水田とローズガーデン

 初夏のうららかな陽射し。この季節、田んぼ道を自転車で行くと、植えられたばかりの稲が一斉に風にそよぐ。

 東京から田舎に引っ越してきたことを、一番実感するのが、この光景かもしれない。

 子供の頃から慣れ親しんだ景色。当たり前のように、毎年繰り返される光景。

 東京には、緑はたくさんあるけど。大きな公園も、大きな木々も。だけどさすがに、田んぼはないからね。

 懐かしいというか、安心するというか。不思議な気持ちになる瞬間である。

 心は、昔に戻ってしまう。

 満々と水をたたえた田んぼに、青い苗が揺れる光景は、日本人の心に等しくあるノスタルジイなのだと言う。いつか、ぼんやり見ていたテレビで、そんなことを言っていた。誰もがその風景に触れれば、同じ思いを抱くのだとか。お米は日本の原点だから。お米を中心に文化が発展していったと。

 私が覚えている、特に印象的な光景は。十代の終わり、バイト先へ向かう途中の景色。

 本当に、田んぼ以外なんにもないような場所で。

 風が吹き、緑のじゅうたんが揺れていた。波打つ緑には果てがない。繰り返し繰り返し、どこまでも広がる海のようだった。

 あんまり圧倒的な光景だったから、しばらく見とれていた。

 なにも際立つものなんてないんだけど。ただただ、圧倒されて見ていた。青空。入道雲。伸び始めた稲の生命力。繰り返す波のようなうねり。風を受けて、葉を揺らす稲のやわらかな動き。

 平和で。そこには私しかいなくて。通りかかる車もほとんどなくて。

 まるで世界に一人きりのような、初夏の一コマだったな。

 先月、春バラを見に、近所の植物園へ行った。

 珍しい青バラ、青龍が咲いていた。しかし、周りの生き生きと繁茂したバラと比べると、生命力の弱さが浮き彫りに(^^;

 貴重なバラだから、すごく手をかけてもらっているんだろうけど、過保護に大事に育ててもらって、ようやく息づいているという感じだった。

 花にも葉にも、とにかく勢いがない。

 弱弱しくて、明日にも萎れてしまうんではないだろうかと、心配になってしまうほど。

 青いバラという遺伝子ゆえの、それが青バラの常態なんだろうなあと思ったのでした。そのはかなさもまた、青龍の個性なのか。

 一方、ローズガーデンで一番目立っていたのがオリンピック・ファイヤー。オレンジに近い赤で、とにかく目を引く色なのだ。派手で目立つ、自己主張の強い色。丈夫な品種のようで、かなり広い面積を占めて咲き誇っていた。

 一口にバラと言っても、匂いの強さには大きな差があるのね。

 そしていろんな品種の匂いを次々に嗅いでいると、気付くことがある。

 もちろんどのバラも、あのバラ独特の香りがベースにあるのは共通しているんだけど。そのオーソドックスな、いわゆるローズの香りに加えて、それぞれの品種には微妙な違いがあるのだ。甘いフルーツを感じさせるものあり、柑橘系のさわやかな香りを秘めたものあり。そして、中には私の苦手な、ムスクを思わせる香りもあって。

 ローズガーデンの中心に、白い大理石の噴水が置かれていた。この雰囲気、大好きだ~。

 噴水の中心には、ギリシャ風の彫像。水音も清清しくて、バラと大理石の噴水はよく合っている。

 噴水の向こう側には、可憐なピンクのバラが一面に広がっていた。そのバラは清楚な桃色で、気品があって初々しくて。葉の数に対して花の数がかなり多い。咲き乱れる(ただしお行儀よく)、という表現がぴったり。品種を確かめると、『ストロベリー・アイス』とあった。

 いいネーミング。可愛い名前にぴったりの可愛いバラだ。背の高さもそんなに高くなくて、手入れしやすそう。剪定して低くしたわけでもなさそうなので、これは育てるには作りやすい種類なのかなあと思った。

