『殉愛 原節子と小津安二郎』西村雄一郎 著 感想

『殉愛 原節子と小津安二郎』西村雄一郎 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタバレを含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

なぜこの本を読んでみようと思いたったのか。それは、この本のタイトルが『殉愛』だったからだったりします(^-^;

今年になってかなりの話題になったあの本。そう、百田尚樹さんの本が、同じ題名でしたね。百田さんのはまだ私読んでないんですが。金スマでその本の宣伝をしていたのを見まして。本のタイトルがすごいなあと。

殉死という言葉はありますが、殉愛とは。
金スマを見たとき、百田さんはどうやってこんな言葉を思いついたんだろうと思っていたら、2012年にすでに、同じタイトルの本が発行されていたではありませんか。それがこの、西村雄一郎さんのお書きになった、『殉愛 原節子と小津安二郎』だったわけです。

もうその時点で、私の中の百田尚樹さんに対する尊敬の気持ちが、すーっと冷めていきましたね。だって、本のタイトルがまるかぶりって、ライターとしてどうなんでしょうか? それも、辞書に載っている言葉ではなく、造語で。

一般的によく使われている言葉で、しかも二文字という短い言葉なら、タイトルがかぶるのも仕方ないです。

でも「殉愛」でかぶるのは意図的でしかないでしょう。特別な言葉です。実際出版する前に、必ず調べていたはずですから。もしこの言葉を本当に偶然に思いついたのだとしても、同じタイトルで以前出版されたものがあったら、それを避けるのが当然だと思います。

百田さんが出演したそのときの金スマの内容も、見ていてあまり納得できないもので。私は、どこかもやもやした気持ちを抱えていたところに、もうひとつの『殉愛』本の存在を知り。百田さんのは、たかじんの後妻のお話でしたが、西村雄一郎さんのものは原節子と小津安二郎を取材したものだと知り、ぜひ読んでみたいと思いました。

原節子さん。
私は出演する映画を一本も見たことないのですが、原さんが、小津監督の死後に、芸能界から姿を消した、伝説の女優さんということは知っています。
たとえ映画界から姿を消したとしても、請われて少しだけ、テレビドラマにゲスト出演したり、雑誌のインタビューに登場したり、そんなことがあってもおかしくはないのに。ただの一度も公的に姿を現さないというところが、とても神秘的です。他の女優さんではありえないことでしょう。

そこには何か、強い意志があるわけで。それを知りたいと思いました。もしそれが、以前からよく言われているような、小津監督への敬愛の念からだとしたら、「殉愛」という激しいタイトルにもふさわしい、愛の形だなあと思いまして。

そんなことが、実際にあるのだろうかと。

原さんと小津さんの間にあったものはなんだったのか。
読み終えてまず思ったのは、世間で言われるほど、原さんと小津さんの間にあった感情は、大きなものではなかったなあ、ということです。

意外でした。そこには人がうらやむような愛の形があるのかと思っていましたが・・・。もちろんこれは私の個人的な読後の感想なので、読者それぞれに読後の解釈は違うとは思いますけども。私は、二人の間にあったのは、「敬愛」のようなものかなあと、そんな感想を持ちました。

なぜ原さんが完全な引退を選んだのか。
そこには、小津さんへの思いとはまた別に、様々な要素が絡んだのではないかと思います。白内障を患った後、撮影中に目を傷めて入院したのが、一番大きかったのかもしれません。目が見えなくなったら、という恐怖は相当なものです。
撮影に入ってから、いちいちライトに注文をつけることは、女優さんにはその権限がないでしょうし、目を失うリスクを考えたら、引退を選ぶのも無理ないわけで。

そして、年齢的なこともあったのかな。主役から、上手に脇役へとシフトしていくことが、難しかったのかもと。出演作のほとんどが主役級で、毎年のようにたくさんの映画に携わって。もう十分やり尽くしたと、満足してしまったのかもしれないと想像しました。

きっと小津監督の作品で評価を受け、自分の中で達成感もあったと思うのです。だから小津監督が亡くなったとき、この先の自分を考えて、芸能界ではない、静かな世界に身を置きたいと考えたのかもしれません。

私はこの本を読むまで、原節子さんという女優は、小津監督への愛情が大きすぎたあまりに、小津監督の死を乗り越えられなかった。それが原因で引退した、と思っていました。でも、語られるいくつかのエピソードを読むと、原さんも小津さんも、それぞれ別に好きな人がいたり、してるんですよね。

たとえば、原さんの場合は、一番好きだったのが義兄の熊谷久虎さんだと思います。その他にも、噂のあった助監督もいたそうだし、ただ結婚をしなかったというだけで、普通に恋愛はいろいろあったのかなと。

一方、小津監督に関しては、これは私は突っ込みを入れたいです。
なぜなら、1935年(昭和10年)から、少なくとも1952年頃まで、小田原の芸者さん、栄(さかえ)さんと付き合っていて、結婚の話も出ていたというではありませんかw(゚o゚)w

