山に行ってきました。といっても、低い山ですが。
紅葉も盛りを過ぎて、落ち葉がはらはらと舞い散るさまは、とても風情があって心惹かれるのです。空気の冷たさも、清浄さを感じさせてむしろ、気持ちがいい。
山頂からの眺めもよかったですが、山のふもとにある寂れた小さな社にも心を惹かれました。
道は整備されていましたが、あまり人の訪れる様子もなく。神社の名前はおそらく書いてあったのでしょうが、木の板に刻まれた名称は、風雨にさらされて読みとることはできませんでした。
名前もわからず、ひっそりとそこに在るんだなあと。昔も、今も。
そしてときどき、お年寄りがお掃除に来たりするのでしょうか。きっと管理する方も高齢で、毎日は来られないのかなあ、などなど、いろいろ想像しました。
近くに置かれた木製のベンチは古いもので。長い間、誰にも使われていないように見えました。そんなベンチの上に、風が吹くと落ち葉が舞い降ります。
山道を、ざくざくと枯葉を踏みしめながら歩きました。
この乾いた音がまた、いいのです。無心になれるというか。上り坂を早足で行けば、すぐに心臓が早鐘を打ち始めて、少し息が苦しくなって。辺りには、誰も人の気配がなく。
無心に足を進めれば、聞こえるのは自分の足元で、崩れていく落ち葉の音だけ。その音はとても、心地よく感じられました。
山を少し上がったところに、小さなミュージアムがあります。そこにはスタンウェイのリプロデューシングピアノが展示してありました。リプロデューシングピアノ。私は初めてこの言葉を知ったのですが、いわゆる自動ピアノなんですね。
でも、ここに展示してある自動ピアノは、私が知っている自動演奏のピアノとは全然違いました。
というのも、この自動ピアノ。単純にコンピューターで制御されて正確な曲を奏でるというタイプのものではなかったのです。このミュージアムにある自動ピアノは、経本のように折りたたまれた穴のあいた紙(ピアノロール?)をデータ元として、昔のピアニストの演奏を再現してくれるんです。その人の弾いた強弱やリズムなどの個性そのままに、当時のまま、ですよ。これはすごい。
これから実演をみせますよ~というスタッフの説明を聞いて、私は興奮しました。このミュージアムでは、時間を決めて日に何度か、このリプロデューシングピアノを動かしてくれるのです。
まだ蓄音器のなかった時代。この、ピアノロールを用いた音楽再生方式は、どれだけ画期的な発明だったことでしょう。
その場限りの、生の演奏が。
何度でも、好きなときに好きなだけ再生できるんですから。
ピアノロールにあけられた穴に、空気を通過させることでハンマーなどを動かすしくみだったようです。
もちろん、このピアノロールを作るのにはかなりの時間と労力がかかったでしょうし、ピアノそのものも大変高価なものだったでしょうから、その恩恵にあずかれたのは、庶民ではなくごく一部の特権階級だけだったようです。
現代の、コンピューターを使った精密なピアノの演奏再現とはまた違って、もちろんオリジナルの演奏を寸分違わず、というわけにはいかないでしょうが。
ピアニストの演奏を、CDではなく、この、目の前のピアノで聴くことができるなんて!
しかも、ミュージアムスタッフの女性。使うピアノロールについて「ピアニストはホロヴィッツです。だいたい100年くらい前の演奏になりますね」とのこと。
うわ~、ホロヴィッツ。
そんな有名な人の演奏、当時、実際にロールペーパーに記録された彼の演奏を、スタンウェイのピアノで聴けるなんて、すごいことだ~。
わくわくしながら、その瞬間を待ちました。
ミュージアムの中は、少し暗くて。
聴衆は、私の他に4人という少なさです。
なんという贅沢なコンサートでしょう。なんだか、5人で聴くのはもったいないような気がしました(^^;
曲目は、ビゼーの「カルメン」をホロヴィッツ自身が編曲したものだとのこと。しかも、ホロヴィッツが20代のときの、若い時代の演奏だということでした。
ピアノのすぐそば、最前列の椅子に座り、じっとみつめる私の前で、静かに鍵盤が動き始め・・・と思ったら、もう、またたく間に連打、連打、の嵐。
物凄い勢いで、しかも流れるように、鍵盤が動きました。寄せては返す、波にも似てます。
自動演奏ということで、ピアノには誰も座っていないので、鍵盤の動きはとてもよく見えました。
それはもう、圧倒的な動きでした。速い速い。超絶技巧です。どうしたらこんな風に指が動くんだろうと不思議になるくらい。切れ目なく音は流れ続けて、その優雅で力強い響きに、私の体全体が包まれました。
鍵盤の動きをみつめていると、その前に、いないはずの演奏者の姿が見えるような錯覚を覚えます。
音は若かったです。情熱的で。20代というのも納得でした。
これでもか、これでもか、みたいな尽きないエネルギーのうねりを感じました。うーん、これを演奏したとき、きっとホロヴィッツ青年は、ピアノに対して真正面に向き合っていたんだろうなあ、なんて、そんな想像をしてしまったり(^^)
自分がどこまで行けるのか、みたいな、挑戦的な気持ちや、自信や、真っ向勝負の緊張感など。
ピアノの音と一緒に、それを演奏したピアニストの気持ちまで、伝わってくる気がしました。部屋でCDを聴くのとは、また全然違う感覚です。
押し寄せる音の波の中で。全身を音楽に包まれて、その人の気持ちを受けとる、みたいな。
芸術は「表現」なんだな~って、そのときふっと、思いました。その人の感情とか思い、そのものなんじゃないかと。人はそれぞれ、個別の存在で。表現しなきゃわからない。通じ合えない。
その表現が、人によっては音楽だったり絵だったり、はたまた文章だったりするわけです。その他限りなく、表現の手段は、世の中に星の数ほどあって。
人間は、表現する存在なんだなあと。
表現すること・・・自分はこんな人間です、こんなことを思ってますって誰かに伝えるのに、黙っているのでは伝わらなくて。だから、音に乗せたり、色を描いたり、文字に託したりする。
ピアノの音に、私は感動していました。
錯覚かもしれないけど、その人の心そのものに、触れたような気がして。
音は結局のところ振動であって、その振動に意味などないのかもしれませんが、それでも。その振動が耳に届いたとき、聴き手の心には、確かな変化が生じるのだと思います。
そのとき、私が感じたのは、若さとエネルギーでした。なにかこう、すごく前向きな、挫折を知らない、ただこの先にあるなにかに対する、果てのない興味と希望、のような。
そして、もどかしさ。
もっと速く、もっと自由に。この指先ではまだ、胸から溢れだす気持ちを表現するのにはまったく、足りないとでもいうような、逸る心。
こんなものじゃない。
まだ、これがすべてじゃない。
まぶしいくらいの若さや情熱が、こめられた演奏だなあと思いました。その音の心地よさに、いつまでも包まれていたいと願ってしまいました。
山の上にある、小さなミュージアムにて。それはとても、素敵な時間でした。