本を大切に

 このところ、書店とコーヒーショップがコラボして、飲み物片手に売り物の本を試し読みできるシステム、みたいなものが流行っているように思う。うちの近所にも、そういうお店が二か所ある。

 最初は、コーヒー飲みながら好きな本が読めるなんて素敵なシステムだな、と思っていたのだが。よくよく考えてみると、これって変( ̄Д ̄;;

 だって、自分で買った自分の本ならともかく、売り物ですよ? それを、コーヒーショップで試し読みって、お行儀悪いと思うのです。こぼす可能性も低くはない。たとえこぼさずに読み終えても、読み終わった本はほとんどが、買わずに書店の棚に戻されるわけで。

 単純な話、そんなふうに人がコーヒー片手に読み終えた本を、敢えて買いたい人がいるんだろうか。

 私は嫌です。新しいまっさらな本を買いたいと思う。もちろん、棚に置いてあるのを、誰かがぺらぺらめくった程度(立ち読みとか)なら許容範囲だけど、誰かが飲み物片手にじっくり読んだ本を、買いたくはないのです。

 こういうお店って、一見、すごく便利なようでいて、人の価値観を破壊してる部分があるんじゃないかな~と思ってしまいました。だって、本は個人の持ち物ではなく、会計前の未清算商品ですよ。その商品に対する、リスペクトがない。自分のものと他人のものの境界線が、曖昧になってしまっている。これは怖いことではないかと思いました。

 そして、そういうお店ではよく、平積みされた本の上に、自分のバッグを置いている女性を見かけるのだ・・・。私、最初にそういう人を見たときに、「売っている本の上に荷物を置くなんて、なんて失礼な人なんだろう」と腹立たしさを感じたのですが。でも実際、未清算の本をコーヒーショップに持ちこんで読むのを許している書店にいたら、そういうコーヒーショップで商品を「読み捨てる」のが当たり前になってしまったら、平積みの本(商品)の上にバッグを置くことにも、抵抗はなくなるだろうなあ、という気持ちになりました。

 感覚が狂ってくるのも無理ないような。
 気付かないうちに、常識が変わってしまう。

 本は大切にしたいです。だから私はもう、そういう、コーヒーショップに持ち込んで読み捨ててもOK、というお店では買わないことにしました。本屋さんに、本に対する愛情があったら、そういうシステムは絶対に採用しないはず。

 私は、本を大切にする本屋さんを応援したいです。そしてそういうお店では、お客さんも本の上に自分のバッグを置いたりしないでしょう。本は商品ですから。
 これから誰かのもとへ行く、自分の物ではない本の上に手荷物を置くなど、とても失礼なことです。

2014年を振り返る

 2014年が終わろうとしています。振り返ってみると、今年は偽物が暴かれる年だったような気がしますね。

 

 さっきテレビを見ていたら、佐村河内さんのゴーストライターだった、新垣さんが出ていました。バラエティーの番組で、ちょっと失礼な演出もあったりして、でも新垣さんは番組のためにオーケストラの曲をかいていて、自らもピアノを演奏していて、それが素敵でした。

 新垣さんをみんなで笑う、みたいな感じにならなければいいなあと思っていたのですが。特に壁ドンをやらされてたところはハラハラしてしまいました。

 でも大久保さんが、最後新垣さんを抱きしめていて、ちょっと感動です。
 大久保さんの心遣いが伝わってきたから。あれは、新垣さん嬉しかったと思うなあ。
 私の中で、大久保さんの株がどーんと上がりました。

 そして、新垣さんのことも、堂々としていて素晴らしいなあと思いました。バラエティーに呼ばれるっていうのは、たぶん制作側のどこかに、「ばかにする」部分があると思うんですよね。みんなに笑われる画、というのを期待してるわけで。

 でも、新垣さんはいつも堂々としてます。声は小さいけど(^^;
 決して卑屈ではないんです。それは、自分の中に絶対的な音楽というものを持っているからなんだろうなあと、想像しながらテレビを見ていました。

 佐村河内氏は、人を威圧する言動をする人だなあと、会見などを見て思いましたが。たしかにそういう押しの強さに押しきられるように、ゴーストライターを続けてきた新垣さんですが。本当の強さとか、自信とか、そういうものは佐村河内氏には絶対負けてないです。

 ゴーストライターを告白した強さ。その背景には、音楽があって。それは、新垣さんにしか作り出せない、オリジナルの強さです。

 

 とても強い人だなと思います。本物の人っていうのは、強いんだと思います。

 2014年といえば、STAP細胞の一件も、結局、うやむやのうちに終わってしまって。小保方さんの、きちんとした説明と謝罪がなかったのは残念です。
 200回以上作ったという言葉は、なんだったのかと。そして誰も責任をとっていないのが不思議です。理研という組織の倫理が問われるところで。
 とりつくろった嘘は、いつかはばれるものです。

