今年の私的薔薇No.1は『宴』に決定

 今年も薔薇の季節がやってきました。何度か薔薇園に通って、多くの薔薇を鑑賞した上で決めた、私的薔薇No.1 2014は、『宴』でありますヽ(´▽`)/

 まさにQueen。薔薇は、King ではなく Queen だと思いますが、堂々たる風格と美しさで、薔薇らしい薔薇だと思いました。『宴』。

 京成バラ園芸の作ということですが、日本人がこれを作ったなんて素晴らしいなあと。薔薇の本場はヨーロッパというイメージありますが、日本でこれだけの素敵な薔薇が生まれたなんて、誇らしい気持ちになりました。

 なにより、私が通う薔薇園の風土に合っているのか、生命力に満ち溢れていたのです。他の薔薇たちより一段と、力強い。生き生きと、空に向かって凛と頭をもたげ、つんとすまし顔で風に揺れていました。

 薔薇は、雨上がりの後が一層、美しいです。雨上がり、開園後すぐのまだ人が少ない時間に、花や葉に光る露をまとわせて佇む様は一際、幻想的です。ひとけがない静けさの中で、朝一番の姿を楽しむのは贅沢な時間だと思いました。

 『宴』は、薔薇らしい薔薇、だと思いました。花の大きさも大きく、一輪だけで相当の存在感があります。そして咲く姿の尖り具合だとか、花が開いて散るまでの姿、その最初から最後まで、品があるのです。
 そう、特に花びらが開ききって、枯れてしまうときの姿は、大事だと思います。薔薇の種類によっては、とても残念な感じになることもあるので。
 やはり薔薇には、最後まで薔薇らしくいてほしいものです。たとえ色褪せても、花が開ききっても、そこには品がほしい。
 その点、『宴』は最期まで美しさを失わない花だなと思いました。

 そして香りも。薔薇を想像して鼻を近づけたときそのままの、想像通りの香り。衒いのない、素直な薔薇の芳香。

 その他、薔薇園で気が付いたことといえば、やっぱり紫系の薔薇が弱々しかったことでしょうか。どうしても、他の薔薇とくらべると、生命力の弱さが際立っていました。ものすごく手をかけているのに、立ち姿がやつれているようで。

 去年、中でも、大丈夫かなと心配していた紫の薔薇、『青龍』。やはりというかなんというか、一度全滅してしまったようで。違う場所に、五株新たに新しく植えかえられていました。大事に見守られている五株。この先、元気にすくすく育つといいなあと思いました。

 『青龍』とか『ブルーヘブン』は、最も青に近い薔薇と言われているようですが。青に近いということは、それだけ弱いということなのかもしれません。近くにあった『ブルーヘブン』も、なんだか俯いて元気がないように見えました。つぼみのときは、白に見えます。花が開くと、そこにすこし青色が混じるような感じ、です。

 紫の薔薇で、今年元気に見えたのは『ブルームーン』。つぼみのときは、赤いんですね。赤の因子は、強いのでしょう。『ブルームーン』は元気に咲き誇っていました。

 それから、元気といえば『ヨハン・シュトラウス』。私がもし家で薔薇を育てるとしたら、育ててみたい品種の一つです。白に、ぽっと頬をそめたようなピンク。
 『ヨハン・シュトラウス』に、私はあどけない西洋の少年のほっぺを想像します。

 そしてその近くで咲いていた『花嫁』の方は、和装の日本人花嫁の恥じらう頬を想像しました。角隠しの下の、白粉。
 同じ薄ピンクの薔薇でも、並んで咲くとその違いは明らかです。色のもたらすイメージが、ふたつの薔薇では大きく異なるのです。『ヨハン・シュトラウス』の方は、赤というよりサーモン系の色が出ているのかなと思いました。『花嫁』と並べるとオレンジっぽいです。

 そして元気な薔薇でもうひとつ、いいなと思ったのが『LOVE』でした。赤い基本形の薔薇なんですが、花びらの裏が白いのに感動しました。裏側が、思いがけず白なんです。

 『LOVE』という名に合っているなあ、と。真っ白な心から生まれる、情熱の赤。愛の深さ、その後ろをそっと覗きこんだら、そこにあるのが何物にも染まらない白だなんて。そこから生まれる赤だからこそ、よけいに美しく思えました。