そして1952年、小津監督と栄さんの結婚話が出たとき、同時に原節子さんとの結婚の話も出て、なんと栄さんが遠慮して身を引いたと言われているそうです。

全然殉愛じゃないじゃ~ん←(ツッコミ)

殉愛どころか、そういうのを世間では二股というのではないでしょうか。むしろこの場合、「私なんか・・・」と遠慮してそっと身を引き、決して週刊誌に暴露話を売ることのなかった栄さんの方こそ、殉愛ですよね。小津監督ではなく。

小津監督は、原さんとの愛を温めつつ、一方で栄さんとも。
大人の愛ってそんなものかしら┐(´-`)┌

小津監督と栄さんとは、二度も結婚の話があったそうで。親戚を含む周囲も、二人が結婚するだろうと思っていたそうです。ちなみに、一度目の結婚が流れた理由は、栄さんが家族を食べさせなくてはならなくて、彼女が芸者で稼がないといけないという・・・栄さんけなげです。

やっと家族のためでなく、自分のために生きることができるときがきて、今度こそ結婚となった、その時。相手には有名大女優との結婚話が持ち上がった。そこで、何も言わず静かに身を引くことができた栄さんには、本当に真の愛情があったんだろうなあと、そう思いました。

想像ですが、小津監督と原節子さんの関係は、生々しい男女間の愛情というよりもむしろ、お互いを尊敬しあう、一歩引いたものだったのかなあと思いました。それは恋愛ではなくて。

そして、恋愛という観点でいうなら、本に出てくる登場人物で一番純情だと思ったのが、映画プロデューサー、藤本真澄(さねずみ)さん。私は最初、この方を、「さねずみ」さんではなく、「ますみ」さんと読んでしまいました。

そうです! 女優に一方的な愛を捧げ続けるその無骨さ、不器用さ、純粋さ。そしてその名前。きっと、『ガラスの仮面』の速水真澄(ますみ)のモデルは、この人です。だって速水さんは養子になる前の旧姓、「藤村」ですもの。
「藤本真澄」と「藤村真澄」。偶然でしょうか? そこに関連性を推し量るのは、ロマンチックすぎるでしょうか。

映画の世界で大成功し、権力を手に入れ、華やかな世界で大金持ちになった藤本さんは、当然、女性からモテモテだったと思います。けれど生涯独身を貫いた。それは、心の中に、原節子さんがいたからなのではないでしょうか。

引退したにも関わらず、原節子さんには、毎月東宝から給料として、いくらかのお金が支払われ続けたそうです。その影には藤本さんの意向があったとか。1960年代には、もう結構ですと、原さん側から断りの申し込みがあったそうですが。そのときの藤本さんの胸中を想像してしまいました。
お金という形でわずかでも繋がっていた細い糸が切れてしまう寂しさは、いかばかりだったろうかと。

引退した女優に東宝から払われる異例のお給料は、藤本さんにとっての、届かない思いそのもので。

その他にも、藤本さんは原さんの土地の取得などに、関わっていたそうです。

そして、そんな藤本さんが何を語っていたかというと。

>原節子に、実は惚れてたンだよ、昔だけどね
(中略)
>それで、あきらめたのさ。しかし俺は、本当だよ、
>商品に手をつけたことは、一人もいなかったね。
>“清く正しく美しく” が我が社のモットーだからね

(『シナリオ』別冊「脚本家 白坂依志夫の世界」)

この言葉を、信じます。根拠はないけど、そんな気がするから。
もし藤本さんが原さんと一線を越えちゃっていたら、それこそ、
別に原さんでなくても、誰かと結婚していたと思うんですよね。
そして、藤本さんは会社からの給料という形でなく、個人的に
原さんを援助していたと思う。もし二人の関係がそうだったなら。

逆に、清いものであったからこその、東宝からの給料だったのだと、
そう思います。
原さんが、東宝からでないと受け取らないことを知っていたから、
藤本さんはそのように手配をしたのだろうし。
そんな藤本さんの配慮を知りつつ、原さんはしばらくの間、給料を
受け取っていたのだと思います。
二人の間には、言葉にならなくても、静かに通じるものがあったのかなと
そんなことを想像しました。

この本を読んで一番に感動したのは、小津監督よりも藤本真澄さんのことでした。
こんな人が実在したのですね。
まるで、漫画や小説の中に、出てくる人のように思えました。

『洗脳 地獄の12年からの生還』 ToshI 著

洗脳 地獄の12年からの生還 ToshI 著 を読みました。以下、感想です。

壮絶でした…。
なにもかも順調なときなら、きっと洗脳されるような隙はないでしょうが、人間関係に悩み、苦しんでいるときには、危ないですね。本来宗教は、人を救うものであるべきなのに、ToshIさんが入った宗教は、お金をとるばかりか暴言と暴力で人の尊厳を破壊し、ToshIさんの知名度を利用してまた新たな被害者を狙う、という、恐ろしいものでした。

芸能人が周囲の心配をよそに、宗教にはまる、というのは時々聞きますが、有名人でお金持ち、というのは孤独なんだなあと、あらためてそう思いました。身内ですら信用できないなら、誰を信じればいいのか。

