グスタフ・クリムトの『接吻』を見て思うこと

 グスタフ・クリムトの描いた、『接吻』という絵が好きだ。この絵を見ていると、その背景に物語を感じる。

 年末に出かけた美術館で、ちょうどこの絵のポストカードを売っていた。以来、部屋の壁に飾って、ことあるごとに眺めている。

 全体に漂う死の影が、色濃い。

 私には、描かれた男が生者で、女が死者のような気がしてならない。果てしなく、想像は広がっていく。

 以下、まったくの個人的な感想なので、軽く読み流してください(^^;

 男の佇まいに感じるのは、威厳だ。金の豪奢な衣装は、貧しい民には手の届かない品のように思う。
 堂々たる正装で、愛しい人をかき抱いているのであろうその姿には、悲壮感が漂う。何故か。

 男は、神話のように、黄泉の世界まで女を訪ねていったのではないだろうか。この世で何もかも手に入れた男が、頂点を極めた後で、心底欲した女を、タブーを超えて追って行ったのだと。

 黄泉の世界。
 まだ完全には、あちらではない、ゆらゆらとした境目に、その女は彷徨っており。しかしそれは、女がその男を求めたからではない。

 女には、その男とは別に、この世に残した未練があったから。

 黄泉の世界で、再会の喜びにうち震えながら、男は女を力強く抱きしめる。その強さで、彼女の命をこの世に引き戻そうかとするかのように。けれどそれは叶わぬこと。女の心は、そこにはない。
 青ざめた頬に、朱は差さない。
 その瞳は閉じられたまま。唇がなにかを物語る気配もない。

 ありったけの財を投じて。女のために、自分と対で作らせた花嫁衣装を、冷たい女の肌に羽織らせる。
 金糸のチュール、その端から長く垂れる藤の花に似たオーナメント。

 シャラシャラという、飾りのたてる小さな音が聞こえてくるような錯覚。

 それでも女は目覚めない。

 男の抱擁は絶望に変わる。決して届かない。現世でのどんな成功も、この女を生きて、連れ戻す力にはならなかった。むしろその傲慢さが、権力が、この女を、死の世界へと追いやったのだと。

 私には、この女の表情が、男を拒んでいるようにみえてしまう。
 黄泉の国までやってきて、実際にその手に抱きしめられても、魂だけは決して渡さないという強い決意や、プライドを。

 画面の右下端に目をやると、二人がいるのは、崖っぷちだということがわかり、いっそう、二人の立場の、揺れ動く不安定さを感じる。

 進めば黄泉。
 戻れば現世。けれど今さらもう、どちらへ行ったところで、幸せな楽園など、ないではないか、という皮肉。

 咲き乱れる花々は、芥子の花に似ている。妖しく、美しく咲き乱れているけれど、そこにはまやかしと毒がある。
 妙に作り物めいた、隙のない造花のような、現実味のない美しさ。

 いつもそこまで考えた後で、私が不思議に思うのは、女のつま先と、右手だ。

 ここだけが、どうしても解せないんだよなあ。

 なぜそこまで冷たく拒むのに、つま先には力が入り、そこだけには生気が満ちているのか。

 そして、男の首に、甘えるようにまわされた右手。

 最初は、男がみずから、女の手をその位置に持っていったのかと思った。でも、女の魂がそこにないなら、その手は、すぐに力なく、滑り落ちてしまうのに。
 変わらずそこにあり続ける腕は、女の意志としか思えない。

 では女はそこにいる男を肯定しているのか。

 わからない。

 男から伝わってくる悲嘆と絶望。きっと男は気付いていない。女のつま先と右手だけが、彼を受け入れていることに。

 もしかしたら次の瞬間、大逆転が起こるのだろうか。
 この不安定な場は、目を離した次の瞬間には、全く違う様相を呈するのだろうか。

 想像は、いつもここまでで、行き詰ってしまう。

 この先、この絵におこる変化は、どんなものなのだろうか。それを予感するからこそ、人はこの絵に、惹かれるのだろうか。
 もう終わってしまった光景でなく。これから始まっていく物語だから。

 毎日眺めても、飽きない絵である。

うつつはまことか

 夢をよくみる。

 夢は、浅い眠りのときに見るのだというけれど、私にはそんな感覚はあまりない。

 夢は、もうひとつの世界の入り口のような気さえする(^^)

