違う世界に住む人たち~共感覚~

 テレビで、人間の脳について扱っている番組を見た。その中で、「共感覚」が取り上げられていた。共感覚とは、ある感覚の刺激によって、別の知覚が同時に起こってしまうという不思議な現象。たとえば、数字を見るとそれに色がついて見えるだとか、音楽を聴いたときに色が見えてしまうだとか。そういうことだ。

 「見えるような気がする」レベルではなく、本当に「見える」ので、どんな共感覚を持つかによっては、日常生活に支障をきたすこともあるという。

 番組の中でとりあげられていたのは外国人の男性。彼はなんと、言葉と味が結びついてしまう、驚きの共感覚の持ち主だった。彼にとって、日本という言葉はポテトチップスの味だという。そう、それが彼の住んでいる「世界」なのだ。

 家の中を青で統一した彼。青は、インクの味がするのだが、彼にとっては好ましい味らしい。そして一歩外へ出れば、混沌とした情報の渦に否応もなく巻き込まれてしまうわけで。

 そのせいで、彼は人とあまり接しない道を常に選んできたという。仕事も、彼の持つ奇妙な共感覚が邪魔となり、転々としたとのこと。

 彼はグミを大量に用意していて、おかしな味が口の中に広がったときには、それを食べて中和させるのだという。一日に食べる量は、相当なものだ。体にも悪そうだし、彼の顔は、幸せそうにはみえなかった。深い苦悩の色が、うかんでいた。

 しかし私が一番驚いたのは、彼がある女性と暮らし始めたという事実だった。そのために彼は、家の中に用意していた青いものを捨て、彼女との生活のために家を改装する。

 彼女は、特別に変わった人には見えなかった。ごく普通の人。年代も彼と同じ位で、彼女は共感覚を持ち合わせていない。つまり、彼が彼女を選んだのは、「同じ痛みをわかちあえるという安らぎ」ではなかった。

 私は番組を見ているときに、彼は一生独りだろうなと思っていた。この特殊な個性では、人と暮らすのは無理。他人の振る舞い、いえそれ以前に、他人の存在そのものが、彼に味をもたらしてしまうんだもの。

 好きな相手と一緒にいて、その人のことを思うだけで。

 どんなにたくさんの味がやってくるんだろう。そして、複数の味は、とどまることなく、次々に発生し続ける。だって、相手が好きなら、その人のことを考えずにはいられないわけで。それで実際にその人がそばにいるというインパクトがあり、そのことがもたらす味はそりゃあもう、すごいカオスになりそうだ。

 なのに、彼は自分が一緒にいたいと思える相手を見つけた。これはすごいことだと思う。他人の存在が、彼を苦しめない。苦しめないどころか、安らぎを与えるなんて。言葉が味に変わる彼にとって、これは奇跡じゃないだろうか。

 彼女の存在すべてが、甘美な味に変わるのだ。

 そうでなければ、彼は彼女を選ばなかったはず。彼にとっての彼女は、まさに奇跡の人。他の誰にも代わることのできない、貴重な存在。

 すごいなあ、とため息。絶対無理だと思ったのに。一生、暗くて静かな中で生活することしか、安らぎの道は残されていないと思ったのに。彼にぴったり合う人がひょっこり現れるとは。

 その番組では、他にも人間の脳の不思議について、実例を交えてコメンテーターが語っていた。つくづく、人間の脳は、おもしろい。感覚はすべて、脳がもたらすものだから。実存というより主観なのだとあらためて思う。

 そこに実在するものが問題なのではなくて。そこに実在するものに触れたときの、各自の反応が、悲劇と喜劇の分かれ目なのだ。

 脳の中の回路。どうつながっているのか。そこから「心」が生まれているんだろうか。

 番組の中で、麻木久仁子さんが、「やる気はどこからくるんでしょうか」と学者に聞いていたのが印象深かった。私もまさに、それを聞いてみたいと思っていたところだったのだ。