 偽物が本物を演じても、長くは続かないんだなあと。そんなことを思った年でした。

 私自身にとっての今年は。
 一番大きかったのは、あるソフトの講義を、3か月くらい受けて、久々に学生気分を味わったことでした。テスト前には必死になって作品仕上げたり、夜中過ぎまでパソコンに向かったり。
 私は昔、家庭教師とか塾の講師をやっていた時期があって、教える立場というのに慣れていたのですが、いざ自分が教わる立場になってみると、教師というのは向き不向きがあるなあと、つくづく思いました。

 二人の先生から教わっていたんです。二人は、教え方が全然違う。A先生は、どんな質問にも的確に、淡々と答えてくれるのに対し、B先生は、面白くしようとしていろんな茶々を入れてきて、答えを聞くまでにすごく時間がかかる。

 私は断然、A先生派でした。
 限られた時間に、できるだけたくさんのことを教わりたいから。

 B先生は、質問をすると、まずこう言うのです。
 「どうしたら、そうできると思う?」

 これには閉口しました。自分でいろいろ操作を試してみて、できないから聞いているのに。どうしたらそうできるか?なんて、わかったら最初から聞いていません。

 B先生はおそらく、自分で考えさせるために、安易に答えを教えないポリシーなのでしょう。けれど、生徒がどうしてもうまくいかなくて、それなりに勇気を出して質問したことに、なぜすぐ答えてくれないのか。

 結局、答えを知る前には、いろんな雑談が入ったり、冗談が入ったり。

 私は、だんだんB先生には質問をしなくなりました。B先生は講義している分野では専門家でありたくさんの知識をお持ちですが、教師としては教え方が下手なのです。

 私はずっと、なにかを教えるということは簡単で、誰にでもできると思ってきましたが。B先生に会って、教えることもひとつの特技なのだなあと、初めて気付いたのです。
 生徒が、いかに効率よく、知識を身につけられるか。それは、先生自身の知識量というよりも、教える能力に、大きく影響されるのだと、身をもって知りました。

 今年もあとわずかです。ありがとうございました。
 来年も素敵な年でありますように。 

雨上がりの街

 映画を見た後、雨上がりの街を歩いて家まで帰りました。到底、バスに乗る気にはなれませんでした。
 雨は、すべての穢れを流してくれたようで。空気まで清浄になった気がします。

 いつも通る道とは反対の、イチョウの並木道を通りました。ここのイチョウは、銀杏が落ちないので臭くないのです。
 黄色くなった葉が落ち、歩道に降り積もっています。避けて歩こうにも、一面を覆い尽くしていて無理です。そっと枯葉の上に足を下ろすと、雨に濡れた葉はカサとも音をたてず。ふんわりと体重を包み込みました。まるで、絨毯の上を歩いているみたいです。

 ふかふかのイチョウの絨毯が、どこまでも続いていて。歩いていると、いろんなことを思い出しました。映画だけでなく、ずいぶん昔のことも。

 行く手の上空に、満ちていく途中の月が見えました。明日は上弦の月です。

 美容院に寄って髪を切ったので、いつもとは違うシャンプーの匂いがします。髪に手をやると、いつもと違う自分で、不思議な感触です。

 ここの美容院。行くたびに違う匂いのシャンプーで、それがひそかに楽しみだったりします。ポイントが貯まると、シャンプーをくれるのですが、同じシャンプーでも家で洗った時と、なにかが違うような気がして。

 だから、その美容院で髪を切り、シャンプーをするのが楽しみです。ふわっと、なにかの拍子に微かに香って、一日いい気分になれるから。ワックスやジェルを、おつけしてもよろしいですかと聞かれるのですが、たいてい断ります。
 さらさらになった髪のまま、歩くのが好きです。そのままどこかへ出かけるときには、何かつけてもらうときもありますが。

 もう、後は家に帰るだけで。自由だから。

 空気のひんやりした冷たさも、好きです。この季節にしかない、せつなさがあります。

もしもカルモヂインの田舎に行けたなら

 昨日はあるイベントの行われている植物園へ行ってきた。土曜日だし、当たり前といえばそれまでだが、とにかく人が多い。

 広々とした敷地には、人があふれていた。ちょっとすいてるなと思うところを歩いていても、次の瞬間には人の流れが変わり、人だかりができていたりする。人が人を呼ぶ、というのは実際、あると思う。人だかりは人だかりを呼ぶ。イベントと休日の相乗効果で、今日の植物園はかつてないほどのにぎわい。駐車場ももちろん満車。どこを歩いても人から逃れられない。

