夕暮れに菜の花を摘む

 春はそこまで来ている。

 菜の花の黄色は、春を告げる色だ。

 夕暮れ時に、菜の花を摘んだ。花が咲き始めたばかりのつぼみを選んで、摘み取っていく。茹でて酢味噌と和えれば、最高に美味しくなる。

 西の空は、見事なグラデーション。夕暮れは寂しい。この感情はどこから来るんだろう、と思うけれど。
 いつかも。
 石神井公園からの帰り道。暮れていく空を眺めながら歩いていたら、胸がいっぱいになったことを思い出した。
 オレンジの夕焼けが見えているうちは、まだいい。そのうちに紺色が主になって、空に星が輝き始めると、胸がざわめく。

 いっそ、完全な夜なら、なにも思わないのに。
 その境目は、懐かしい記憶がいくつも蘇る、不思議な時間帯だ。

 童謡『朧月夜(おぼろづきよ)』のメロディを思った。

>菜の花畠(ばたけ)に 入り日薄れ
>見わたす山の端(は) 霞(かすみ)ふかし
>春風そよふく 空を見れば
>夕月(ゆうづき)かかりて におい淡(あわ)し

 昔、ヘビメタ好きの知人が、しみじみとこの曲のよさを語ったのだ。詞もメロディも、最高だと。こんなにも美しい曲はないよ、と。

 ヘビメタと童謡。不思議な組み合わせに、私は戸惑った。ヘビメタ好きなのに、なんでこの曲?と。

 音楽にジャンルは関係ない。いいものはいいんだ、と笑ったその人の気持ちが、今はわかるような気がする。

 今、私が住んでいる田舎の町は。少しずつ都会化が進んでいて。

 昔ながらの田園風景の中にも、耕作放棄地がぽつん、ぽつんと位置するようになった。

 田んぼを作るのは大変だから、と、土を入れて畑に変えた一画。

 以前はそこで、老夫婦がのんびりと作業をしているのを、よく見かけた。けれどある時期から、ぱったりその姿を見なくなり、畑は草に侵食され。久しぶりに草が刈られて綺麗になったと思ったら、看板が置いてあった。

 「売土地」の文字。

 きっとほどなく買い手がついて。あっという間に住宅が建つのだろう。そしてまた、風景は少しずつ変わっていく。

 けれどやっぱり私は、田んぼや畑のある風景が好きだ。畑で、菜の花が揺れているのを見ると、春を感じる。菜の花には、夕暮れがよく、似合う。

 

疲労困憊

 ずいぶん疲れていたようで、目が覚めたら正午だった。
 ほぼ12時間。眠っていた間、いくつもの夢をみた。現実と変わらないような、もう一つの世界。

 だけど、今日の夢は思い出せない。
 ぼんやりとした輪郭しか、わからない。

 公園を歩いて、いつもの桜の木に挨拶。

 この桜の木、なぜか幹がよじれてるのだ。それも二本並んで。まさか風が強いから、というわけでもあるまいに。

 もう1月もすれば、綺麗な花を咲かせるだろう。花が咲く前の木には、見えないエネルギーが充満している気がする。その時を、今か、今かと待っている感じが伝わってくる。

 桜の木は、根暗なのだそうだ。
 ある人が、そんな話をしていた。桜と言えばお花見。お花見と言えば宴会。そんな、明るいイメージのある植物だけれど、桜の木は本当は、暗い性格なんだと。

 私は、この行きつけの公園の桜の木が、見事にねじれた幹を持つのを見るたびに、その話を思い出してしまう。

 まるでみつめられるのを恥じらうみたいだなあって。
 もしも本当に根暗な性格なら、大勢の人にみつめられるのは苦痛以外の何物でもなかろう。

 桜の咲く季節。賞賛の声の中で、身を小さくして、視線を避けるように顔を背けて。恥ずかしさに頬を染めながら、じっとその時期をやり過ごすのだろうか。

 たしかに。薔薇とは違うもんなあ。と、そんなことを思う。

 薔薇は、プライドが高く、みつめられることにも慣れているイメージがある。孤高の存在。
 綺麗ね、という言葉にも、「当たり前よ。それがなんなの?」と、冷たく、真っ直ぐに見返すような。

