ローレンツ博士とバタフライ効果

カオス理論の提唱者、E・ローレンツ博士が、4月16日に90才で亡くなりました。
 ご冥福をお祈りいたします。

 私が以前、ブログでちょっと触れていた、蝶のはばたきの話。あの中に出てくる、私が読んだ本の著者が、このローレンツ博士の「バタフライ効果」を引用していました。あの本を読んでそんなに日が経たないうちに博士の訃報を聞いて、びっくりです。ちなみに「ジャングルの奥深く」というのは、私が読んだ本の著者の表現なので、ローレンツ博士が実際、そういう描写をしていたわけではありません。

 バタフライ効果。ブラジルでチョウが羽ばたくと、それが米テキサス州で竜巻を引き起こすという話。

 初期値の違いが、複雑な計算の結果には大きな影響を及ぼす、ということをわかりやすく例えたものだそうです。

 あらためて、人の運命について考えこんでしまいました。

 逆に言えば、1つも間違いのないデータで計算すれば、結果は出るってことですよね。1つも間違いのないデータ。1つも間違いのない計算。そんなものが可能であるかどうか、どれだけ時間がかかるか、どれだけのコンピュータを必要とするか、そういうことを全部無視したならば。

 なにもかもわかる。
 粛々と、決められた通りに進行していく。
 そこにはなにひとつ、不確定要素なんて存在しない。

 でも、実際には必要なデータが膨大すぎて。それを計算するなんて複雑すぎて。世界がどう動くかなんて、それがわかる人は誰もいない。物事の流れが決まっているのに、それをわかる人がいないなら、物事の流れは決まっていないのと同じこと?

 ここで唐突に、鬼束ちひろさんの歌う『流星群』の歌詞を思い浮かべてしまいました。

>貴方が触れない私なら無いのと同じだから

 この曲を初めて聴いたとき、不思議な感慨にとらわれてしまって。

 いくら存在しても、意味を見出せないなら、無いのと同じなのかなあと。たしかに、ただ存在するだけで、与える影響がゼロなら、無いのとどう違いがあるかって話なんです。影響することで、伝わることで、初めて存在が証明される?

 でもきっと、存在するだけで、ゼロってことはありえない。無で、同時に有だなんて、そんなの矛盾してる。どんなに小さくても、そこに存在するだけで、周りはその存在に影響を受ける。

 しかし同時に、あまりにも小さすぎる動きに、なんの意味があるのかっていうのもまた、わかる話で。たとえば私が空を見上げる一連の動作に、足元のアリが、右方向へ歩くか、左方向へ歩くか。それが、実際問題どんな影響を与えるというのか。

 ビッグバンが起こった瞬間に、この世のすべては決まっていたのだという説がありますね。つきつめてしまえば、そういうことなのかなあと。ただし、これを信じてしまえば、すべての努力が無駄になってしまうし、自由意志など存在しない。
 しかしその一方で、安らぎを覚えてしまう自分がいたり。

 
 そういえば薬師丸ひろ子さんの歌に、こんな一節がありました。『 Woman~Wの悲劇より 』です。

>ああ時の河を渡る船に
>オールはない 流されてく

 
 櫂のない船で、大海原を漂っている。
 そう考えると、気が楽になる部分もあって。責任がなくなる。

 たとえば自分の行動に、罪悪感を感じて落ち込んだ夜も。波に揺られる船に、なにができただろうかと考えると、気持ちが軽くなる。船はただ、波に運ばれていくだけだから。自由意志なんて、どこまで自由意志でありえるだろう。

 深く深くつきつめて考えていくと、確かなものはいったいなんだろうって話になってきます。過去は過去。だけどそれをありありと思い出すとき、それは現在とも言えるわけで。だって映像も、音も現実と同じ位に甦るし、それに触れた自分の感情も、当時と同じように、揺れるわけで。同じように反応している。
 現実に今、目の前にあるから、ないからという話じゃないんですよね。要は、自分の心が、勝手に反応してしまうから。

 感情こそが、真のバロメーターだっていう説、以前に本で読んだことがあります。感情バロメーターほど頼れる存在はないと。理屈でも条件でもなく、ピンとくる感覚。

 そして、繰り返しみる夢の世界。これも不思議。もうとっくに取り壊されている建物も、夢の中では当時のまま、それに全く矛盾を感じない自分て、なんなんだろうか。夢の中の自分は、存在意義に対する疑念なんてちっとも感じていない。

