旅先で感じたこと

 先週、夏休みの旅行で、展望風呂のあるホテルへ行ってきました。ここのホテルは山のてっぺんにあるので、眺めが最高です。お風呂は1階ですが、露天風呂から海が一望できるのです。

 夏休みということで家族連れが多く、ほとんど満室でしたが、もともとお風呂はかなり広いので、いつ行ってものんびり入れます。

 夜は部屋から、暗い海を眺めていました。
 すぐそばに港があるのですが、さまざまな船が一晩中行き交っています。
 中でも漁船の出入りが激しい。

 真っ暗な海を、小さな灯りが行ったり来たり。

 沖にある島の灯台のあかりが、規則的に光ります。

 この島、前から気になってました。港からフェリーで15分。以前にこのホテルに来た時には、なにも案内などなかったのですが。今回は部屋に、島へ行くフェリーのチラシが置いてありました。

 島を、観光で売りだそうとしているのかな?

 翌日はまっすぐ家へ帰る予定でしたが、急きょ、計画を変更。チェックアウト後に、島へ行ってみることにしました。

 ホテルのフロントで、島に関するチラシがないかどうか聞いてみると、フェリーの時刻表と島の地図が印刷された紙をくれました。

 それを見たとき、少しだけ違和感がありました。

 あまりにも簡素すぎるような気がして(^^;

 本気で観光地として売り出す気持ちがあるなら、もう少し力の入ったチラシになるんじゃないかな~と。その疑問の答えは、実際に島へ行ってみてわかりました。

 島へ行く小さなフェリーは、ほぼ満席。
 といっても、60代くらいのおばさま10人くらいのグループがいたから、というのが大きいと思います。
 普段は赤字路線なのかな?という感じです。

 15分で到着して、まずは港に設置された大きな看板の地図をじっくりと眺めます。おばさまグループは、地図のそばを通りかかった地元の婦人に声をかけていました。

 「1時間後の便で帰るから、あんまり遠くには行けないんだけど、その時間で帰ってこられる観光スポットはあるかしら?」

 うおー、もったいないですね。
 と、傍で聞いていて思いました。せっかく来たのになあ。1時間で帰っちゃうのか。
 私は4時間滞在する予定だったので、地図を片手にあちこち歩き回ろうと考えていました。

 小さな島なので、2時間もあれば一周できると、地図には書いてありました。ただ、途中のぼり坂が続くところもあるようで、そうすると大変だろうから、楽な道だけをちょこちょこ、部分的に楽しめばそれでいいか、と。完全に一周しなくても、寄れるところだけ寄ればいいと、そう考えていたのですが。

 まずは、島内にある、海の神様をお祀りする神社へGOです。

 この地を踏ませてもらうご挨拶をしなければ、ということで、神社を最初の目的地にしました。

 階段が半端ないです。かなりの急角度で、200段以上。夏の日がじりじりと照りつけ、汗が流れました。

 やっとの思いで拝殿に到着。小さいけれど、霊験あらたかで、厳かな雰囲気。しっかりと手を合わせました。

 次には、灯台に行こうと思いました。拝殿を出て、灯台に行く道を探しましたが、小さなけもの道らしきものしかありません。案内板もありません。まさかこの貧弱な道が、地図に書いてある道じゃないよなあ、ということで、せっかく上がった階段を下りていきます。

 階段の脇に、わりとしっかりした横道があったのでその道を行ってみることにしました。どんどん下っていきます。ある程度下ったところで、通りがかりの地元の人らしきおばさまに遭遇。

 「こんにちは」と声をかけると、「こんにちは」ととびきりの笑顔を返してくれました。

 「もしかして、灯台へ行くの?」と聞かれたので、「そうなんです。今神社から来たんですけど道がわからなくて」と答えました。

 するとおばさまは、気の毒そうに、「灯台へいく近道は、神社の裏にあるんだよ。また戻らなきゃいけないよ」とおっしゃいます。

 うおおおー。下ってきた道を、また戻らなきゃならないのかーと悲しくなりつつ、詳しく話を聞いたところ、あの神社の裏手にあったけもの道らしき小さな道が、灯台へ行く道だと判明。

 「私も前から気になってたんだけど、案内がなにもないみたいだねえ。しょっちゅう、観光客が間違えてこの道を下りてくるんだ」とのこと。そのたびに、教えてあげているそうです。

