『レベッカ』を語る(昨日の続き)

昨日のブログに書いた『レベッカ』感想の続きです。ネタバレ含んでいますので、未見の方はご注意ください。

マキシムが、「わたし」に罪悪感を告白するシーンが、印象的でした。

>きみと結婚したのは、あまりに自分勝手だったかもしれない

このセリフ以外にも、こんなことを言っています。

>ことを急いて、よく考える暇も与えなかった

マキシムの目に、「わたし」はあまりにも若く、無防備に見えたのかもしれません。そしてマキシム自身、「わたし」を愛して、恋におちて結婚を決めたわけではなかったから。愛を信じきっている「わたし」を前に、戸惑いを覚えたのかもしれません。

もう少し「わたし」の視野が広ければ。もう少し時間をかければ、自分以上に「わたし」にふさわしく、「わたし」を幸せにできる同年代の青年が現れたかもしれない。そうすれば「わたし」はなにも、こんなに年の離れた、汚れた手を持つ自分を選ばない自由があったのに。マキシムの罪悪感は、大きくなるばかりです。

マキシムは結局、「わたし」と一緒にいることで、自分の心の痛みがやわらぐから、結婚を提案したんですよね。後に、レベッカの死の秘密を共有するようになってからは、本当の意味での愛が生まれたと思っていますが。少なくとも最初のうちは、マキシムの結婚には打算の色が濃くて。

同じほど「わたし」が狡猾であれば、お互い様と思えたのでしょうが、マキシムの前にいる「わたし」はあまりに無邪気で。

でもね、このセリフはいけませんよ。

>きみがぼくたちが幸せだと言うなら、そういうことにしておこう。

あーこれ駄目です。絶対駄目。女性にこの言葉は、厳禁です。相手を思いやる言葉のようでいて、ぐっさり心をえぐる言葉なのです。

あなたは幸せじゃないの?つまり、そういうことなのね・・・と思ってしまうから。

ちょっとレベルは違うけど、「晩ご飯なにが食べたい?」という問いに、「なんでもいい」と答えられたときだったり。「どっちが似合う?」という言葉に、「どっちも同じ」と返されたときと同じ、失望です。

聞きたいのは、大好きなその人が喜んでいるという、その言葉なんですから。

喜ばせたいのです。「なんでもいい」と言われれば、どちらにせよ、私ではあなたを喜ばせることはできないのね・・・と思ってしまうのです。

言葉でなくても、目のちょっとした表情でマキシムの満足感を感じ取れたなら、「わたし」はこんなにも絶望しなかったでしょうけども。マキシムはいつも、レベッカの幻影に囚われて、その幻影越しにしか、「わたし」を見ることはなかったから。「わたし」が不安になるのも無理はないと思いました。まして、決定的なこの言葉。

マキシムはマキシムで、気を遣ってるし、マキシムなりの思いやりから出た言葉なんですけどね。しかしこの時点では、そんなマキシムの事情なんて知る由もないのですから、当然「わたし」は落ちこみます。

読者はこの時点で、マキシムが抱える秘密を知りません。だから、「わたし」の気持ちがよくわかります。そして一度全部読んでしまった後で、再びこの箇所を読み返して、初めてマキシムの示す優しさに気付くのです。

マキシムが自己中心的な男性だったら、自己嫌悪なんて感じずに、うまく「わたし」をあしらったでしょう。それができないマキシムの、そういうところが私は好きです。

お互いに真に相手を思いあっていたなら。誤解はいつかはとけるのだなあと思いました。たとえ時間はかかっても、いつかはわかりあえる。本当に心から、相手を愛しく、大事に思ったなら。すれ違った心も、いつか溶けあうことがあるのだと。

『レベッカ』は、相手の心が見えない不安を、うまく描いた作品だなと思いました。

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