白い猫と沈丁花

 沈丁花という言葉は知っていた。その花が、良い香りも持つことも知っていた。ただ、これが沈丁花なのだとはっきり認識して眺めたのは、その家の庭先が初めてだった。

 仕事である作業をすることになり、私を含めた三人は、とある民家に集まった。

 指定された住所にあるのは、ビルではなく、普通の家。
 あえて言うなら、そこは注文住宅だったと思う。間取りが一般的ではなかったから。

 どの部屋も、ゆったりとした広さだった。使われている材料も、高級そうなものばかりで。

 がらんとした室内には、家具はない。すでに運び出されてしまったのだろう。会社が、売家を買ったのだ。ただ、大きなピアノだけが一台、残されたままだった。

 三人が作業するための大きなテーブルと、椅子。そしてパソコン一式は、すでに用意されていた。。

 この家に、生活感のあるものはない。静けさの漂う室内で、私たち三人は黙々とPCに向かった。

 作業スペースは二階にあったが、お昼には私は一階に下りた。一番日当たりのいい部屋が、そこにはあり。大きな掃き出し窓から、陽光がまぶしく降り注いでいた。

 その窓を開けた。網戸越しに、外の景色をぼんやりと眺める。

 不意に、足元に動くものの気配を感じた。その緊張は、「ニャー」という声と共に解けた。

 なんだ、猫か。白い毛の猫は、あまり毛艶がよくなかったけれど。人に慣れ、こちらを警戒するどころか寄ってくるところからして、野良猫ではない、と思う。

 猫は再び、「ニャー」と声をあげる。鷹揚な態度。なにかをしきりに訴えかけているようだ。エサでもほしいのかと思い、網戸をあけてみると猫は、すかさずするりと、部屋へ入りこもうとした。

 「入っちゃだめ」
 慌てて私は、猫を手で追い払う。すぐに網戸も閉めた。猫は恨めしそうに私を眺め、しばらく不服そうに座っていたが、やがてゆっくりと、どこかへ去って行った。

 この民家での作業は、10日間。
 すぐに私は、この猫の事情を知ることになった。この猫は野良猫ではない。この家に住んでいた猫なのだ。
 家の裏手には、猫ハウスが置いてあった。それはもともと室内用のもの。だが今の猫には、この猫ハウス以外に居場所がない。

 だから、隙あらば室内へ入ろうとするのだ。

 猫にしてみれば、ある日突然、慣れ親しんだ家人がいなくなり、自分の居場所が屋外になったのだもの。そりゃあ、以前のように、家の中へ帰ろうとして当たり前だ。

 人間世界の事情など、売買など、猫にはわからない。猫にしてみたら、突然やってきた私たちこそが、余所者なのだ。

 勝手に人の家の中に入ろうとするなんて、ずうずうしい猫だな、と思っていた私の気持ちは、180度変わった。飼い主に捨てられたことも知らず、元の家に入ろうとする哀れさが、痛々しかった。

 かといって、私が猫を勝手に家に入れるわけにもいかない。そうかといって、自分の家に連れ帰るわけにもいかない。私はただ、その猫をみているしかなかった。

 近所の人が、可哀想に思って猫の餌は定期的に置いているようだった。そして猫は、私が最初に思っていたよりずっと、年をとっているようだった。鷹揚なしぐさにみえたのは、高齢で俊敏な動きができないからだと、だんだんわかってきた。

 10日間の作業のうち。ひどく、雨が降った日があった。一日の作業を終え、帰ろうと玄関を出たとき。気になって、猫ハウスをのぞいてみた。

 激しい雨から身を避けるように。猫はハウスの奥で、体を小さく丸めていた。私は、せめて雨が入口から少しでも入らないようにと、風の向きを考え、猫ハウスの位置をずらすくらいしかできなかった。

 そしてある日、ピアノが家から運び出されていった。
 急な引越しで、ピアノを処分する時間も、なかったのだろうか。この家の売買は、このピアノも込みで行われたのだろうか。
 業者は淡々と、ピアノを移動させ、去って行った。

 良いピアノだった。ありし日には、誰がこのピアノを弾いたのだろう。この家、そしてピアノ。恵まれたこの家に、いったいなにがあったのだろう。そして、残された猫。

 猫をそのままにしているのは、会社の温情のようだった。猫は高齢だったし、屋外で長生きはできないと、予想したのだろう。
 猫ハウスの中で、うつらうつらと眠る猫は、どんな夢をみているのだろうか。楽しかった時代のことだろうか。

 10日間の作業を終えた日。辺り一面に、なんともいえない芳香が漂った。香りの元は、沈丁花だった。その家には、それはそれは立派な沈丁花が、大きく育って咲き乱れていたから。

 これが沈丁花か。私は花に顔を寄せ、胸いっぱいにその香りを吸いこんだ。そしてその香りと花の形を、しっかり胸に焼き付けた。

 沈丁花の香りが漂う季節になると、いつもあの家のことを考える。そして、あの名前も知らない猫のことも。

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