 今来た道を、また戻らねばならないことにはがっくりしましたが。それでもおばさまの親切が身にしみます。もし声をかけてくれなかったら、このままもっと下の道まで、下りてしまっただろうから。お礼を言っておばさまと別れ、もう一度拝殿のところまでのぼります。

 あらためて、けもの道の入り口に立ちました。

 ありえん(^^; ありえないわ。案内板なしで、ここに踏み入る勇気はないよ。さっきおばさまに詳しく道を聞いたからここがそうだと確信できるけど、そうでなかったら、観光マップに載っている道には見えない・・・。

 うっそうとした森の中、小さな道をたどって灯台へ歩を進めます。ずっとのぼり坂が続きますが、途中、横道はありません。ひたすら前へ進むか、元来た道を戻るか、それしかできません。

 夏の草の繁殖力は凄まじい。数日前に、歩きやすいよう草を刈り取った形跡はあるのですが、それも部分的なもので。なかなか道の全てを整備するのは難しいようでした。両側から浸食してくる草に、道はともすればすっかり、覆われてしまいます。

 どのくらい歩いたのか。汗をぬぐいつつ、ようやく灯台に辿り着きました。昨日の夜、部屋から眺めたあの灯台の光がここだったのかと思うと、感慨深いものがあります。
 今後あのホテルに泊まるたび、灯台の光を眺めるたびに、思い出すことでしょう。

 灯台の脇には、打ち捨てられた小屋がひっそりと佇んでいました。今は灯台は無人で運営されているようですが、昔はこの小屋に、管理人が泊りこんでいたのでしょうか。

 ツタに覆われた小屋は、ずいぶん長いこと人の手が入っていないようです。すっかり廃墟です。内部は時間がとまったまま、静かに埃だけが積もっているのだろうかと想像しました。周りには背の高い雑草が生えそろっていて、玄関に近付くことすらできません。

 もし本当に観光地化するのなら、ここを東屋にして、休憩所として使ってもらえばいいのに、と思いました。山道をずっとのぼってきたのに、休憩スペースがないのは気になります。

 さて地図上ではこの先、さらに道を進むと、石灰岩が風化してできた白い岩肌と青い海が一望できる、絶景ポイントがあるとのこと。

 戻るか進むか迷いましたが、せっかくなので、さらに進んでみることに。

 すると、向こうから歩いてくる人影が見えます。
 挨拶して、この先がどうなっているか聞いてみました。すると、歩きにくい道なので、断念して戻ってきたとのことでした。

 たしかに、今までの道も、歩きにくいといえば歩きにくいかも。気軽にふらふらといく感じではないです。まさに山登り、という感じなのです。

 行けるところまで行ってみよう。
 私は歩き始めましたが、その後もしばらくのぼり坂が続き、決して楽な道ではありませんでした。

 そしていつしか。峠を越えたのか、ずっと下り坂が続きます。楽は楽ですが、怖くもあります。もし戻るときには、逆に、これがのぼり坂になるのですから。

 山の中で、一切横道はありません。

 もう、進むか、戻るしか選択肢はなく。
 途中、誰にも会いませんでした。道が厳しすぎて、観光客はここまで来ないものと思われます(^^;

 歩いて歩いて、ビューポイントの東屋に到着。少し休憩して、すぐにまた歩き始めました。港から離れてしまったため、船の出る時間に間に合うのかどうか、それが気がかりでした。
 肝心の景観はたしかに綺麗だったけれど、だからといってそこで1時間眺めているようなものでもなく。

 道は途中、さらに悪くなる個所もあったりして。
 水たまりを避けて、ギリギリ端っこを通るのはスリルがありました。

 背の高い草をかきわけて進んだときには、気分はもう、探検隊です。ホテルでもらった地図を見る限り、遊歩道的なものを想像していたのですが、それは違っていましたね。

 山を抜け、海岸沿いを歩いたときには広々とした海が気持ちよかったです。地元の方なのか観光客なのか、一組のカップルが楽しそうに波打ち際で戯れていて。それを高い位置から眺めていたのですが、ほのぼのとする光景でした。

 のぼったり、下ったりを繰り返して、ようやくまた街中の集落に戻ってきて、ほっとしました。ここまでくれば、安心です。港まですぐですから。これで船に乗り遅れることはないでしょう。

