夢で光に包まれる

 すごくいい夢を見た。目が覚めた後も幸福感の続くような、素敵な夢。

 私は小さな部屋で、英会話のマンツーマンレッスンを受けていた。目の前で生声で聞く英語は、テレビとは違って迫力があり。これは勉強になるなあ、と私は必死に、聞き取りに励んでいた。先生は日系だが、発音はうまかった。

 本当は会話をするレッスンだったのに、なぜかその先生は話好きで、一方的に喋る形になってしまう。「自分ばかりしゃべってしまってごめんね」と、レッスンの最後に謝られ、その謙虚な態度に好感を持つ。

「いえいえ、とんでもない」

「それにこの場所も、もっといいところがあったのに・・・」

 申し訳なさそうな先生を前にして、私は感謝の気持ちを述べようと張り切る。たどたどしい英語ながらも、私はこの場所が好きだし、先生の話は面白かったんだと、自分の気持ちを伝える。

 次回のレッスン用にと渡されたのは、1枚の紙。そこに家系図を書き込み、それをもとに話を進めるのだという。私はその紙を大切に、ファイルに挟む。

 そのとき、右手から光が差し込んだ。

 強烈な光で、それがガラス越しにまっすぐに差し込んで、その光のまばゆさに目が眩む。光の美しさに、私の心が震える。

 なんて綺麗なんだろう。

 小さな部屋は、光で満たされ、なにも見えなくなる。

 そして、目が覚めた。

 目が覚めてからも、幸福感の余韻にひたっていた。夢の中の私が、何度も英語で、「この場所が好きなんです。この部屋でよかったんです」と、先生に一生懸命説明していたのを思い返した。

 また次のレッスンの夢が、見たいものである。

世界は繋がっている

 ある本を読んでいたら、この言葉が心に残った。

 entangled world 繋がる世界、である。世界は少しずつ影響し合い、そして全体を見れば、一つなのだという考え方。

 entangle という単語から、私は糸を想像した。ぐるぐる絡まって、絡まりながらも広がっていく。その一つの糸をずっと辿っていけば、いつかは目的の場所にたどりつくことができるというイメージ。

 本当の目的にたどりつくまでには、いろんな景色があって、それは余計なものといえるかもしれないけど、道筋にある以上は、目標に必須のステップ。

 なんだか、いい響きなのである。entangled world 。ジャングルの奥深く、小さな蝶の羽ばたきでさえ、世界に影響を与えないはずはないのだと、その本は書いていた。

 これもまた、新鮮で美しいイメージだ。その蝶はきっと瑠璃色。日を受けて、七色に羽ばたく。誰にも知られないその、静かなはばたきが、世界に繋がっていくなんて。

 羽が上下するたびに、眩しい鱗粉がキラキラ飛び散る。

 entangled world という言葉から、sound horizon の『LiNK』という曲を思い出した。

>ぼく達がこの手で 紡ぐ未来は

>優しい夢のように 微笑む綺羅星(Shining Star)

 この曲は泣けます。どこまでも優しくて、愛にあふれてて。

 この曲の中にも、「世界は繋がっている」という台詞が出てくるのだ。

 個は、全体の一部にすぎないという発想。そういえば、ユングの集合的無意識という概念も、これに繋がってくるなあ。

 こういう考え方って、温かい気持ちになる。そうそう、ネットの世界も、回線を通じて世界が繋がっているといえる。無線なら、線さえもいらない。情報はすべて、目の前にある。ただ、手に入れたいと願うだけで、それはたやすく自分のものになる。

 現実世界では会ったこともない人と、情報を共有できるってすごいことだ。いい時代に生まれたなあと思う。インターネットの普及は、世界を変えた。

 そういえば、米航空宇宙局(NASA)が発表した、地球から75億光年離れた恒星の爆発を観測衛星がとらえたという記事。75億年かけてたどりつく光って、どんなんだろう。あんまりスケールが大きすぎて、クラクラする。実感がわかない。

 人類が誕生する遥か前から、宇宙はあった。人類がこの先どうなろうとも、淡々とそこに、宇宙は存在し続ける。理屈も、理由も、存在の前にはあまりにも無力だ。だけど、人間って可愛いなあと思う。

 宇宙の存在を知ったとき、同じような知的生命体を求めて、心は果てない旅に出たんだよね。

 日々、宇宙からの膨大な電波を受信し、解析する。そして自分たちを紹介する情報を載せて、ボイジャー号を打ち上げた。いつか地球外知的生命体が、それを見つけてくれると信じて。

 地球人のメッセージには、いまだ、誰も答えてくれないけど。その事実は、この広い宇宙で、地球がひとりぼっちだという、証明のようにも思われるけど。研究が進めば進むほど、宇宙はどんどん広がっていく。