 そして、私は恐い夢をほとんど見ない。たいてい、懐かしいような、楽しい街並み、この世とは違う、もうひとつの世界ばかりを、体験している。

 今日の夢もその一つ。

 たくさんのショップが入った複合ビル。高さはあまりなく、3階建てくらい。とにかく広くて、歩いても歩いても果てがない。
 その中の書店は、少し変わった本ばかりを集めていて。
 その広さにも関わらず、店員は一人しかいなかった。

 眼鏡をかけ、気だるそうに店番をする店員。
 独特の雰囲気の店内。
 そこには、常連だけが訪れる空間が広がっていた。

 うわあ、いい感じだなあ。こんなところでぶらぶら本を眺めて過ごしたら、楽しいだろうなあ。
 でも、入るのはちょっと勇気いるかも。
 ここ、常連さん以外、あまり歓迎されないのかな。

 このスペースに店員さん一人って、全然、売る気ないな(^^;

 そんなことを考えながら、勇気のない私は、素敵な書店の前を、ただ歩いて通り過ぎた。本当は入ってみたかったけど、気圧されて無理だった。

 一階に下りてみると、プラネタリウムの入り口があった。すでにたくさんの人が、次の上演に備えて並んでいる。
 どうやら、予約制ではなく、当日売り専門らしい。
 予約をしたいお客さんと、スタッフが話をしていた。

 「ちゃんと見たいから、予約ができると便利なんだけど」
 「すべてのお客様に平等にご覧いただくため、各回ごとに並んでいただいているんですよ。申し訳ありませんが、ご予約はできないんです」

 プラネタリウムは人気らしく、行列もかなりの人数だ。
 私は目を凝らして、上演回の内容と、時間を示すボードを見た。

 次の次の回なら、ちょうど時間がよさそうだ。今日はプラネタリウムに寄って行こう。

 それにしても、いつオープンしたんだろう。
 私がいつもいくプラネタリウムは駅から少し距離があるし、時間にも制約が多いからあまりしょっちゅうはいけないんだけど。

 ここにこんないい施設ができたなら、これからは仕事帰りにだって、頻繁に寄れるではないか。嬉しいな。これからはできるだけ、ここを利用しよう。

 すぐそばには、広大なロッカースペースがある。
 そこには大きな荷物を預けられるので、私もさっそく、使ってみた。扉をしめる感覚が、とてもリアルだった。

 というのが、今日みた夢なのだが(^^;

 またこの続きがみたい。よさそうなプラネタリウムだったな~。あの奇妙な雰囲気の本屋さんにも、心惹かれるし。
 思いきって、入ってみればよかったな。

 夢をみるとき、不思議なことは。

 

 夢のなかの自分は、自分自身の存在意義を、まったく疑問に思うことがない、ということなのである。

 普段の私は、わりと真剣に、そもそも自分の意識とはなにか?とか、この世は何なのか、とか。この世界の意味や、現実とはなんなのだろう、なんてことを考えているのだけれど。

 夢のなかの私は、いっさいそんなことを考えていない。
 ただ、そこにいるだけ。

 そうした疑問をもつことを、最初からプログラムされていないかのような存在だ。

 これはなんなのだろうか、と、また疑問に思ったりする。

 現実では、日々、不思議なことっていっぱいあるし、それを追究したいという気持ちも強く、あるのだけれど。
 夢の中の自分は、そんなことには一切、関心がないようだ。
 自分の存在に、少しの疑問も持たない、というのが、夢の中の自分の一番大きな特徴で。

 ただ、そこにいる。
 ただ、生きている。
 ただ、感じている。

 夢の中の自分は、いまここにいる自分より、ほんの少しだけ不自由な存在なのかもしれない。
 それはきっと、幸せなことなんだろうけど。疑問を感じる自由さを、完全に失ってはいるものの。それだからこそ。

 江戸川乱歩の言葉を、今日は思い出したりしている。

>うつし世はゆめ よるの夢こそまこと

 深い言葉だと、思う。

坂の上で振り返った日のこと

 思い出すのは。

 住宅街の散歩。 
 いい天気で、太陽が心地よくて。

 写真を撮ったのだ。なんでそんなありふれた場所で写真など、と。今考えると、本当におかしな話なのだが。

 高さのある坂を上っていった。
 あたりの住宅を、あれがいいこれがいいと批評しながら。いつか家を建てるなら、こんなのがいいな、などと話しながら。

 坂の向こうには、きっと素敵な光景が広がっているだろう、と私は予感していた。

 坂の上に立ったとき、その人は振り返った私を写真に撮った。

 「なんで写真?」と訝しむ私に、「撮りたかったから」とその人は言った。

 そして立て続けに、数枚の写真を撮った。
 特に観光名所でもない場所で。ありふれた散歩道で、写真を撮る行動はとても不思議に感じられたけど、できあがった写真の私は、うれしそうに笑っていた。
 芥子色の服を着ていた。