 夢の中では、同じことを繰り返しているのも謎です。後悔があって、別の行動をすればよかったと思うなら、せめて夢の中では思うままに、やってみればいいのに。昔と同じことをして、そこに意味はあるんだろうか。だけど夢の中の自分には、選択肢がありません。決められた状況に、決められた動作を繰り返すだけ。枠の外に飛び出す勇気なんて、ないのです。

 ローレンツ博士死去のニュースに、あらためていろんなことを考えたのでした。

夜の風景

 素敵な夢をみた。ある一軒家のカギを渡される夢である。「自由に使っていい」と言われて、大喜びする。月光の中に浮かび上がるその家は、荘厳な雰囲気を醸し出していた。

 門扉の向こうには庭もあり、植物を眺めながら月光浴ができそうだった。そこは静まり返った空間で、ゆっくりと寛げそうで、そのことがとても嬉しかった。

 その家に入り、再びカギを閉めてしまえば、もう本当にひとりきりで、誰に煩わされることもない。

 渡されたカギを握り締めると、ほんのり冷たく。その冷たさがまた、心地よくて。カギを握り締めて、私はその家を見上げていた。外から見ただけでも、その内部のしんとした空気が伝わってきてワクワクした。

 中に入る前に、目が覚めてしまったのは残念。せっかくだから、内部の探検もしたかった。

 山に行って、誰もいない場所でぼーっとしたいと思うから、こんな夢をみるんだろうか。

 夜の風景といえば、今でも印象深いのは、アメリカで見た、グリフィス天文台へ向かう途中の道から眺めた街の夜景。

 天文台での思い出より、そのとき車の窓から見た景色の方がずっと鮮明に、記憶に焼きついている。

 夜景スポットはたくさんあるし、それから数えきれないほどの夜景を見たけど、あれを超える景色に出会ったことはない。はっと、胸をつかれるというのは、ああいうことなんだろうと思う。うわあっと思って、ただ見ていた。ずっと。

 そしてあれから何年たっても、ときどき思い出すのだ。

 なにも劇的なドラマがあったわけでもなく。別に恋人とドライブしていたわけでもない。私の目に映った灯りは、その一つ一つが人生を感じさせて、飽きもせず言葉もなく、ただ眺めていたのだ。

 またあの、グリフィス天文台へ向かう道を、いつか車で行くことがあるんだろうか。そのとき自分の胸には、どんな思いが去来するのだろう。 

夢で光に包まれる

 すごくいい夢を見た。目が覚めた後も幸福感の続くような、素敵な夢。

 私は小さな部屋で、英会話のマンツーマンレッスンを受けていた。目の前で生声で聞く英語は、テレビとは違って迫力があり。これは勉強になるなあ、と私は必死に、聞き取りに励んでいた。先生は日系だが、発音はうまかった。

 本当は会話をするレッスンだったのに、なぜかその先生は話好きで、一方的に喋る形になってしまう。「自分ばかりしゃべってしまってごめんね」と、レッスンの最後に謝られ、その謙虚な態度に好感を持つ。

「いえいえ、とんでもない」

「それにこの場所も、もっといいところがあったのに・・・」

 申し訳なさそうな先生を前にして、私は感謝の気持ちを述べようと張り切る。たどたどしい英語ながらも、私はこの場所が好きだし、先生の話は面白かったんだと、自分の気持ちを伝える。

 次回のレッスン用にと渡されたのは、1枚の紙。そこに家系図を書き込み、それをもとに話を進めるのだという。私はその紙を大切に、ファイルに挟む。

 そのとき、右手から光が差し込んだ。

 強烈な光で、それがガラス越しにまっすぐに差し込んで、その光のまばゆさに目が眩む。光の美しさに、私の心が震える。

 なんて綺麗なんだろう。

 小さな部屋は、光で満たされ、なにも見えなくなる。

 そして、目が覚めた。

 目が覚めてからも、幸福感の余韻にひたっていた。夢の中の私が、何度も英語で、「この場所が好きなんです。この部屋でよかったんです」と、先生に一生懸命説明していたのを思い返した。