本を読んでいると、信者時代にも、100パーセントの信仰があったわけではなくて、その時々において教祖や妻に対して、???と思うところもあったみたいですね。当時、テレビに映った姿を見ると、盲信していたようにみえたのですが、その影にはいろんな葛藤があったんだと、読んでみて初めて知りました。

こうして自分の体験を語ることは、これまでToshIさんの名前が勧誘に使われたことへの贖罪になっていますね。そして、今まで宗教とか洗脳とか興味がなかった人でも、ToshIさんの本ということで興味を持って読めば、洗脳の恐ろしさを知り、被害を未然に防ぐことができると思いました。

暴言と暴力で人を洗脳する、というのは、たぶん洗脳が解けた後だと、なんであんなことで騙されちゃったんだろうと思うけれど、その瞬間にはなんの疑いもなく、すーっと心の奥底に入りこんでしまうものなんでしょう。

ToshIさんを救ったのは、「おかしい」というご自身の絶対的な感覚と、それをサポートしてくれる周囲の人々でした。どちらが欠けても、脱出は成功しなかったと思います。

世の中には、本当に無償の愛で他人を助けてくれる人がいます。ひどい人もいるけどその一方で、同じ振り幅で善の方向に動く人もいるのです。

バンドメンバーの絆にも感動しました。誤解や喧嘩があっても、年月を経てわかりあえる瞬間がある。その絆は、本当に素晴らしいものだと思います。かけがえのない仲間は、ToshIさんの宝物です。

どんな宗教も、末端の信者さんはたいてい、純粋な善人ですね。そして心から他人の幸せを願い、布教に全力を尽くします。よかれと思って、人を誘います。だからといって、その宗教の幹部が、同じように善人であるとは限らなくて。

いろいろと考えさせられる本でした。

『青い鳥』 野沢尚 著 感想

『青い鳥』野沢尚 著を読みました。以下、感想をかいていますが、ネタバレしていますので未読の方はご注意ください。

あの名作ドラマ『青い鳥』の小説版です。ドラマでは描かれなかった、登場人物たちの細かなエピソードも載っています。映像では、表情を読み取るしかなかったものが、文字として心理描写されているので、また新鮮な気持ちであのドラマのことを思い出しました。そしてあらためて、ドラマのことを考えたとき、自分が以前とは違った感想を持っていることに気付いたのです。

主人公の理森(よしもり)、そして運命の相手、かほり。
二人の絆は運命的で、とても強いものだ、と思っていました。敢えての過去形です。

今は、そう思っていません。
小説版のかほりの生い立ち、そして理森の子供時代を知ったから。

理森は、かほり親子に振り回されてしまった・・・と思っています。相思相愛の二人が、手に手をとって駆け落ち、なんていう純愛ではないと思うのです。

かほりは、理森でなくても、他の人でもよかったのでは?と思えてなりません。
田舎の閉塞した空気、名士の妻という立場の息苦しさ、そこから連れ出してくれるのであれば、それが、「理森」である必然性はなかったでしょう。もちろん、夫の広務よりも好感の持てる相手、という条件はつきますが。

夫よりも気持ちが許せて、自分を今よりもっと自由にしてくれる相手。それがたまたま、理森だったように思いました。だから、かほりには逆らえない激流のような情熱は、なかったと思います。そして、それは理森も同じこと。

本を読み終えて思ったのは、理森は「助けたい人」だったんだなと。誰かを助けたかったのではないでしょうか。誰かを助けることで、子供時代の自分を救いたかった。なんの過去も痛みも持たない女性には理解できない闇を、彼は抱えていた。

理森が、幼馴染の美紀子を選ばなかった理由は、そこにあると思いました。
だけど、もしかほり親子が清澄の町に現れなかったら、理森は美紀子と自然な流れで一緒になっていたと思います。美紀子の思いを、拒むほどのはっきりした意志を、理森は持っていなかったと思うからです。
心の奥深くに眠る、自分自身の痛みを、かほり親子に投影した。だからこそかほり親子を助けずにはいられなかった。けれど彼女たちに出会わなければ、きっと理森は美紀子と、平穏な幸せを手に入れたでしょう。
美紀子と一緒になれば、違う人生が、もっともっと幸せな人生が、理森にはあったのではないかと思いました。優しい美紀子と歩む人生は、きっと理森を癒し、暖かな光となったと思うのです。

本に書かれたかほりの過去を読んで、これは広務が相手でも理森でも、普通に結婚生活を全うするのは無理だなと思いました(^^; いいとか悪いとかではなく、生きる価値観が違いすぎる、生きてきた世界が違いすぎるからです。

理森とかほり、無事に夫婦になれたとしても、その先の展開が、予想できてしまう。

かほりは、理森が夜勤の日に、一人で居酒屋に飲みにいっちゃうでしょうね。罪悪感はないのです。ただの、気晴らしです。それでも理森が知れば不快に思うであろうことは予想できるので、おそらくこっそりと。
そしてそのうちに、だんだん気が緩んで。行く回数が増えると思います。別に浮気とかじゃなくて。単純にお酒で憂さ晴らししたいのと、それからお酒の場の陽気な雰囲気が好きで。
いつか理森にばれます。当然怒るでしょうね。俺が夜勤のときに何やってるんだと。誌織もまだ小学生なのに、夜にひとりにして危ないじゃないかと。