 桜が本当に根暗な存在なら。
 山奥の、誰にも見られない桜こそ、のびのびと花を咲かすんだろうなあと思う。

 それはどんなにか、見事な花だろうか。

 季節は、確実に巡るもの。

 夜、空を見上げると、オリオン座の位置がずいぶん西寄りになっていることに気付く。

 冬も終わろうとしている。オリオン座も、やがて見えなくなる時が来る。

 西の空に、シリウスよりも明るく輝くのは金星。

 金星って、本当に金色なんだなあ、としみじみ眺めた。夜空の王者、シリウスは青白いし、東の空に目を向ければ、火星が赤い。

 星にもちゃんと、色があり、個性がある。

 私は、リゲルよりもシリウスが好きだ。

グスタフ・クリムトの『接吻』を見て思うこと

 グスタフ・クリムトの描いた、『接吻』という絵が好きだ。この絵を見ていると、その背景に物語を感じる。

 年末に出かけた美術館で、ちょうどこの絵のポストカードを売っていた。以来、部屋の壁に飾って、ことあるごとに眺めている。

 全体に漂う死の影が、色濃い。

 私には、描かれた男が生者で、女が死者のような気がしてならない。果てしなく、想像は広がっていく。

 以下、まったくの個人的な感想なので、軽く読み流してください(^^;

 男の佇まいに感じるのは、威厳だ。金の豪奢な衣装は、貧しい民には手の届かない品のように思う。
 堂々たる正装で、愛しい人をかき抱いているのであろうその姿には、悲壮感が漂う。何故か。

 男は、神話のように、黄泉の世界まで女を訪ねていったのではないだろうか。この世で何もかも手に入れた男が、頂点を極めた後で、心底欲した女を、タブーを超えて追って行ったのだと。

 黄泉の世界。
 まだ完全には、あちらではない、ゆらゆらとした境目に、その女は彷徨っており。しかしそれは、女がその男を求めたからではない。

 女には、その男とは別に、この世に残した未練があったから。

 黄泉の世界で、再会の喜びにうち震えながら、男は女を力強く抱きしめる。その強さで、彼女の命をこの世に引き戻そうかとするかのように。けれどそれは叶わぬこと。女の心は、そこにはない。
 青ざめた頬に、朱は差さない。
 その瞳は閉じられたまま。唇がなにかを物語る気配もない。

 ありったけの財を投じて。女のために、自分と対で作らせた花嫁衣装を、冷たい女の肌に羽織らせる。
 金糸のチュール、その端から長く垂れる藤の花に似たオーナメント。

 シャラシャラという、飾りのたてる小さな音が聞こえてくるような錯覚。

 それでも女は目覚めない。

 男の抱擁は絶望に変わる。決して届かない。現世でのどんな成功も、この女を生きて、連れ戻す力にはならなかった。むしろその傲慢さが、権力が、この女を、死の世界へと追いやったのだと。

 私には、この女の表情が、男を拒んでいるようにみえてしまう。
 黄泉の国までやってきて、実際にその手に抱きしめられても、魂だけは決して渡さないという強い決意や、プライドを。

 画面の右下端に目をやると、二人がいるのは、崖っぷちだということがわかり、いっそう、二人の立場の、揺れ動く不安定さを感じる。

 進めば黄泉。
 戻れば現世。けれど今さらもう、どちらへ行ったところで、幸せな楽園など、ないではないか、という皮肉。

 咲き乱れる花々は、芥子の花に似ている。妖しく、美しく咲き乱れているけれど、そこにはまやかしと毒がある。
 妙に作り物めいた、隙のない造花のような、現実味のない美しさ。

