ドラマ『世紀末の詩』の感想を書きます。以下、ネタばれ含んでおりますので、未見の方はご注意ください。
第二話は、斉藤洋介さん演じるコオロギさんと、遠山景織子さん演じる鏡子さんの物語。
鏡子は目が見えない女性で、コオロギさんとは仲のいいカップルだったのですが、手術で目が見えるようになった途端にコオロギさんの元を離れ、眼科のお医者さんと付き合うようになってしまいます。
>心変わりは何かのせい?
>あまり乗り気じゃなかったのに
なぜか、オザケンの『ぼくらが旅に出る理由』の曲の一節が、頭をよぎりました。
鏡子をひどい女性だとか、手術さえしなければ二人は幸せだったのにとか、そういう意見が出ることを意図してつくられたお話?という感じがしましたが、私は鏡子の選択を非難したくないです。
鏡子は悪くないと思う。心変わりは誰のせいでもない。誰かを好きになることも、その後、なにかが違って別れてしまうことも、それはそれで仕方のないことのような気がしました。
無理をして同居や結婚をすれば、その方が悲劇だから。
問題は、別れ方ですよね。鏡子がコオロギさんを罵ったり、たとえ本当のことであっても、別れの理由に彼の人格を傷付けるようなことを言ったりすれば、ひどい奴だな~とは思いますけども。
ドラマの中では、鏡子は十分にコオロギさんを思いやっていたし。
>あなたが、コオロギさん?
>え?
>ううん。ごめんなさい。想像してた顔と少し、違ってたから
上記は、手術後に初めてコオロギさんを見た時の鏡子の言葉。このときはドキドキしたなあ。なんだか、この先に続けてとんでもなく失礼なことを言うんじゃないかという予感がして。そういう彼女を見たくなかったし。そのことで傷付くコオロギさんも見たくなかったので。
「想像していたのと違う」という言葉は確かに意味深でしたが、このときの鏡子さんは、別にそれ以上ひどいことを言うわけでもなく。ごめんなさい、という言葉にも本当に素直な気持ちが表れていたと思いました。
その後彼女が、手術を担当した袴田吉彦さん演じるイケメン医師のアプローチを受け、「今までありがとう。ごめんなさい」ってただそれだけ書いた置き手紙を残してコオロギさんの家を出て行ってしまったことは。その置き手紙には、彼女なりに精一杯の気持ちがこめられていたんだ、と思います。
コオロギさんの家を出たことがひどいというなら、そもそも彼女は、じゃあどうすればよかったのか、という話で。
目が見えるようになり、コオロギさんとの生活に違和感を覚えて、それでもそういう気持ちを押し殺して暮らしていくことが、二人にとっての幸せなのかどうか。
私がコオロギさんなら、好きな人にそんな無理などしてもらいたくないです。悲しいけれど、でも失恋するならするで、それはもう仕方のないこと。人の好悪は、義理とか押しつけで成立するものじゃないわけで。
むしろ、鏡子が「今までお世話になったしなあ」とか、「ここで急に別れを告げたら、私ってひどい人になっちゃう?」とか、そういう気の遣い方をしたら、その方がいやらしく思えてしまいます。
もう愛情なんてないのに、「自分がひどい人になるから」という理由で、ずるずるコオロギさんの元にいたら、その方が残酷かと。
置き手紙の文字も。「今までありがとう。ごめんなさい」って、実はすごく誠実な内容じゃないかと。つらつらと長文で言い訳することもなく、本当のことを書き連ねて、無駄にコオロギさんを傷付けることはなかったわけですから。
どう書くべきなのか。鏡子も悩んだのではないでしょうか。決して、うれしい気持ちで、後のことはどうとでもなれ~と、いい加減な気持ちで書いたわけではないと思います。
コオロギさんも、あれこれ言われなくても彼女との「合わなさ」は、十分感じていたような。