そしたらかほりは反発しますね。私だって羽を伸ばしたいときがあるの。誌織は寝てたから、私が出かけたって大丈夫だと思った。
きっと理森は言うでしょう。「それならなんで、あらかじめ俺に言ってくれなかった?」
かほりは答えたでしょう。「言ったらあなた、気持ちよく私を送り出してくれた? 駄目だって言うに決まってる」

正論なので、理森は反論できずに黙りこむでしょうね。険しい目のままで。かほりも負けずに、怒りを隠そうともせずにまっすぐに理森を見上げて。

そして数日後、かほりは居酒屋で出会った、ちょっといいなと思っているお客さんに、愚痴をこぼすでしょう。
「どうして別れないんだ?」
問われたら、きっと悲しい目をして答えるのです。
「あの人には、恩があるから。子供のことも全部、助けてくれた人なの」

お客さんは、義憤に燃えますね。
恩を売って相手を縛ろうだなんて、とんでもない奴だ。目の前にいるこの不幸で美しい女を幸せにできるのは、俺だけだ、と。

あれ、どこかで見たパターン。そう、広務が悪者になって(まあ実際悪かったと思いますけど)、理森とかほりが盛り上がったときと同じなんですよね。
理森は無口だし、そこまで単純ではないので、かほり親子と実際に逃避行を始めるまでには、「どうして別れないんだ?」なんて無責任なことは口にしませんでしたけど。そういうところも、理森はすごく良識があったなあと。いくら自分がちょっといいなあと思う相手でも人妻だから。誤解を招いたり、相手に期待をもたせるようなことを、言ったりはしなかった。今あらためてドラマのことを思うと。誘惑するのはいつも、かほりなのです。

自分が誘惑してるつもりはないでしょうけど。たぶん性格なんだろうな。結果的にはものっすごく、かほりは理森を誘惑しちゃってるわけですよ。
会って間もない男性に、「この町から私を、連れ出して」とか、言っちゃうんだから。書いてて思ったけど、本当に凄いセリフだなあ。

私がこのドラマの中で二番目に印象に残っている、あの赤いカサが風に飛ばされるシーン。雨にうたれて、天を仰いで、そして理森と目を合わせたかほり。でもかほりの目に、理森は特別な存在として映っていなかったような気がするんですよね。かほりにとって、理森は町人の一人にすぎず。
そして理森も。
確かに、吸い込まれそうに美しくて、儚い人で。でも彼が何より心を動かされたのは、そのときのかほりがあんまり、寂しそうにみえたからではないでしょうか。雨が、とまらない涙みたいに。この人も、なにかにひどく傷ついて、泣いている人なんだと。そのことが、理森の心に深く、突き刺さったような気がします。

かほりは、理森を深く愛していなかったからこそ、「連れ出して」なんて軽く言えちゃうわけですよ。もし本当に大切な相手だったら、絶対に口に出せないセリフ。だって、あんまりにも申し訳なさすぎるから。理森が自分と一緒になって、幸せになれるかどうか。いくらかほりだって、わかっていたはずです。不倫の汚名。子供がいる責任。
本気で好きだったら、言えないだろうなあ。

理森の行動を見ていると、かほりへの愛が高まって、やむにやまれず逃避行したというより、かほりの積極的な姿勢に押し切られたって感じるんですよ。自分から行動起こしてることは、ないといってもいい。いつもかほりが、導いてる。
乙女が原での告白も、かほりから。あんな場所で二人きりになったのは、理森がうかつだったといえばそれまでですけど。でもその前に、広務がかほりを思いきり傷つけたから。かほりに聞かれているとも知らず、彼女を金で買った高価なオモチャ扱いしたから。
それは気の毒に思いますよね。誰でも配偶者からあんな言い方されたら、目の前真っ暗になると思います。理森はかほりを、そんな最低な夫のところへそのまま送り返すのが忍びなかった。星空を見て、夜風に吹かれて。少しでもそれが、かほりの慰めになるならと思って、寄り道したんだと思います。たぶん理森も、つらいときに乙女が原でひとりで、星を見ていた日があったんでしょう。

だからこそ、、私はかほりをずるいなーと思ってしまう。自分がつらいからって、優しい人を巻きこんじゃいけません。すがる手を、振り払えない人だとわかっていたくせに、「答えなくて、いいからね」なんて、あんまりにもみえみえのセリフ。

乙女が原の一件の後。かほりはどこかで、「理森はもう私の物」という勝利を確信していたように思います。だからきっと、その後の理森のつれなさを疑問にも感じたし、苛立たしかったでしょう。別荘に誘うとか、もうねー、どんだけ自信があるのかと。そして、それがどれだけ、理森の将来を傷つけるか、まんざら知らないわけでもないでしょうに。