 たくさんのバラを楽しむなら、やっぱりピンクを大量に咲かせるのに憧れる。赤は、綺麗だけど一輪で、大輪のものを咲かせたい。

 白は、なんとなく寂しいイメージ。それに、どうしても散りかけたときの茶色が気になってしまう。

 散り際も、バラの種類によって全然違うのが、ローズガーデンを巡るとよくわかる。

 最後まで矜持を失わず、つんとすました顔のまま散っていくタイプのバラは、その散った花が地面に落ちたところまでもが、絵になる情景だった。

 秋には秋バラを、また見に行こう。

月の光が差し込む家

 週末は某祭を見に行っていたのですが、泊まったホテルの向かいにある、マンション最上階の部屋が不思議でした。窓から、木が顔を出していたから。

 どういう構造になってるんだろうか。窓開けっ放し?天窓というか、斜めになった窓から70センチくらい、木が飛び出しているのだ。

 そこのマンション、最上階だけはワンフロア、1世帯という贅沢な作りっぽくて。とにかく窓が多い。天気のいい日にはさぞかし、光があふれるんだろうなあと想像できる。

 ホテル側に向いた壁は、ほとんど窓。それも変わった形で、大きな一枚の窓は、カマボコ型。そこに、縦横の格子が入っている。

 屋根も、ほとんどが窓。これは一般のおうちなのだろうか。それとも、別荘?

 そこは13階で、他の階の部屋は洗濯ものが見えたり、生活感があるのだけれど。

 この13階だけは他の階と作りが全然違うし、ベランダにも何も物が置かれていない。夜になっても、明かりがつかないところを見ると、誰も住んでいないのか。祭前夜というのに、ひっそり静まり返ってる。それとも、私が見た夜はたまたま、留守にしていたのか。

 マンションの窓はすべて、マジックミラー。目の前にホテルがあるからこその、配慮だろう。落ち着かないものね。マジックミラーだけに、外から中の様子は全然わからず、余計に興味がそそられました。

 中、どうなってるのかな。どんなインテリアで統一されてるんだろう。室内であれだけ大きな木を育てるなんて、どういう人が住んでいるんだろうか。

 植物を育てるなら、ベランダの方が自然なのになあ。あえて室内で育ててるのか。

 最初は小さな鉢の、観葉植物で。それがどんどん大きくなって。大きな鉢に植え替えて、それがもっともっと成長していって。

 天井よりもっと背が伸びたから、あの窓を開けたのか。頭がつっかえないように。でも雨の日は、どうするんだろう。

 窓から顔をのぞかせた木は、最初戸惑ったかもしれない。ずっと室内育ちで、外の風を知らなかったら。でもすぐに、強い太陽の光や、風の心地よさに慣れて、もっと外に出たいと背伸びしたんだろうな。

 ベランダになにも置かれていないから、生活感はなくて。

 外からわかるのは、最上階だけの変わった構造と、窓の多さ。最上階だけはこれ、特別に設計してありそう。

 想像だけど、大きなリビングは意外と、ガランとしてそうだなあ。濃い色の床には、テーブルもなにもなくて。月が明るい晩には、天井の窓一面から、青い光が静かに差し込んで。

 それで、そこに住む人は大の字になって寝転がって、月を眺めるとか。

 いいなあ。きっとすごく静かな家なんだろうな。物音は聞こえなくて、視線の先にはただ夜空と月があって。床の固さと冷たさが、肌に心地いいんだろうな。

 あんまり不思議な家で、中の様子を見てみたいと、思ってしまいました。本当に、どんな人が住んでいるんだろう。ホテルからの眺めは夜景もきれいだったけど、それよりなにより、マンションの不思議な光景が忘れられません。

 たしか、大和和紀さんの『眠らない街から』という漫画だったと思うのですが、一晩中月下美人が咲きつづけるのを見てた、というシーンがありまして。その幻想的な光景に憧れました。部屋の中が、温室みたいに植物であふれてた。その光景と重なりました。あの漫画の部屋が現実にあるとしたら、こんな感じなのかなあと。