他の人がどう言おうと、本人同士がお互いを好きならそれで話は丸く収まるわけで。そうじゃなく、コオロギさんも鏡子さんも、お互いに「引け目」を感じていたからこそ、ぎくしゃくしていた部分があったと思います。
心変わりは誰のせいでもないし。
合わないと思うなら、別れるのがお互いの幸せ。そう思いながら、ドラマを見ていました。
目は、そりゃあ見えないよりは、見える方がいいわけですよ。もし、コオロギさんが「こんなことなら、手術なんて受けさせるんじゃなかった」と思ってるんだったら、それはそれで嫌な人だなあと。あ、もちろん、彼はそんな心の狭い人ではないですが。
確かに、見えないときには二人はうまくいっていたし、そのままの暮らしが続けば、幸せも続いたかもしれない。だけど、目が見えるようになったこと自体は良いことなわけだし、そのことによって二人の関係が変わってきたのなら、それもひとつの真実なのかと。
ただ、コオロギさんが必死に働いて用意した手術費は、返してあげて~と思いますが(^^;
手術はすべて、鏡子のためですからね。鏡子が負担すべきものでしょう。コオロギさんはお金返されても受け取らなさそうですが、そこは人として、鏡子はきっちり「ありがとう」って感謝しつつ、返さなきゃいけないよなあと思います。
そして、コオロギさんはそのお金で、新しい彼女とおいしいものでも食べにいったり、新生活を始める資金にしたらいいかも・・・とか、余計なお世話と思いつつ、そんなことを考えてしまいます。
結局、相性だなあと思うんです。
人にはそれぞれ、合う相手というのがいるわけで。条件じゃなく、なんだかわからないけど「好き」って感情がわいちゃう相手。
コオロギさんにも、この世のどこかに、そういう相手はいるはずで。別にイケメンじゃなくても、お金持ちじゃなくても、そういうの関係なく、コオロギさんの心を好きになってくれる人がいるんだから。その人と幸せになればいい。
(しかし、そういう人が現れたとき、今度はコオロギさんがその人を好きになれなかったりして・・・。恋愛は難しい(^^; )
私はこの回で、「愛はあると言え」と、泣きながら百瀬(山崎努さん)にくってかかる亘(わたる)に、心を打たれました。竹野内豊さんは、泣きの演技がすごいです。これが『WITH LOVE』でクールな作曲家を演じていた人と同一人物だとは・・・。
『WITH LOVE』のときの竹野内さんは、本当にクールで。感情を顕にしないし、喜怒哀楽を心のずっと深いところにしまいこんだまま、な感じがしましたが。『世紀末の詩』の亘は、とても素直。泣き顔を見せることへの羞恥もなくて、純粋なのです。純粋だからこそ、回が進むごとに成長していくのがよくわかりました。
たとえばこの第二話、コオロギさんと初対面のときの亘は本当にひどかった。転げまわって笑ったりして。いくら「星の王子様じゃなかった」からといって、あれはひどい・・・。
幼くもあり、鈍感だったりした亘が、いろんな人と触れ合い様々な愛の形を知る中で、成長していく。最後には潜水艦で旅に出る・・・という結末を思うとよけいに、この二話で、人を笑って転げまわっていた亘との違いが、感慨深いです。
愛はある、と、私自身は思いました。亘は気付いてないと思うけど、亘自身が証明しちゃってます。亘はコオロギさんに共感して、いつもはそれなりに尊敬していた百瀬に対し命令形の言葉を使うほど激昂し、涙を流した。
亘の中に、愛があったから、ですよね。
亘の中に愛がなければ、コオロギさんの件は、ふ~ん、で終わってしまったでしょう。コオロギさんの痛みを思い、彼女に憤り、愛があってほしいと痛切に願った、その姿こそが、愛そのものであったと思うのです。
亘の中に存在する。他者を愛おしく思う気持ち。それは、愛でした。