土曜日の彼女

 私が高校生のとき、同じクラスにとても綺麗な子がいた。私の中では斉藤由貴さんと、その子のイメージが重なっている。

 顔立ちやスタイルが似ているわけではないのだが、二人とも心の中に人を寄せ付けない、独特の領域を持っているような気がするのだ。

 その子。Aちゃんの特徴は栗色の髪で。肩にかかるくらいの短さだけど、そりゃあもう艶々の直毛で、陽を受けると天使の輪ができてた。大人っぽい子で、口数は少なくて。悪い仲間とつきあってるという噂もあり、なんとなくクラスの中では浮いた存在だった。

 Aちゃんはまさに、わが道を行くというタイプで。周りのことにはあんまり関心を持っていないようだった。

 私はそんなAちゃんを、異質なものを見る目で、よく眺めてた。人と違う、というのは目を引くものだ。だからといって別に、仲良くなるわけでもなく。たぶん私とは性格が全然違う。ただ、Aちゃんの持つ独特の雰囲気は強烈な印象で。

 Aちゃんと一番仲良くしていたのは、B。だけど、そのBとも、Aちゃんはあまりベタベタした関係ではなかった。高校生の女子ともなれば、「なにをするのも一緒。それが友情」みたいな部分があったりするのだが、Aちゃんはあくまでドライだった。

 Aちゃんは、土曜日の午後は誰にも譲らなかった。

 もともと部活には入っていなかったから、土曜の午後はまるまる、自分のために使えたのだけれど。なにか用事ができたり、誰かに誘われても、絶対に土曜の午後は譲らないのだ。午前の授業が終わり、部活がある生徒たちが教室で昼食を食べ始める頃。

 Aちゃんはペタンコのカバンを手にして、そっと教室を出て行く。いつも一人だ。

 どこへ行くのだろう? 一度、気になってBに聞いてみたことがある。

「ねえ、Aちゃんてさ、土曜日はどこかへ通ってるの?」

「さあ。私も知らないし。誰も知らないと思うよ」

 Bはあっさりと、そう答えた。Aちゃんと比較的仲のいいグループの人たちも、誰一人、Aちゃんの行方を知らないのだとか。

 ずっと心に残っている光景がある。あれは五月くらいだったろうか。土曜日の午後、穏やかな日差しの中を、ゆっくりと歩いていくAの後ろ姿。長い坂道。どこかへ急ぐ風でもなく、ただその金色の空気の中を。

 私はAちゃんの後姿を見ながら、私の知らないAちゃんの時間のことを思った。

 たぶん、別になにか特定の用事があったわけではないと思う。ただ、土曜のその時間はAちゃんにとっては誰にも入らせない領域であって。きっとAちゃんは、その領域にはこれから先も、誰も踏み込ませないだろうという確信があった。

 別人だけど、斉藤由貴さんはなぜか、私の中ではAちゃんそのものだった。だから結婚のニュースを聞いたとき、すごく驚いたものだ。なぜかというと、そういう「誰にも入らせない領域」を持つ人と結婚するのは、寂しいものではないか?と思うから。自分だったら耐えられないと思う。自分の知らない何かを持っている人で、そこに自分が立ち入らせてもらえないなら。

 土曜日の午後。あの日の空気感は、今も私の胸に残っている。そして、斉藤由貴さんを見るたびに蘇るのである。

高いところ

 3日連続で、高いところから落ちそうになる夢をみました。新年から、三連続というのも意味深だなーと思ってます。

 恐怖からの脱却を促されてるのかな。

 普段、高いところには昇りませんが。象徴的な意味で、もう一歩踏み出せってことかなあ、なんて考えております。

 今日の夢は、屋上へ行こうとすると階段が崩れる夢。

 舞台は私が通っていた小学校でした。私は息苦しさを感じて、どうしても屋上の空気を吸いたくて、階段を上がるのです。

 自分の学年じゃないフロアに、違う学年の人たちがあふれていて。階段を上りながら、その人たちの奇異の目を浴びるという。

 「見かけない人だ」「どうしてこの階に?」そんなまとわりつく視線を振り切って、上へ、上へ。

 屋上へ続く階段は、普段、人が通らない場所ゆえに、埃臭く静まり返っている。

 私は、その静まり返った空気が好きなので、ようやくほっとして。誰もいないのを幸い、屋上へ続くその階段を駆け上がる。

 

