ちょっと見ない間に、川向こうの近所の工場が、廃屋になっていた。
敷地内にあった灯りはもうない。だから、フェンスの向こうの見事な桜の並木も、闇の中にひっそり、息をひそめていた。
目を凝らして、まさかと思いながら建物を見た。24時間操業が、昼だけの操業になった可能性もあるかなあ、なんて。僅かな期待は、あっという間に砕けた。暗闇に浮かんだのは、割れたガラスと、穴のあいた壁。
この状態で、工場が稼働しているとは、とても思えない。灯りもない。人影もない。人の残すざわめきの名残もない。
昔、川沿いに建つその工場で、印象的なお花見の光景を見た。
月も出ない、曇り空。工場の窓から漏れるほのかな明かりと、ほんの申し訳程度に設置されたポールライト。
照らし出されたのは、簡素な長机と、そこに並べられた料理や飲み物。作業着姿の人達が席につき、それはそれは、静かなお花見を楽しんでいた。
囁きのような談笑。
酔っぱらった大声は、そこにはなくて。耳をすませても、言葉の内容なんてまるで聞こえてこない。おしゃべりは意味のとれない、純粋な音のさざ波。そこに咲く桜の花と同じような、ささやかでしとやかな、夢のような宴。
ぼんやりと浮かびあがる白い桜の下で、幻のような人達が、なにごとかを話しながら花を愛でていた。その川の向こう、フェンスの向こうの光景は、なんだかこの世のものとはおもえないような。異次元の空間を、のぞき見たような。
端の方に座る、ひとりの男性に目がとまった。仕事の後だからか、疲れているようだった。他の人たちよりほんの少しだけ、距離を置いて座っているのが気にかかった。誰とも話さずに、でもちゃんと、他の人達と繋がっている感じがした。そしてそのことを、嬉しく思っているように見えた。
そのとき、私は勝手に想像した。
毎年この会社は、この季節に親睦のお花見をするんだろうな。みんな、いつも会社と家との往復で、厳しい夜勤も含めたシフトの中、同僚同士で親しくなる機会も、なかなかなくて。
口数も少なく、大人しい人にとって、この花見はくすぐったいような、でも貴重なイベントなんだろう。
全員参加。っていうのが、社長命令なのかもしれない。
離れた店へ行くのではなく、終業後にそのまま外に机を並べ、食べ物飲み物を用意したなら。時間のロスもなく、誰もが参加しやすい。
せっかく、こんなにも見事な桜を、何本も持っているのだもの。逆に、外部の人間が花見をしようにも、私有地だからできない。この会社だからこその特権。年に一度の贅沢。
嬌声も、まばゆい灯りもない、静かなお花見。
同僚と、少し距離を置いて座る人も。こそばゆいような嬉しさがあったような。照れながらもね。同じ桜を、しみじみ愛でるこの瞬間を。共に働くひとたちと共有していた。それは、どこかへ場所取りして、わいわい賑やかにやるお花見とはまた別の、全く違う種類のお花見だった。
廃屋になったその工場に、今、人影はない。桜は今年も見事に咲き誇っていたけれど、あのときのぼんやりとした灯りさえない、深い闇の中。誰ひとり、咲きこぼれる花を見上げる人はいなかった。
別れは突然やってくるんだなあと思った。
明日からいなくなります、さようなら、なんて。挨拶できる別れの方が、希少なんだと。なんの予告もなく、ある日突然気付いたら。二度と再現されない光景。会えない人達。
あのとき、他の人達から少し距離を置いて、ひとり紙コップを持ち、桜を眺めていたあの人は。今どうしているんだろう。どんな気持ちで、今は別の桜を見ているんだろうか。
もう稼働していない工場のことがどうしても気になって、後日また見に行ってしまった。だけどやっぱり、そこには誰もいなかった。