 また次のレッスンの夢が、見たいものである。

世界は繋がっている

 ある本を読んでいたら、この言葉が心に残った。

 entangled world 繋がる世界、である。世界は少しずつ影響し合い、そして全体を見れば、一つなのだという考え方。

 entangle という単語から、私は糸を想像した。ぐるぐる絡まって、絡まりながらも広がっていく。その一つの糸をずっと辿っていけば、いつかは目的の場所にたどりつくことができるというイメージ。

 本当の目的にたどりつくまでには、いろんな景色があって、それは余計なものといえるかもしれないけど、道筋にある以上は、目標に必須のステップ。

 なんだか、いい響きなのである。entangled world 。ジャングルの奥深く、小さな蝶の羽ばたきでさえ、世界に影響を与えないはずはないのだと、その本は書いていた。

 これもまた、新鮮で美しいイメージだ。その蝶はきっと瑠璃色。日を受けて、七色に羽ばたく。誰にも知られないその、静かなはばたきが、世界に繋がっていくなんて。

 羽が上下するたびに、眩しい鱗粉がキラキラ飛び散る。

 entangled world という言葉から、sound horizon の『LiNK』という曲を思い出した。

>ぼく達がこの手で 紡ぐ未来は

>優しい夢のように 微笑む綺羅星(Shining Star)

 この曲は泣けます。どこまでも優しくて、愛にあふれてて。

 この曲の中にも、「世界は繋がっている」という台詞が出てくるのだ。

 個は、全体の一部にすぎないという発想。そういえば、ユングの集合的無意識という概念も、これに繋がってくるなあ。

 こういう考え方って、温かい気持ちになる。そうそう、ネットの世界も、回線を通じて世界が繋がっているといえる。無線なら、線さえもいらない。情報はすべて、目の前にある。ただ、手に入れたいと願うだけで、それはたやすく自分のものになる。

 現実世界では会ったこともない人と、情報を共有できるってすごいことだ。いい時代に生まれたなあと思う。インターネットの普及は、世界を変えた。

 そういえば、米航空宇宙局(NASA)が発表した、地球から75億光年離れた恒星の爆発を観測衛星がとらえたという記事。75億年かけてたどりつく光って、どんなんだろう。あんまりスケールが大きすぎて、クラクラする。実感がわかない。

 人類が誕生する遥か前から、宇宙はあった。人類がこの先どうなろうとも、淡々とそこに、宇宙は存在し続ける。理屈も、理由も、存在の前にはあまりにも無力だ。だけど、人間って可愛いなあと思う。

 宇宙の存在を知ったとき、同じような知的生命体を求めて、心は果てない旅に出たんだよね。

 日々、宇宙からの膨大な電波を受信し、解析する。そして自分たちを紹介する情報を載せて、ボイジャー号を打ち上げた。いつか地球外知的生命体が、それを見つけてくれると信じて。

 地球人のメッセージには、いまだ、誰も答えてくれないけど。その事実は、この広い宇宙で、地球がひとりぼっちだという、証明のようにも思われるけど。研究が進めば進むほど、宇宙はどんどん広がっていく。

 確率でいえば、地球のような星は必ず存在するんだよね。だけど、通信する手段がない。あまりに遠すぎて。

 だから今この瞬間も、遠い星の誰かが、地球のことを思っているかもしれない。この宇宙の中で、互いに触れ合えないほど遠い存在である誰かが、やっぱり空を見上げて、地球を思っているかもしれないという想像は、私をゾクゾクさせる。

 姿も形も、まったく違う相手なのか。それとも地球とよく似た環境の、よく似た進化を遂げた相手なのか。いつか、通信しあえる日がくるのか。それとも、距離には勝てないのか。

 

 宇宙にひとりぼっちだという孤独から逃れるように、人類は空に手をさしのべている。そう思うと、人間が愛しくなってくるのです。

違う世界に住む人たち~共感覚~

 テレビで、人間の脳について扱っている番組を見た。その中で、「共感覚」が取り上げられていた。共感覚とは、ある感覚の刺激によって、別の知覚が同時に起こってしまうという不思議な現象。たとえば、数字を見るとそれに色がついて見えるだとか、音楽を聴いたときに色が見えてしまうだとか。そういうことだ。