 その写真は、今はもう手元にはない。
 昔の写真は、処分してしまったから。

 たったそれだけの話なのだが、あのときの空気は、深く心に残っている。

 同じように、よく晴れた天気には、思い出すことがある。光の色。素敵な庭。建ち並ぶ家々の意匠。

 

 そのときの私が考えていたことや、未来や、よく立ち寄った喫茶店の指定席、窓から見える風景。

 寒い日には、ローズヒップティーを頼んだ。
 透明なティーポッド越しに、赤い色を見つめていた。口にしたときの酸味が、新鮮だった。

 書店にも寄った。雑貨屋にも寄った。
 新しくできたレストランに興味津々で、思いきって入ってみたら案内された席のすぐそばに、謎の、鉄製大扉があったこと。

 古い蔵を借りて、内装を整えた店内。果たしてその扉はオブジェなのか、本物か。

 私は、その扉は本物だと想像した。
 客には公開されない開かずの部屋が、向こうにはあるのだと。扉の向こうには、歴史ある数々のアンティークが、ひっそり眠りについているのだと。

 いろんなものがまとまって蘇ると、心は不思議な感情で満たされる。

 懐かしくて、少し痛い。

 それに、意味はあるのだろうか。と考えたりする。

 どうして写真を撮ったのかな。
 どうして私は、あんなに素直に笑っていたのかな。

 今の私が写真を嫌いなのには、少しだけあのときのことが関係しているのかもしれない、と考えたりもする。

 写真を撮られるのは嫌いだけど、散歩は今でも好きだ。

 昔より、早足になったのだけが、違いといえば違いである。

スタンウェイでホロヴィッツを聴く

 山に行ってきました。といっても、低い山ですが。
 紅葉も盛りを過ぎて、落ち葉がはらはらと舞い散るさまは、とても風情があって心惹かれるのです。空気の冷たさも、清浄さを感じさせてむしろ、気持ちがいい。

 山頂からの眺めもよかったですが、山のふもとにある寂れた小さな社にも心を惹かれました。
 道は整備されていましたが、あまり人の訪れる様子もなく。神社の名前はおそらく書いてあったのでしょうが、木の板に刻まれた名称は、風雨にさらされて読みとることはできませんでした。
 名前もわからず、ひっそりとそこに在るんだなあと。昔も、今も。

 そしてときどき、お年寄りがお掃除に来たりするのでしょうか。きっと管理する方も高齢で、毎日は来られないのかなあ、などなど、いろいろ想像しました。

 近くに置かれた木製のベンチは古いもので。長い間、誰にも使われていないように見えました。そんなベンチの上に、風が吹くと落ち葉が舞い降ります。

 山道を、ざくざくと枯葉を踏みしめながら歩きました。
 この乾いた音がまた、いいのです。無心になれるというか。上り坂を早足で行けば、すぐに心臓が早鐘を打ち始めて、少し息が苦しくなって。辺りには、誰も人の気配がなく。

 無心に足を進めれば、聞こえるのは自分の足元で、崩れていく落ち葉の音だけ。その音はとても、心地よく感じられました。

 山を少し上がったところに、小さなミュージアムがあります。そこにはスタンウェイのリプロデューシングピアノが展示してありました。リプロデューシングピアノ。私は初めてこの言葉を知ったのですが、いわゆる自動ピアノなんですね。
 でも、ここに展示してある自動ピアノは、私が知っている自動演奏のピアノとは全然違いました。

 というのも、この自動ピアノ。単純にコンピューターで制御されて正確な曲を奏でるというタイプのものではなかったのです。このミュージアムにある自動ピアノは、経本のように折りたたまれた穴のあいた紙(ピアノロール?)をデータ元として、昔のピアニストの演奏を再現してくれるんです。その人の弾いた強弱やリズムなどの個性そのままに、当時のまま、ですよ。これはすごい。

 これから実演をみせますよ~というスタッフの説明を聞いて、私は興奮しました。このミュージアムでは、時間を決めて日に何度か、このリプロデューシングピアノを動かしてくれるのです。

 まだ蓄音器のなかった時代。この、ピアノロールを用いた音楽再生方式は、どれだけ画期的な発明だったことでしょう。

 その場限りの、生の演奏が。
 何度でも、好きなときに好きなだけ再生できるんですから。

 ピアノロールにあけられた穴に、空気を通過させることでハンマーなどを動かすしくみだったようです。

 もちろん、このピアノロールを作るのにはかなりの時間と労力がかかったでしょうし、ピアノそのものも大変高価なものだったでしょうから、その恩恵にあずかれたのは、庶民ではなくごく一部の特権階級だけだったようです。

 現代の、コンピューターを使った精密なピアノの演奏再現とはまた違って、もちろんオリジナルの演奏を寸分違わず、というわけにはいかないでしょうが。
 ピアニストの演奏を、CDではなく、この、目の前のピアノで聴くことができるなんて! 

