預言カフェ 感想

 先日、預言カフェに行ってきました。
 当たると評判だったので、前から気になっていたのです。

 場所は高田馬場。占い、ではなく。預言、なのですよ。預言ということは、神様の言葉。アライズ東京キリスト教会、というところがやっているコーヒーの専門店で、コーヒーを頼むと預言も同時に受けられる、というシステムです。

 すごい人気でした。
 開店は14時からですが、12時になるとお店の前にノートが設置されます。そこに名前を書くと、名前を書いた欄の横に目安の時間が書いてあるので、その時間に再び来店して名前が呼ばれるのを待つ、という流れ。

 

 私が行ったのは12時ちょっと過ぎだったけれど、すでにノートはたくさんの人の名前で埋まっていました。

 自分の名前を書きこんで、目安の時間まで近くのカフェで時間をつぶします。時間になって預言カフェを再び訪れると、店の入り口にずらりと並んだ椅子には、大勢の人の群れ。

 こんなに行列のコーヒー店は、他にないでしょう。それだけ、リピーターが多いということなのかも。わくわくしながら、自分の名前が呼ばれるのを待ちました。

 預言を受けた率直な感想。

 当たってました。私が一番聞きたいと思っていたことを、まずずばりと言われたのにびっくり。
 コールドリーディングではないですね。一方的に、預言を話すというスタイルですが、なんでわかったんだろう(^-^; と不思議になるくらい、いきなり言われましたね。

>○○についてあなたは知りたいと思っているでしょうが、答えは私が持っています。そして私があなたの目を開いていきますよ。あなたが求めるから。

 いきなり、そのようなことを言われて驚きました。確かに、それを一番知りたいと思ってたから。

 それと、何度か繰り返し言われたことは、

>私があなたを造りました。あなたが生まれる前からあなたを計画してきました。すべて私の計画通りです。何ひとつ計画外のことなどないのです。

 そのようなことを、言い方を変えて念押しされました。

 預言ですので、神様の言葉と思えばたしかに、人間はすべて創造物であるのだろうと思いますが、それにしても、日頃疑問に思っていたことの答えともいえる言葉を聞いて、妙に納得し、安心感を覚えている自分がいました。

 私には、起こった出来事に対し、「なんで?」「どうして?」と、思う気持ちがあったから。

 そのことに、いったいどんな意味があったのだろう、と。答えなんて、考えたところでみつかりそうにないのに、ふとした瞬間に考えこんでしまったり。

 

 でも、預言として断言されてしまうと、説得力ありますね。

>私があなたを造った
>私がすべてを計画した

 これ以上、明快な答えなどないわけで。

 他にもいくつか興味深い預言をしてもらったのですが、唯一、ん? と思ってしまったのは、

>私の前に、なにも隠さなくていいのですよ

 という言葉でした。

 私は、神様に隠しごとをする気なんて、全然ないのです。これっぽっちも。だって無理だってわかってるから(;;;´Д`)

 神様、というのがどういう存在なのか。
 この世界がどういう仕組みであるのか。諸説ありますし、私にはわからないですが、神様= Something Great に、隠しごとが無理だろうっていうのは、確信してますね。

 創造主であるなら、創造物のすべてはお見通しでしょう。あらゆる可能性も、行動も、手のひらの上でしかない。
 また、すべては一つ、Oneness という思想に基づくなら、「隠しごと」という概念すらなくなるわけで。

 神様に隠しごとしよう、なんて気持ちは、全くありません。
 なのに、「隠さないでね。大丈夫だよ」みたいに言われてしまったのは、少し違和感ありました。

 そして嬉しかったのは、

>必要なときは求めなさい。私はそれを喜ぶ

 的なことを、言われたことだったりします。ふっふっふ。神様のお墨付きをもらってしまった(*´ェ`*)

 もっと気軽にお願いしてもいいよって、ことなのでしょうか。そう解釈したのは即物的すぎるかな?