 結局、島を一周してしまいました。途中休憩を入れつつ、約3時間の行程でした。
 とにかく、これは途中でや~めた、というのができない道だということがポイントです。途中で横に抜ける道がない。山の中がほとんどなのでしかたないんですが、これは地図に注意書き入れておかないと、困る人もいるだろうなあと思いました。
 遊歩道的な感覚で気楽にチャレンジすると、しまった、ということになると思います。

 そして、島を一周した後、港の周辺をいろいろまわったりして思ったことなんですが。

 これはあれですね。
 観光地化を推進しようとする人たちと、それに反対の人たちがいて、一枚岩じゃないんですね(^^;
 だから、中途半端なことになってしまっているんだと思います。

 島の主な産業は、漁業です。

 豊かな海で、港には魚市場もありますが、観光客が買うことはできません。観光客向けに、時間を決めてフェリーの待合所近くで売れば、喜んでお土産に買う人はいると思うんですけど(私も新鮮な魚、買いたかったなあ)、そういうのは一切なしです。

 たぶん、漁業関係の方からすると、観光客は邪魔なだけなんでしょう。今のままで十分やっていけているのなら、観光地化することに、メリットはそれほどないわけで。

 港の周辺を歩いているとき、それはなんとなく感じました。冷ややかな態度、というか。

 別に観光地化しなくても食べていける、という方たちにとっては、観光客が増えればうるさい、というのはあるでしょうね。確かに、集落の中を見知らぬ人が歩き回るということ自体、ストレスといえばストレスになりうる。

 ただ、島を観光地として売り出すことで、活性化しようとする方たちの気持ちもわかります。おそらく、若い人なんだろうな。
 島に、漁業以外の道を作ろうとして、がんばっているんだと思います。

 しかし、この小さな島の中で、新しいことを始めるというのは、とてもとても、難しいことなのだろうと思いました。しがらみを無視することはできない。強引なことをすれば、狭い集落の中で居づらくなってしまいますしね。

 あの、草だらけの道も。
 観光地推進派の誰かが、黙々と草を刈っていたのかもしれません。すべてに手が届くわけではないから、草に負けている部分もあったけれど。島の、漁業関係の重鎮から怒られながらも、一生懸命アイデアを出して、ホテル関係者にもチラシを配って、がんばっているのかなと思うと、ほろりと感傷的な気分になりました。

 私はこの島が好きです。やっぱり、船でしかいけない島というのは、独特な雰囲気がありますし。人気のない山の中、自然の素晴らしさも堪能できます。
 だけど、また行きたいかと問われると、・・・・ですね。
 歓迎されてない感じがするので(^^;

 私が泊まったホテルにはチラシは置いてあったけど、チラシ自体簡単なものだし、ホテルがあまり積極的に島の観光を勧めてない理由も、わかりました。観光地としては、?マークがつく段階です。
 逆に、へたにお勧めしたら、後でクレームがついてしまうかもしれない。道の案内板の欠落も、痛い。観光地として最低限の土台が、整っていない状態なので。

 港の近くにある公園。そこのトイレの汚さも、問題の根の深さを表しているように感じました。

 きっと人間て、みんなが一丸になればすごい力を発揮するんですよ。豊かな自然に恵まれたあの島も、その気になれば、すぐに人気の観光地として、みんなに知られる存在になる。
 ちょっと足をのばしてみようか、そうやってみんなが、気軽に出かける島になれるのに。

 だけど、反対する人たちがいれば、前へ進もうとする力は打ち消されて、行きどころを失ったエネルギーは、中途半端にゆらゆらと彷徨う。

 観光地化することが絶対にいい、とは言いませんが。
 もったいないような気持ちになった、旅でした。

悟りの夢

 数日前に、面白い夢をみた。

 

 夢の中で、悟りのようなものを開いたのだ。今まで謎に思っていたこととか、全部わかって、「ああ~!!!そうだったのか~!!! でもこれって、もともとわかっていたのに、全部忘れていただけだったよな。そうそう、そうだったんだよ。これだったんだよ」と、ものすごく納得していた。

 

 なのに、起きたらその、悟りらしきものの内容だけが、すっかり抜け落ちていた(^^;

 

 どうしても思い出せない・・・・・・。

 思い出せるのは、その「わかった」ときの、「そうだったのか~~~!!!」という激しい感情の動きだけ。自分が自分でなくなったような、天地がひっくりかえるような、ものすごい衝撃があった。なのに。起きたら肝心な内容が思い出せない・・・というのは、残念でならない。

 