 答えは、「成功体験」とのこと。

 成功したときの喜びや達成感が、次の行動への動機付けとなるらしい。同じ事を、以前講演会で別の人から聞いたなあと、思い出した。

 今回の番組の中で、記憶力が異常に優れている男性(既に故人)も紹介されていて、こんな悲劇があるんだろうかと、同情してしまった。

 人生のすべてを記憶し続けるなんて・・・。忘れられるから、生きていけるのだと思う。忘れられないなんて、こんな残酷な話はない。

 私はとっさに、永遠の命を生きる『ダンス・オブ・ヴァンパイア』の伯爵と、どちらがつらいだろうと、そんなことを考えてしまった。以前見た舞台の、登場人物である。伯爵には、特別な記憶力などない。ただし、永遠の人生を生きる運命を負っている。

 いろいろと、興味深い番組でした。地上波のテレビは最近クイズ番組が多くてつまらなかったのですが、これはヒットです。こういう番組を、もっと作ってほしいと思いました。

『レベッカ』を語る(昨日の続き)

昨日のブログに書いた『レベッカ』感想の続きです。ネタバレ含んでいますので、未見の方はご注意ください。

マキシムが、「わたし」に罪悪感を告白するシーンが、印象的でした。

>きみと結婚したのは、あまりに自分勝手だったかもしれない

このセリフ以外にも、こんなことを言っています。

>ことを急いて、よく考える暇も与えなかった

マキシムの目に、「わたし」はあまりにも若く、無防備に見えたのかもしれません。そしてマキシム自身、「わたし」を愛して、恋におちて結婚を決めたわけではなかったから。愛を信じきっている「わたし」を前に、戸惑いを覚えたのかもしれません。

もう少し「わたし」の視野が広ければ。もう少し時間をかければ、自分以上に「わたし」にふさわしく、「わたし」を幸せにできる同年代の青年が現れたかもしれない。そうすれば「わたし」はなにも、こんなに年の離れた、汚れた手を持つ自分を選ばない自由があったのに。マキシムの罪悪感は、大きくなるばかりです。

マキシムは結局、「わたし」と一緒にいることで、自分の心の痛みがやわらぐから、結婚を提案したんですよね。後に、レベッカの死の秘密を共有するようになってからは、本当の意味での愛が生まれたと思っていますが。少なくとも最初のうちは、マキシムの結婚には打算の色が濃くて。

同じほど「わたし」が狡猾であれば、お互い様と思えたのでしょうが、マキシムの前にいる「わたし」はあまりに無邪気で。

でもね、このセリフはいけませんよ。

>きみがぼくたちが幸せだと言うなら、そういうことにしておこう。

あーこれ駄目です。絶対駄目。女性にこの言葉は、厳禁です。相手を思いやる言葉のようでいて、ぐっさり心をえぐる言葉なのです。

あなたは幸せじゃないの?つまり、そういうことなのね・・・と思ってしまうから。

ちょっとレベルは違うけど、「晩ご飯なにが食べたい?」という問いに、「なんでもいい」と答えられたときだったり。「どっちが似合う?」という言葉に、「どっちも同じ」と返されたときと同じ、失望です。

聞きたいのは、大好きなその人が喜んでいるという、その言葉なんですから。

喜ばせたいのです。「なんでもいい」と言われれば、どちらにせよ、私ではあなたを喜ばせることはできないのね・・・と思ってしまうのです。

言葉でなくても、目のちょっとした表情でマキシムの満足感を感じ取れたなら、「わたし」はこんなにも絶望しなかったでしょうけども。マキシムはいつも、レベッカの幻影に囚われて、その幻影越しにしか、「わたし」を見ることはなかったから。「わたし」が不安になるのも無理はないと思いました。まして、決定的なこの言葉。

マキシムはマキシムで、気を遣ってるし、マキシムなりの思いやりから出た言葉なんですけどね。しかしこの時点では、そんなマキシムの事情なんて知る由もないのですから、当然「わたし」は落ちこみます。

