マキシムが「わたし」の中に見たものは

 舞台『レベッカ』を観劇した後、時間が経ってから、思ったことなどを書いています。ネタバレありますので、ご注意ください。

 振り返って思うのは、「わたし」が決して、太陽のような娘ではなかっただろうなあということ。過去のブログで私は、「わたし」の明るさにマキシムが惹かれた、みたいなことを書いたように思いますが、今はそう考えていません。違うだろうなあ。もし「わたし」がひまわり娘だったら、マキシムはにこにことお茶の相手をして、でも、結婚まではしなかっただろうな。

 原作『レベッカ』を読んだ時点での「わたし」に対してのイメージと、今のイメージは違いますね。日本語で、2人の訳者の思いがこめられた2バージョンを読み、それから、舞台での物語にふれて。

 マキシムが「わたし」といきなり結婚したのは、「わたし」が明るくて、それに癒されたということではないんだなあと。

 きっと「わたし」はちっぽけで。なにひとつ、特出したものをもっているわけではない、どこにでもいるというより、それ以下ともいえる存在だったのかな。

 世界を恐れ、諦め、ひっそり生きてて、天涯孤独だったということ。

 マキシムにしてみたら、「わたし」の真っ直ぐな目は、剣の鋭さではなく、心地よいそよ風で。それは決して、自分の中に無理やり押し入ることがなかったから。無遠慮に、ドアを叩かれるわずらわしさがない。

 木陰でそっと、傷を癒したいという気分のマキシムにとって、「わたし」の暗さこそが、心地よさだったのかもしれません。そういう気分のときは、太陽の光、熱そのものが、また苦痛の種になりうるから。

 そーっと、静かに。社交界の騒々しさ、スキャンダルから逃れて。そんなとき、なんにも言わないで、存在感すら主張しないで、黙って横に座っていてくれる。それで必要なときには、いつも手を差し伸べてくれる、そういう「わたし」が、都合よかったんだなって。

 こうやって書き綴ってると、マキシムがひどい奴っぽいですが。私はマキシム、やっぱり好きなのです。

 マキシムが助けを必要としていた、というのは事実で。そこにたまたま「わたし」が現れたと。わたしは小動物みたいな子で、マキシムにはなんでもお見通しで。だから、物足りないといえば物足りないし、当然、夢中になることなんてないし。対等の関係ではない。

  でも「わたし」は他人だから。自分ではなくて。自分以外の人間が、たった一人でも、裏切らないで、黙って傍にいてくれるってことが、マキシムにとっては、すごく救いになったのかと。

 

 天涯孤独なら、レベッカのときのように、怪しい従兄弟に悩まされることもない。御しやすい。

 マキシムはいい人だと思います。愛以外のものは、全部「わたし」に与えてる。

 それでいいんだって思います。だって、気持ちは、動かそうと思って動くものじゃない。「わたし」だって、もしマキシムの真意を知ったとしても、それでいいと諦めるんじゃないかな。「わたし」がマキシムを好きなのは本当だし、結婚して一緒に暮らすことが、「わたし」に幸福の感情をもたらしてくれるのは事実なわけで。

 激しい愛情ではなくても。それは恋愛感情なんかじゃなくても。助け合って、穏やかに暮らせるということ。人間愛? なんていうんだろう、こういうの。一緒に暮らすうちに、生まれる新しい感情もあるだろうし。まるっきり恋愛感情じゃないと言い切ってしまうことにもためらいはあるけど、そもそも恋愛感情って、どんなものかという定義を考え始めたら、きりがない。

 ともかく、いわゆる「恋に落ちて」みたいなものではなかったのはたしか。マキシムが、「わたし」に対して抱いた感情、そして期待したものは。そしてマキシムが思う以上に、「わたし」はそれに答えてくれた。

 2人で、ぼーっとしてお茶を飲んで。

 「いい天気だね」

 「お花がきれいね」

 そんなふうに、なにげない会話を交わして。そうして穏やかに、時間が過ぎていく、みたいな。ドキドキハラハラはないけど、相手のことは大事で、大好きで。一緒にいると、とても幸せで、満たされている。

 マキシムと「わたし」は、きっとその後の人生で、こういう時間を手に入れたんだろうと思います。2人には、根本的に似てるところがあるから、うまくいったでしょうね。

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