばたくと、それが米テキサス州で竜巻を引き起こすという話。

 初期値の違いが、複雑な計算の結果には大きな影響を及ぼす、ということをわかりやすく例えたものだそうです。

 あらためて、人の運命について考えこんでしまいました。

 逆に言えば、1つも間違いのないデータで計算すれば、結果は出るってことですよね。1つも間違いのないデータ。1つも間違いのない計算。そんなものが可能であるかどうか、どれだけ時間がかかるか、どれだけのコンピュータを必要とするか、そういうことを全部無視したならば。

 なにもかもわかる。
 粛々と、決められた通りに進行していく。
 そこにはなにひとつ、不確定要素なんて存在しない。

 でも、実際には必要なデータが膨大すぎて。それを計算するなんて複雑すぎて。世界がどう動くかなんて、それがわかる人は誰もいない。物事の流れが決まっているのに、それをわかる人がいないなら、物事の流れは決まっていないのと同じこと?

 ここで唐突に、鬼束ちひろさんの歌う『流星群』の歌詞を思い浮かべてしまいました。

>貴方が触れない私なら無いのと同じだから

 この曲を初めて聴いたとき、不思議な感慨にとらわれてしまって。

 いくら存在しても、意味を見出せないなら、無いのと同じなのかなあと。たしかに、ただ存在するだけで、与える影響がゼロなら、無いのとどう違いがあるかって話なんです。影響することで、伝わることで、初めて存在が証明される?

 でもきっと、存在するだけで、ゼロってことはありえない。無で、同時に有だなんて、そんなの矛盾してる。どんなに小さくても、そこに存在するだけで、周りはその存在に影響を受ける。

 しかし同時に、あまりにも小さすぎる動きに、なんの意味があるのかっていうのもまた、わかる話で。たとえば私が空を見上げる一連の動作に、足元のアリが、右方向へ歩くか、左方向へ歩くか。それが、実際問題どんな影響を与えるというのか。

 ビッグバンが起こった瞬間に、この世のすべては決まっていたのだという説がありますね。つきつめてしまえば、そういうことなのかなあと。ただし、これを信じてしまえば、すべての努力が無駄になってしまうし、自由意志など存在しない。
 しかしその一方で、安らぎを覚えてしまう自分がいたり。

 
 そういえば薬師丸ひろ子さんの歌に、こんな一節がありました。『 Woman~Wの悲劇より 』です。

>ああ時の河を渡る船に
>オールはない 流されてく

 
 櫂のない船で、大海原を漂っている。
 そう考えると、気が楽になる部分もあって。責任がなくなる。

 たとえば自分の行動に、罪悪感を感じて落ち込んだ夜も。波に揺られる船に、なにができただろうかと考えると、気持ちが軽くなる。船はただ、波に運ばれていくだけだから。自由意志なんて、どこまで自由意志でありえるだろう。

 深く深くつきつめて考えていくと、確かなものはいったいなんだろうって話になってきます。過去は過去。だけどそれをありありと思い出すとき、それは現在とも言えるわけで。だって映像も、音も現実と同じ位に甦るし、それに触れた自分の感情も、当時と同じように、揺れるわけで。同じように反応している。
 現実に今、目の前にあるから、ないからという話じゃないんですよね。要は、自分の心が、勝手に反応してしまうから。

 感情こそが、真のバロメーターだっていう説、以前に本で読んだことがあります。感情バロメーターほど頼れる存在はないと。理屈でも条件でもなく、ピンとくる感覚。

 そして、繰り返しみる夢の世界。これも不思議。もうとっくに取り壊されている建物も、夢の中では当時のまま、それに全く矛盾を感じない自分て、なんなんだろうか。夢の中の自分は、存在意義に対する疑念なんてちっとも感じていない。