読者はこの時点で、マキシムが抱える秘密を知りません。だから、「わたし」の気持ちがよくわかります。そして一度全部読んでしまった後で、再びこの箇所を読み返して、初めてマキシムの示す優しさに気付くのです。

マキシムが自己中心的な男性だったら、自己嫌悪なんて感じずに、うまく「わたし」をあしらったでしょう。それができないマキシムの、そういうところが私は好きです。

お互いに真に相手を思いあっていたなら。誤解はいつかはとけるのだなあと思いました。たとえ時間はかかっても、いつかはわかりあえる。本当に心から、相手を愛しく、大事に思ったなら。すれ違った心も、いつか溶けあうことがあるのだと。

『レベッカ』は、相手の心が見えない不安を、うまく描いた作品だなと思いました。

『レベッカ』茅野美ど里訳のいいところ 

小説『レベッカ』の感想です。ネタバレを含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

昨日のブログでは大久保康雄訳と、茅野美ど里訳を比較し、私は結局大久保訳の方が好みだという結論を書きました。でも、茅野訳にもいいところがあります。

それはなんといっても、読みやすさ。堅苦しくないので、さらさらっと読めますね。

それと、訳とは関係ないのですが、本の装丁は茅野版(単行本)の方がいい感じです。暗い部屋に、わずかに光が差している写真。ほんの少しだけ、外界に向けて開かれているだろう窓から入る、新鮮な空気の匂い。ぼんやりとうかびあがるソファ。カーテンタッセルの鈍い金色。

きっと窓辺に立てば、海が見えるのでしょう。静かな室内。レベッカの気配を色濃く残した、時間のとまる部屋。

装丁は、断然、茅野版(単行本)に軍配が上がります。大久保版は、私が読んだのは文庫だったのですが、抽象的なマンダレイの屋敷内?の絵のようで、ピンときません。絵とよぶのもどうかな?というような、銀色の線の書きなぐりというか。

よく目を凝らせば、その線はシャンデリア、階段、仮装舞踏会の招待客を描いているようにも見えますが、あんまり抽象的すぎて、想像がふくらみません。

その点、茅野版の写真には、マンダレイのお屋敷の一部をリアルに感じることができます。あの部屋の中に立ったなら、どんな気持ちがするでしょう。懐かしいような、せつないような、不思議な気持ちになりそうです。

茅野美ど里さんの訳は現代的で、かなり読みやすかったです。あらためて『レベッカ』を読み通しました。正直、原文や大久保訳を読んだときには、読みづらく感じた部分は多少雑に読み飛ばしてしまったので。茅野さんの文章だと、そんなことはなく、すべてスラスラと読めました。

訳者略歴を読んで、なんとなく納得です。茅野さんは、アメリカで生活していた時期があったのですね。ヨーロッパでなくアメリカでの生活ということで、それが文章にも表れているような気がしました。太陽が似合う、明るいイメージです。

マキシムの口調も、アメリカの青年っぽい感じだと思いました。

マキシムが「わたし」を選んだ一つの理由には、「御しやすさ」があったのかもしれないですね。御しやすさは、安心感につながります。こう書くと、マキシムがいやらしい人間のようにも響いてしまうかもしれませんが。

あまりにも聡くて、相手の心をわかりすぎてしまう女性だったら。疲れてしまうだろうし、マキシムの心にある秘密をたやすく暴かれてしまいそうで。

だからマキシムはモンテカルロの食堂で、「わたし」の純朴さと、物事を見抜く目の、経験値のなさに惹かれたのかもしれません。

やがて「わたし」がたくさんのことを経験し、一つずつ年をとっていけば、いつかは女性特有の勘も、処世術も磨かれていくのでしょうけども。あのときマキシムの前にいた「わたし」はウブで、生まれたてのヒヨコのように見えたのかもしれません。この女性なら、自分の心深くしまいこんだあの痛む傷口に、気付くことはない、探りをいれることはない、と、マキシムの防御本能が囁いたのかも。