 いつもそこまで考えた後で、私が不思議に思うのは、女のつま先と、右手だ。

 ここだけが、どうしても解せないんだよなあ。

 なぜそこまで冷たく拒むのに、つま先には力が入り、そこだけには生気が満ちているのか。

 そして、男の首に、甘えるようにまわされた右手。

 最初は、男がみずから、女の手をその位置に持っていったのかと思った。でも、女の魂がそこにないなら、その手は、すぐに力なく、滑り落ちてしまうのに。
 変わらずそこにあり続ける腕は、女の意志としか思えない。

 では女はそこにいる男を肯定しているのか。

 わからない。

 男から伝わってくる悲嘆と絶望。きっと男は気付いていない。女のつま先と右手だけが、彼を受け入れていることに。

 もしかしたら次の瞬間、大逆転が起こるのだろうか。
 この不安定な場は、目を離した次の瞬間には、全く違う様相を呈するのだろうか。

 想像は、いつもここまでで、行き詰ってしまう。

 この先、この絵におこる変化は、どんなものなのだろうか。それを予感するからこそ、人はこの絵に、惹かれるのだろうか。
 もう終わってしまった光景でなく。これから始まっていく物語だから。

 毎日眺めても、飽きない絵である。

うつつはまことか

 夢をよくみる。

 夢は、浅い眠りのときに見るのだというけれど、私にはそんな感覚はあまりない。

 夢は、もうひとつの世界の入り口のような気さえする(^^)

 そして、私は恐い夢をほとんど見ない。たいてい、懐かしいような、楽しい街並み、この世とは違う、もうひとつの世界ばかりを、体験している。

 今日の夢もその一つ。

 たくさんのショップが入った複合ビル。高さはあまりなく、3階建てくらい。とにかく広くて、歩いても歩いても果てがない。
 その中の書店は、少し変わった本ばかりを集めていて。
 その広さにも関わらず、店員は一人しかいなかった。

 眼鏡をかけ、気だるそうに店番をする店員。
 独特の雰囲気の店内。
 そこには、常連だけが訪れる空間が広がっていた。

 うわあ、いい感じだなあ。こんなところでぶらぶら本を眺めて過ごしたら、楽しいだろうなあ。
 でも、入るのはちょっと勇気いるかも。
 ここ、常連さん以外、あまり歓迎されないのかな。

 このスペースに店員さん一人って、全然、売る気ないな(^^;

 そんなことを考えながら、勇気のない私は、素敵な書店の前を、ただ歩いて通り過ぎた。本当は入ってみたかったけど、気圧されて無理だった。

 一階に下りてみると、プラネタリウムの入り口があった。すでにたくさんの人が、次の上演に備えて並んでいる。
 どうやら、予約制ではなく、当日売り専門らしい。
 予約をしたいお客さんと、スタッフが話をしていた。

 「ちゃんと見たいから、予約ができると便利なんだけど」
 「すべてのお客様に平等にご覧いただくため、各回ごとに並んでいただいているんですよ。申し訳ありませんが、ご予約はできないんです」

 プラネタリウムは人気らしく、行列もかなりの人数だ。
 私は目を凝らして、上演回の内容と、時間を示すボードを見た。

 次の次の回なら、ちょうど時間がよさそうだ。今日はプラネタリウムに寄って行こう。

 それにしても、いつオープンしたんだろう。
 私がいつもいくプラネタリウムは駅から少し距離があるし、時間にも制約が多いからあまりしょっちゅうはいけないんだけど。

 ここにこんないい施設ができたなら、これからは仕事帰りにだって、頻繁に寄れるではないか。嬉しいな。これからはできるだけ、ここを利用しよう。

 すぐそばには、広大なロッカースペースがある。
 そこには大きな荷物を預けられるので、私もさっそく、使ってみた。扉をしめる感覚が、とてもリアルだった。

 というのが、今日みた夢なのだが(^^;

 またこの続きがみたい。よさそうなプラネタリウムだったな~。あの奇妙な雰囲気の本屋さんにも、心惹かれるし。
 思いきって、入ってみればよかったな。

 夢をみるとき、不思議なことは。

 