 夢の中では、同じことを繰り返しているのも謎です。後悔があって、別の行動をすればよかったと思うなら、せめて夢の中では思うままに、やってみればいいのに。昔と同じことをして、そこに意味はあるんだろうか。だけど夢の中の自分には、選択肢がありません。決められた状況に、決められた動作を繰り返すだけ。枠の外に飛び出す勇気なんて、ないのです。

 ローレンツ博士死去のニュースに、あらためていろんなことを考えたのでした。

夜の風景

 素敵な夢をみた。ある一軒家のカギを渡される夢である。「自由に使っていい」と言われて、大喜びする。月光の中に浮かび上がるその家は、荘厳な雰囲気を醸し出していた。

 門扉の向こうには庭もあり、植物を眺めながら月光浴ができそうだった。そこは静まり返った空間で、ゆっくりと寛げそうで、そのことがとても嬉しかった。

 その家に入り、再びカギを閉めてしまえば、もう本当にひとりきりで、誰に煩わされることもない。

 渡されたカギを握り締めると、ほんのり冷たく。その冷たさがまた、心地よくて。カギを握り締めて、私はその家を見上げていた。外から見ただけでも、その内部のしんとした空気が伝わってきてワクワクした。

 中に入る前に、目が覚めてしまったのは残念。せっかくだから、内部の探検もしたかった。

 山に行って、誰もいない場所でぼーっとしたいと思うから、こんな夢をみるんだろうか。

 夜の風景といえば、今でも印象深いのは、アメリカで見た、グリフィス天文台へ向かう途中の道から眺めた街の夜景。

 天文台での思い出より、そのとき車の窓から見た景色の方がずっと鮮明に、記憶に焼きついている。

 夜景スポットはたくさんあるし、それから数えきれないほどの夜景を見たけど、あれを超える景色に出会ったことはない。はっと、胸をつかれるというのは、ああいうことなんだろうと思う。うわあっと思って、ただ見ていた。ずっと。

 そしてあれから何年たっても、ときどき思い出すのだ。

 なにも劇的なドラマがあったわけでもなく。別に恋人とドライブしていたわけでもない。私の目に映った灯りは、その一つ一つが人生を感じさせて、飽きもせず言葉もなく、ただ眺めていたのだ。

 またあの、グリフィス天文台へ向かう道を、いつか車で行くことがあるんだろうか。そのとき自分の胸には、どんな思いが去来するのだろう。 

夢で光に包まれる

 すごくいい夢を見た。目が覚めた後も幸福感の続くような、素敵な夢。

 私は小さな部屋で、英会話のマンツーマンレッスンを受けていた。目の前で生声で聞く英語は、テレビとは違って迫力があり。これは勉強になるなあ、と私は必死に、聞き取りに励んでいた。先生は日系だが、発音はうまかった。

 本当は会話をするレッスンだったのに、なぜかその先生は話好きで、一方的に喋る形になってしまう。「自分ばかりしゃべってしまってごめんね」と、レッスンの最後に謝られ、その謙虚な態度に好感を持つ。

「いえいえ、とんでもない」

「それにこの場所も、もっといいところがあったのに・・・」

 申し訳なさそうな先生を前にして、私は感謝の気持ちを述べようと張り切る。たどたどしい英語ながらも、私はこの場所が好きだし、先生の話は面白かったんだと、自分の気持ちを伝える。

 次回のレッスン用にと渡されたのは、1枚の紙。そこに家系図を書き込み、それをもとに話を進めるのだという。私はその紙を大切に、ファイルに挟む。

 そのとき、右手から光が差し込んだ。

 強烈な光で、それがガラス越しにまっすぐに差し込んで、その光のまばゆさに目が眩む。光の美しさに、私の心が震える。

 なんて綺麗なんだろう。

 小さな部屋は、光で満たされ、なにも見えなくなる。

 そして、目が覚めた。

 目が覚めてからも、幸福感の余韻にひたっていた。夢の中の私が、何度も英語で、「この場所が好きなんです。この部屋でよかったんです」と、先生に一生懸命説明していたのを思い返した。