 確率でいえば、地球のような星は必ず存在するんだよね。だけど、通信する手段がない。あまりに遠すぎて。

 だから今この瞬間も、遠い星の誰かが、地球のことを思っているかもしれない。この宇宙の中で、互いに触れ合えないほど遠い存在である誰かが、やっぱり空を見上げて、地球を思っているかもしれないという想像は、私をゾクゾクさせる。

 姿も形も、まったく違う相手なのか。それとも地球とよく似た環境の、よく似た進化を遂げた相手なのか。いつか、通信しあえる日がくるのか。それとも、距離には勝てないのか。

 

 宇宙にひとりぼっちだという孤独から逃れるように、人類は空に手をさしのべている。そう思うと、人間が愛しくなってくるのです。

違う世界に住む人たち~共感覚~

 テレビで、人間の脳について扱っている番組を見た。その中で、「共感覚」が取り上げられていた。共感覚とは、ある感覚の刺激によって、別の知覚が同時に起こってしまうという不思議な現象。たとえば、数字を見るとそれに色がついて見えるだとか、音楽を聴いたときに色が見えてしまうだとか。そういうことだ。

 「見えるような気がする」レベルではなく、本当に「見える」ので、どんな共感覚を持つかによっては、日常生活に支障をきたすこともあるという。

 番組の中でとりあげられていたのは外国人の男性。彼はなんと、言葉と味が結びついてしまう、驚きの共感覚の持ち主だった。彼にとって、日本という言葉はポテトチップスの味だという。そう、それが彼の住んでいる「世界」なのだ。

 家の中を青で統一した彼。青は、インクの味がするのだが、彼にとっては好ましい味らしい。そして一歩外へ出れば、混沌とした情報の渦に否応もなく巻き込まれてしまうわけで。

 そのせいで、彼は人とあまり接しない道を常に選んできたという。仕事も、彼の持つ奇妙な共感覚が邪魔となり、転々としたとのこと。

 彼はグミを大量に用意していて、おかしな味が口の中に広がったときには、それを食べて中和させるのだという。一日に食べる量は、相当なものだ。体にも悪そうだし、彼の顔は、幸せそうにはみえなかった。深い苦悩の色が、うかんでいた。

 しかし私が一番驚いたのは、彼がある女性と暮らし始めたという事実だった。そのために彼は、家の中に用意していた青いものを捨て、彼女との生活のために家を改装する。

 彼女は、特別に変わった人には見えなかった。ごく普通の人。年代も彼と同じ位で、彼女は共感覚を持ち合わせていない。つまり、彼が彼女を選んだのは、「同じ痛みをわかちあえるという安らぎ」ではなかった。

 私は番組を見ているときに、彼は一生独りだろうなと思っていた。この特殊な個性では、人と暮らすのは無理。他人の振る舞い、いえそれ以前に、他人の存在そのものが、彼に味をもたらしてしまうんだもの。

 好きな相手と一緒にいて、その人のことを思うだけで。

 どんなにたくさんの味がやってくるんだろう。そして、複数の味は、とどまることなく、次々に発生し続ける。だって、相手が好きなら、その人のことを考えずにはいられないわけで。それで実際にその人がそばにいるというインパクトがあり、そのことがもたらす味はそりゃあもう、すごいカオスになりそうだ。

 なのに、彼は自分が一緒にいたいと思える相手を見つけた。これはすごいことだと思う。他人の存在が、彼を苦しめない。苦しめないどころか、安らぎを与えるなんて。言葉が味に変わる彼にとって、これは奇跡じゃないだろうか。

 彼女の存在すべてが、甘美な味に変わるのだ。

 そうでなければ、彼は彼女を選ばなかったはず。彼にとっての彼女は、まさに奇跡の人。他の誰にも代わることのできない、貴重な存在。

 すごいなあ、とため息。絶対無理だと思ったのに。一生、暗くて静かな中で生活することしか、安らぎの道は残されていないと思ったのに。彼にぴったり合う人がひょっこり現れるとは。

 その番組では、他にも人間の脳の不思議について、実例を交えてコメンテーターが語っていた。つくづく、人間の脳は、おもしろい。感覚はすべて、脳がもたらすものだから。実存というより主観なのだとあらためて思う。

 そこに実在するものが問題なのではなくて。そこに実在するものに触れたときの、各自の反応が、悲劇と喜劇の分かれ目なのだ。

 脳の中の回路。どうつながっているのか。そこから「心」が生まれているんだろうか。

 番組の中で、麻木久仁子さんが、「やる気はどこからくるんでしょうか」と学者に聞いていたのが印象深かった。私もまさに、それを聞いてみたいと思っていたところだったのだ。