 そうそう、高校時代いつも、自転車で通りかかる道沿いにあったビルもそうだ。あの漫画のイメージに近かったっけ。2階にサンルームがあって、外から室内の植物がよく見えた。どれだけたくさんの鉢植えを育ててるのか、通りかかるたびについ、見上げてしまった。

 家には住む人の個性がにじみでています。気になる家を見ると、想像がふくらむのです。

手作りのお茶

 お茶の新芽が目にまぶしい~! ということで。

 一芯二葉をつみとり、手作りのお茶を作りました。売り物というわけでなく、単に自分で飲むだけなので、気楽に作れるし、しかもおいしい。

 五月のうららかな空気の中で。麦わら帽子をかぶって、ひたすら新芽を摘む作業は、それだけで楽しいものです。無農薬で育てているお茶なので、アブラムシもときどき見かけます。すかさず、指先でちょいちょいとつぶす。

 アブラムシの気持ちが、よくわかる。

 だって、黄緑色の新芽は見た目にも柔らかく、いかにもおいしそうだから。お茶の木の下の方は、固く、艶のある濃い緑の葉だけど。

 今年出た新芽は、いかにもみずみずしい。自分がアブラムシなら、絶対この新芽を食べます。

 生で食べたらどんな味がするのかな。と興味をもったので、一枚柔らかそうな葉を選んで口に入れてみました。味は・・・生の葉はさすがに苦いし、美味というものではないかも・・・。

 摘み取ったお茶の葉は、すぐに水洗い。そして、フライパンに放り込みます。熱を加えて、水分を飛ばすのです。本当は揉捻(じゅうねん)という葉っぱを揉む作業もあるのですが、私はパス。

 この揉みこみによって、お茶の成分がお湯に溶けやすくなるそうですね。一部のお茶では、試しに少し揉んでみたのですが・・・。手間の割りに、味の違いがよくわかりませんでした。なので私は、基本的にはフライパンで炒って、乾燥させるだけという超簡単な方法をとりました。

 熱が加わった葉は、水分を蒸発させながら一層、鮮やかな色になり。やがて、表面がかさかさしてくると、台所にはお茶の葉のいい匂いが漂い始めます。この匂いを嗅ぐだけで元気になるような、そんな香りです。

 この葉のどこに、そんなにも水分があったのだろう、と。驚くほどに水分は多いです。乾燥には、少し時間がかかります。指で触ってみて、少しまだ、しんなりした葉もあるかな?くらいのところで、私は火をとめてしまいます。

 長期保存するなら、完全に水分を飛ばしたほうがいいのでしょうが。どのみち短期間で飲みきってしまうので、これくらいで十分です。

 後は、お湯をわかしてお茶を淹れるだけ。

 甘いです。飲んだ後にも、さわやかな甘みがじんわりと広がってきます。疲れのとれる一瞬。

 この時期だけの、特別な贅沢をかみしめます。

 新茶の甘く、繊細な味を楽しんだGWでした。

 GWの新発見といえば、もう一つ。素敵な温泉をみつけました。そこの特徴は露天風呂。なんと、露天風呂は庭付きで(ここまではよくあるパターン)、その小さな庭園の中には、人工の川が流れているのです。

 川があるのは珍しいかも~。さすがに魚は泳いでいませんが。やはり、金魚や鯉を飼えば水が生臭くなってしまうのか?