 「見えるような気がする」レベルではなく、本当に「見える」ので、どんな共感覚を持つかによっては、日常生活に支障をきたすこともあるという。

 番組の中でとりあげられていたのは外国人の男性。彼はなんと、言葉と味が結びついてしまう、驚きの共感覚の持ち主だった。彼にとって、日本という言葉はポテトチップスの味だという。そう、それが彼の住んでいる「世界」なのだ。

 家の中を青で統一した彼。青は、インクの味がするのだが、彼にとっては好ましい味らしい。そして一歩外へ出れば、混沌とした情報の渦に否応もなく巻き込まれてしまうわけで。

 そのせいで、彼は人とあまり接しない道を常に選んできたという。仕事も、彼の持つ奇妙な共感覚が邪魔となり、転々としたとのこと。

 彼はグミを大量に用意していて、おかしな味が口の中に広がったときには、それを食べて中和させるのだという。一日に食べる量は、相当なものだ。体にも悪そうだし、彼の顔は、幸せそうにはみえなかった。深い苦悩の色が、うかんでいた。

 しかし私が一番驚いたのは、彼がある女性と暮らし始めたという事実だった。そのために彼は、家の中に用意していた青いものを捨て、彼女との生活のために家を改装する。

 彼女は、特別に変わった人には見えなかった。ごく普通の人。年代も彼と同じ位で、彼女は共感覚を持ち合わせていない。つまり、彼が彼女を選んだのは、「同じ痛みをわかちあえるという安らぎ」ではなかった。

 私は番組を見ているときに、彼は一生独りだろうなと思っていた。この特殊な個性では、人と暮らすのは無理。他人の振る舞い、いえそれ以前に、他人の存在そのものが、彼に味をもたらしてしまうんだもの。

 好きな相手と一緒にいて、その人のことを思うだけで。

 どんなにたくさんの味がやってくるんだろう。そして、複数の味は、とどまることなく、次々に発生し続ける。だって、相手が好きなら、その人のことを考えずにはいられないわけで。それで実際にその人がそばにいるというインパクトがあり、そのことがもたらす味はそりゃあもう、すごいカオスになりそうだ。

 なのに、彼は自分が一緒にいたいと思える相手を見つけた。これはすごいことだと思う。他人の存在が、彼を苦しめない。苦しめないどころか、安らぎを与えるなんて。言葉が味に変わる彼にとって、これは奇跡じゃないだろうか。

 彼女の存在すべてが、甘美な味に変わるのだ。

 そうでなければ、彼は彼女を選ばなかったはず。彼にとっての彼女は、まさに奇跡の人。他の誰にも代わることのできない、貴重な存在。

 すごいなあ、とため息。絶対無理だと思ったのに。一生、暗くて静かな中で生活することしか、安らぎの道は残されていないと思ったのに。彼にぴったり合う人がひょっこり現れるとは。

 その番組では、他にも人間の脳の不思議について、実例を交えてコメンテーターが語っていた。つくづく、人間の脳は、おもしろい。感覚はすべて、脳がもたらすものだから。実存というより主観なのだとあらためて思う。

 そこに実在するものが問題なのではなくて。そこに実在するものに触れたときの、各自の反応が、悲劇と喜劇の分かれ目なのだ。

 脳の中の回路。どうつながっているのか。そこから「心」が生まれているんだろうか。

 番組の中で、麻木久仁子さんが、「やる気はどこからくるんでしょうか」と学者に聞いていたのが印象深かった。私もまさに、それを聞いてみたいと思っていたところだったのだ。

 答えは、「成功体験」とのこと。

 成功したときの喜びや達成感が、次の行動への動機付けとなるらしい。同じ事を、以前講演会で別の人から聞いたなあと、思い出した。

 今回の番組の中で、記憶力が異常に優れている男性(既に故人)も紹介されていて、こんな悲劇があるんだろうかと、同情してしまった。

 人生のすべてを記憶し続けるなんて・・・。忘れられるから、生きていけるのだと思う。忘れられないなんて、こんな残酷な話はない。

 私はとっさに、永遠の命を生きる『ダンス・オブ・ヴァンパイア』の伯爵と、どちらがつらいだろうと、そんなことを考えてしまった。以前見た舞台の、登場人物である。伯爵には、特別な記憶力などない。ただし、永遠の人生を生きる運命を負っている。

 いろいろと、興味深い番組でした。地上波のテレビは最近クイズ番組が多くてつまらなかったのですが、これはヒットです。こういう番組を、もっと作ってほしいと思いました。