一貫して、かほりに押し切られる形の理森ですけど。唯一自分から、かほりに別荘で会うことを持ちかけたときがあって。でもあれって、絶対別れ話だよな~と思うのです。長野支社に行くことを決めたと、自分の口からはっきり告げたかったのでしょう。妙な期待とか、希望とか、それは逆に残酷だから。

かほりと誌織の逃避行。そこに理森がいなければならなかった理由。やはり、かほりの身勝手さだなと思ってしまうのです。
広務はとんでもない奴ですから、そこから逃げたいと思うのはわかります。でもそれに、他人を巻きこんじゃいけないのです。相談するなら、しかるべき公的機関でなくては。
なんなら舅になるはずだった純一郎に相談してもよかったかも。彼は、息子とかほりの結婚を望んでいなかったから。きれいに別れて息子に泥を塗らないなら、かほり親子の旅立ちを喜んで見送っただろうし、当面の生活費となる手切れ金も渡したと思いますよ。スキャンダルになるくらいなら、お金で解決したかったでしょう。広務が激高しないよう、別れ方もそれなりに考えてくれたはずです。広務が激高しない別れ方・・・たとえば、かほりが酔って大勢の前で醜態をさらすとかね。とにかく嫌われるように、百年の恋もさめるように、振る舞えばいいのです。「あんな女、こっちから別れてやる」と思わせるように。

かほりの死の責任、私は、すべて広務にあると思っています。いくら怒っても、あそこまで追いかけるのは異常すぎる。理森を殺そうとしたのも、常軌を逸しています。でも、どうして理森はかほりの死に関して、すべての罪を引き受けたのでしょうか。

もちろん、たとえ自殺であっても、守りきれなかったのは殺したのと同じだ、と考えていたこともあるでしょうが。詩織ちゃんの存在も大きかったのではないかと。
当然、理森の関係者が面倒をみるわけにはいかないし。かほりに頼りになる身内はいない。施設か、広務か、その二択しかなくて。
広務は、異常な人ではあっても、今まで詩織をいじめるようなことはなかった。だったらせめて。詩織が寂しい思いをしないように、せめて、父という存在がある場所で育ってほしいと。それに、純一郎は世間体を考える人でしょうから、その点も安心です。世間からみて、むごいと思われるような扱いはしないはずで。

成長した詩織は、山田麻衣子さんが演じてらっしゃるのですが、ベストキャスティングです。
無邪気な子供時代の鈴木杏さんから、果てしない闇を抱えた目の山田麻衣子さんへ。その対照的な明と暗が、ドラマを一層盛り上げたと思います。

山田さん演じる詩織は、目の奥が真っ暗なのです。
けれど、それがリアルだと思いました。実の父が暴力男で、やっと逃れて新しいお父さんができて。でもうまくいかなくて、お母さんは自分を連れて別の男の人と駆け落ちして。あげく、その男の人に崖から突き落とされて死ぬ。結果、天涯孤独になってしまう。お母さんが駆け落ちした男の人は、自分も好きだった人だから、よけいになぜ?と思ったでしょうね。どうしてお母さんを殺したの?って。真実を聞きたいと思うのは当然だし、裏切られたと恨んでも無理ありません。
そして引き取られた相手が、自分のあんまり好きじゃない、しかもお母さんが逃げ出した相手だっていう、この絶望ね。そして逃げる場所も、帰る場所も、どこにもないわけです。

そりゃあ、そういう目にもなるよなあと思いました。出所した理森が、誌織を気にかけるのも当たり前です。でも何にもできない。

物語の最後。結局理森は誌織と結ばれるわけですが。
正直、ひどいな・・・と思ってしまいました。理森が気の毒で。理森の性格で、立場で、詩織を突き放すことはできないから。それは愛というより、同情ではなかったかと。

私思うんですが、理森は誌織じゃなくても、幸せになれたんではないかなあ。美紀子と一緒に過ごす幸せが、容易に想像できてしまう。理森の青い鳥は、美紀子です。近すぎて見えない。ドキドキもない。でもささやかで、かけがえのない幸せ。

ただ、誌織は理森じゃなきゃだめでしょう。仮に理森と結ばれなかったら、一生理森の影を追い続けて生きたような気がします。あの暗い目のままで。理森には、それがわかったんじゃないでしょうか。だから、19歳になった詩織に求められたら、応えざるを得ない。

ドラマは、キャスティングが秀逸です。理森は、豊川悦司さんじゃなきゃ駄目だし、夏川結衣さんが演じるからこそのかほりだったし、広務を佐野史郎さんが演っていなければ、物語の色が全然違っただろうし。美紀子のけなげさは永作博美さんでなければ出せなかったし、詩織を表現できたのは、鈴木杏さんと山田麻衣子さんだったからこそ。