 すると、あと少しのところでボロボロと次第に、上の方から崩れ始める。

 これは危ない。戻ろうと振り返ると、後ろにはぎっしりと人の群れ。「崩れて危ないから、戻って」と叫びかけて、そのあまりの混雑ぶりを見て諦める。ここまで階段が渋滞してしまったなら、もう戻れない。その時間がない。遠くにいる人には、私の声など届かないから。

 

 どうしよう。どうすればいい。絶対戻れない。なら進むしかない。でも恐い。進めば崩れてしまいそう。屋上には行きたい。戻れないなら行くしかない。だけど、だけど。

 夢の中で真剣に悩んでました。

 夢の中で、「これが夢だ」ってわかれば思いきって行けたかな。でも夢の中でも、やっぱり高いところは恐いからなあ。

 屋上は好きです。360度の視界。空が近くて、遠くまで見えるから。

 昔、仕事で半年間の研修を受けるときがあって、そこの寮に泊りこんでいたとき。真夜中、みんなが寝静まった頃にこっそり、屋上でぼーっと星をみてたりしました。

 本当は、用のないときには上がっちゃいけない場所だったんですが。

 手すりのほうに近寄らなければ、下の地面を覗き込まなければ、高さを感じずに恐怖感もなくて。

 今でも屋上は好きだなあ。

 会社の屋上も、開放されていればぜひ行ってみたいです。

 でも最近のビルは、そういうの無理ですよね。

 辺りに人がいたら、落ち着かないけど。誰も来なくて一人になれるなら。昼休みとか、屋上で遠くのビルや街並みを見るのは、いい気分転換になりそうです。

 これ書いてて思い出したのですが、そういえば私、いつだか寂れたデパートの屋上の夢をみたなあ。実際に行ったことのある場所ではなかったけれど。幼児向けの乗り物が、動かないままそこにあって。

 夢の中では、営業時間を過ぎた設定で。

 屋上へ行きたいと実際に思っているから、そんな夢をみているのかもしれません。

 高いところが苦手といっても、歩道橋くらいの高さから遠くを見たり、空を見るのは好きだし。高層ビルの展望室から見る夜景も好きなのですが。学校の屋上も好き。

 観覧車やジェットコースターなどは、乗ってから後悔します。乗る前には、たいした高さではないと、高を括っていても。

 お正月休みも終わり、今日から始動です。

お正月

 明けましておめでとうございます。

 今年の初夢。初夢は、元旦の夜にみる夢という説もあれば、2日の夜にみる夢という説もあるそうで、ひとまず、今日目覚めたときに覚えていた夢の話を書きます。

 私は銀器を磨いてた。場所はレストラン。ナイフについた曇りを、力をこめて磨き上げる。そして、きれいになったナイフをいろんな角度から眺めていた。

 大勢の人が歩く交差点。信号が青になって渡っていたとき、小走りの誰かがグレーの帽子を落として、気づかずにそのまま走り去ってしまう。

 私はちょっと迷って、だが人波を潜り抜けて帽子を拾い、その人を追った。

 走ることには自信があるのに、その人に追いつくことはできなかった。あっという間に見えなくなる。その人が消えた辺りをうろついて見つけたのは、急な坂道。小石の埋め込まれたデザインの舗装道路を踏みしめて、坂の向こうを見上げた。右手に大きな洋風の豪邸。

 坂の角度は60度以上あって、上ったら滑り落ちた・・・。

 なぜ、敢えてこんな急勾配の坂に家を建てたんだろう。家の内部はどんな間取りになっているのか?