 また次のレッスンの夢が、見たいものである。

世界は繋がっている

 ある本を読んでいたら、この言葉が心に残った。

 entangled world 繋がる世界、である。世界は少しずつ影響し合い、そして全体を見れば、一つなのだという考え方。

 entangle という単語から、私は糸を想像した。ぐるぐる絡まって、絡まりながらも広がっていく。その一つの糸をずっと辿っていけば、いつかは目的の場所にたどりつくことができるというイメージ。

 本当の目的にたどりつくまでには、いろんな景色があって、それは余計なものといえるかもしれないけど、道筋にある以上は、目標に必須のステップ。

 なんだか、いい響きなのである。entangled world 。ジャングルの奥深く、小さな蝶の羽ばたきでさえ、世界に影響を与えないはずはないのだと、その本は書いていた。

 これもまた、新鮮で美しいイメージだ。その蝶はきっと瑠璃色。日を受けて、七色に羽ばたく。誰にも知られないその、静かなはばたきが、世界に繋がっていくなんて。

 羽が上下するたびに、眩しい鱗粉がキラキラ飛び散る。

 entangled world という言葉から、sound horizon の『LiNK』という曲を思い出した。

>ぼく達がこの手で 紡ぐ未来は

>優しい夢のように 微笑む綺羅星(Shining Star)

 この曲は泣けます。どこまでも優しくて、愛にあふれてて。

 この曲の中にも、「世界は繋がっている」という台詞が出てくるのだ。

 個は、全体の一部にすぎないという発想。そういえば、ユングの集合的無意識という概念も、これに繋がってくるなあ。

 こういう考え方って、温かい気持ちになる。そうそう、ネットの世界も、回線を通じて世界が繋がっているといえる。無線なら、線さえもいらない。情報はすべて、目の前にある。ただ、手に入れたいと願うだけで、それはたやすく自分のものになる。

 現実世界では会ったこともない人と、情報を共有できるってすごいことだ。いい時代に生まれたなあと思う。インターネットの普及は、世界を変えた。

 そういえば、米航空宇宙局(NASA)が発表した、地球から75億光年離れた恒星の爆発を観測衛星がとらえたという記事。75億年かけてたどりつく光って、どんなんだろう。あんまりスケールが大きすぎて、クラクラする。実感がわかない。

 人類が誕生する遥か前から、宇宙はあった。人類がこの先どうなろうとも、淡々とそこに、宇宙は存在し続ける。理屈も、理由も、存在の前にはあまりにも無力だ。だけど、人間って可愛いなあと思う。

 宇宙の存在を知ったとき、同じような知的生命体を求めて、心は果てない旅に出たんだよね。

 日々、宇宙からの膨大な電波を受信し、解析する。そして自分たちを紹介する情報を載せて、ボイジャー号を打ち上げた。いつか地球外知的生命体が、それを見つけてくれると信じて。

 地球人のメッセージには、いまだ、誰も答えてくれないけど。その事実は、この広い宇宙で、地球がひとりぼっちだという、証明のようにも思われるけど。研究が進めば進むほど、宇宙はどんどん広がっていく。

 確率でいえば、地球のような星は必ず存在するんだよね。だけど、通信する手段がない。あまりに遠すぎて。

 だから今この瞬間も、遠い星の誰かが、地球のことを思っているかもしれない。この宇宙の中で、互いに触れ合えないほど遠い存在である誰かが、やっぱり空を見上げて、地球を思っているかもしれないという想像は、私をゾクゾクさせる。

 姿も形も、まったく違う相手なのか。それとも地球とよく似た環境の、よく似た進化を遂げた相手なのか。いつか、通信しあえる日がくるのか。それとも、距離には勝てないのか。

 

 宇宙にひとりぼっちだという孤独から逃れるように、人類は空に手をさしのべている。そう思うと、人間が愛しくなってくるのです。