温泉と花火

 屋上から打ち上げ花火を見た。

 某温泉施設のサービスだ。わずか5分間のスターマイン。夏の間は定時に毎日開催される。

 この温泉にはよく来ているのだけれど、打ち上げ花火を見るのは初めて。

 あまり宣伝しすぎて客が殺到したらスペース的に困るだろうし(屋上はそんなにだだっ広いわけではない)、時間的にもわずか5分ということで、施設側はそんなに、この花火のことを大きく広報していなかった。

 まあ、温泉に入りに来たお客さんへの、ちょっとしたオプションサービス、的な扱いである。

 この花火自体、別に施設が打ち上げているわけではなく、近隣の遊園地でやっているのが温泉施設の屋上からちょうどよく、目の前に見える、という話なのである。

 というわけで、あまり期待せずに、予定時刻に屋上へ行ってみた。15分前に到着。誰もいない(^^;

 さすが、あまり宣伝していないだけあるなーと、変なところで感動。誰もいないので、数少ない椅子をしっかりゲットできた。それも、一番よさそうな位置のものである。

 椅子に座って、遊園地の灯りを眺めていた。観覧車も、ピカピカと明るく、光でさまざまな模様を描き出す。その隣は、名前はわからないが上下に大きく動きつつくるくると周っていく遊具。高いところがあまり得意でない私にとって、見ているだけで手に汗握る光景だった。見ている分にはまだ平気だけど、あれに乗ったら相当気分が悪くなりそうだな~、なんてことを考えていた。

 遊園地は光にあふれていて、それを見ていたら、過去の記憶とリンクした。そうだ。これは東京ディズニーランドのエレクトリカルパレード、みたいなもんである。光の渦は、どこか別世界の出来事のようで眩しい。

 夜空を見上げたが、星はあまり見えない。
 地上が明るすぎるからだろう。

 打ち上げ花火の予定時刻が近付くと、どこからともなく人が集まってくる。その数、およそ70人ほど。
 人はあんまり集まらないかと思ってたけど、これだけ来れば上等ではないか、そんなことを思う。屋上はぎゅうぎゅう詰め、とまではいかないが、ほどよい感じに賑やかになった。

 遊園地の灯りが消える。

 そして、大きな音と共に、夜空に大きな花火が打ち上げられた。近い距離で打ち上げているので、予想以上に迫力があった。屋上に集う人たちが、一斉にどよめいた。

 最初のうちは、スターマインではなくて、一発一発、丁寧に打ち上げていた。その間隔がだんだん狭まり、会場の期待は自然と盛り上がってくる。

 やがて始まったスターマイン。
 次々に、きらびやかな光の華が咲き乱れ、消え、その余韻を楽しむ時間もないほどにまた、新たな光の乱舞。
 一発一発は、単体で見てもさぞかし丁寧に作られた花火師の自信作だろうに、それを惜しげもなく連続で、ときには同時に爆発させる贅沢。

 花火を見ながら、日本て凄いなあ、と思ってました。

 なんだろう。この、こうした花火を愛でる感覚って、まさに日本人独自のものなんじゃないかなーって。もちろん西洋にも花火はあるし、東洋の他国にも花火はあるけど。

 日本人が花火に寄せる思いって、他国とは違うんじゃないかって、ふとそんなふうに感じたのです。

 こう、江戸から綿々と続く文化の継承というか。心意気。花火職人さんが伝えたいものと、観客の心がぴたっと寄り添う感じで。日本人て、いいなあって、単純にそう思いました。

 美しさと、繊細さと儚さと。そこに大胆さと、迫力をうまーくミックスして。

 色も形も。すごく迫力あるんだけど、同時にとても、細やかな気配りを感じるのです。そのセンス。これはなんというか、すごく独特で、まさにuniqueという言葉がふさわしいかと。

 日本の花火を見ていて、胸にわきあがるじ~ん、という感動。泣きたくなるのはなぜなんだろうなあ。少しだけ寂しさに似た感情も、そこにはある。そして懐かしいような。昔を思い出すような。

 私は花火大会の混雑が苦手なので、もっぱらテレビや、もしくは混雑などおきようもないような遠距離から、花火を観賞してばかりいたのですが。

 やっぱり近くでみる生の迫力には、混雑の不快さを乗り越えてでも、人を集めるパワーがあるのだと実感しました。だから人は、花火大会に出かけるんだろうなあ。

 それにしても、今日の打ち上げ花火を見られたのは本当に大ラッキー。椅子に座って、しかも大混雑という状態でなく、ゆったり楽しむことができました。今夜はいい夢がみられそうです。 

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