映画『トワイライト~初恋』を見ました。以下、感想を書きますが、ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。
正直、期待していたよりずっとよかったのでびっくりしました。
最初はほんっとに期待してなかったんです。やっぱりあまりにも原作が良すぎたから。この世界を映像で表現って、どうしても限定されてしまうだろうなって。
文章だと想像は無限に広がりますからね。
それで、かなり迷って。
がっかりしたり不満を持ったりするのを承知の上で、そこまでして見に行くべきものかなあ、とか。映画のタイトルに「初恋」というストレートで陳腐な言葉を並べたセンスにも、ちょっと思うところはありました。
初恋っていうテーマはいいのですが、それを映画のタイトルにしてしまうと、あまりに狙いすぎているようで、ちょっと気持ちが引いてしまう人もいるんじゃないかと。むしろ『トワイライト』だけにしておいた方が、万人に見てもらえる可能性が大きかったような。「初恋」という言葉をつけると、大人としてはちょっと、照れを感じて足が遠のいてしまうような気がします。
おまけに、雑誌の特集で主人公のベラ(クリステン・スチュワート)とエドワード(ロバート・パティンソン)の写真を見て、ますます、う~ん、と唸ってしまいました。
特にエドワードのイメージが全然違ったから。
写真だと、無理に肌を白く塗っているような、不自然さが拭いきれず。
それと、すごく健康的に見えてしまって。なにかちょっと、吸血鬼のイメージとは違うかなと。
そんなこんなでずっと迷っていたんですが、意を決して行ってきました。
その結果、本当に予想以上に心を満たされて帰ってきました。
そうそう、初恋ってこんな感じよね、みたいな(^^)
映画だと、写真で見たときよりずっと、エドワードがかっこよかったです。動くと印象が全然違う。後でエドワード役のロバート・パティンソンのインタビュー動画なども見たのですが、彼は映画の中と、役を離れた普段の顔とで、全く違う人物に見えてびっくりです。
どちらが素敵って、断然映画の中にいる方です~。
こんなにかけ離れてしまう人も、珍しいんじゃないかなあ。私には、別人にすら思えました。
映画の中のエドワードは陰鬱で、目の奥に果てしない闇の広がる印象ですけれども。各種のインタビューなどに答えるロバートは、どこにでも居そうな陽気な若者で。
映画で彼のファンになったなら、実際に生で彼を見たら「え?違う人じゃん」と、ファンはひいてしまうのではないかと思いましたが。試写会などでのファンの様子を見ると、まったく戸惑う様子もないですから、こんなふうに感じているのは私だけなのかなあ。
ともかく映画の中のエドワードは、とてもとても、哲学的だったような気がします。自分が吸血鬼であるということに、悩み苦しんでいるような。深い煩悶の中に生きている人。そして、その彼が見出した一筋の光明が、転校してきた一人の平凡な少女、ベラだったという。
誰にも心を動かさなかった彼が、ベラに目をとめたのは。
ベラの心だけは、読むことができなかったから。
これは、必然的に興味を惹かれますよね。私がエドワードの立場でも、きっとベラを好きになっていたと思う。
カフェテリアに入ってきた瞬間、いろんな人の思考がいちどきに洪水のように流れ込んでくる。それは、エドワードにとってのありきたりな、よくある風景だったはず。いつもと同じ一日の一コマ。
自分たち、カレン一族に対する興味、嫉妬、詮索、憧憬、その思考の洪水の中で、彼はこちらを見つめる異質な存在に気付く。初めて見る顔。自分を射抜く目の光。なのにその心だけは、どうしても読めない。見つめ返しても、何一つ読み取れない。初めての経験。
こんなことがあれば、エドワードがベラに注目するのは当たり前のことです。
まして、ベラの血の香りが人一倍、芳しいものであったなら。
でもこれでは、好きになった喜びと同じ位、苦しみも深いですよね。どう考えても、一緒に生きるのは無理だし。好きになっても、先なんて見えない。好きになって衝動を抑えられなければ、ベラの命を奪うことになってしまう。
映画の中で、自分たちを「ライオンと羊」に例えてましたが。