ただ、前田吟さんの役は、もうちょっと暗い役者さんでもよかったかなあと思わなくもありません。前田さんだと、悲しみを抱えたまま前へ進むというより、悲しみを全部記憶から消して、前へ進むタイプにみえてしまうから。奥さんに逃げられたことも、過去になってしまっているように感じました。そして奥さん役のリリィさんも、ちょっとおとなしすぎるかなあと思ってしまった。理森のお母さんなら、もう少し、派手な部分があってもいいのかなと。逃亡した罪悪感や月日が若い日の面影を消したとしても、ふとした瞬間に垣間見える激しさや、情熱、みたいなものを。きっと持ってる人だと思うから。そうじゃなきゃ、いくらなんでも、理森とお父さんを残して、他の男の人と消えたりしない。

青い鳥は、いつだって、手の届く場所にあるんだろうと思いました。ただ、それを手に入れられるかどうかは、わからない。どんなに近くにいても、その存在に気付かなければ。

理森の青い鳥、美紀子は。
結婚したら、一緒になったら理森を幸せにする自信があって、だから告白したんだと思いました。そこがかほりとの違いです。かほりは、自分が相手を幸せにするかどうか、そこはあまり気にしていないと思うから。
理森の幸せを考えたら、「連れ出して」なんてとても言えない。

もし美紀子が、理森と一緒になって理森を幸せにする自信がなかったら、どんなに好きでも、黙っているだろうなと思いました。

理森は、かほりにも誌織にも同情していた。特に、自分のせいで母親を奪ったと、詩織には罪悪感を抱いていた。だから詩織には逆らえない。詩織が望めば、一緒になることも厭わない。
なんの負い目もないかほりにさえ、人生を捧げた理森だから。

詩織はかほりに似てるのかもしれません。もし理森を大事に思うなら、本当に好きなら、二度と会わないという選択もあった。母を殺したと恨んでいた、真実を知りたかった15歳ならともかく。19歳になって、理森が自分たち親子のためにどれだけの犠牲を払ったかを知ってなお、自分の気持ちを優先して、彼を求めるのは、それってどうなんだろう?と。

ドラマを初めて見た時から時が経ち、あらためて小説版も読むと、ドラマに対する思いも変わってくるなあと、実感しました。

『神童』山本茂 著 感想

ずっと昔に見て、忘れられない映像がある。

神童と称えられたヴァイオリニストの少年。さらなる高みを目指し、アメリカへ渡った彼は不慮の事故により夢を断たれて帰国。ひとりで生活することも難しい体になった彼と、彼を介護し続ける父親。

そんな二人が暮らす家には、薔薇が咲いていた。

手入れの行き届いた庭、大きな家。咲き乱れる薔薇に彩られた夢のようなお家。

黙々と、息子の回復を信じて介護する父と。

少年の顔には相応の時間が流れていたけれど、一切の苦悩から解き放たれた顔には、穏やかな笑みがあった。

いつか、その少年が旅立ったとニュースで知った。父親よりも先に旅立ったことが、幸せだったのか、不幸だったのか。
幸せと言えば、なんて残酷なことをと眉をひそめられるだろうか。
けれど不幸と言えば、それもまた違う気がする。

外国がまだ遠い異国だった時代。日本と隔絶された地でたったひとり、懸命に芸術を追求し続けた日々。それはこの上ない幸せと、この上ない不幸が同居した、彼だけの人生であり、運命だったのだと思う。

神童と呼ばれることを、彼が本気で喜んでいたとは思えない。
彼は、彼にとって大切な人が、自らの弾くバイオリンを褒めてくれるというただ、そのことが嬉しかったのだと思う。
そしてバイオリンは小さな男の子のすべてになり。
彼が本当に不幸と思い心底恐れたのは、大切な人に見捨てられるという不安感ではなかっただろうか。

バイオリンを褒められれば褒められるほど。
それを失った時自分にはなにが残るのかと、たまらない恐怖だったように思う。

それでもバイオリンがあった。だからがんばれた。けれどその奏法をもし、根本から否定されたとしたら?

気持ちを推し量ることは、想像にしかすぎないけれど…。

彼が旅立ち、その音だけが残った今。耳に響く音は、あまりにも透明で。その透明すぎる完璧なフォルムが哀しみを誘う。年を重ねれば、誰でも色がつくはずだったから。その色がないまま、彼は旅立ってしまったのだと、否応もなく思い知らされる。駆け出して、そのまま行ってしまったことが悲しい。
その線は流れるように続いて、完璧で、でも色を持たない。この先、この技術に彼なりの彩りがつけられたなら、どんなに素敵だったろうかと、考えても詮無いことを、つい思ってしまう。

音を聴けば、いつでもあの薔薇の家と無垢な彼の笑顔が、胸をよぎるのである。

『わりなき恋』岸惠子 著 感想

『わりなき恋』岸惠子 著を読みました。以下、感想を書いていますがネタばれ含んでいますので、未読の方はご注意ください。

あまりにも主人公と著者である岸惠子さん自身が重なるので、これはもう小説というより岸さんの自伝なのかな~と思いつつ、わくわくしながら読みました。本が発売された頃には、相手の男性の名前も、具体的に取り沙汰されてましたし。