 

 そして今年、長年不明だった、自宅の片隅に咲く薔薇の名前が判明しました。薔薇園に、そっくりの薔薇があったから。たぶん間違いない。

 それは、赤に黒を混ぜたような、重厚感のある薔薇。『パパメイアン』でした。うちの庭の敷地の、一番隅っこで毎年咲いていた花。もう株も古くなっていて、咲く花にも貫録があります。イギリスの貴族の老婦人、をイメージさせるような薔薇です。どっしりとした風格、孤高の薔薇。

 

 庭を薔薇でいっぱいにしてみたいなあ、と時々思ってはみるものの、ストッパーになるのはいつも「トゲ」の存在。
 剪定のたびにトゲに悩まされるのはちょっと、つらいかも。トゲのある植物を育てるのは大変だなあと思ってしまう。
 こうして毎年、春と秋に薔薇園に来て。眺めて楽しむのが、私には合っているのかもしれません。

美形の人との思い出

 昔、初めて好きになった人は、竹野内豊に似ていた(゚ー゚)

 今、テレビで竹野内さんを見るたびに、なんだか微妙な気持ちになるのは、そのときの名残である。もちろん、一方的に好きになっただけで、友達にすらなれなかったけれど。
 でも、彼氏いるの?と聞かれて嬉しかったことだけは覚えている。少しは、少しだけは興味もっていてくれたんだろうか、と、時が経った今でも、思ってしまうことがある。

 その頃、妙に美形の人との出会いが続いた。といっても、別に付き合うとかそういうことではなく。たまたまバイト先で出会った人が美形でびっくり、的なことだ。

 百貨店の催しもので、短期のバイトをしたことがある。
 そのときは大量のバイトが集められて、ランダムに、出展するお店に振られていった。私はとある洋菓子店の担当となった。

 はじめまして~と挨拶した彼。一週間はこの人とコンビを組むわけだ。どんな人だろうと思って顔をまじまじとみつめた。ちょっとびっくりするくらいの美形の人だった( ̄▽ ̄)

 なんかね、全く洋菓子店の社員て感じじゃないのね。仕事間違えてませんかっていう。

 それで私は考えた。あー私の趣味ってよく変わってるって言われるからな。私にとっては物凄く美形に見えても、世間的に見たらそうでもないのかもしれない。私にとって好みというだけなんだろうな。

 しかしそんな私の思いを打ち破る出来事が起きたのは、最終日だった。

 その日、私はものすごーく「誰かに見られてる」感じがして、そわそわしていた。人の視線を感じるのだ。見られてる。誰かに。でも何で?どうして? 誰なのか?

 理由はバイト終了30分前にわかった。
 真っ赤な顔をした百貨店の社員さんが、友達らしき人に連れられて、もじもじしながらやってきたのだ。私ではなく、私の隣に立った、彼の元に。

 勇気をふりしぼった声が響いた。

 「あのー、この後って、時間ありますか?」

 私の目が点になった。言葉の意味を、しばらくつかめなかった。私は鈍かったので、まさか彼女が彼を誘いにきているのだとは、すぐにはわからなかった。

 しかしこの言葉、それから彼女の赤く染まった頬をみて、私はすーっと彼から離れ、なるべく遠くに立った。

 一応これ、告白というか、誘いにきてるんだろうな。今日最終日だし、彼帰っちゃうしね。イベント終われば、つながりなんてどこにもないわけで。だからずっと、チャンスを狙ってたんだね。でも私がいつもペアで立ってるから、邪魔だったんだろうな。
 今日感じた視線の元はこれか。私が彼から離れるのを、待ってたんだろうな。そりゃ恥ずかしいよね。こんな告白、他のひとに聞かれたくなんてない。

 でも、私がいなくなるの待ってたら、時間がたつばかりで。やむをえず、恥ずかしいのも承知で、誘いに来たんだなあ。ここはせめて聞こえないふりして、せめて遠くで立っていよう。

