『わりなき恋』岸惠子 著 感想

『わりなき恋』岸惠子 著を読みました。以下、感想を書いていますがネタばれ含んでいますので、未読の方はご注意ください。

あまりにも主人公と著者である岸惠子さん自身が重なるので、これはもう小説というより岸さんの自伝なのかな~と思いつつ、わくわくしながら読みました。本が発売された頃には、相手の男性の名前も、具体的に取り沙汰されてましたし。

主人公、伊奈笙子は69才のドキュメンタリー作家で、お相手の男性は一回りも年下の会社員、九鬼(くき)兼太。最初の出会いは飛行機、ファーストクラスでの隣同士。

出会いの場面には、ぐいぐい引き込まれてしまいました。お互いに隣を気にする気持ち、それから「プラハの春」で話が一気に盛り上がり、心の垣根が取り払われていく過程。

そりゃあ好きになるだろうなあと。このときの九鬼はとてもスマートに描かれていて、かっこよかったです。笙子に対しての言動が、いちいち紳士でした。

そして九鬼の目に映る笙子が、とびきり新鮮に魅力的にみえたのも当然だと思いました。かつて遠い存在だった、自分とは違う世界の人。それが実際会ってみると、美しいだけではなく、プラハの春を語る唇からは、知識と意思と、興味深い過去があふれ出る。惹かれますよね。もっと話してみたい、と思っただろうし、話はいつまでも尽きなかっただろうし。

それは笙子にしても同じこと。放った言葉が、きれいに打ち返されてくる心地よさ。なかなかそういう相手に巡り会えることは、なかっただろうから。

九鬼の、別れ際のさりげなさも素敵でした。ふいっと消えてしまうと、余韻が残るから。笙子の中に、強い印象を残したのもうなずけます。

そして再会の演出もまた、ロマンチック。お店に、あらかじめ笙子へのプレゼントを託しておいたのですよ。小さな深紅の薔薇の花束。そして笙子の好きな銘柄の、チョコレート。

なぜ、そのチョコを選んだのか。それは、笙子が機内で5個ももらっていたのを見ていたから。好物なのをちゃんと、チェックしていたんですね。

でも、こういうことする人は間違いなくプレイボーイでしょう。遊び慣れてるのが透けてうかがえます。

>そうか、ぼくこういうの慣れていないんです

だとか、

>学生時代を通してもこんな手紙は書いたことがありません

だとか、

>これまでにこんなに愛したことはないんだ

だとか。

本の中に、「今までの人生で一番に、笙子だけを愛している」宣言が何度も出てくるのですが、これがもう嘘っぽくて、安っぽくて興ざめしました(゚ー゚;

本当にそうなら、絶対口に出さないよなあっていう。

笙子ほどの人が、どうしてそれに気付かないんだろうっていう。本当であればあるほど、言葉にするのをためらうはずなのになあ。

私がこの本の中で一番好きなのが、飛行機の中での二人の出会いでした。それを頂点に、どんどん盛り下がってしまうのが残念だったな…。

だって、その後の九鬼がちっともかっこよくないのです。それどころか、ずるい男の典型というか。なのになぜ、笙子がそれに気付こうともせず、二人の関係を「愛」という綺麗事に飾ってみせるのか。

想像ですけど。笙子の寂しさが、そして年齢を重ねたことによる自虐が、九鬼につけいる隙を与えたのかなあと思いました。

もし笙子が九鬼と、せめて同い年であったなら。私は笙子が、彼と深くつきあうことはなかったような気がしてなりません。

九鬼の、笙子に対する態度には傲慢さがあります。出会いのときはまだ、遠慮があったんですよね。だから、素敵だったけれど。

転換点になったのは、再会したときに額を合わせて笙子の熱をはかった瞬間。

このとき、二人の関係性が決まってしまったような気がします。笙子は、弱くなってしまった。無遠慮な行為を、咎めなかったから。

逆に九鬼は、自信を深めたのではないでしょうか。これはもう、大丈夫、みたいな(^-^;

私は、笙子が九鬼を本当に愛してたとは、思わないんですよね。出会いの場での一文。

>男は笙子の好みのタイプではなかった

もうこれが、すべてを表していると思いますよ。タイプでない、というのはもう決定的なことで。たとえそれが好感に変わったとしても。タイプでない、という原始的な感覚は、熱烈な恋や、どうしようもない感情には、変わりようがないのではないかと。