 いったい、夢の中で私は、なにが「わかった」んだろうか。

 わかって嬉しかったのは覚えているのになあ。

 思い出そうとすればするほど、そのときの興奮だけが蘇ってくるのです。

 

 中途半端に夢を覚えてることに、なにか意味はあるのだろうか。

 夢って不思議。だけど面白い。

花を食べた日

 ボリジの花が、咲き乱れています。ということで、初めてボリジを食べました。ムシャムシャと。

 ボリジはハーブの一種です。はっと目を引く、澄んだブルーの花が特徴。花びらは五枚。その可憐な色と形から、星に例える人がいるのも納得です。
 地上に、こぼれ咲いた星に見える。

 色が特に、綺麗なんですよ。なんとも言いようのない、明るい青。和名をルリチシャというそうですが、なるほど、「瑠璃」なんですね。

 花は砂糖菓子にして食べるのがメジャーのようですが、生でも大丈夫と聞いたので、ボール一杯に摘み取った花を洗った後、そのままムシャムシャと食べてみました。

 口の中に広がるほのかな甘み・・・。優しい甘さは、どこか懐かしい。子供時代を思い出しました。
 そうそう、幼馴染と蓮華の蜜を吸ったときの、あの味なんです!

 繊細な後味。くどくはなくて、口のなかにふわっと広がって、ゆっくり消えていきます。その甘みは癖になる。ついつい、何度もボリジに手が伸びてしまいました。

 夕暮れ時、みかんの花の芳香に包まれながら空を眺めていると、時間が経つのも忘れてしまう。
 みかんの花は白くて小さくて、なのになぜ、あんなにもよい香りを強く放つのだろうか。

 そしてその香りは、時間がたつにつれて一層、濃くなっていくのです。いったん日が沈んでしまえば、あっという間に辺りは暗くなり。月の光がぼんやりと照らす果樹園は。

 虫を誘っているのでしょうか。夜の闇が濃くなれば濃くなるほど、風に乗る芳香の心地よさに、思わず深呼吸してしまいます。昼より夜の方がよほど、香りは強いです。そこに立っているだけで、香りのベールに包みこまれます。

 傍で揺れてる梅花空木。清楚な姿に惹かれ、鼻を近付けて匂いを確認。見かけ通り、謙虚で清純な香りでした。百合や薔薇のような、個性の強さはありません。近付いてみなければ香りの有無がわからないほど、ささやかな主張です。

 みかんの花の芳香は、それよりずっと強くて。少し離れた場所にいても、無視できないほどの力で、人を引き寄せます。それは、果実であるみかんとはまた違った、独特の甘さを秘めていて。

 何度も何度も、その香りを胸に吸いこみました。

魔女の家が気になる

 川沿いを自転車に乗って走ると、風が気持ちいい。私は横目で、またあの家を見た。

 いつも、気になるあの家。
 私は勝手に、「魔女の家」と呼んでいる。人さまの家を魔女の家だなんて呼ぶのは失礼なことではあると思いつつも、どうしても見るたびに、心の中でつぶやいてしまうのだ。

 川沿いの道は、田園地帯。田んぼに囲まれた、一区画だけ小高い土地の上に、その家はある。風変わりで、初めて見たときから強烈な印象を残した家。

 真っ白な壁の色は、ケーキに使う生クリームだと思った。その上に乗っかったのは、主張の強い緑の屋根。外国によくあるような、原色のお菓子の色を連想させる。目を引くけど、おいしそうなんだけど、うっかりつまんだら甘くて甘くて、思わずお茶を一気飲みするような、そんな緑。

 窓の位置は、均一ではない。壁も、あちこち引っ込んだり、出っ張ったり、複雑な構造になっている。これだけ外側のデザインに凝ったのなら、きっと部屋の中も、忍者屋敷のようになっているに違いないと思わせるような形。

 その家には生垣も、柵もない。堂々と、田んぼの中に建っている。平凡な田園風景の中に突然現れた、童話の世界。まるでおとぎ話に出てくる、魔女の家だなあと思う。洋風だ。日本の家、の感じが、まるでない。

 どんな人が住んでいるのかなあ、と気になっていた。
 きっと個性の強い人だろうなあ、と想像していた。これだけインパクトのある家に住むんだから、きっとそういう人なんだろう。