 まあ、あれだな。今考えると、私もトイレ行って席外すとか、もっと気をきかせればよかったのだが。私がトイレ行っちゃうと、お客さん来た時に彼が対応せざるをえなくて、それも困るかなとかいろいろ考えた末。
 最善の策として、私は知らん顔で、彼女の告白になどまるで気付かない振りをしてさりげなく、その場を少し離れたのだ。といってもわずかな距離。

 彼は淡々としていた。そういう告白に慣れていたのかもしれない。
 あっさりと断っていた。この後、会社に戻らなきゃいけないと。じゃあ退社するのは何時なのか、遅くなってもいいから的なことを彼女が言っているのが聞こえたが、彼はそれもあっさり拒絶。彼女はうなだれて、去っていった。

 私は思った。ああ、私の思いすごしではなかったんだな。やっぱり、世間的に見ても美形の人だったんだ。恥ずかしさを押し殺してまで、誘いにきたんだもの。それも、好きすぎて一人では無理で、友達に付き添ってもらってまで、勇気をふりしぼってきたのにね。でもわかるなあ。この人ほんとに美形だもんね。

 そんなことがあってしばらくして。
 私はまた、別の仕事で別の美形に会うことになった。その人に会った時もやはり、私は自分の美的感覚を疑った。

 なんかすごく・・美形な気がするけど、私もよく趣味が変わってるって言われるからなあ。私の目に美形に映るだけで、世間的にはそうでないのかもしれないな。

 しかし、そんな私の思いはあっさり打ち砕かれる。彼はやっぱり、どこからみても美形だったらしい。なぜなら、仕事先へ向かうため彼と一緒に歩いていると、視線がバンバン飛んでくるのである。

 視線は二つの段階に分かれていた。

 通りすがりの人は、まず彼に目を奪われる。おそらく、「うわ~かっこいいな」という心の声。

 それからちらっと私を見る。「この不釣り合いな女性は誰?」的なもの(^-^;

 歩いていて、これまでこんなに注目されたことはなかった。そうか~、美形の人は常日頃、こんな視線を浴びているのだなあと、感慨深かった。めったにできない経験である。

 そしてそのとき感じた優越感。
 別に私が偉いわけでもなんでもないのだが、なんだか誇らしい気分になったのは本当である。こんなに美形な人と一緒に歩いている自分、というね。

 よく成功した人が、目の覚めるような美女を連れて歩いたりするが、その気持ちがちょっぴりわかったような気がした。ステイタス、というのだろうか。素敵な人と一緒にいることで、自分自身までが素敵になったような、そんな錯覚があるのだ。

 ちなみにそのときの美形さんは、女性には大変優しい人だった。当然モテモテで、遊び人だと他の人から聞いた。そりゃ無理もないわ、歩いてるだけであれだけ注目されちゃうんだもの、と納得したのだった。

 そして、その頃、友達に紹介されたある美形さんは、真田広之さんに似ていた。しかしこの美形さんは、女性恐怖症だった。

 あまりにもモテすぎて女性から積極的に迫られることが続き、女性恐怖症というか、女の人が駄目になってしまったのだという。

 友達からその話をはじめに聞いたとき、そんなことあるのかなと疑ったが、実際本人に会ってみて納得した。本当にきれいな人だったから。

 美形にもいろいろな人がいる。
 その美貌を活かして、たくさんの人と楽しく遊ぶ人、それから、モテるゆえに人間不信、人が駄目になってしまう人。

 必要以上に人目をひくのは、本当はなかなかキツいことなのかもしれない。顔で判断されることで、本当の自分をわかってもらえない気持ちになるのかもしれないし。

 美形も大変だなあと、思う。

 もし私が絶世の美女になりたいかと問われたら、答えはNOだ。たぶん、美形は本人の罪ではない種種のトラブルを招くから。

 私が最初に書いた、洋菓子の彼。あの淡々とした断り方は、トラブルを防ぐ、彼の精一杯の自衛だったのかなあと思ったりする。必要以上に優しければ、相手を期待させてしまう。かといって、冷たすぎれば恨まれる。
 好きでもない人に告白されるのは、やっかいごとでしかないのかもしれない。あの断り方は、さまざまな経験を踏んだ彼の、処世術だったのかな。