 夜になれば、庭園の中には小さな明かりが灯り。川の前に置かれた椅子に座って、夜空を眺めることができます。

 サウナに入った後。露天風呂につかった後。

 その椅子に座って涼みながら、川の流れる音を聞きます。ザーサーと絶え間ない音を聞いていると、不思議に心は静まってくるのです。

 雲が出てきて、星が隠れて。首が疲れたので下を向くと、そこには一群のクリスマスローズ。

 どうしてクリスマスローズはみんな下向きに咲くんだろう、なんてことを思いながら、夜は更けていったのでした。

春なのに草一本生えない土地の謎

 最近お散歩のときに気になるのが荒地。

 荒地といっても、草ぼーぼーという土地ではなくて、春だというのに

 草一本、緑の一筋も見えないような土地なのです。これ、かなり異様な光景。

 除草剤、ですね。草を生やさないためには必要な措置なのかもしれないけど、できるだけしてほしくないなあ。

 一度気になると、目に付くようになるものです。あっちにもこっちにも。

 立ち枯れた草。地面からは、なにも、あのスギナでさえ生えてこない。

 周りの土地にあふれる緑とは対照的な、荒涼とした風景。それが、けっこう多いのです。

 除草剤の怖いところは、無臭であるという点。だから、撒かれてしばらくは気付かない。草が一斉に枯れて始めて気付く。

 ああ、ここ撒かれてるって。

 私がよく通る道にある、荒地。

 きっと持ち主も、もてあましている土地なんだと思う。そこには、いくつかの木が植えられている。

 ただ放っておくわけにもいかなくて、たぶん木を植えたんでしょう。

 木を植えたからといって、雑草は容赦なく生えるので、次には除草剤が撒かれた。

 そして今は、足元に広く茶色い光景が広がっている。

 除草剤は木にまで効かないのか、木の生命力が勝っているのか、木は枯れていない。だけど影響はあるだろうな。

 土地の奥の方は、竹が無数に生えている。手入れされた竹ではなくて、もうのびたい放題、どうにも人間の手がつけられないほどはびこってしまった、竹林。

 雑草が生い茂るのも問題かもしれないけど、ご近所から苦情が出るのかもしれないけど、でもでも、除草剤はやっぱり怖いなあ、と思う。

 だって、普通の土地なら、どんなにやせた地質だって、草は芽吹くから。

 それが、何一つ生えないって、これ異常事態だよ。

 夏の午後、風になびく草の色とか、好きなんだけどな。

 ある程度の高さになったら、刈ってしまえば、その草はいい肥料にもなるのに。

 草刈は体力が必要だから、それができないのかな。でも、土地に除草剤をまくのは、やはり怖いことだと思うけれど。

 除草剤は、雨に溶ける。

 溶けて低い位置に、流れていく。

 大量にまいた除草剤の成分は、近隣の田に流れていく。

 その田で実る稲。

 

 家と家の境だって、怖いよね。

 雑草を枯らす目的で除草剤をまく。

 それを知らない隣のうちでは、家庭菜園をやっている、とかね。

 まいたばかりの除草剤の成分が、強い風にあおられて舞うのにも気付かず、

 窓を全開で涼んでいたり、とかね。これは普通にありえると思う。

 私が荒地の隣の家だったら。

 草ボーボーの方がまだいいなあ。強い除草剤を使われるより。その方が自然だから。

 そりゃ、できれば草刈はしてほしいけど。

 春なのに、草一本生えない土地には、恐怖を感じます。

桜吹雪

 お花見、行ってきました。

 近所の公園で、桜吹雪を見ました。

 風が吹くたびに、ハラハラこぼれおちる花びらを見て思ったこと。

 それは、「なるようにしかならない」っていう言葉でした。

 咲くなって言ったところで、時がくれば蕾は膨らむし。

 散るなってとめたところで、風が吹けばどうしようもなくこぼれおちてしまう。

 それって、誰にもとめられないなあと。

 さらさら、さらさら、砂時計のように。

 とめようがなにしようが、なるようにしかならない。

 物事をどこまで、自分の自由にできるものか、などとぼんやり考えていました。

 

 人生とは、いったい何なのだろうと。

 答えの出ない、考えても仕方のないことをもうずいぶんと長いこと、考え続けていますが。

 この間、おもしろいことに気付いたのです。

 それは、夢の中ではそんなこと、一度も疑問に思ったことがないんですよね。

 

 夢の中の自分は、自分の存在理由なんて、その概念すら持っていないような。

 だからただ、そこにいるし、なにも不具合なんてないし。

 そのことを考える自由すら、そこにはないのです。

 だとすると、現実世界ではなぜ、そんなことを考えたりするんだろう・・・。

 それを考えさせるもの、その自由を与えたものって、一体何なのだろうかと。

 

 考えれば、きりがないですね。