 夢のなかの自分は、自分自身の存在意義を、まったく疑問に思うことがない、ということなのである。

 普段の私は、わりと真剣に、そもそも自分の意識とはなにか?とか、この世は何なのか、とか。この世界の意味や、現実とはなんなのだろう、なんてことを考えているのだけれど。

 夢のなかの私は、いっさいそんなことを考えていない。
 ただ、そこにいるだけ。

 そうした疑問をもつことを、最初からプログラムされていないかのような存在だ。

 これはなんなのだろうか、と、また疑問に思ったりする。

 現実では、日々、不思議なことっていっぱいあるし、それを追究したいという気持ちも強く、あるのだけれど。
 夢の中の自分は、そんなことには一切、関心がないようだ。
 自分の存在に、少しの疑問も持たない、というのが、夢の中の自分の一番大きな特徴で。

 ただ、そこにいる。
 ただ、生きている。
 ただ、感じている。

 夢の中の自分は、いまここにいる自分より、ほんの少しだけ不自由な存在なのかもしれない。
 それはきっと、幸せなことなんだろうけど。疑問を感じる自由さを、完全に失ってはいるものの。それだからこそ。

 江戸川乱歩の言葉を、今日は思い出したりしている。

>うつし世はゆめ よるの夢こそまこと

 深い言葉だと、思う。

坂の上で振り返った日のこと

 思い出すのは。

 住宅街の散歩。 
 いい天気で、太陽が心地よくて。

 写真を撮ったのだ。なんでそんなありふれた場所で写真など、と。今考えると、本当におかしな話なのだが。

 高さのある坂を上っていった。
 あたりの住宅を、あれがいいこれがいいと批評しながら。いつか家を建てるなら、こんなのがいいな、などと話しながら。

 坂の向こうには、きっと素敵な光景が広がっているだろう、と私は予感していた。

 坂の上に立ったとき、その人は振り返った私を写真に撮った。

 「なんで写真?」と訝しむ私に、「撮りたかったから」とその人は言った。

 そして立て続けに、数枚の写真を撮った。
 特に観光名所でもない場所で。ありふれた散歩道で、写真を撮る行動はとても不思議に感じられたけど、できあがった写真の私は、うれしそうに笑っていた。
 芥子色の服を着ていた。

 その写真は、今はもう手元にはない。
 昔の写真は、処分してしまったから。

 たったそれだけの話なのだが、あのときの空気は、深く心に残っている。

 同じように、よく晴れた天気には、思い出すことがある。光の色。素敵な庭。建ち並ぶ家々の意匠。

 

 そのときの私が考えていたことや、未来や、よく立ち寄った喫茶店の指定席、窓から見える風景。

 寒い日には、ローズヒップティーを頼んだ。
 透明なティーポッド越しに、赤い色を見つめていた。口にしたときの酸味が、新鮮だった。

 書店にも寄った。雑貨屋にも寄った。
 新しくできたレストランに興味津々で、思いきって入ってみたら案内された席のすぐそばに、謎の、鉄製大扉があったこと。

 古い蔵を借りて、内装を整えた店内。果たしてその扉はオブジェなのか、本物か。

 私は、その扉は本物だと想像した。
 客には公開されない開かずの部屋が、向こうにはあるのだと。扉の向こうには、歴史ある数々のアンティークが、ひっそり眠りについているのだと。

 いろんなものがまとまって蘇ると、心は不思議な感情で満たされる。

 懐かしくて、少し痛い。

 それに、意味はあるのだろうか。と考えたりする。

 どうして写真を撮ったのかな。
 どうして私は、あんなに素直に笑っていたのかな。

 今の私が写真を嫌いなのには、少しだけあのときのことが関係しているのかもしれない、と考えたりもする。

 写真を撮られるのは嫌いだけど、散歩は今でも好きだ。

 昔より、早足になったのだけが、違いといえば違いである。