クロロック伯爵と金の髪の娘~その1

 2006年に帝国劇場で上演されたミュージカル、『ダンス・オブ・ヴァンパイア』は傑作でした。山田和也さんの演出を尊敬します。オープニングとエンディングの演出は特に、よく考えついたなあと感心するばかりです。

 『抑えがたい欲望』を歌うクロロック伯爵の迫力に触発されて、短編を書きました。歌詞の一部からイメージをふくらませて書いてます。私があの歌から想像したのはこんな情景でした。以下、この演目のネタバレを含んでいる可能性がありますので、舞台を未見の方はご注意ください。

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 ディートリンネの上気した肌を、クロロックはそっと撫でた。目の前にある愛しい存在の不可思議さに触れて、彼の心臓は早鐘を打ち始める。鎖骨の窪み、そして首筋の優雅な曲線。ディートリンネの滑らかな肌は、まるで陶器のように光る。指先でなぞると、薄い肌の下には確かに、命が息づいている。

「ディートリンネ」

何を言おうとしたのか、わからない。ただ、ディートリンネを抱きしめてそう呼ばずにはいられなかった。答えて欲しかった。愛しいディートリンネ。お前は確かに今、ここにいるのだと。

伯爵の腕に抱かれて、陶酔したように目を閉じていたディートリンネだったが、声を聞いてうっすらと目を開けた。

「伯爵さま?」

 太陽は優しい光を投げかけていた。5月の光と風は、恋人たちを柔らかく包み込んでいた。フリージアの甘い香りがする。辺りには人影もなく、ただ、小鳥のさえずりと小川のせせらぎだけが聞こえた。緑が、目に眩しい。全てがエネルギーに満ちていた。やがて花を咲かせようとする植物たちの競演。初夏独特の、命に満ちたその空気。

 この娘を愛している、と彼は思った。確かに、自分は今この瞬間、この娘に心を囚われ、この娘が手に入るならなにを犠牲にしても構わないとそう思っている。この娘が愛しい。愛しくてたまらない。細胞の一つ一つがそう叫んでいる。溶け合いたい。私達は一つの存在だと。

 ブロンドの巻毛に顔をうずめた。太陽の匂い、干草の匂いがする。幼い頃、よく遊んだあの小屋にあった干草だ。寝転がると不思議に安らぐ、あの懐かしい匂い。

 おお神よ! すべてが完璧です。あなたを讃えます。あなたの造り給いし人間の、なんと愛おしいことか!

 あの夜の出来事は、やはり夢に過ぎなかったのでしょう。寝苦しい夜の、幻覚だったに違いありません。私に血の刻印をつけたあの女の邪悪な笑いは、今も心に残っているけれど、だけれど。

 伯爵の脳裏に、消えることのない嫌な情景が蘇った。

 その女は氷のような冷たい肌をしていた。瞳の奥には底知れぬ悪意が見てとれた。女は薄絹の衣を軽く床にひきずっていて、そのかすかな音さえも耳に残るような静寂の中に、2人はいた。

 「冷たいな」

 思わず呟いた不満げな彼の言葉に、女の唇から、フっという嘲笑めいた音が漏れた。

「クロロック。お前は私を忘れないだろうよ。この冷たい温度も含めて、お前は永遠に私を忘れまい。そのことに気付くのはずっと後だろうがね。いつかお前が本当に愛する娘に出会ったときに」

 女は伯爵の手を掴み、すっと自分の心臓の位置に押し当てた。

「確かめてごらん。これが、お前の運命」

そのとき、クロロックの頭にはぼんやりと霞がかかっており、上手く思考をまとめることは難しかった。フワリと突然現れた女が何故、伯爵である自分に横柄な口を利くのか、何故自分は逆らえぬままその女と抱き合っているのか。ただわかるのは、その肌の底なしの冷たさ。触れた部分から容赦なく体温を奪っていく。暑さにうんざりしていたのはつい先刻のような気がするのに。

 女の手に導かれるまま、彼は女の心臓に掌を押し当てる格好になる。すっと、伯爵の血の気が引いた。

 どうしたことだ。

 なにも感じない。人間なら誰しもが持っている命の源。その確かな鼓動が、この女にはない。

「怖くはないよ。怖いものなど、なにもなくなるのさ。もっといいものを手に入れるんだからね。幸せなことだよ」

女の唇は、妙に赤く、艶かしい。

「ようこそ。我々の世界へ」

伯爵は、女の唇が歓迎の言葉を紡ぎだすのを見た。その唇が、ゆっくりと近付いてくる。本能が危険を告げているのに、体は全く動かない。背中を嫌な汗が伝う感覚があった。やめろ、やめろ、やめろ、心でそう叫ぶのに、体は石化したようにコントロールが効かない。これが自分の体なのか?何故動けない?