そして、ふしだらさとは対極の位置にいたということ。ふしだらの意味さえ知らないように、その清純さが輝いて見えたのでしょう。このことについては、後にマキシム自身が、「わたし」に語り聞かせていましたね。

>ぼくとしてもきみには知らないでいてほしいことがあるんだ。

>教えたくないから鍵をかけておきたいんだよ。

結婚を決めた理由が、そこにもあったのだと、マキシムは言っていました。この気持ちは、わかるような気がします。レベッカとの暮らしに疲れ果ててしまったからこそ、「わたし」の無知な部分に、安らぎを求めたのですよね。

だから、余計な知識などつけてほしくない。あのレベッカと同じ表情を浮かべて、同じ振る舞いをする日が来ないでほしいと。

マキシムには、「わたし」のすべてが見えていた。少なくとも、結婚の時点では。そして、そのまま変わらないでほしいと願う。自分の知らない「わたし」が垣間見える瞬間を、ひどく恐れてる。もしかしたら「わたし」が無垢であるのは、若さというそれだけの理由ではないかという気持ちがあって。

蛹が蝶になるように、どんなに注意深くしていても、その変身は静かに、確実に起こっているのではないかと。おびえるマキシムの心は、よけいに頑丈な鎧をまとうから、そのことがかえって、「わたし」の不安を煽る。そして、2人の心はすれ違っていく。

長くなりましたので、続きは後日。

『レベッカ』訳者によって、マキシムは別人になる

 昨日のブログに書いた「マキシム扮装の動画」があまりに素敵だったため、それに触発されて、小説『レベッカ』の日本語訳を、読み比べてみました。日本では、大久保康雄さんの訳と、茅野美ど里さんの訳と、2種類の翻訳本が出版されています。以下、ネタバレを含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

 大久保康雄さんの訳を読みましたが、原文で読んだときの淡々としたイメージがそのままで、違和感が全くありませんでした。英語だからとか、日本語だからという枠を超えて、原作の香がそのまま訳されているように感じました。

 『レベッカ』という作品。私は、湿度の低さを感じるんですよね。じめーっとしてない。乾燥している。冒頭、延々とマンダレイの記述が続くのですが、それは決して、陰鬱とした日陰の植物のイメージではなくて。

 そして主人公の「わたし」も、涙からは遠い位置にいる。メソメソしてない。

 彼女が泣くときは、涙はただ流れ落ちるのみで。その涙を武器にする姑息さも、いつまでも誰かの腕にぶらさがろうとする執拗さも、なくて。

 そんな「わたし」の、べたつかない心地よさを、うまく表した文章だと思いました。簡素といえば簡素。でも、必要な要素は全部つめられていて、なにげなく、しかし全部が。きれいに、丁寧に整えられている。

 対する茅野美ど里さんの訳は、大久保さんの役よりもやや湿り気があるイメージ。大久保さんよりも現代的で、原作にやや、ドラマチックで派手な要素を加えた感がありました。

 どちらの訳が好みかは、人によって分かれると思います。

 私は断然、大久保さん派です。

 この、原作と同じ、淡々とした雰囲気がいいのです。停滞することなく、指の間から砂がこぼれおちるように、ただ粛々と、登場人物たちが踊っている感じ。

 二人の訳者の対照的な部分といえば、たとえばこの箇所などは典型的です。

【大久保訳】

>そして身をかがめて、わたしのひたいに接吻した。

>「けっして黒繻子の衣装なんて着ないと約束なさい」

【茅野訳】

>身をかがめて頭のてっぺんにキスした。

>「黒いサテンのドレスなんて絶対着ないって約束してくれ」

 この部分を読めば、二人の訳者のカラーがわかると思います。私は大久保さんの、距離感のあるマキシムの描写が好きです。距離感です。マキシムは決して、「わたし」に不用意に近寄ろうとはしない。マキシムの前に引かれた見えない一線は、他者の立ち入りを許さない。誰かがそれを超えようとすれば、二度と彼は、愛想以上の笑みを、その人に見せようとはしないでしょう。