主人公、伊奈笙子は69才のドキュメンタリー作家で、お相手の男性は一回りも年下の会社員、九鬼(くき)兼太。最初の出会いは飛行機、ファーストクラスでの隣同士。

出会いの場面には、ぐいぐい引き込まれてしまいました。お互いに隣を気にする気持ち、それから「プラハの春」で話が一気に盛り上がり、心の垣根が取り払われていく過程。

そりゃあ好きになるだろうなあと。このときの九鬼はとてもスマートに描かれていて、かっこよかったです。笙子に対しての言動が、いちいち紳士でした。

そして九鬼の目に映る笙子が、とびきり新鮮に魅力的にみえたのも当然だと思いました。かつて遠い存在だった、自分とは違う世界の人。それが実際会ってみると、美しいだけではなく、プラハの春を語る唇からは、知識と意思と、興味深い過去があふれ出る。惹かれますよね。もっと話してみたい、と思っただろうし、話はいつまでも尽きなかっただろうし。

それは笙子にしても同じこと。放った言葉が、きれいに打ち返されてくる心地よさ。なかなかそういう相手に巡り会えることは、なかっただろうから。

九鬼の、別れ際のさりげなさも素敵でした。ふいっと消えてしまうと、余韻が残るから。笙子の中に、強い印象を残したのもうなずけます。

そして再会の演出もまた、ロマンチック。お店に、あらかじめ笙子へのプレゼントを託しておいたのですよ。小さな深紅の薔薇の花束。そして笙子の好きな銘柄の、チョコレート。

なぜ、そのチョコを選んだのか。それは、笙子が機内で5個ももらっていたのを見ていたから。好物なのをちゃんと、チェックしていたんですね。

でも、こういうことする人は間違いなくプレイボーイでしょう。遊び慣れてるのが透けてうかがえます。

>そうか、ぼくこういうの慣れていないんです

だとか、

>学生時代を通してもこんな手紙は書いたことがありません

だとか、

>これまでにこんなに愛したことはないんだ

だとか。

本の中に、「今までの人生で一番に、笙子だけを愛している」宣言が何度も出てくるのですが、これがもう嘘っぽくて、安っぽくて興ざめしました(゚ー゚;

本当にそうなら、絶対口に出さないよなあっていう。

笙子ほどの人が、どうしてそれに気付かないんだろうっていう。本当であればあるほど、言葉にするのをためらうはずなのになあ。

私がこの本の中で一番好きなのが、飛行機の中での二人の出会いでした。それを頂点に、どんどん盛り下がってしまうのが残念だったな…。

だって、その後の九鬼がちっともかっこよくないのです。それどころか、ずるい男の典型というか。なのになぜ、笙子がそれに気付こうともせず、二人の関係を「愛」という綺麗事に飾ってみせるのか。

想像ですけど。笙子の寂しさが、そして年齢を重ねたことによる自虐が、九鬼につけいる隙を与えたのかなあと思いました。

もし笙子が九鬼と、せめて同い年であったなら。私は笙子が、彼と深くつきあうことはなかったような気がしてなりません。

九鬼の、笙子に対する態度には傲慢さがあります。出会いのときはまだ、遠慮があったんですよね。だから、素敵だったけれど。

転換点になったのは、再会したときに額を合わせて笙子の熱をはかった瞬間。

このとき、二人の関係性が決まってしまったような気がします。笙子は、弱くなってしまった。無遠慮な行為を、咎めなかったから。

逆に九鬼は、自信を深めたのではないでしょうか。これはもう、大丈夫、みたいな(^-^;

私は、笙子が九鬼を本当に愛してたとは、思わないんですよね。出会いの場での一文。

>男は笙子の好みのタイプではなかった

もうこれが、すべてを表していると思いますよ。タイプでない、というのはもう決定的なことで。たとえそれが好感に変わったとしても。タイプでない、という原始的な感覚は、熱烈な恋や、どうしようもない感情には、変わりようがないのではないかと。

それなのになぜ、ずるずると二人はつきあったのか。愛というと、清いもののように響きますが、私はそんなに崇高なものでもなかったんじゃないかと、そう感じました。

まず、九鬼は笙子をどう思っていたか、についてですが。

そりゃあ、好きだったと思います。話していて、笙子のように話題が豊富で、刺激的な存在というのはなかなかいないでしょう。若くてきれいな女の子はたくさんいても、話が退屈なら飽きるのも早い。笙子は、九鬼の知的好奇心を満たしてくれる、貴重な女性だったと思います。

そして、国際的なドキュメンタリー作家という肩書きね。はっきりいってしまえば、笙子は岸惠子さんそのものだと思うので、ドキュメンタリー作家というより、昭和の大女優として考えてみると、九鬼の気持ちがより、見えてくると思うのですが。

九鬼の虚栄心は、大いに満たされたのではないかと。スクリーンの向こうにいた、誰にとっても遠い存在、憧れの大女優が、俺の愛人なんだぞっていう、ね。だからこそ、その関係をわりと、公にしてみせたんだと思うのです。

蘇州でも、デートに、自分の会社の支店長やその秘書を付き添わせるとか。もうこれは、自己顕示欲以外のなにものでもないと思いました。

そのくせ、支店長と笙子の話が弾んだら、嫉妬して不機嫌になり、無視攻撃とかね。なんて小さい人間なんだろうと、目が点になりました。自分が自慢したくて部下を連れてきたくせに。その部下と話が弾んだからって、無視ですか??