 その家をもっとよく見たいと思いながらも、また後で来ればいいやと諦めて、また人探しに戻る。帽子を届けてあげたいから。せっかく拾ったのだし。なんとなく、その帽子はその人にとって大事なものだという気がした。

 左手に進路をとると、丘の上の公園。ベンチは人で埋まっている。一人ひとり、顔を確かめるけどその人はいなかった。

 その後、元自転車屋さんの店舗から、二階へ上がる。階段を上がるとその部屋に、貫禄のある女性がいた。

 覚えているだけでこんなところです。

 本当はもっと、たくさんいろんなことを夢にみているような気がするけど。

 穏やかなお正月を、まったりと過ごしております。

ジュモーとの再会

 三連休も今日で終わり。連休中には思いがけない再会がありました。

 ある人形作家さんの展示を見にいったところ、そこにジュモーの人形があったのです! 私はアンティークドールの中でも、ジュモーが一番好き。そのジュモーと、こんなに近い距離で再会するとは、嬉しいサプライズでした。

 3年ほど前、熱海にある美術館で、初めて本物のジュモーを見ました。ガラス越しに見たその人形は、目が大きくてとても可愛らしかった。美術館だから、飽きるほど眺めることが許される場所で。たくさんある作家さんのお人形の中でも、やっぱりジュモーは特別でした。

 いつか、ガラス越しでなくジュモーを見たいなあって。漠然とそう思っていたのですが、まさかこんなに早く会えるとは。それも、出会えた場所がまた、素敵なところでした。

 古い日本家屋です。直射日光の射さない薄暗い部屋。人工の灯りが照らす多くの人形たち。その中に、ぽつんとジュモーは座っていました。

 正確に言えば、あの熱海の美術館で見たジュモーとは別のものなのですが。あのときのお人形は、今も美術館に展示されているのでしょうし。

 ただ、作家が熱意をこめて作り出した人形はどれも、作家の分身だと思うんですよね。同じ魂がこめられている気がするのです。持ち主が可愛がって愛情を注げば、年月を経て次第に、その持ち主の人形、固有のものへと変化を遂げていくだろうけど。

 私が直接、至近距離で見ることができたアンティークドールは、少なくとも100年以上前に、フランスの工房で丹精こめて作られて。それが時をへて海を渡り、こうして日本の某所で静かに休んでいるのでした。

 私はその、建物の雰囲気も気に入りました。展示は、美術館のようにガラスケースに納められているのではなく、人形と人間を隔てるものは空気だけ。そして建物全体が、歴史を感じさせて、どこか懐かしくて。

 夜になって誰も居なくなったら、並べられた人形は動き出しそうです。そして、人形同士がおしゃべりを始めそうな雰囲気なのです。

 展示会場に流れるのは、異国の音楽。シャンソン?のような感じでした。その音楽のゆったりとした響きと、どこか憂いを含んだ女性の歌声が、またちょうどいい音量なのです。

 外界と隔絶された、特別の空間のように思いました。そこにいつまでも座りこんで、ゆったりと流れる空気に身をまかせ、ただぼーっとしていたなら。この空間の中だけ、時間が止まっているような錯覚にとらわれてしまうでしょう。

 ふと思い出したのは、いつか見たテレビの映像。

 人形をコレクションしている、年配の女性が映っていました。大きなお屋敷にひとりきり。たくさんの人形に囲まれて、その人は着物姿でカメラの前に立っていました。

 私はそれを見て、不思議な感慨を覚えました。

 家の様子から察するに、その女性は相当のお嬢様で。小さな頃には、お屋敷には大勢の家族や使用人が賑やかに暮らしていたはずで。彼女の願いはいつもたやすく叶えられていたのでしょう。「お父様、お人形が欲しいの」。小さな彼女は甘えた声で、いつも父親に人形をねだる。

 娘に弱い父親は、そのたび古今東西の人形を、求められるままに与え続けて。彼女の部屋はいつしか、人形のお城となったのです。

 いつか時が流れ、時代は変わり。隆盛を誇ったそのお屋敷も、時代に取り残されたまま風化して。父母も使用人も、誰もいなくなったそのお屋敷の中で、年をとったお嬢様は、それでもその場では、今でも少女なのです。大好きだったお人形に囲まれて。彼女の中では、時間がとまっているのだと思いました。

 ジュモーの人形を見て、そんなことをふと、思い出したりしました。

 それにしても、願いは思いがけない形で叶うものです。ガラス越しでないジュモーに会いたい、その願いが叶って、大満足の連休でした。

懐かしい景色

 しばらくぶりの更新です。

 いろんなことを考えてました。でも昨日で一区切りついたというか。

 昨日、懐かしい街へ出かけました。駅前のロータリーは変わっていなくて、ちょっと泣きそうになりました。空はよく晴れていて、時間だけが流れていた。

 時間の概念についてはいろいろな考え方があると思いますが、ある本を読んだらこんなことが書いてありました。過去も未来も、確定したものではないと。今この瞬間しか、確かなものはないと。

