お前こそ許された奇跡だ

 タイトルは、『ダンス・オブ・ヴァンパイア』の中の、お気に入りの台詞です。「お前こそ許された奇跡だ」って、すごいインパクト。でも言いえて妙。

 以下、舞台『ダンス・オブ・ヴァンパイア』に関するネタバレの記述も含みますので、舞台を未見の方はご注意ください。

 

 伯爵がサラに向かって言うこの台詞。サラに心を動かされた伯爵の、素直な気持ちが表現されていると思う。誰かを好きになったとき、それは一つの「奇跡」だから。結果的にサラは伯爵の「運命」ではなかったけれど、伯爵がサラのなかに光るものを見て、血を吸う衝動にかられたのは確か。

 人の心って面白いもので、なにが好きでなにが嫌いか、なにを心地よいと感じなにを不快と思うか、それって、コントロールできないものなんだよね。

 

 誰に強制されるわけでもない。気がつくと好きになってたという事実。どこが、という具体的なものがあるわけではない。たとえば顔だったり、しぐさだったり、それを他人が持ちえたとしても、やっぱり違うんだな。その人にしかないもの。その人特有のもの。空気というか、存在そのものが特別。そんな感情を持てる相手にめぐり合えたら、それはもう奇跡以外のなにものでもない。

 伯爵はだから、意識的か無意識にかわからないけれど、「お前こそ許された奇跡だ」という言葉の中に、神様への敬意をこめていると思う。敵わない存在だと認めてる。敬服と、それから感謝と。許された=神の祝福、恩恵、そして奇跡=貴重な存在、やっと出会えた喜び。

 なんだかとても人間的な伯爵様なのです。その人間臭さに共感する。ヴァンパイアになる前は人間だったのだから、人間らしさが残っていてもおかしくはないのだけれど。

 伯爵は、心と体が乖離する苦しさを抱えていると思う。

 心までヴァンパイアになりきれてしまったら。人間的な心を全部捨てて、完全無慈悲な吸血鬼になれてしまえたら。ロボットのようにすべての感情をなくしてしまえたら。もっと楽に生きられるのに。

 誰かを愛しいと思う心があれば、それは喜びであると共に長い苦悩の始まり。輝く髪の娘を失った罪の意識から、いつまでたっても自由になれない。

 もしかしたら、1617年の娘を失ったのは、伯爵の無意識の力なのかもしれないと思いました。あのとき、伯爵は本当は自ら娘を失うことを望んでいたのではないかと。恐らく、自分が吸血鬼であるという自覚はあったでしょう。そんな自分が恋におちたとしたら。

 相手を自分と同じ吸血鬼にしたいと思うでしょうか?伯爵は吸血鬼である自分の運命を受け入れていた?私にはそうは思えません。ヴァンパイアな自分を認めたくなかっただろうし、永遠の命を幸福と思うほど、単純な人だったとは思わない。

 不幸にしたくない。だけど他の人にはとられたくない。自分だけのものにしたい。ずっと記憶にとどめたい。綺麗な娘。この腕の中で、幸福そうに微笑む暖かな体。自分にはない体温。命のぬくもり。

 伯爵はなにを考えただろう、と思います。

 時は流れて、牧師の娘。1730年ということは、輝く髪の娘の一件から100年以上経ってます。吸血鬼にとってはあっという間かもしれませんが、その気になれば手当たり次第人間を襲うことが可能であった伯爵が、その100年、どう過ごしたかを考えると興味深いですね。

 やっとめぐり合えた牧師の娘。その白い肌に、赤い血で詩を書いた伯爵。なにを書いたんだろう?

 パッと思いついたのは、Don’t go もしくは Don’t leave me alone です。伯爵の母国語が英語ではないのはわかっていますが、なんとなくこの言葉がしっくりくるかなあと。

 もう失いたくない、と思っていたでしょう。寂しさは十分味わっていただろうし、一度手に入れた幸福を失うつらさは、もう経験済みだろうから。

 ただ、なんだろうなあ。きっとあの輝く髪の娘ほどには、愛してなかった気がします。なんとなく。

 「お前こそ許された奇跡だ」という、伯爵の台詞は真摯で、傲慢さを感じません。心を動かされる神秘に、自分ではどうしようもできない衝動に、敬服している。

 サラの赤いドレスを前に、わずかな時間だけでも、伯爵は幸福を感じたのかなあと思います。

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