オペラ座の怪人(映画)を語る その10

映画「オペラ座の怪人」の感想です。以下、ネタバレ含んでいますので、未見の方はご注意ください。

ああ、ついにオペラ座の怪人の公開が終わってしまった。私がいつも行く映画館の話なので、他はもっと長くやっているのかもしれないけれど。

結局、私が見たのは5回。同じ映画を見た回数としては、一番多い。今までは、「千と千尋の神隠し」を3度見たのが最高だった。「オペラ座の怪人」は音楽が素晴らしいので、映像と合わせて、何度見ても感動した。

素晴らしい映画だっただけに、いくつかの欠点が本当に残念だった。それはやっぱり、マダム・ジリーのキャラ設定だ。まるでファントムの忠実な部下のような描き方。これはいただけない。マダムをファントムの共犯のような位置に置いてしまうと、映画の内容が変わってきてしまう。そもそも、ファントムが孤独という設定が台無しになる。

サーカス団から逃げ出したファントムを匿い、なにかと手助けしてきたのがマダムなら、ファントムは孤独ではなくなる。それに、小さな頃からああして見世物にされ、その後はオペラ座の地下で孤独に暮らしてきたファントムが、音楽に卓越した才能を発揮するのは、少し無理があるような。

原作のファントムは、ペルシアで宮殿建築に携わったり、奇術を披露したり、さまざまな分野でその天才ぶりを王様に認められた。王様はパトロンとして、ファントムの知識欲を十分に満たすような援助をしただろうし、ファントムの元々の資質が、勉強と実技でさらに磨かれたであろうことは想像に難くない。

そして、裏切りがあった。愛してくれ、認めてくれたはずの人に命を狙われるということ。また惨めな日陰の生活に逆戻り、そのときのファントムの絶望。自分には、幸福で平凡な日常はないのだという諦め。

このときの経験がなければ、ファントムはオペラを書くことはできなかったと思うのです。技術的にも、情熱という点でも。ずっと地下の狭い世界で暮らした人に、世間の人々の心を動かす曲なんて、書けないと思う。そういう意味で、映画の中のマダム・ジリーの告白はとても違和感があった。あのシーンは、まるごと削除してほしかった。その分、きらびやかなペルシアでの生活シーンを入れてくれたらよかったのにと思う。退廃的な映像が見たかったです。美を追い求めたファントムの、試行錯誤の日々。酔ったように思いのままに、美を追求するファントムの姿が見たかった。

私、映画の中で、このマダムの告白のシーンだけは、目を閉じてしまっていました。長い映画なので目が疲れることもあり、私の休憩ポイントでした。本当に、ここのシーンは余計ですし、思わせぶりなマダムの登場シーンはすべて、要らない。ファントムのよき理解者である、マダム・ジリーという位置付けは、原作のよさを損ねてしまっていると思う。この映画の映像センス、音楽センスは大好きだけど、この点だけは不思議です。どうしてマダムをこういうポジションにしてしまったんだろう。

決闘シーンで、実際にファントムとラウルが剣を交える、というのも余計ですね。日影の存在であるファントムが、正々堂々と決闘するという時点で、なにかが違うと思う。負けてしまうところがまた、どうにも納得いきません。

よかったのはオープニングの、シャンデリアが上がって、時代が遡っていくシーン。音楽と映像の妙に、ただただ、うっとり。そこからつながる、オペラ座の舞台裏の猥雑な雰囲気。とてもリアルで、本当にその場に自分がいるような錯覚にとらわれるくらいでした。踊り子たちの楽屋をそっと覗いているような、ドキドキする映像。

そして豪華絢爛、マスカレード。圧巻です。名のあるダンサーなのでしょう、動きがきびきびしていて、どこにも無駄がなくて、見惚れました。

映画には本当に感動しましたが、その一方で私は、劇団四季の舞台をまた見に行こうという気にはならなかったのです。その理由を、自分なりに考えてみました。どう考えても、一番の理由は、「ファントムを愛していないクリスティーヌ、クリスティーヌを愛していないファントム」にあったとしか思えません。

初めて舞台で見たときのあの失望感は、じわじわ、後から本格的にやってきたような気がします。ファントムとクリスティーヌの間に愛情がなかったら、この物語は成立しないです。身を引き裂かれるようなファントムの叫びこそ、The point of no return なのです。ファントムがクリスに執着しなかったら、この歌はただの歌。なんの感動もない。そしてクリスティーヌがファントムを愛さなかったら、ラウル、ファントム、クリスティーヌの三人が同時に歌う最後のシーンは、観客の心になにも訴えかけないでしょう。

たしか、パーフェクトガイドだったと思います。インタビュー記事が載っていました。劇団四季でファントム役の高井さんが、「なぜクリスティーヌは最後にファントムを選ばなかったか不思議」と言ったのに対し、クリスティーヌ役の佐渡さんは、「絶句」したようで。この佐渡さんの感覚が、あの舞台の全てを表していたんだなあと思うのです。

佐渡さんには、ファントムにどうしようもなく魅了されたクリスティーヌの気持ちがわからなかった? たしかに、私が見た舞台では、佐渡クリスは石丸ラウルとラブラブで、ファントムは蚊帳の外、という感じでした。独り相撲のファントム。いえ、独り相撲というより、そういうクリスティーヌを愛するというのは、かなり難しい作業だったんではないでしょうか? もし私がファントムだったら・・・・たぶん、佐渡クリスティーヌを好きになることはなかったと思う。

こういうのは、感性というか、個性の問題なのだ。ファントムのよさがわからない人に、無理にわかれ、愛せよといっても、嘘になってしまう。同じものを見ても、人の捉えかたはそれぞれで、それこそ好みだと思う。

言葉で説明することはうまくできないけれど、惹かれる、魅惑される、という感覚。それをファントムに感じることができないクリスティーヌは、決してファントムに愛されることはないでしょう。

その点、映画の3人はそれぞれ、うまく演じていたと思うのです。少なくともあの撮影期間中は、本当の愛情のようなものを互いに感じていたと思う。ファントムとクリスティーヌが見つめあう時に流れる空気だったり、ドンファンの勝利で2人を見つめるラウルの涙に、それはたしかに、表れていた。だからせつなくて、観客は泣くのです。私が舞台では泣けなかったのに映画で泣いたのは、愛があるかないかの違いだったと思う。

本当なら、舞台の方がより、感動は大きいものなのですけれどね。生の声が伝えるものは、映像よりもリアルだと思うので。声に感情が乗っていたなら、それだけでオペラ座の怪人の世界に酔いしれることができたのに、残念です。クリスティーヌ役が別の人に代わったら、少しは見てみたいとは思うけど、でもやっぱりやめておきます。佐渡クリスでOKを出したのは演出がそういう感性だったと思うし、だとしたらその演出と私の感性は違うものだから。

オペラ座の怪人は、私にとって忘れられない映画の一つになりました。

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