お寺へお参りにいった。
山は、花まつりが開催されていて賑わっていた。天候に恵まれて、空気は少し冷たいけど気持ちのよい気候で。
こういう季節、人の足は自然と外へ向かうんだなあ。
そのお寺には、たくさんの古い木像が安置されている。順番にお参りしていく。あえて過分な照明をつけない薄暗い本堂の中。ぼんやりと闇にうかぶ仏様の姿には、重みがある。
おびんづる様があった。像を撫で、自分の痛いところをさすると癒しの効果があるという。たくさんの人の手が通り過ぎた像は、全身どこもかしこもつるつると光り輝いていた。
堂内には、他にも触っていい像と、そうでない像が配置してあるらしい。
私は、退色して、くすんだ板と一体化した墨の色に目を凝らした。それぞれの注意書きをよく読んだ。
触っていいものにだけ、手を触れた。
ひときわ大きな像があった。それは弘法大師像。私の前にも手を合わせている人がいたけれど、その人は像に触ってはいなかった。ただ、静かに祈っているだけ。
そうか。これは触っちゃいけないんだな。そう思って近くで見てみたが、やはり、おびんづる様のときのように、「撫でてOK」の但し書きは見当たらなかった。
私も他の人にならって、手を合わせるだけにした。
すると、隣から声をかける人がいる。
「これ、お顔にさわってみなさい。それで、自分の顔を撫でなさい。つるつるになるから。綺麗になるよ」
お寺のボランティアの方なのだろうか。年配の男性で、この花まつりのスタッフが着る、おそろいの法被を着ていた。ところが、その顔を見てびっくり。
目の前にある弘法大師像、そっくりのお顔立ちなのだ。しかも、かなり高齢の方だと思うのに、肌艶が尋常ではない。ぴっかぴか。後光がさすほどの福々しいお顔立ち。
「あ、はい。さわってみますね。あの・・・お顔、似てらっしゃいますね」
思わず、そう言って仏像を指し示すと、その方は、照れたようにいやいやと手をふり、すぐに去って行った。
お寺関係者の方のOKをもらったので、私は遠慮なく仏像に触れ、その手で自分の顔を撫でたのだけど、それにしても、教えてくれた方の肌艶のよさにはびっくりだった。その顔が、仏像にそっくりだったことにも、驚いた。あの方も、この仏像に触れているからあれだけお顔がピカピカと輝いているんだろうか。だとしたら凄いご利益だなあ。
お寺の隣には、広大な椿園がある。そこに至る道沿いには、ミヤマツツジが咲き乱れていた。
ミヤマツツジのピンクは濃い。咲き始めたどの桜よりもはっきりとしたピンクが、晴れた空によく映えていた。
椿の中では、「光源氏」という品種の香りが好きだ。椿は、そのほとんどが香りのない種類なのだが、この「光源氏」には芳香がある。
あいにく、私が見に行ったときには、「光源氏」はもう盛りを過ぎていた。
いろんな品種を楽しく鑑賞しているうちに、なんと、紫のバラそっくりの椿を発見。
一輪だけ。紫のバラにしかみえないものが葉の間にちょこんと鎮座している。品種名を確認すると、「染川」とある。
同じ木の他の花は、絞り模様のある普通の椿。なのにこの一輪だけ。枝変わりだろうか。枝変わりのものを挿し木にすれば、新しい品種のものを作りだすことができるというけれど、これはぜひ、やってみてほしいなあ、と思ってしまった。
じーっと観察してみたところ。花のピークは過ぎている。それでよけいに、花弁の色が変色して、紫にみえているのかもしれないけれど・・・。絞り、というよりも、単色の花に見えた。
そして、なんとも風情のある寂しげな紫の色。
椿には、本当にたくさんの種類がある。それぞれに付けられた名前もまた秀逸で、名前を確認して、ふむふむなるほど、とうなずくことも多い。名は体を表す、という言葉を噛み締める。
特に関心したのは、「肥後大関」。
うん。「肥後大関だ」。と四方八方から眺めて、納得した。言いえて妙。
この花は、「乙女椿」ではありえないし、逆もまたしかり。ネーミングのセンスがいいなあと、感心する。
そういう意味では、「染川」の名前も渋い。
私がとっさに想像したのは、御殿女中とか、女房だ。キツイ、厳しい目をした女の人。高貴な人に仕え、そのことにプライドを持ち、妥協を許さないのだ。
一分の隙もみせず、整えられた上等の衣。焚き染められた香。
「染川」は、もしかして地名かもしれないけれど。
その名を目にしたとき、私がイメージしたのは、そんな人物像だった。
椿園を擁する山には、湧水がわいている場所がある。そこは、聖地として静かに祀られていた。こんこんとわき出る清水が、目に優しい。うっそうと茂る樹木の遥か頭上から、木漏れ日が水面を照らす。
東京の、等々力渓谷を思った。もう10年にはなるだろうか。等々力渓谷を散歩した日があった。都会に、こんなにも豊かな自然が存在しているのかと、感動しながら歩いた日を。
その、等々力渓谷の水辺に似ている、と思った。等々力渓谷にも、稚児大師御影堂(稚児大師とは弘法大師の幼い時の呼び名)があるし。
泉をしばらく眺めた後、山を散策することにした。椿園を抜け、どこまでも歩いていく。山道はよく整備されていて、歩きやすい。だけどしばらく歩いたところで、道は倒木によって通行止めとなっていた。
みると、大風で大木の枝が折れ、それが道をすっかり覆ってしまっているのだ。枝、といってもかなりの幹の太さで。その向こうには悠々と道は続いているけれど。この木を乗り越えて、さらに歩いていくのには勇気がいる。
諦めて、ただ、倒木の向こうに広がる道を眺めていた。その道の先には、なにがあるのだろうと考えていた。誰も通れない道だからこそ、その先にはなにかものすごく、素敵なものが、素晴らしい景色が待ち受けているような気がする。
行けないとわかれば、一層、あこがれは強くなる。桃源郷幻想みたいなものだろう。
その先に広がる幻の景色を想像しながら、私は帰路についた。