冬の日の午後3時。
それを過ぎると、光が色を変える、と思う。
学生時代、ずっと家庭教師のバイトをしていた。
ある年、受験する子に、つきっきりで教えていた。一日2時間なんてレベルでなく、朝9時から夕方の5時まで。その子の部屋で、ペンを走らせるその子からふと目を離して、窓の外を見ると。
光が色を変えているのだ。
私は、その風景が好きだった。
たとえば、ランダムに様々な季節、時間のその場に置かれたとして。それがいつなのか知らされずに、ぽんっと、その場所に放り出されたとする。それでもどんなに似た風景の中でも私は、間違えずに「これが冬の日の午後3時」だと、当てることができるという確信があった。光の量が同じでも、冬の日の午後3時には、独特の色があったから。
まだ明るいのに、終わりを予感させる光だから。
とても寂しくて、静かで。まだ十分明るいのに、さよならを言われたようで、でもなす術がない。
絵本の長者の話を思い出す。
なんだっけな。富も権力も手に入れて、それで扇で沈みかけた陽を呼び戻すんだよね。
そんな傲慢な長者の願いなんて、かなうはずがないと思いきや、太陽は扇の動きに合わせて、引き戻されて。
それで長者は大喜びするんだけど。
結末は、やっぱり長者がどん底に突き落とされる話だったような。詳細は覚えていないけど、悲劇に終わった、という曖昧な記憶がある。
やっぱりね。太陽を自由にするなんて、そんなこと、できやしないんだ。
なんて、当たり前のことを、繰り返し思った記憶がある。
冬の日の午後3時。
ファンヒーターでよく暖められた部屋。
ペンの走る微かな音。
窓の外には、淋しい光。隣のビルを、明るく照らしだす。だけどその光は、終わりを暗喩して、せつない。
もうすぐだなあ、と私は思う。
今は、夕暮れとは程遠い明るさで。その明るさだけみたら、まるで午前中のようにも見えるけれど。
私にはわかる。終焉を含んだ光の色。
そして、時を経てもやはり、冬の日の、午後3時の光の色は変わらないなあと思うのだ。
暗室のような、隠れ里のような静かな部屋から引越した。
光あふれる、風通しのよいこの部屋に越してきて。
レースのカーテンが、風に揺れるのをぼんやり見ていたり。
窓越しの光がまぶしいのを、空の色を、いい天気だなあって眺める休日の午後だったりするのだが。
3時を過ぎれば、光の色はやはり、寂しさを伴う。光量だけでみれば、いっそ強烈にも思えるのに、この色はいったい、なんなんだろうか。
3時を過ぎたら終わりの時間だと、いつからそう思いこむようになったのか。
記憶を辿れば、昔半年を過ごした研修所でも、やはり3時は自分の中で区切りの時間だった。
厳しい門限は、たしか19時、それとも20時。
3時過ぎだとて、外出して買い物や食事を楽しむには、十分な時間はあったと、今になればそう思うし、わかるのだけれど。
やっときた休日。疲れきって、ようやく体が回復するのはいつも、お昼すぎで。外出でもしようか、という気持ちになれるのは、たいてい2時か、3時。
それで、葉ずれの音を聞きながら、ベッドに寝転がりながら諦めるのだ。
もう3時だから。休日はもう終わりだ。今から出かける時間はない。
あーあ。あっという間に、なんにもしないまま終わっちゃったな。
いつだったか。
3時過ぎの光の中で、同室の友達に、そんなことを告げたことがある。
「本当は遊びに行きたかったんだけど、もう3時も過ぎたしね」
彼女は呆れた顔をして、何度も主張した。
「3時なんて、まだ全然早いじゃん。いくらだって行けるのに。
なんで3時過ぎるとダメなの? 普通に、余裕で帰ってこられるよ」
彼女は正しかった、と、今思う。
そうだねえ。
時間だけを考えたらきっと、門限までには相当の余裕があった。
私が3時を終わりの時間と考えたのは、あの光の中に、終わりの寂しさを見ていたからだと思う。だから、そんな光の中、出かけていく気分にはなれなかったんだ。
あせるのは、嫌だから。
時間に追いかけられ、じりじりと追いつめられるのが嫌だった。それは、夢の中でもよくある光景で。
夢の中。たいてい、私はそこを去らなければいけないのに、荷物がまとまらなくて。
どれが自分の荷物だったかわからなくて、あせって探しているのだ。これで全部、忘れ物はないっていう確信が持てず、いつもうろうろ、落ち着かずに歩き回る。取り残される不安感で、早くしなければと焦るのに、どうしても動けない。
そして、夢の中ではわかっている。
誰かに大丈夫だって言われても、この焦燥感は消えないことを。
結局自分自身が納得しなければ、このモヤモヤは消えないのだ。
冬の日暮れは早い。
3時過ぎのあの、独特の光も、あっという間に消えてしまう。
今窓の外を見たら、もうすっかり夕暮れの光だった。間違えようもないほどに。ああ一日が終わるなあと、そう思った。