 えー?過去こそ、確定したものじゃないの?未来はこれから起こることだから改変可能だけど・・・なんてそのときは思いましたが。過去は、結局は記憶の中にあるものだから。それに、この世界のなにがいったい現実でなにが架空なのか、本当は確かめる術なんてどこにもない。

 自分がどこから来たのか、なにを信じればいいのか。

 確かだと思えるものは、自分の感情だけで。ただ、快は快。不快は不快。

 昨日、友人と話して「個」を痛感しました。それぞれ、欲しいものは違うんだなあって。

 私が全く欲しくないもの、むしろ、くれるといってもお断りしたいようなものを、彼女は欲しいという。そしてそれは、たいていの人が欲しいものだと、彼女は言う。

 逆に、私は彼女が要らないものに、とても魅力を感じました。むしろ、そこにしか興味はないというか。理解できないと言われましたけど(笑)

 私はやっぱり、変わってるんでしょう。もう言われ慣れました。

 昨日出かけた街は、一時期勤めていた会社のある街で。けっこう思い入れがあったんですよね。複雑な感情がまだ残っていて、だから用事がない限り、たぶん一生行かないだろうなあって思ってました。少なくとも、今はとてもじゃないけど、自分から出向くような気分になれない。

 すべての出来事に意味があるというのなら。出かけようと思って、自分の感情を冷静にみつめようと決めてました。電車に乗って、窓の外の景色をくいいるように見てた。

 一駅、一駅、近付くごとにやっぱり胸は痛くなったし。だんだん、懐かしい景色が見えてくるほどに、感慨深いものがあって。

 そこに自分がいたから、その後の自分が繋がったというか。

 点と点じゃないんです。ドミノ倒しみたいな。流れにはすべて、関連がある。

 きっとこの場所で働いていた記憶がなかったら、その後の自分は居なかっただろうなあって。この場所で、あの時代に出会った人たち一人ひとりの顔が蘇って。

 それは嬉しくもあり、懐かしくもあり、そして痛くもあり。

 時間があれば、その会社の前まで行くつもりでした。そこに立ったとき、自分はなにを感じるだろうかって、そう思った。

 まあ、結局よけいなところに行っている時間もなかったのですが。

 駅前のロータリーで、昔の私を思い出したのは確かです。電車に揺られて、通勤してたなあって。いつも駅前のコンビニで、お決まりのサンドイッチにヨーグルト。来る日も来る日も、飽きるまで同じメニューを繰り返し買っていたことだとか。

 当時の自分は、時々考えていましたね。未来の自分は、たとえば10年後の自分はいったいなにをやっているだろうって。そして20年後はさらに、どんな変化を遂げているだろうかと。

 今自分がいるこの瞬間を、どんなふうに思い返すだろうかって、そんなことをふと思った日もあったと思います。

 やっぱりその街の記憶は、すごく意味深いなあ。

 そこから始まって今がある。

 子供の時、近所にでっかい道路がありまして。まだ小学校に上がる前の私にとって、その道路は、世界の境界線だったわけです。一人では、どうしても超えられないボーダーラインだった。

 この道路の向こう側には行けない。誰に教えられたわけでもなく、そう思いこんでいた。どんなことがあっても、その向こうに自分の居場所はないんだって。

 いつか時間が流れて、私はいとも容易くその道路を渡り、その向こうの世界へ、東京へ私は来たわけです。成長したなあ。

 そのときそのとき、ボーダーラインはあるのかなと思います。子供のころの私にとって、その道路が越えられない境界線だったように。今の私には、今の私なりに、越えられない(という気がする)自分が引いた線がある。

 その線の内側に居る限り、新しいことはなにもない変わりに、自分を脅かす存在というものもないわけです。内側の心地よさは、お風呂の生ぬるさに似ているかも。思わず居眠りしてしまうほどの心地よさ、安心感。そこに居る限り、傷つくことはないから。

 今日もいい天気ですね。

 窓から、青空を眺めてます。また、一日が始まります。