 はっとするような美形の人は、きっといろいろ大変なのだろう。ちょっと綺麗、くらいが一番平和で、幸せなのかもしれない。

雨の日、小さな教会をみつける

 とあるお城の跡地にある、博物館へ。

 雨がひどくなり、ゴールデンウィークだというのに、辺りには人影もない。博物館へ向かう石畳の上、雨がすごい勢いで跳ねている。レインシューズ履いて来ればよかった(;ω;)

 駐車場から、博物館までの入り口が長い。しかも途中に神社が二つもあって、寄り道をしていたら、ますます到着が遅くなってしまった。
 しかし、素晴らしい立地である。

 山全体が整備され、神社も綺麗に掃き清められ、新緑の森の匂いが清々しい。

 雨に混じって、香りが届く。何種類もの植物の匂いが渾然となっておそらく、この瞬間のこの香りは、今しかない絶妙の調合。刻一刻と、装いを変える。

 深呼吸しながら進んで、ふと道路の向こうをみると不思議な建物が。

 ああ、この建物、好きだな。一目見て、そう思う。

 学校だろうか。それとも老人ホーム? 大勢の人が暮らす建物のようにみえる。荘厳なたたずまい。デザインがいい。

 個人の建物ではないだろう。大きくて、だけど人の気配がない。窓から見えたのは、ロッカー。やはり、多くの人が使う建物のようで。

 興味をひかれたので、私はその建物をもっとよく観察しようと、道路を渡った。博物館は後回し。ひとまずここが何なのかを知りたい。

 すぐ近くまで来て、門になにか書いてないか確認してみたが、看板などはない。裏手のようだ。表に回ってみたら、なにかわかるかもしれない。

 私は、ぐるっと建物に沿ってまわってみることにした。道は直線ではない。そして建物はとにかくだだっ広い。

 車一台がやっと通れるほどの細い道を歩いていくと、建物の反対側で、立派な家が朽ち果てているのを発見。

 元は、さぞかし豪華な家だったと思う。門構えでわかる。生い茂った草が、すべてを飲み込もうとしていた。門から見える家の窓ガラス。破れたカーテン。広い庭を覆い尽くす草の波。これだけの家が、土地が、なぜ放置されているのだろう。主がいなくなったとしても、まったく親戚がいないというわけではなかろうに。放っておかれる理由がわからない。

 廃屋の隣には、普通に家が建っていて。住宅街が続いていた。この辺りは、田舎ののんびりした雰囲気もありながら、発展もしている。建て売りの住宅らしきものが、四棟建築中だ。雨で人気はあまりないが、活気のある街なんだと思った。

 それぞれの家が個性的だ。色も、デザインも。多くの家が、それぞれに花を飾っているのを見て、心が和んだ。

 それにしても。道は奇妙に続いていた。建物に沿って回り込むつもりだったのに、なんだか私有地のようなところがあったりして、遠慮して入りこめず。いったん建物から遠ざかってしまったりして。

 ぐるりと大回りして歩いていると、すこし先に十字架が見えて。近寄ってみると、そこは小さな教会だった。どこにでもある、街の小さな教会。だがその庭に、強く惹かれた。

 広い庭は、花畑だった。丁寧に植えられた花が、道行く人を眺めていた。教会には低い塀があったが、門はない。大きく開かれた空間は、まるで「お入りなさい」と誘っているかのよう。

 一面に揺れる、花と雑草。そうなのだ。この庭には雑草がたくさん生えていて、それが独特の彩りだと感じた。なにもかもが自然で、優しい。

 もちろん、植えられた花には、人の手が加わっている。だけど、自然に生えた雑草もまた、主人公のように美しかった。妙な話だが、雑然としているわけではなく、それはとても、当たり前のような存在感で。

 道路側に掲示板があって、聖書の一節が書かれている。

>すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

>わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 なんて温かな言葉だろう、と思った。そしてその言葉通りの庭。掲示板には、牧師さんの電話番号が記載されていた。この家には、普段は住んでいないから、会いたいときには電話してくださいと。

