オペラ座の怪人(映画)を語る その9

昨日の続きです。ネタバレありますので、映画未見の方はご注意ください。

考えてみると、ファントムはクリスティーヌの前で、わりと弱気な面を見せていますね。嫌われはしないかと、怯えて、臆病になっている表情が印象的です。たとえば最初に、地下のお城へクリスティーヌを連れてきたとき。気を失った彼女が目覚めて、作曲中らしきファントムに近付くシーン。照れて、ドキドキしているファントムの表情が可愛らしいです。一生懸命、なんでもないようなふりをしつつも、内心の嬉しさをこらえきれないというか。それでいて、彼女の反応に怯えているような感じもするし。「嫌われたくない」「醜いと思われたくない」そんなファントムの叫びが聞こえてきそうです。

あと、私の好きな場面なのですが、マスカレードでのファントムとクリスティーヌの対峙。まだ学ぶことはたくさんあるのだから、師の元へ帰れとせまるファントムなのですが、強気な言葉と裏腹に、クリスティーヌを見るその目の不安なこと。なんて悲しい、淋しそうな目で見るんだろうと思います。ラウルとのラブラブっぷりを見た後だからでしょうか。そんな、捨てられた子犬のような目で見られたらクリスティーヌだって、心が揺れますよ。言葉に出さなくても、「あなたが好きだ」という気持ちがどうしようもなく、ファントムの顔にあふれていました。

音楽の天使として、圧倒的な威厳と自信を持つ一方、クリスティーヌの前では弱い人になってしまうその二面性が、ファントムの魅力になっています。傲慢なだけの人間だったら、嫌味な人になってしまうから。この弱さが、母性本能をくすぐる点でもあるんです。いい大人なのに、少年のように見えてしまう瞬間がある。

ラウルとクリスティーヌはその後、自分の人生の中で何度もファントムを思い出したことでしょう。そのとき、なにを思ったか? クリスティーヌの場合、「もしファントムと暮らしたらどんな人生だったのか」とか、「あの後、ファントムは死んでしまったのだろうか」などということを、なにかの拍子にふっと、考えたりしたことでしょう。答えは出るはずもないのですが。

ラウルとクリスティーヌの生活が、幸せで愛に満ちたものであればあるほど、2人は心のどこかで、ファントムを哀れに思ったんじゃないかなと思います。気の毒で、胸が痛んだのではないでしょうか。クリスティーヌは音楽という絆でファントムを愛していたし、ラウルはラウルで、同じ女性を真剣に愛したという絆がありますから。

ラウルに関しては、彼が最初にファントムに抱いていた憎しみは、解放されて地上に戻った後では変化したんじゃないかなと思うんですよ。それは、ドンファンの勝利でのファントムとクリスティーヌの音楽の絆を目の当たりにしたことで、ラウルはファントムの愛を理解したから。言葉じゃなくて、どれほど2人が音楽を介して結ばれているかということを、知ったということです。自分には理解できない、踏み込めない領域での結びつきを知った。だから、ファントムがクリスティーヌにみせる執着を、「無理もない」と捉えたんではないでしょうか。

それと、ファントムは徹底的にクリスティーヌを守ったということ。この点に、ラウルは共感したんではないでしょうか。自分が彼女を大切に思うのと同様、ファントムもクリスティーヌを宝物として扱った。最終的には、クリスティーヌの幸せを願って彼女を、ライバルのラウルと共に地上へ送り出したのですから。自分のエゴで彼女を絡め取ることはしなかった。奪う愛でなく与える愛で包んだ。

同じ人を好きになる、ということは、ファントムとラウルには共通点があったということです。ファントムの背負った運命があまりにも重いものだったから、たくさんの人を巻き込んだ悲劇の物語になってしまいましたが、そうでなければ、その後の2人は仲良くなれたかもしれない。「お前、絶対クリスティーヌを幸せにしろよ。そうじゃなけりゃ、いつでも俺が駆けつけて、かっさらっていくからな」なんて、ラウルに念押しするファントムとか・・・・。

Learn to be lonely(除歌詞)を聞きながら、時間の流れはどんなに痛い思い出も、懐かしい記憶に変えるのかなあと考えていました。思い出したくないような、生々しい、鮮やかな記憶も、時間と共に姿を変えていくのかもしれません。痛い記憶が懐かしさに変わるなら、年をとることもあながち、悪いことばかりではないのかもしれない。

クリスティーヌの墓前のラウル。流れる音楽のやさしい音色。墓前に供えられた薔薇の、赤い確かな情熱。いい映画でした。たぶん、また見に行きます。

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