 そういえば、私は最近、神様に真剣にお願いごとをするという機会、なかったかもしれない・・・。

 こうなればいいな、ああなればいいな、というちょっとしたお願いごとは、たいてい自分の努力で叶ってしまうことだったりするので、神様になんとかしてもらう、というよりは、「あ、いいですいいです。自分でなんとかするから」という気持ちが強かったかも。

 そういえばついこの間、お気に入りの神社に行ってきた時も(ここでキリスト教でなく神道を出すのはおかしいかもしれないけど)、手を合わせたときに、お願いすることがなにもないことに気付いて、思わずお願いごとを探してしまったりもしたなあ。それでも特になくて、結局、「ありがとうございます」とだけ心の中で唱えました。

 以前は、手を合わせてお願いごと「○○をお願いします」っていうのは自然にしていたのですが、いやいや、もちろんこれから先、そういうことはあるのかもしれませんが、とりあえずここ最近に関しては、「どうしても神様に叶えてほしい」ことは、特に思いつかなかったり。

 でも、預言として

>求めなさい

 という言葉は、ちょっと嬉しいものがありますね。ということは、いろいろ大きな夢とか、お願いしちゃってもいいのかなあ。

 預言カフェ、初めて行ったのですが、とても素敵な場所でした。私の個人的な感想としては、言われた言葉はかなり、心当たりのあるものでした。

 また機会があったら、行ってみたいと思います。

16回目の引越し

 先月、人生始まって以来、16回目の引越しをしました。

 決して、引越しが趣味なのではありません(^-^;

 いつも何かしら理由ができるのですが、それにしても16回目の今回は。なんというか、人生ってどこまでが自由なんだろう、とか考えさせられる機会でした。

 運命っていうんですかね。
 もちろん、人は、その場にとどまっている方が楽だと思うのです。昨日も今日も明日も、変わらない生活を送るでしょう。何事もなければ。

 今回の引越しは、隣接する部屋の住人が原因でした。最初は、騒音から始まりまして。しばらく我慢していたのですが、とにかくひどくて。
 こちらが窓を閉め切っていても、真夜中にベランダで大声で携帯を使うのです。話の内容は丸聞こえで、しかも、その内容は、聞くに堪えないもので。

 部屋の借主は若い女性のようでしたが、入れ替わり立ち替わり、さまざまな男性が部屋を出入りし、大騒ぎです。

 ある早朝、聞きたくない声を耳にした私はとうとう、昼間になって管理会社に電話をしました。すると、社員さんは平謝りでした。(後日、担当さんと話したところ、私以外の部屋からも、同じようなたくさんの苦情電話があったということです)

 管理会社は部屋の住人に注意をすると言ってくれましたが、騒音は一向に収まらず。

 やがて、一部屋、また一部屋と。その騒音主の部屋に隣接する人たちが、引越していきました。

 それでも私はまだ、迷っていました。
 もう少し我慢しようか・・・もしかしたら、そのうち収まるかもしれないし、と。

 しかし、そのうちしゃれにならない事態になりました。問題の部屋で事件がおこり、パトカーがやってきたのです。その事件が起こった時、部屋にいたのは借主である女性ではなく、男性(元彼?)でした。

 その後、なんとその男性は、部屋に住みついてしまったらしく。彼は夜になるとベランダで携帯電話をかけ、友人にその顛末を語っていました。

 その他にも、この騒音主の部屋にはいろんなことがありまして。
 さすがに私も、部屋の出入りに危険を感じるようになりました。その部屋に住んでいるのが、まともな人でないのはよくわかったので・・・。

 騒音主の周りの部屋は、次々と空室になりました。
 私もついに引越しを決意し、管理会社に退室を申し入れました。電話でまずその旨を告げると、社員さんは「あの・・・やっぱりあの部屋が原因ですか?」と。
 周りの空室は、みんな騒音主の部屋が原因だったそうです。

 申し訳ありません、と社員さんは謝ってくれましたが。このまま部屋に住むのは気持ち悪すぎて、私には退室以外の選択肢はありませんでした。

 空室が多くなれば、ますます不気味さは増します。
 他の部屋が空室になったことで、そのとき私は唯一、騒音主の部屋に隣接する住人になっていました。

 なにかあったら嫌だなあ。でも、うちの部屋と接してる反対側のお隣さんは普通のサラリーマンぽいし、その人がいればまだ、少しは安心か・・・なんて一時は思っていたのですが。ある日、そのサラリーマンは私より先にあっさり引越して行きました。(;ω;) 彼もまた、騒音主の尋常ではないありさまに、恐怖を感じたのだと思われます。

 そして、私自身も、引越しするまで気が気じゃなかったです。引越しが完了する日まで、緊張の日々が続きました。

 引越してほっとした今、新しいカーテンなどを眺めながら思うわけです。人はどこまで、自由なんだろうと。

 何事もなければ、たぶん私は当分、あそこに住み続けていただろうなあと。だけど、引越しをせざるをえなかった。そこには何か、運命というか、「今、引越しなさい」という流れのようなものを感じるのです。