 貴族ということも、年長であるということも。「わたし」の目からみたマキシムをよけいに、遠い存在にさせていたはずです。だから、言葉遣いも大事だと思うんです。

 マキシムは親しい口調で「わたし」に話しかけることはなかったと、そう思います。あくまで一人のレディに対するように。敬意をこめて、よそよそしく。

 マキシムの前に引かれた見えない一本の線は、他者の立ち入りを拒むためだけのものではありません。マキシム自身が、他者の聖域に侵入しないための目印でもあるのだと思います。だから、マキシムはあくまで一定の距離を崩すことなく、「わたし」と触れ合うのです。

 「わたし」がレベッカの影に怯えるのは、マキシムのこの、よそよそしさもあったと思うんですね。マキシムと「わたし」が最初から近い位置にいたなら、前妻だろうがなんだろうが、2人の間に入り込む余地などなくて。「わたし」はもっと自信を持って振舞っただろうし、過去に不安を抱くこともなかったでしょう。

 だからこそ、大久保訳の「・・・なさい」という、優しくも毅然とした物言いが、マキシムには合っているという気がします。茅野訳だと、言い方が乱暴な分、親しみを感じさせるのですよね。「わたし」はその、ぶっきらぼうな物言いに、心理的な近さを感じてしまうと思います。

 それだからこそ、こだわりたいのです。「わたし」は決して、マキシムを近く感じてはいけないのです。近く感じた次の瞬間に、ふいっと遠くへ行ってしまう存在でなければ。それがために、「わたし」は不安で、心配で、恐怖を覚えるのですから。

 マキシムが「わたし」に結婚を申しこむ大事なシーン。訳者によって、こんなにも雰囲気は違ってきます。

【大久保訳】

>ところで、あなたはまだぼくの質問に答えていませんね。ぼくと結婚してくれますか?

【茅野訳】

>まだ答えを聞いてないよ。ぼくと結婚する?

 事ここに至っては、同じマキシムでも、キャラが億万光年ほど離れたものになってしまいました。大久保訳のマキシムが素敵すぎます。

 たぶん、何年も付き合ったカップルであったなら、「僕と結婚してください」というのが、私的には理想のプロポーズなんですね。何年とはいわないまでも、ともかく、心の交流があり、十分にお互いをわかりあえた間柄であれば。有無を言わさず、片膝付いてお願いする、みたいな姿勢こそベストだと思うんですが。でもマキシムの場合。2人はまだ、友人と恋人のギリギリの境界線に立っている段階なので、それならこれが、最上の言い方になると思うんです。

「ぼくと結婚してくれますか?」

 この、率直でありつつも相手への敬意を忘れない言葉遣い。NOという選択肢、逃げ道を残してあげる配慮がいいですね。これなら、イエスもノーも、言いやすい。どちらを言うにしても、心理的負担が少ない。

 このへんは本当に、個人的な好みだとは思いますが。私がもし、「わたし」の立場で茅野訳のような言い方をされたら、興醒めして断りますね。「結婚してあげてもいいよ」みたいなニュアンスを感じてしまう。一見、相手に選択権を与えているようで、でもかすかに、侮蔑の気配が漂う。

 「結婚という人生の一大転機を、あなたはどうとらえてるの? あなた自身は、結婚したいと思っているの?」と、逆に詰問したくなってしまうでしょう。

 訳によって、原作の雰囲気もずいぶん違ってしまうことが、よくわかりました。細かいことですが、物語の舞台をマンダレイと訳すか、マンダレーとするか、というのにもセンスが分かれていますね。私は「マンダレイ」という字面が好きです。大久保訳はやはり、「マンダレイ」としています。