 新築のとき、周囲を圧倒するかのようにピカピカで、そして田んぼの中で、周りを圧倒するかのように目立っていたその家に異変が現れたのは、半年もしない頃。長雨がいけなかったのか、真っ白な壁に黒っぽい汚れが目立つようになる。最初は点々にすぎなかったその汚れが、日を追うごとに面積を増していくのを、私は散歩のたびに確認していた。

 あの、生クリームのような輝くばかりの白さが、こんなときには皮肉にも、家の衰えを一層際立たせる効果をもたらす。きっと家主も、それを気にしたのだろう。しばらくたつと、あの生クリームの壁は塗りかえられた。なんと、一転して目立たない茶色へと、変わってしまった。

 たぶん、山小屋風、ログハウスをイメージしているんだと思う。単色ではなくて、不均一なグラデーションがついていた。天然木をそのまま使ったような、ナチュラルなイメージを醸し出している。確かに、汚れは全く目立たなくなった。しかし、以前の家の個性は、どこにもなくなってしまった。

 屋根もそうだ。いつの間にか、あの生き生きとした、目にも眩しい緑は、しだいにくすんで、黒っぽく変色してしまった。

 地味な色目の壁、年代を感じさせる屋根。
 初めてみたとき、思わず息をのんで「魔女の家だ~」と見上げたときのあの衝撃は、もう感じることができない。

 平凡な家になってしまったなあ、と、私は少しがっかりしていた。家は、普通に周囲の景色に埋没してしまう。こういう家なら、他でもよく見かける。どこにでもある、建売住宅の均一デザインのようなものだ。

 だが二階を見て、私の考えは変わった。やっぱりここは魔女の家なのである。どこにでもある家ではなく、ここにしかない家なのだと実感する。

 二階の大きな窓。カーテンがかけられる代わりに、そこには絵が飾ってあるのだ。絵は、窓の外に向けて表が向けられているから、目を凝らせば何が描いてあるか、認識できる。

 とても不思議な絵だった。一本の木。幹を見れば、樹齢何百年という感じの老木で、葉っぱは一枚もついてない。枯れているのか、冬だから落葉しているのか。乾燥した枝が、奇妙にねじれた形で四方に広がっていて。
 背景には荒野が広がっている。空気は暗い。草なんてほとんど生えてない。石がごろごろと転がっていて、後は土。それも、豊穣という言葉からは程遠い、恐らく、人間が長らく足を踏み入れたことのないような、不毛の土地を思わせるような、大地のさま。
 

 地平線の上に広がる空は、不安をかきたてるような暗い色で。夜明けなのか、日暮れなのか、それとも年中曇天なのか。太陽の光が射さないのは、今だけでなく過去も未来もそうなのでは、と、思わず絶望するような混沌の色だった。

 それは、この世の果て・・・とタイトルをつけたくなるような、そういう絵だったのである。

 やっぱりこの家は魔女の家なのだ、と、私は妙に納得した。どんな人が住んでいるのか、ますます興味がわく。こんなに寂しい、荒涼とした風景を描く人の心の内は、どんなものなのだろうか。

 建てたばかりの、お菓子の家のような甘ったるさにも心惹かれたけれど。こんな風に目立たない風体に形を変えた後でさえ、そこには強烈な個性がある。
 

 この世の果てか。はたまた異世界か。
 寂しさを感じさせる絵ではあったが、どこかノスタルジックでもあり、その場所に行ってみたいなあ、と私は思った。架空の場所だろうか。モデルはあるのだろうか。あの絵の場所に立ったら、いったいどういう気持ちになるだろうか。

 私は、これからもその家をこっそり「魔女の家」と呼び、その絵を遠くから、楽しみに鑑賞するだろう。

冬、午後3時の光の色

 冬の日の午後3時。

 それを過ぎると、光が色を変える、と思う。

 学生時代、ずっと家庭教師のバイトをしていた。

 ある年、受験する子に、つきっきりで教えていた。一日2時間なんてレベルでなく、朝9時から夕方の5時まで。その子の部屋で、ペンを走らせるその子からふと目を離して、窓の外を見ると。

 光が色を変えているのだ。

 私は、その風景が好きだった。

 たとえば、ランダムに様々な季節、時間のその場に置かれたとして。それがいつなのか知らされずに、ぽんっと、その場所に放り出されたとする。それでもどんなに似た風景の中でも私は、間違えずに「これが冬の日の午後3時」だと、当てることができるという確信があった。光の量が同じでも、冬の日の午後3時には、独特の色があったから。