 しかも、ミュージアムスタッフの女性。使うピアノロールについて「ピアニストはホロヴィッツです。だいたい100年くらい前の演奏になりますね」とのこと。

 うわ~、ホロヴィッツ。
 そんな有名な人の演奏、当時、実際にロールペーパーに記録された彼の演奏を、スタンウェイのピアノで聴けるなんて、すごいことだ~。
 わくわくしながら、その瞬間を待ちました。

 ミュージアムの中は、少し暗くて。
 聴衆は、私の他に4人という少なさです。
 なんという贅沢なコンサートでしょう。なんだか、5人で聴くのはもったいないような気がしました(^^;

 曲目は、ビゼーの「カルメン」をホロヴィッツ自身が編曲したものだとのこと。しかも、ホロヴィッツが20代のときの、若い時代の演奏だということでした。

 ピアノのすぐそば、最前列の椅子に座り、じっとみつめる私の前で、静かに鍵盤が動き始め・・・と思ったら、もう、またたく間に連打、連打、の嵐。
 物凄い勢いで、しかも流れるように、鍵盤が動きました。寄せては返す、波にも似てます。

 自動演奏ということで、ピアノには誰も座っていないので、鍵盤の動きはとてもよく見えました。

 それはもう、圧倒的な動きでした。速い速い。超絶技巧です。どうしたらこんな風に指が動くんだろうと不思議になるくらい。切れ目なく音は流れ続けて、その優雅で力強い響きに、私の体全体が包まれました。

 鍵盤の動きをみつめていると、その前に、いないはずの演奏者の姿が見えるような錯覚を覚えます。

 音は若かったです。情熱的で。20代というのも納得でした。

 これでもか、これでもか、みたいな尽きないエネルギーのうねりを感じました。うーん、これを演奏したとき、きっとホロヴィッツ青年は、ピアノに対して真正面に向き合っていたんだろうなあ、なんて、そんな想像をしてしまったり(^^)

 自分がどこまで行けるのか、みたいな、挑戦的な気持ちや、自信や、真っ向勝負の緊張感など。

 ピアノの音と一緒に、それを演奏したピアニストの気持ちまで、伝わってくる気がしました。部屋でCDを聴くのとは、また全然違う感覚です。

 押し寄せる音の波の中で。全身を音楽に包まれて、その人の気持ちを受けとる、みたいな。

 芸術は「表現」なんだな~って、そのときふっと、思いました。その人の感情とか思い、そのものなんじゃないかと。人はそれぞれ、個別の存在で。表現しなきゃわからない。通じ合えない。

 その表現が、人によっては音楽だったり絵だったり、はたまた文章だったりするわけです。その他限りなく、表現の手段は、世の中に星の数ほどあって。

 人間は、表現する存在なんだなあと。
 表現すること・・・自分はこんな人間です、こんなことを思ってますって誰かに伝えるのに、黙っているのでは伝わらなくて。だから、音に乗せたり、色を描いたり、文字に託したりする。

 ピアノの音に、私は感動していました。
 錯覚かもしれないけど、その人の心そのものに、触れたような気がして。
 音は結局のところ振動であって、その振動に意味などないのかもしれませんが、それでも。その振動が耳に届いたとき、聴き手の心には、確かな変化が生じるのだと思います。

 そのとき、私が感じたのは、若さとエネルギーでした。なにかこう、すごく前向きな、挫折を知らない、ただこの先にあるなにかに対する、果てのない興味と希望、のような。
 そして、もどかしさ。
 もっと速く、もっと自由に。この指先ではまだ、胸から溢れだす気持ちを表現するのにはまったく、足りないとでもいうような、逸る心。