 私は、あの場所に居続けることができなかった。そこに、自由はなかった。引越す方向へ、動かざるをえなかった、ということで。

 引越した後、引越し先のご近所さんが偶然、花束のおすそ分けをくれたことも、なんだか運命に祝福された印のような気がしてきました(゚▽゚*) それでよかったんだよって。
 だって、花束のおすそ分けって、めったにあることじゃないと思うから。

 いろいろあるけれど、運命ってある程度、流れが決まってるのかなあと。そんな気がしなくもない出来事でした。逆らおうとしても、決まった流れに戻るまで、これでもかこれでもかと修正されるような。抵抗するだけ、無駄なのかもしれない。
 むしろ運命には、ゆったりした気持ちで身をゆだねたほうが、無駄に傷付かなくてすむような気がしてきました。

 新しい場所に住むことで。なにかが始まるのかもしれません。

飛びこんできたピンクの花束

 花束をもらった。思いがけないおすそ分けなのである(^^)

 ご近所さんが持ってきてくれたのだが、退職のお祝いでもらった花束が2つあり、家で飾るには多すぎるからとのことで。

 

 それが、うっとりするような素敵な花束だったのだ。全体をピンクでまとめてある。薔薇、カーネーション、トルコキキョウ、ストック、それらの優しい色が、葉蘭の緑に映えている。物凄く、私好みヽ(´▽`)/

 

 同じピンクでも、薔薇のは青みがかっているし、カーネーションは珊瑚っぽい。トルコキキョウは白地に薄く紅を溶いたような清楚さで、まだ先の方まで咲きそろわないストックは下から上に向かい綺麗なグラデーションを描く。

 見ているだけで、うきうきしてくるような華やかさだ。

 ただ、惜しいのは、香りがない。なぜだろう。こんなにも生き生きと花を咲かせているのに。普通は生の花を飾ると、部屋中が花の香りでいっぱいになるのになあ。

 一番匂いがあると思われる薔薇に鼻を近づけても、驚くほどに無臭で。香りのない薔薇なんて、初めてだ。
 温室で育てられた花束用の薔薇。品種改良され、野性を失って最後には、匂いまで失くしてしまったのだろうか。

 薔薇の香りは嫌い、という人にとっては、有難い品種なのかもしれない。私にとっては少し、物足りなかったけれど。

 花束を飽きずに眺めているうちに、気付いた。

 

 そうか。今、秋バラの季節だなあ。植物園に行かなくちゃ。ふらりと、出かけた。

 毎年、出かける植物園がある。春と秋には、咲き誇る薔薇を楽しむことができる。春の薔薇に比べ、秋の薔薇は種類も量も少ないが、秋には秋にしかない空気、風情がある。

 年ごとに少しずつ、栽培する薔薇も入れ替わっていて。ここの薔薇園には、あまり古株というのがないみたいだ。寿命がくれば新しい品種がそれにとって代わる。

 青い薔薇(厳密には白に近い紫、というのが多かった)のコーナーを、まず見て回った。紫のバラはどれも、弱弱しい株のものが多くて、見ていて可哀想になってしまう。いつも、息も絶え絶えに、ひっそりと佇んでいる感じ。強い風が吹けば、そのまま消えてしまいそうだ。

 薔薇園全体の中で、気に入ったのは「香澄」という品種。
 香りに驚かされた。なんと、春の空気の匂いがする。

 自分の鼻が信じられなくて、何度も嗅ぎ直してしまった。そのたびに、春の空気が脳裏によみがえってくるのだ。春の空の色。暖かさ。目を閉じて、幾種類もの春の花々が絶妙にブレンドされたような、不思議な香りを楽しんだ。

 秋に咲く薔薇なのに、春の匂いをさせているんだなあ。まあ、この「春の匂い」というのも、私の勝手なイメージなんだけども。私にとって、「香澄」は春の空気、そのものだった。

 そして、もうひとつ。「和音」。日本で作られた品種だけあって、いかにも日本的だと感じた。中心が黄色で、外に向かって色が薄く、白くなっていくのだ。静かで、優しい花。和服美人を想像させるような、凛とした美しさ。自己主張しないのに、個性も意志も、ちゃんと存在していた。

 家へ帰って来てから、部屋ではまた、花瓶に入った花束を見てうっとりしている。薔薇園も素敵だったが、この花束の絶妙なバランスも、本当に素晴らしい。どの方向から見ても、それぞれの花が互いを引き立て合い、全体として完成されたハーモニーを作り出している。

 どんな人が、この花束を作ったのだろう。花束を作る人のセンスがいいと、1+1=2、ではなく。2以上になるのだなあと、花を見て思う。個々の花を単品でもらったのだったら、ここまでの感動はなかっただろう。綺麗な花束に、感激の週末である。