 首筋に鋭い痛みが走った。

 噛まれたのか? 次の瞬間、意識が遠のいた。視界がぼやけ、色を失う。ただ女の狂ったような笑い声だけが、いつまでも響いていたのを覚えている。邪悪な、地の底から響くような笑いだった。全身が粟立つような感覚があった。そして全てが暗転する。

 嫌な思い出から逃げるように、伯爵は首を振った。

 やめよう。悪夢に捉われてどうする。終わったことだ。あの熱帯夜がみせた夢の一つなのだ。月のない、真の闇夜だった。目覚めたとき、肌に刻まれていた赤い奇妙な紋章。あれも、恐らく単なる痣だ。おおかた寝返りでもうったときに、寝台の端にでもぶつけたのだろう。それが偶然奇妙な形であったから、妙なことを連想してしまったのだ。

 あの夜の、蝋燭の光さえ覆い隠すうっそうとした暗闇に比べて、今日のこの眩さはどうだろう?

 太陽は輝き、私達は祝福の中にいる。私の腕の中にあるディートリンネの温かさ。彼女こそ本物だ。これが真実なのだ、現実なのだ。あのときの夢など、幻想にすぎない。そうだろう?ディートリンネ。

「ディートリンネ、眠いのか?」

伯爵の腕の中で、ディートリンネは目を閉じたままだ。昨日は祭りの準備で夜遅くまで働きづめだったのだろう。

「すみません、私なんだか、あまり心地よくて」

伯爵の言葉に、夢から引き戻されたように、ディートリンネは目を開けた。

「横になろう。その方が体も休まる」

 伯爵の言葉に、ディートリンネは頬を染め、こっくりとうなずいた。2人は、若草の上に各々身を横たえた。抜けるような青い空がどこまでも広がっている。白い雲が、風に吹かれてゆっくりと形を変えていくのが見えた。彼は娘の手を握り、大の字になって初夏の陽射しを心行くまで享受する。

 世界は私のものだ、と、ふいに彼はそんなことを思った。

 やがて、隣から規則正しい寝息が聞こえてくる。ディートリンネは、うとうと眠り込んでしまったのか。伯爵は半身を起こし、午睡の夢の中にいる純朴な娘の寝顔を見詰めた。なんと無防備で、邪気のない表情であろうか。自分を信用しきって夢をみているディートリンネの細い眉、長い睫、柔らかな唇。

 白い肌に、黄金の巻毛がかかっているのを、伯爵は指先で優しく払ってやった。その次の瞬間、どうしても彼女の温かな体を抱きしめずにはいられない欲望が、体中を突き抜けた。その欲望の強烈な力は、伯爵にためらう隙を与えなかった。彼は夢中で、本能のままディートリンネの首筋に牙を立てていた。

 「何をやっているのだ」

 夢中になって娘の血を貪り、どれくらいの時間が経っただろう。

 気がつけば、ディートリンネの体はゆっくりと、体温を失っていこうとしていた。抱きしめれば抱きしめるほど、燃えるような熱さを持ったディートリンネの体が。今ゆっくりと、その熱は失われ、代わりに忍びこむのは紛れもない、死の影。

 伯爵は呆然と、ディートリンネの顔を見た。まさかそんな。いったい自分は彼女に何をしたのだ。ディートリンネを失おうとしている恐怖の中、しかしその一方で、彼は自分の体内に美酒が回り始めるのを感じた。ディートリンネの命が、今私の中にある。それは奇妙な、しかし強烈な快楽。果てのない飢餓感が、やっと報われたという酩酊。

 相反する感情に、心を真っ二つに引き裂かれ、伯爵は自分でも知らぬうちに涙を流していた。

 行かないでディートリンネ。私の知らない世界に行ってしまわないでくれ。

 無意識に、自分の胸に手を当てる。伯爵は色を失った。あるべきはずの鼓動が、ない。一体どうしたというのだ、これではまるで・・・・吸血鬼。

 国に古くから伝わる吸血鬼の伝説。まさかそんなことが。そうさ、よりによってこの身に起こるなどと、馬鹿げてる。

 明るい5月の陽光はそのままに、周囲の温度がふっと、下がった。伯爵は悟った。自分を巡る世界がまるで変わってしまったということを。いや、正確に言うならば、変わったのは自分なのだ。自分はもはや、この暖かい平和な陽射しとは真逆の世界へ、足を踏み入れてしまったのだ。冷たい、氷のようなものが体に巣くい始めた。それはみるみるうちに広がり、やがて伯爵自身を覆い尽くした。

 ディートリンネは、なにもわからぬかのように目を閉じていた。唇に微笑みをたたえて、楽しい夢でもみているように。

「どうしたんです、伯爵さま?」

そう言って起き上がる愛しい娘の姿を、絶望の中で彼は必死に願った。だが現実の娘は、伯爵の腕に抱かれてピクリとも動かない。その腕に、わずかに感じられる温もりでさえ、命の抜け殻に過ぎなかった。もうどこにもディートリンネはいない。誰よりも伯爵自身が、そのことを知っていた。

 物言わぬディートリンネの頬に、伯爵の涙が落ちた。

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長くなったので、続きはまた後日。

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