 一息つこうと、人のいなそうな木陰に座りこんでも、まるで人影に引き寄せられるかのように、にぎやかな家族連れが通りがかったり。

 もう東京には住めないなあ、とぼんやり思った。

 かつて、そこに当たり前のように暮らしていた自分を遠く感じる。今の私は、もうあの不夜城のような空気にはなじめないだろうな。
 好きな場所だし。思い出はたくさんあるし、懐かしくて楽しくて、遊びにいくことはあっても。生活の拠点をあそこに置き、そこで生きるということはもうないなあ。そんなことを思った。

 満員電車や、道を歩けば時間を問わず誰かがいる環境、いつも誰かが周りにいる、という感覚。

 その感覚を、不快と感じる自分がいる。

 森の中で、ひとりでいる快適さを思ったり。

 昔、寂しがり屋の人の話を聞いたことがある。急に人恋しくなったとき、、意味もなく賑やかな場所へ出かけたりすると。
 たとえば混む時間のスーパーとかね。
 そして、うろうろとする。ただそれだけで、気持ちが楽になるのだという。自分が世界で独りぼっちじゃないということが、認識できるんだとか。

 私にはその気持ちはわからなかった。そんな目的で、スーパーへ足を運んだことはないから。
 逆に、人疲れして、誰もいない自然の中に逃げ込みたくなったことは何度もある。

 

 寂しいと口にする人を、甘えだと冷めた目で見たこともある。
 世の中には寂しさなんかよりもっと、つらくて苦しい感情があると思ったから。

 

 けれど。深く「寂しさ」について考えていくと、結局は、「じゃああなた本当に世界中でひとりぼっちの状態になっても楽しいの?ずっと平気なの?」という疑問に辿りつく。

 ある日気付いたら、世界には自分以外の誰もいませんでした。最初の一日はのんびりできるかもしれない。だけど一年後、そして二十年後。その世界に楽しみは残っているのだろうか。

 人以外の動物を、仲間として生きていくとしても。
 そりゃあ動物は可愛い。裏切らない。けれどそこに、生きる喜びみたいなものは、残っているのだろうか。

 ないだろうな、と。いつも、私の結論はそこに行きつく。

 動物は可愛いが、人ではない。
 生きる上での究極の幸福は、人との関わりにこそ、あるのではないだろうか。

 昔、私が憧れていた人が、「そりゃあ最後は人間だよ」みたいなことを言って。私はしみじみと、その言葉の意味を考えたものだ。

 その人は、一人が好きな人だった。誰かといるより、一人を望んでいるように思えた。だからその人の口から、「最後は人間」という言葉が出てきたことが、とても不思議で。

 何度も何度も、考えたものだ。

 しかし今あらためて、自分自身のこととして考えてみても。感情の揺れは、結局のところ、人によってもたらされるものが一番大きい。
 自然の中で美しいものに感動しても、それよりももっと大きな、圧倒的な幸福のうねりをもたらせてくれるのは、人間だ。

 音楽や小説、映画、そして言葉そのものなどなど。自分の心に共鳴するものに触れたとき、心は大きく動く。それは、表現された物の中に、その人の心を見るから。

 誰かの心に、自分と同じ部分をみたり。あるいは、自分にない新鮮な驚くべきものを発見したり。
 それが喜びで、幸福で。それ以上のことなど、あるのだろうか。

 西脇順三郎さんが描くカルモヂインの田舎には憧れるけれど、もしその世界に永遠に飛ばされたら、きっと私は元の世界が恋しくなると思う。

 今、Polina Gagarina の歌う  Kolybel`naja という曲を聴いているのだが、初めて聴いたとき、カルモヂインの田舎という言葉を耳にしたときと同じ、強烈な異国感を感じた。異国感というのが、正しいのかどうか。もはや、同じ次元世界でさえ、ないのかもしれないとも。

 それは、日本語じゃないからというだけではなくて。音から伝わる世界が、まるでこの世のものとは思えなかった。

 懐かしくて、美しくて、遠い場所。その場所が何かを、強く訴えているような。

 気になって、曲の歌詞の意味を調べてみた。英語に翻訳してくれたサイトがあったのでそれを見たが、歌詞が曲をそのまま伝えているようには思えなかった。
 むしろ、音から伝わるのはもっと何か。別の、それ以上のもののような。

 だから、この曲に関しては、歌詞はあまり大事ではないのかもしれない、と思う。言葉の意味がわからなくても全然構わない。音が伝えるメッセージや印象が、言葉以上のものを雄弁に物語っている。

polina gagarina が描くその場所は、とても美しい。行ってみたいと、単純にそう思った。 

今年の私的薔薇No.1は『宴』に決定

 今年も薔薇の季節がやってきました。何度か薔薇園に通って、多くの薔薇を鑑賞した上で決めた、私的薔薇No.1 2014は、『宴』でありますヽ(´▽`)/

 まさにQueen。薔薇は、King ではなく Queen だと思いますが、堂々たる風格と美しさで、薔薇らしい薔薇だと思いました。『宴』。

 京成バラ園芸の作ということですが、日本人がこれを作ったなんて素晴らしいなあと。薔薇の本場はヨーロッパというイメージありますが、日本でこれだけの素敵な薔薇が生まれたなんて、誇らしい気持ちになりました。