 こんなに素敵なお家が、普段は空き家だなんてもったいないなあ。そう思いながら、道路に佇んで、目の前の家や庭をしげしげと眺めた。とにかく、とてもウェルカムな家だと感じた。来る者を決して、拒まないのだ。むしろ両手を広げて、にこにこと迎えられているような感覚。

 庭には高い木がほとんどなく、見通しがいい。さまざまな植物が共生している。手が入っていないわけではないが、その手をかけすぎないほどよさが、なんとも心を打った。まるで楽園だ。牧師さんは不在なのに、門は閉ざされるどころか、そもそも存在すらしていない。

 お庭を見学させてもらいたいなあ、と思ってしまった。実際、あの場所に立ったらどんなに心地いいだろう。信者の方は、その子供たちは、この天国のような庭でお茶をしたり、遊んだりするのだろうか。

 優しく、温かく、夢のように心惹かれる場所だった。

 そしてその近くに、私が目指していた建物の正門があった。やっと、そこがなんなのかわかった。…小学校だった( ̄▽ ̄) それにしても、なんて広い学校だろうか。グラウンドだけではなく、建物も広く、幾棟もあって複雑に入り組んでいる。

 敷地沿いの道路を進んでいくと、講堂なのか正面ホールなのか、立派な柱と吹き抜けが見えた。柱はまるで、古代ギリシアのような、異国風で。ため息がでるような芸術作品だ。こんな学校で学べる小学生は幸せだなあと、そう思った。

 学校は。小学校も中学校も高校も大学も。学校と名のつくものすべて、見ると郷愁のようなものを感じる。懐かしさと、戻れない痛みと。誰もがそこに留まらず、いつか巣立っていくからだろうか。

 

 雨の中、雰囲気のいい街で散歩を楽しんだ。雨もまた、いいものである。

小保方晴子さんの会見を見ての感想

 小保方晴子さんの会見を見ての感想。

 私の率直な感想。う~ん、これはSTAP細胞、実際にはないんだろうなあ、でした。

 なぜかというと、もしあるのなら、それも小保方さんの言う通り200回以上作成に成功してるなら、作るところを専門家に見てもらえばそれですべて解決するのに。

 「証明させてください。作成するところを見て下さい」とは、言わなかったからです。

 特許とか絡むなら、別に全世界に公開しなくてもいいですが、専門家チームに見てもらい、その人たちに証明してもらったら、これってすぐに解決する話ですよね。STAP細胞は作成日数がIPS細胞に比べて早く、簡単だというのだから、実際作ってみせるのが一番の方法でしょう。

 もし疑われて本当に困ってるなら、絶対言うはずなのに。言わなかった。

 そして、名前は出せないけど、第三者で作った人がいるみたいなことを言ってましたが、名前を出せないのだったら、全然証拠にならないのでは?Σ(;・∀・)

 それでも、小保方さんがまっすぐな目で、最後まで堂々と臆することなく身の潔白(STAP細胞の存在)を訴えたので、まさか嘘はついていないだろうと信じる人も一定数いたようですが、そのまさか、という考えは少し甘いかも、と思ってしまいました。

 別に彼女がそうだと決めつけているわけじゃありません。
 ただ、世の中には、一定の割合で、ものすごく爽やかに、一片の曇りもない笑顔で嘘をつける人もいるのです。
 私はそういう人に、実際会ったことがあります。要は、「証拠は何もないけど、あれだけ言ってるんだから本当のことだろう」という考え方は危険だよ~ということです。

 そもそも、こんな、STAP細胞はあるのかないのか、なんて議論、本当は論文提出前に、理研がすべきことなのでは?と思ってしまいました。小保方さんは理研の研究者として論文を出したのだから、理研にはその責任があるはず。
 こんな世紀の大発見、普通なら本人以外が何度も確認するし、こんな間違いとか、あり得ないと思うのですが。

 

 責任の大きさで言うなら、小保方さん個人よりもその上司、そしてその上司を監督すべき理研の上層部の方が大きいと思うし、これは組織としてものすごく、問題があると思いました。理研の研究には多額の税金が投入されているのですよね。大切な研究費という自覚がないから、こんなにいい加減なことになるのではないかと。