昔の岸惠子さんなら。(もう、笙子=惠子さんとして考えちゃってます。だってこれ、私小説みたいなものだと思う)

無視された時点でもう、九鬼をあっさり見限ったのではないですかね。ずいぶん失礼だもの。もうね、怒る価値もないと思います。だってそれが、九鬼という人の性格なのだし。そういう性格の人に、いくら怒ったところで考え方が変わるわけもない。怒るより先に、岸さんなら「あ、そ」とばかりに、荷物をまとめてさようなら。そういうさっぱりした、行動力のある女性ではなかったかと。

でも、この小説の中に描かれる笙子は、見ていて痛々しいのです。どうしてそんなに、九鬼にすがりつくんだろうっていう。

冷静に見て、あきらかに都合のいい女性になっちゃってるのに。

家庭は絶対に壊さない。でも愛しているのは君だけ、とか。そんな言葉、若い女性が信じるならともかく、笙子ほど人生経験重ねてきた人間が、それ単純に信じて喜ぶの?という。

九鬼の失礼なところはいろいろあるんですけど。まず、笙子の家にずうずうしく泊まりにいっちゃうところとかね。ちょっと食事して仲良くなったからって、女性ひとりの家に泊まりにいくかなあ、それなりの地位もある男性が。

まあ誘っちゃう笙子がそもそもおかしいのですが(;;;´Д`)ゝ

きっとさびしかったんでしょうね。でもこの誘いによって、見くびられたのは確かだと思います。もし見くびってなければ、九鬼は遠慮したでしょうから。

独身女性の家に泊まりにいくなんて。たとえ何もなかったとしても、もし悪い評判でもたてば、申し訳ない話ではないですか。相手を尊重する人なら、もう少しつきあいが深くなってからならともかく、まだ知り合ったばかりで、そういう行動には出ないはず。

まして九鬼は、妻帯者なのです。軽率な行動は、多くの人を傷付けてしまう。自分だけの気持ちでたやすく動けるような、無分別が許される立場ではないかと。

そして、たびたびかかってくる謎の着信とかね。笙子もうすうす気付いているようないないような、微妙な描写でしたが、あれは明らかに、女性からの電話。もしかしたら、妻からなのかも? もし笙子を本当に大事に思うなら、携帯は切っておくでしょう。会える時間は限られているのに。

笙子を不安にさせることをわかっていながら、最初から電源を切っておかないのは、それが九鬼の、笙子に対する本当の気持ちなのだと思います。言葉より雄弁に、物語ってる。

あと、笙子が大家族への強い憧れと、疎遠になった子供、血縁者が少ない寂しさを早い段階で率直に話しているのに対し、九鬼はわりと、自分の家の話を無神経に自慢しているのが思いやりのなさ=愛のなさ、だと思いました。

大切な相手だったら、その人が嫌がる話は避けますからね。

どうやったら喜んでくれるだろう。どんなことをしたら嫌われるだろうって。恋におちたら、まずそれを考えると思うのです。九鬼は、あくまで自分中心。九鬼にとって、笙子はしょせん、それだけの存在だった。

ということで、本を読み進めるにつれ、九鬼のずるさと、必死にすがりつく笙子の哀れさが際立ってきて、読むのがつらくなりました。

最後、笙子から別れを決めたのは、綺麗事でしょう。これ、実際には、九鬼が笙子に飽きてしまったんだと思います。ますます投げやりに、態度もぞんざいになっていく九鬼に、笙子がため息をついて、形としては笙子から別れを告げたと、現実はそういうことだったんだろうなあと。

お話としては美しいエンディングですが、そこにいたるまでには、よくある痴話喧嘩が、どれだけ、うんざりするほど繰り返されただろうかと、そんなことを想像してしまいました。すがる女性、逃げる男性。

最後には笙子も、これはもう駄目だと覚悟を決めて。

現実には、小説のような美しい別れなど、なかったでしょう。九鬼のそれまでの言動を見たら、想像がつきます。

年をとっても、こんなにも美しい恋ができる、というお話ではなく。

年をとったら、寂しいからといって変な相手にすがりつくのはあまりにも惨めだと。そんなお話だと思いました。

なぜこの小説を岸さんが書いたのか。復讐なのかなと思いました。それと、自分の体験を脚色し美化して書くことで、本当に愛されていた、純愛だったと信じたかったのかもしれません。

でも本当は、そっと自分の胸だけにしまっておいた方が、誰も傷付かなくてよかったのにと思ったりもします。相手にはご家族もいるわけで。

出会いの飛行機の描写だけが、きらきらと光って素敵な小説でした。後半はもう、むしろ読みたくなかったです。二人の出会いの輝きが、汚されるような気がしました。