 なにより、私が通う薔薇園の風土に合っているのか、生命力に満ち溢れていたのです。他の薔薇たちより一段と、力強い。生き生きと、空に向かって凛と頭をもたげ、つんとすまし顔で風に揺れていました。

 薔薇は、雨上がりの後が一層、美しいです。雨上がり、開園後すぐのまだ人が少ない時間に、花や葉に光る露をまとわせて佇む様は一際、幻想的です。ひとけがない静けさの中で、朝一番の姿を楽しむのは贅沢な時間だと思いました。

 『宴』は、薔薇らしい薔薇、だと思いました。花の大きさも大きく、一輪だけで相当の存在感があります。そして咲く姿の尖り具合だとか、花が開いて散るまでの姿、その最初から最後まで、品があるのです。
 そう、特に花びらが開ききって、枯れてしまうときの姿は、大事だと思います。薔薇の種類によっては、とても残念な感じになることもあるので。
 やはり薔薇には、最後まで薔薇らしくいてほしいものです。たとえ色褪せても、花が開ききっても、そこには品がほしい。
 その点、『宴』は最期まで美しさを失わない花だなと思いました。

 そして香りも。薔薇を想像して鼻を近づけたときそのままの、想像通りの香り。衒いのない、素直な薔薇の芳香。

 その他、薔薇園で気が付いたことといえば、やっぱり紫系の薔薇が弱々しかったことでしょうか。どうしても、他の薔薇とくらべると、生命力の弱さが際立っていました。ものすごく手をかけているのに、立ち姿がやつれているようで。

 去年、中でも、大丈夫かなと心配していた紫の薔薇、『青龍』。やはりというかなんというか、一度全滅してしまったようで。違う場所に、五株新たに新しく植えかえられていました。大事に見守られている五株。この先、元気にすくすく育つといいなあと思いました。

 『青龍』とか『ブルーヘブン』は、最も青に近い薔薇と言われているようですが。青に近いということは、それだけ弱いということなのかもしれません。近くにあった『ブルーヘブン』も、なんだか俯いて元気がないように見えました。つぼみのときは、白に見えます。花が開くと、そこにすこし青色が混じるような感じ、です。

 紫の薔薇で、今年元気に見えたのは『ブルームーン』。つぼみのときは、赤いんですね。赤の因子は、強いのでしょう。『ブルームーン』は元気に咲き誇っていました。

 それから、元気といえば『ヨハン・シュトラウス』。私がもし家で薔薇を育てるとしたら、育ててみたい品種の一つです。白に、ぽっと頬をそめたようなピンク。
 『ヨハン・シュトラウス』に、私はあどけない西洋の少年のほっぺを想像します。

 そしてその近くで咲いていた『花嫁』の方は、和装の日本人花嫁の恥じらう頬を想像しました。角隠しの下の、白粉。
 同じ薄ピンクの薔薇でも、並んで咲くとその違いは明らかです。色のもたらすイメージが、ふたつの薔薇では大きく異なるのです。『ヨハン・シュトラウス』の方は、赤というよりサーモン系の色が出ているのかなと思いました。『花嫁』と並べるとオレンジっぽいです。

 そして元気な薔薇でもうひとつ、いいなと思ったのが『LOVE』でした。赤い基本形の薔薇なんですが、花びらの裏が白いのに感動しました。裏側が、思いがけず白なんです。

 『LOVE』という名に合っているなあ、と。真っ白な心から生まれる、情熱の赤。愛の深さ、その後ろをそっと覗きこんだら、そこにあるのが何物にも染まらない白だなんて。そこから生まれる赤だからこそ、よけいに美しく思えました。

 

 そして今年、長年不明だった、自宅の片隅に咲く薔薇の名前が判明しました。薔薇園に、そっくりの薔薇があったから。たぶん間違いない。

 それは、赤に黒を混ぜたような、重厚感のある薔薇。『パパメイアン』でした。うちの庭の敷地の、一番隅っこで毎年咲いていた花。もう株も古くなっていて、咲く花にも貫録があります。イギリスの貴族の老婦人、をイメージさせるような薔薇です。どっしりとした風格、孤高の薔薇。

 

 庭を薔薇でいっぱいにしてみたいなあ、と時々思ってはみるものの、ストッパーになるのはいつも「トゲ」の存在。
 剪定のたびにトゲに悩まされるのはちょっと、つらいかも。トゲのある植物を育てるのは大変だなあと思ってしまう。
 こうして毎年、春と秋に薔薇園に来て。眺めて楽しむのが、私には合っているのかもしれません。