 徹底的に改革して、本当に真面目な研究者が報われるようになってほしいです。このままの理研では、いけないと思います。この騒動の調査チームは、全員理研の外部から抜擢すればいいのに・・・というか、そうでないと、もう進展しないような気がするのですが。しがらみもあるでしょうし。

 内部の人達では、果たしてどこまでできるのか、疑問です。

別れの桜

 ちょっと見ない間に、川向こうの近所の工場が、廃屋になっていた。

 敷地内にあった灯りはもうない。だから、フェンスの向こうの見事な桜の並木も、闇の中にひっそり、息をひそめていた。

 目を凝らして、まさかと思いながら建物を見た。24時間操業が、昼だけの操業になった可能性もあるかなあ、なんて。僅かな期待は、あっという間に砕けた。暗闇に浮かんだのは、割れたガラスと、穴のあいた壁。
 この状態で、工場が稼働しているとは、とても思えない。灯りもない。人影もない。人の残すざわめきの名残もない。

 昔、川沿いに建つその工場で、印象的なお花見の光景を見た。

 月も出ない、曇り空。工場の窓から漏れるほのかな明かりと、ほんの申し訳程度に設置されたポールライト。

 照らし出されたのは、簡素な長机と、そこに並べられた料理や飲み物。作業着姿の人達が席につき、それはそれは、静かなお花見を楽しんでいた。

 囁きのような談笑。
 酔っぱらった大声は、そこにはなくて。耳をすませても、言葉の内容なんてまるで聞こえてこない。おしゃべりは意味のとれない、純粋な音のさざ波。そこに咲く桜の花と同じような、ささやかでしとやかな、夢のような宴。

 ぼんやりと浮かびあがる白い桜の下で、幻のような人達が、なにごとかを話しながら花を愛でていた。その川の向こう、フェンスの向こうの光景は、なんだかこの世のものとはおもえないような。異次元の空間を、のぞき見たような。

 端の方に座る、ひとりの男性に目がとまった。仕事の後だからか、疲れているようだった。他の人たちよりほんの少しだけ、距離を置いて座っているのが気にかかった。誰とも話さずに、でもちゃんと、他の人達と繋がっている感じがした。そしてそのことを、嬉しく思っているように見えた。

 そのとき、私は勝手に想像した。
 毎年この会社は、この季節に親睦のお花見をするんだろうな。みんな、いつも会社と家との往復で、厳しい夜勤も含めたシフトの中、同僚同士で親しくなる機会も、なかなかなくて。
 口数も少なく、大人しい人にとって、この花見はくすぐったいような、でも貴重なイベントなんだろう。

 全員参加。っていうのが、社長命令なのかもしれない。
 離れた店へ行くのではなく、終業後にそのまま外に机を並べ、食べ物飲み物を用意したなら。時間のロスもなく、誰もが参加しやすい。
 せっかく、こんなにも見事な桜を、何本も持っているのだもの。逆に、外部の人間が花見をしようにも、私有地だからできない。この会社だからこその特権。年に一度の贅沢。

 嬌声も、まばゆい灯りもない、静かなお花見。

 同僚と、少し距離を置いて座る人も。こそばゆいような嬉しさがあったような。照れながらもね。同じ桜を、しみじみ愛でるこの瞬間を。共に働くひとたちと共有していた。それは、どこかへ場所取りして、わいわい賑やかにやるお花見とはまた別の、全く違う種類のお花見だった。

 廃屋になったその工場に、今、人影はない。桜は今年も見事に咲き誇っていたけれど、あのときのぼんやりとした灯りさえない、深い闇の中。誰ひとり、咲きこぼれる花を見上げる人はいなかった。

 別れは突然やってくるんだなあと思った。
 明日からいなくなります、さようなら、なんて。挨拶できる別れの方が、希少なんだと。なんの予告もなく、ある日突然気付いたら。二度と再現されない光景。会えない人達。

 あのとき、他の人達から少し距離を置いて、ひとり紙コップを持ち、桜を眺めていたあの人は。今どうしているんだろう。どんな気持ちで、今は別の桜を見ているんだろうか。

 もう稼働していない工場のことがどうしても気になって、後日また見に行ってしまった。だけどやっぱり、そこには誰もいなかった。