なんというか、ベラよりもずっと、エドワードの方が苦しかったと思います。ベラはエドワードを万能と思いこんで、安心して頼ってる部分があったようですが。この人なら、全力でぶつかっても大丈夫、みたいな。
でもエドワードはよく自分たちの立場を、わきまえてた。
感情に溺れたら、すぐにでもベラを殺してしまえる自分の力を知っていた。
かといって、ベラに弱さを見せることも、自重を求めることもせずに。己の精神力だけを必死に鍛え、その力を最大限発揮して、耐えていたように思います。
それを一番思ったのは、部屋でのキスシーン。ベラが積極的すぎて、エドワードが可哀想だった(^^; それは駄目でしょうと・・・。
エドワード可哀想に、と思いましたよ。
エドワードがキスするのは許せるんですけど(って、勝手なエドワード擁護)、ベラがそれを煽るような真似は、ちょっと惨いかなあって。
ベラにはもうちょっと、消極的であってほしかったです。その方が、物語が盛り上がったような気がします。どうしてもベラに惹かれてしまうエドワードと、逃げられないベラと。
映画の中で一番好きなシーンは、二人が草の上で寝っ転がるシーンです。
こういうの大好き。
なんにもセリフがなくても、二人の心の交流が伝わってきますね。その幸福感は、きっと誰の心にも思い出として残っているものではないでしょうか。
そうですよね、好きな人の傍にいて、二人で同じ空を眺めていたらそれだけで。もうなんにもいらない、と思える一瞬です。
山の風景がとても綺麗でした。人気のない山の静けさ、きっと耳をすませば、鳥の鳴き声だけが聞こえて。きっとエドワードは、過去にもその山の中で、狩りの合間にいろんなことを考えたんだろうなと。自分の来た道と、そしてこれからの長い、長い時間のことを。
私は山が好きなので、映画の中の山の風景に心打たれて、山への思いが募りました。山へ行きたいなあ。
少し開けた場所で、太陽の光で変化する自分の肌を、エドワードはベラに初めて見せます。ダイアモンドのように、キラキラ輝きを放つ肌。ここは、もっと誇張してもいいんじゃないかと思いました。もっと派手に輝いたほうが、「人とは違う」ことを表すのに効果的かと。
エドワードは自分が吸血鬼であることを厭っていますが、そのエドワードとの思いとは裏腹に、ベラは彼の美しさに息をのむ。
それを表すのには、キラキラの輝き具合が全然足りなかったです。
エドワードが自分の運命を厭うといえば。まだベラが、エドワードの正体を知らない頃。
二人が車の中で同時にエアコンに手を伸ばして、手が触れそうになる瞬間。慌てて手を引っこめたエドワードの、つらそうな顔が印象的でした。
ああいう表情ができるから、この映画がヒットしたんだろうなあと思いました。
見ているこちらの胸が、痛くなるような表情です。そのときエドワードが感じたであろう痛みが、ダイレクトに伝わりました。自分の手の冷たさが、ベラに知られることを怖れてた。もう人ではなくなった自分を、化け物である自分を、好きな相手に知られることが恐かったんですね。
原作『twilight』の本の装丁。表紙に描かれた、白い腕が差し出す赤いリンゴ。それを意識したシーンが、映画の中にもありました。
カフェテリアでリンゴを差し出すのは、なんとエドワード。
う~ん、そうきたか~と思いましたね。私は、本の表紙のあの腕は、ベラだと思っていたから。
でも、この映画には合っていたような気がします。この映画で強く感じたのは、エドワードがベラに懸ける思いだったから。愛情度は、エドワード>ベラ でした。
きっとベラにはまだ、エドワードの愛情の深さと、同じ重さの苦悩とが、理解できていないと思います。
エドワードは眠らない吸血鬼なので。眠りこんだベラを、愛おしそうに眺めるところも、せつなかったですね。ベラはなんにも知らないけど、いったい幾晩、彼はこうした時間を過ごしたんだろうって。そうした時間、彼の胸にはどんな思いがよぎったのだろうと、想像してしまいました。
ベラ役のクリステン・スチュワートは、実際にはすごく綺麗な人なのです。でも映画になると一気に、地味で内気な女の子になるのがすごいと思いました。エドワード同様、映画を離れたときのイメージが、全然違います。
続編の映画、日本での公開が楽しみです。