 こんなものじゃない。
 まだ、これがすべてじゃない。

 まぶしいくらいの若さや情熱が、こめられた演奏だなあと思いました。その音の心地よさに、いつまでも包まれていたいと願ってしまいました。

 山の上にある、小さなミュージアムにて。それはとても、素敵な時間でした。

私的ナンバーワン朝食バイキング

 私は年に数回は旅行するので、いろんなホテルの朝食バイキングを食べてます。そんな中でも、前回のブログに書いたホテルの朝食は、私の中での総合歴代ナンバーワンでした。

 なによりも、食事の内容がよかったのです。

 

 イクラと辛子明太子が出たのです(^^) 私はこの二つが大好きでして、毎日とは言いませんが、しょっちゅう食べてます。

 でも、今までホテルの朝食バイキングで、これを見たことはありませんでした。

 今回のホテルでイクラを見た瞬間、私のテンションは上がりました。しかも、イクラも明太子も、自分で取り分けるのではなくあらかじめ小皿にのせた状態で置いてあるので、トレーにのせるのが楽でした。
 小皿を好きなだけ、ひょいっと自分のトレーにのせればいいのですから。

 前から思ってたんですけど、こういうバイキングの場合、小皿によそった状態のものも2つ3つ用意してあると助かりますね。片手でトレーを支えたまま、おたまやお箸でよそったりするの、大変なときもあるので。

 サラダも、素材別にずらりとボールが並んでいて、自分の好きなサラダを作れるようになっていました。

 私は海藻と、コーンと、人参をセレクト。中華ドレッシングをかけて食べました。おいしかった♪

 他のホテルだと、サラダはあまり種類がなかったり、選べなかったりするんですよね・・・。

 デザートにはなんとライチがあり。これも嬉しかったです。ディナーのバイキングだとライチが出ることもありましたが、朝食でこれを出すホテルに泊まったのは、初めてです。

 そして、私を喜ばせたお茶漬けセット。
 だし汁が用意してありまして。ご飯の上にトッピング(ゴマ、青葉、ノリ、梅干し、漬物など)をのせたあと、だし汁をかけて食べられるようになっていたのです。
 おかゆはよくあるパターンですが、朝食バイキングでお茶漬けというのも、珍しいかなあと思いました。

 漬物も何種類かあって、選べます。

 朝から油ものとか、肉をがっつり食べたいという人だと物足りない内容かもしれませんが、私はさっぱり系の和食が好きなので、このホテルのバイキングの内容はかなり気に入りました。

 そして、もうひとつ、いいなあと思ったのは広さです。

 バイキングの嫌なところは、混んだときのとりづらさにあると思うんですけど、このホテルは食材をうまく配置して、ひとつの場所に人が集中しないよう工夫されていました。
 なにをどこに並べるか。それを考えるだけで、混雑はずいぶん解消されるんですよね。

 かつ、通路のスペースが十分にとってあるので、その点も安心して歩けました。これ、結構大事なことです。

 それから、テーブルの上に、多少の余裕があるのもありがたかった。細かい話ですが、食材によってはいったんトレーを置く場所も欲しいのです。そのスペースがないと、非常にとりづらかったりします。でもこのホテル、ちゃんとそのへんも考えてあるようでした。

 それだけではありません。私が感心したのは、下膳のシステム。

 不思議なことに、飲食スペースに、スタッフが全くやってこないんですよ。普通は、食べ終わったお客さんの食器を片付けに、大忙しのはずなのに。

 変だなあと思っていたら、なんと食べ終えたらしき近くのテーブルのお客さんが、自分のトレーを持って歩き始めたではありませんか。

 そうか、ここは自分で片付けるシステムなのね。

 これ、意外にいいシステムです。ホテル側からしたら、その分、スタッフを食材の補充などに集中させることができるから。人手が少なくても大丈夫なわけです。客がまだ食べてる最中なのかどうかわからず、放置されるお皿も減って(自分が帰るときに自分が片付けるなら、間違いありませんから)、回転率もよくなります。

 そして私自身が感じたことなんですが。
 各テーブルを見まわって、食器を片付けるスタッフがいないと、ものすごく静かなんですよ。落ち着く。ゆっくり寛げます。

 下膳口のあたりを確認しましたが、特に「セルフサービスで、ご自分の食器はこちらにお持ちください」などという掲示は、まったく見当たりませんでした。それでも、他の人がやっているのをみて、ほとんどの人が自ら、食器を片付けていました。

 ホテル側としては、強制はできないから、掲示はしないのかな?と思いました。

 でもこれ、いいアイデアです。食器を片付けることくらいなんでもないし、その分の労力を、食材の補充や清掃(皿に移す時のとりこぼし)などにあててもらいたいから。

 食事はすべて美味で、大満足でした。