それなのになぜ、ずるずると二人はつきあったのか。愛というと、清いもののように響きますが、私はそんなに崇高なものでもなかったんじゃないかと、そう感じました。

まず、九鬼は笙子をどう思っていたか、についてですが。

そりゃあ、好きだったと思います。話していて、笙子のように話題が豊富で、刺激的な存在というのはなかなかいないでしょう。若くてきれいな女の子はたくさんいても、話が退屈なら飽きるのも早い。笙子は、九鬼の知的好奇心を満たしてくれる、貴重な女性だったと思います。

そして、国際的なドキュメンタリー作家という肩書きね。はっきりいってしまえば、笙子は岸惠子さんそのものだと思うので、ドキュメンタリー作家というより、昭和の大女優として考えてみると、九鬼の気持ちがより、見えてくると思うのですが。

九鬼の虚栄心は、大いに満たされたのではないかと。スクリーンの向こうにいた、誰にとっても遠い存在、憧れの大女優が、俺の愛人なんだぞっていう、ね。だからこそ、その関係をわりと、公にしてみせたんだと思うのです。

蘇州でも、デートに、自分の会社の支店長やその秘書を付き添わせるとか。もうこれは、自己顕示欲以外のなにものでもないと思いました。

そのくせ、支店長と笙子の話が弾んだら、嫉妬して不機嫌になり、無視攻撃とかね。なんて小さい人間なんだろうと、目が点になりました。自分が自慢したくて部下を連れてきたくせに。その部下と話が弾んだからって、無視ですか??

昔の岸惠子さんなら。(もう、笙子=惠子さんとして考えちゃってます。だってこれ、私小説みたいなものだと思う)

無視された時点でもう、九鬼をあっさり見限ったのではないですかね。ずいぶん失礼だもの。もうね、怒る価値もないと思います。だってそれが、九鬼という人の性格なのだし。そういう性格の人に、いくら怒ったところで考え方が変わるわけもない。怒るより先に、岸さんなら「あ、そ」とばかりに、荷物をまとめてさようなら。そういうさっぱりした、行動力のある女性ではなかったかと。

でも、この小説の中に描かれる笙子は、見ていて痛々しいのです。どうしてそんなに、九鬼にすがりつくんだろうっていう。

冷静に見て、あきらかに都合のいい女性になっちゃってるのに。

家庭は絶対に壊さない。でも愛しているのは君だけ、とか。そんな言葉、若い女性が信じるならともかく、笙子ほど人生経験重ねてきた人間が、それ単純に信じて喜ぶの?という。

九鬼の失礼なところはいろいろあるんですけど。まず、笙子の家にずうずうしく泊まりにいっちゃうところとかね。ちょっと食事して仲良くなったからって、女性ひとりの家に泊まりにいくかなあ、それなりの地位もある男性が。

まあ誘っちゃう笙子がそもそもおかしいのですが(;;;´Д`)ゝ

きっとさびしかったんでしょうね。でもこの誘いによって、見くびられたのは確かだと思います。もし見くびってなければ、九鬼は遠慮したでしょうから。

独身女性の家に泊まりにいくなんて。たとえ何もなかったとしても、もし悪い評判でもたてば、申し訳ない話ではないですか。相手を尊重する人なら、もう少しつきあいが深くなってからならともかく、まだ知り合ったばかりで、そういう行動には出ないはず。

まして九鬼は、妻帯者なのです。軽率な行動は、多くの人を傷付けてしまう。自分だけの気持ちでたやすく動けるような、無分別が許される立場ではないかと。

そして、たびたびかかってくる謎の着信とかね。笙子もうすうす気付いているようないないような、微妙な描写でしたが、あれは明らかに、女性からの電話。もしかしたら、妻からなのかも? もし笙子を本当に大事に思うなら、携帯は切っておくでしょう。会える時間は限られているのに。

笙子を不安にさせることをわかっていながら、最初から電源を切っておかないのは、それが九鬼の、笙子に対する本当の気持ちなのだと思います。言葉より雄弁に、物語ってる。

あと、笙子が大家族への強い憧れと、疎遠になった子供、血縁者が少ない寂しさを早い段階で率直に話しているのに対し、九鬼はわりと、自分の家の話を無神経に自慢しているのが思いやりのなさ=愛のなさ、だと思いました。

大切な相手だったら、その人が嫌がる話は避けますからね。

どうやったら喜んでくれるだろう。どんなことをしたら嫌われるだろうって。恋におちたら、まずそれを考えると思うのです。九鬼は、あくまで自分中心。九鬼にとって、笙子はしょせん、それだけの存在だった。