 答えは、「成功体験」とのこと。

 成功したときの喜びや達成感が、次の行動への動機付けとなるらしい。同じ事を、以前講演会で別の人から聞いたなあと、思い出した。

 今回の番組の中で、記憶力が異常に優れている男性(既に故人)も紹介されていて、こんな悲劇があるんだろうかと、同情してしまった。

 人生のすべてを記憶し続けるなんて・・・。忘れられるから、生きていけるのだと思う。忘れられないなんて、こんな残酷な話はない。

 私はとっさに、永遠の命を生きる『ダンス・オブ・ヴァンパイア』の伯爵と、どちらがつらいだろうと、そんなことを考えてしまった。以前見た舞台の、登場人物である。伯爵には、特別な記憶力などない。ただし、永遠の人生を生きる運命を負っている。

 いろいろと、興味深い番組でした。地上波のテレビは最近クイズ番組が多くてつまらなかったのですが、これはヒットです。こういう番組を、もっと作ってほしいと思いました。

屋上へ続く外階段

 水曜日の会社帰り。雨が降っていたが、私は歩きたくなって、電車には乗らずにそのまま家の方向へと向かった。

 ひたすら歩く。

 雨が降ると、空気中の淀んだ物質が綺麗に洗い流されるようで、湿った空気が心地いい。

 初めて通る道ばかりを選んで、ふと右手を見るとそこには。

 どーんと、存在感のある大きな建物が静かに佇んでいた。雨が洗い流す外壁には、一面にツタが絡まっていて、年月を感じさせる。工場か、体育館? 広い敷地をみれば、個人の持ち物とも思えないけれど。

 あたりは真っ暗。等間隔に並んだ街灯の光だけを頼りに、しばらく私は呆然とその建物を見上げていた。なぜか、心を打つ風景だったから。

 人の気配がない。

 もう使われていないのだろうか。それとも、夜だから静まり返っているだけなのか。外壁に、ほんのお飾りのようにちょこんとつけられた、ちゃちな外階段。それを昇れば、屋上に上がれるんだろう。

 高所恐怖症の私だが、思わず、その階段を上がる自分の姿を想像してしまった。屋上には、どんな光景が広がっているんだろうか。果たしてこの、誰からも打ち捨てられたような建物の屋上に、誰かが上ることなどあるんだろうか。外階段の鉄は、遠目にも、錆びて危うく見えた。

 しんと、埃臭い建物の内部に、もしもたった一人、立ち尽くしたら・・・。そんなことを考えると、不思議な気持ちになる。

 今度明るいときに、もう一度この場所に来てみよう。そう思った。

静けさという贅沢を

 音楽は好きですが、静けさの中に浸りたいときもあります。そんなときはテレビをつけなければそれでOK。私の部屋は、とても静かなのです。車の音も人の声も、ほとんど聞こえない。

 それは、今の部屋を選ぶときに、一番優先していた条件。

 ともかく、騒音のない部屋で、ということです。隣の部屋と構造上、どのように接しているか。周りの環境はどうか、など。そこは重点的にみました。私は今までの引越し回数がかなり多いのですが、過去に一番住んでてつらかったのは、音の問題で。

 同じような人たちが住むところなら、問題はないのかもしれませんね。たとえば、ピアノを弾く人たちだけが住むピアノマンション。重低音の、激しいロック音楽愛好者だけのマンション。パーティー好きの人たちだけが住む、にぎやかマンション。

 みんなが同じなら、問題ないですもんね。住み分けって、大事だなあと思いました。

 今住んでいるところは、本当に静かです。静けさは、贅沢ですね。一歩外に出て少し歩けば、都会の賑やかさがあるのに。

 外の喧騒が嘘のような、静かな部屋の中で。私はある、美しい文章を、読みふけっていました。

 時間も場所も、自分が誰かということですら、忘れてしまうような静寂の雪景色。目の前に広がる月の光の妖しさに、魂を抜かれるかのように立ち尽くしている人の、その人の目を通した情景です。

 その人は一瞬、自分がどこにいるのか忘れてしまうくらいに。圧倒的な静けさに包まれて。

 私はまるで自分がその場にいるかのように、景色を想像してしまいました。

 それで、つい先日、読んだ本のことを思い出したのです。こんなことが書いてありました。

 人間の感覚は、過去の経験に基づいて作られている。では、全ての過去の記憶を失い、体も失い、ぽんっと宇宙空間に放り出されたら。そのとき人はなにを考えるのだろう、と。

 いったい私は何者なのか。そんな疑問すらわかずに、ただ存在し続けるのかな。なにかを疑問に思うことも、悩むことも。苦しむことも喜ぶこともなくて。意識だけが存在する状態。なんだか、ゾクっときました。

 音のある世界にうんざりきたら。静けさに包まれたいと願うわけで。でも完璧な静寂に包まれたら、まるで自分を見失ったような、なくしてしまったような、不思議な感覚にとらわれる。

 その人の言いたいこと。そのとき感じた気持ちを少しだけ、追体験できた文章でした。