 まだ明るいのに、終わりを予感させる光だから。

 とても寂しくて、静かで。まだ十分明るいのに、さよならを言われたようで、でもなす術がない。

 絵本の長者の話を思い出す。

 なんだっけな。富も権力も手に入れて、それで扇で沈みかけた陽を呼び戻すんだよね。

 そんな傲慢な長者の願いなんて、かなうはずがないと思いきや、太陽は扇の動きに合わせて、引き戻されて。

 それで長者は大喜びするんだけど。

 結末は、やっぱり長者がどん底に突き落とされる話だったような。詳細は覚えていないけど、悲劇に終わった、という曖昧な記憶がある。

 やっぱりね。太陽を自由にするなんて、そんなこと、できやしないんだ。

 なんて、当たり前のことを、繰り返し思った記憶がある。

 冬の日の午後3時。

 ファンヒーターでよく暖められた部屋。

 ペンの走る微かな音。

 窓の外には、淋しい光。隣のビルを、明るく照らしだす。だけどその光は、終わりを暗喩して、せつない。

 もうすぐだなあ、と私は思う。

 今は、夕暮れとは程遠い明るさで。その明るさだけみたら、まるで午前中のようにも見えるけれど。

 私にはわかる。終焉を含んだ光の色。

 そして、時を経てもやはり、冬の日の、午後3時の光の色は変わらないなあと思うのだ。

 暗室のような、隠れ里のような静かな部屋から引越した。

 光あふれる、風通しのよいこの部屋に越してきて。

 レースのカーテンが、風に揺れるのをぼんやり見ていたり。

 窓越しの光がまぶしいのを、空の色を、いい天気だなあって眺める休日の午後だったりするのだが。

 3時を過ぎれば、光の色はやはり、寂しさを伴う。光量だけでみれば、いっそ強烈にも思えるのに、この色はいったい、なんなんだろうか。

 3時を過ぎたら終わりの時間だと、いつからそう思いこむようになったのか。

 記憶を辿れば、昔半年を過ごした研修所でも、やはり3時は自分の中で区切りの時間だった。

 厳しい門限は、たしか19時、それとも20時。

 3時過ぎだとて、外出して買い物や食事を楽しむには、十分な時間はあったと、今になればそう思うし、わかるのだけれど。

 やっときた休日。疲れきって、ようやく体が回復するのはいつも、お昼すぎで。外出でもしようか、という気持ちになれるのは、たいてい2時か、3時。

 それで、葉ずれの音を聞きながら、ベッドに寝転がりながら諦めるのだ。

 もう3時だから。休日はもう終わりだ。今から出かける時間はない。

 あーあ。あっという間に、なんにもしないまま終わっちゃったな。

 いつだったか。

 3時過ぎの光の中で、同室の友達に、そんなことを告げたことがある。

 「本当は遊びに行きたかったんだけど、もう3時も過ぎたしね」

 彼女は呆れた顔をして、何度も主張した。

 「3時なんて、まだ全然早いじゃん。いくらだって行けるのに。

 なんで3時過ぎるとダメなの? 普通に、余裕で帰ってこられるよ」

 彼女は正しかった、と、今思う。

 そうだねえ。

 時間だけを考えたらきっと、門限までには相当の余裕があった。

 私が3時を終わりの時間と考えたのは、あの光の中に、終わりの寂しさを見ていたからだと思う。だから、そんな光の中、出かけていく気分にはなれなかったんだ。

 あせるのは、嫌だから。

 時間に追いかけられ、じりじりと追いつめられるのが嫌だった。それは、夢の中でもよくある光景で。

 夢の中。たいてい、私はそこを去らなければいけないのに、荷物がまとまらなくて。

 どれが自分の荷物だったかわからなくて、あせって探しているのだ。これで全部、忘れ物はないっていう確信が持てず、いつもうろうろ、落ち着かずに歩き回る。取り残される不安感で、早くしなければと焦るのに、どうしても動けない。

 

 そして、夢の中ではわかっている。

 誰かに大丈夫だって言われても、この焦燥感は消えないことを。

 結局自分自身が納得しなければ、このモヤモヤは消えないのだ。

 冬の日暮れは早い。

 3時過ぎのあの、独特の光も、あっという間に消えてしまう。

 今窓の外を見たら、もうすっかり夕暮れの光だった。間違えようもないほどに。ああ一日が終わるなあと、そう思った。