 大久保訳の、厳かな雰囲気が好きです。目の前に、冷たい、遠い目をしたマキシムが浮かんでくるようです。

マキシムがそこにいて、レベッカを見ていました

 舞台『レベッカ』に関しての話ですが、ネタバレにもつながるような記述がありますので、ご注意ください。

 うわー、やられました。舞台『レベッカ』のHPで見られる、山口さんの動画です。イギリス貴族マキシムの扮装で、宣伝用写真をとっているとき、傍からこっそり(といっても別に隠し撮りではありませんが)撮ったようなアングルで。

 そのしょっぱな。写真を撮られるうちにさまざまな表情をみせる山口さんですが、私の心にずっしり重く刺さったのは、その一番最初の表情。なにかを見つめるマキシムを、斜め横から見た図。

 マキシムが浮かべたその表情に、どきりとさせられました。

 マキシムはきっと、レベッカの不品行を見ているんじゃないかと。そんな気がしたのです。目の前にいるレベッカは、不遜な笑いを浮かべている。その横で、黙ってタバコをふかしてる、投げやりなファベル。

 レベッカはきっと、笑ってる。そして、まっすぐにマキシムを見てる。どう? 傷ついたでしょう? 妻の不貞を目の前にして、あなたは無力で惨めな、負け犬にすぎない。

 そんな挑発的で、でも十分に美しいレベッカを見下ろして。マキシムの目に浮かんだのは哀れみ。可哀想に。そんなことをして、君が本当に楽しいのかどうか、僕にはわかっている。ちっとも、嬉しくなんてないくせに。

 僕に見せることが、一番の目的? そうやって自分を傷つけて、僕を傷つけて、そしていったいなにが残るんだろう。

 マキシムの目に浮かぶ、哀れみの色。レベッカへの蔑みというより、あれは哀れみの色ですね。痛ましいものをみるような。慈愛すら感じるような。

 優しさを感じました。人は優位に立ったとき、相手を許してしまうのかもしれません。自分を傷つけた相手が、怯える小さな動物だったと知ったとき。

 もちろん、「レベッカ」の原作の中には、そんなシーンがありません。レベッカが奔放な女性であったという描写はありますが、直接それをどうのこうのという記述はない。

 ただ私は、HPの動画の山口さんの目を見たときに、一瞬で、レベッカとマキシムの世界の中に入り込んでしまったような錯覚を覚えました。

 レベッカはたぶん、マキシムを愛していたんでしょうね。彼女なりに。ひどく歪んだ、いびつな方向性で。愛の反対は、憎しみではなく、無関心だといいます。

 レベッカは、マキシムの関心を自分に向けたかったのでしょう。そして服従させ、自分を請う姿を見たかった。最後に笑いたかったのでしょう。勝ったのだと。

 自分の体も精神も尊厳も、自ら傷つけていることにまったく気付かない女性。そして、その女性に愛情があった自分。夫婦という立場。

 マキシムがまだレベッカと言う女性を、よく知らなかった頃。彼はたしかにレベッカを愛したのでしょう。だからレベッカは、彼を傷つけることができた。嫌いな人がなにをどうしようと、マキシムならびくともしない。でも愛した人にひどい仕打ちをされたら。

 レベッカの本質が悪女であっても。マキシムの中には、最初に恋したときの、無邪気なレベッカの幻想が息づいていたような気がします。もう存在しないことはわかっていても、その無垢なレベッカはいつだって、マキシムに微笑むのです。だから、マキシムの心が痛いのです。

 レベッカも可哀想で、自分も哀れで。ああ、どうか神よ。この小さく弱く、愚かな我らを救いたまえ。

 山口さんのマキシムには、そんな気持ちを感じました。

 後半の意味不明なターンには笑ってしまいましたが。宣伝がんばってますなあ。「山口祐一郎でーす」というときの、やわらかな雰囲気が好きです。「4月・・」の後、記憶を確かめるかのように少し首をかしげ、左下を見る視線の動きも。

 最後の、「凄いって!」は恐かった。山口さんて迫力あるというか、凄みがあるというか、目の前で一対一で接していてああいう豹変されたら、心臓がとまりそうです。冗談でやってるのかもしれないけど、正直、恐いと思いました。