ということで、本を読み進めるにつれ、九鬼のずるさと、必死にすがりつく笙子の哀れさが際立ってきて、読むのがつらくなりました。

最後、笙子から別れを決めたのは、綺麗事でしょう。これ、実際には、九鬼が笙子に飽きてしまったんだと思います。ますます投げやりに、態度もぞんざいになっていく九鬼に、笙子がため息をついて、形としては笙子から別れを告げたと、現実はそういうことだったんだろうなあと。

お話としては美しいエンディングですが、そこにいたるまでには、よくある痴話喧嘩が、どれだけ、うんざりするほど繰り返されただろうかと、そんなことを想像してしまいました。すがる女性、逃げる男性。

最後には笙子も、これはもう駄目だと覚悟を決めて。

現実には、小説のような美しい別れなど、なかったでしょう。九鬼のそれまでの言動を見たら、想像がつきます。

年をとっても、こんなにも美しい恋ができる、というお話ではなく。

年をとったら、寂しいからといって変な相手にすがりつくのはあまりにも惨めだと。そんなお話だと思いました。

なぜこの小説を岸さんが書いたのか。復讐なのかなと思いました。それと、自分の体験を脚色し美化して書くことで、本当に愛されていた、純愛だったと信じたかったのかもしれません。

でも本当は、そっと自分の胸だけにしまっておいた方が、誰も傷付かなくてよかったのにと思ったりもします。相手にはご家族もいるわけで。

出会いの飛行機の描写だけが、きらきらと光って素敵な小説でした。後半はもう、むしろ読みたくなかったです。二人の出会いの輝きが、汚されるような気がしました。

小保方晴子さんの会見を見ての感想

 小保方晴子さんの会見を見ての感想。

 私の率直な感想。う~ん、これはSTAP細胞、実際にはないんだろうなあ、でした。

 なぜかというと、もしあるのなら、それも小保方さんの言う通り200回以上作成に成功してるなら、作るところを専門家に見てもらえばそれですべて解決するのに。

 「証明させてください。作成するところを見て下さい」とは、言わなかったからです。

 特許とか絡むなら、別に全世界に公開しなくてもいいですが、専門家チームに見てもらい、その人たちに証明してもらったら、これってすぐに解決する話ですよね。STAP細胞は作成日数がIPS細胞に比べて早く、簡単だというのだから、実際作ってみせるのが一番の方法でしょう。

 もし疑われて本当に困ってるなら、絶対言うはずなのに。言わなかった。

 そして、名前は出せないけど、第三者で作った人がいるみたいなことを言ってましたが、名前を出せないのだったら、全然証拠にならないのでは?Σ(;・∀・)

 それでも、小保方さんがまっすぐな目で、最後まで堂々と臆することなく身の潔白(STAP細胞の存在)を訴えたので、まさか嘘はついていないだろうと信じる人も一定数いたようですが、そのまさか、という考えは少し甘いかも、と思ってしまいました。

 別に彼女がそうだと決めつけているわけじゃありません。
 ただ、世の中には、一定の割合で、ものすごく爽やかに、一片の曇りもない笑顔で嘘をつける人もいるのです。
 私はそういう人に、実際会ったことがあります。要は、「証拠は何もないけど、あれだけ言ってるんだから本当のことだろう」という考え方は危険だよ~ということです。

 そもそも、こんな、STAP細胞はあるのかないのか、なんて議論、本当は論文提出前に、理研がすべきことなのでは?と思ってしまいました。小保方さんは理研の研究者として論文を出したのだから、理研にはその責任があるはず。
 こんな世紀の大発見、普通なら本人以外が何度も確認するし、こんな間違いとか、あり得ないと思うのですが。

 

 責任の大きさで言うなら、小保方さん個人よりもその上司、そしてその上司を監督すべき理研の上層部の方が大きいと思うし、これは組織としてものすごく、問題があると思いました。理研の研究には多額の税金が投入されているのですよね。大切な研究費という自覚がないから、こんなにいい加減なことになるのではないかと。

 徹底的に改革して、本当に真面目な研究者が報われるようになってほしいです。このままの理研では、いけないと思います。この騒動の調査チームは、全員理研の外部から抜擢すればいいのに・・・というか、そうでないと、もう進展しないような気がするのですが。しがらみもあるでしょうし。

 内部の人達では、果たしてどこまでできるのか、疑問です。

別れの桜

 ちょっと見ない間に、川向こうの近所の工場が、廃屋になっていた。

 敷地内にあった灯りはもうない。だから、フェンスの向こうの見事な桜の並木も、闇の中にひっそり、息をひそめていた。

 目を凝らして、まさかと思いながら建物を見た。24時間操業が、昼だけの操業になった可能性もあるかなあ、なんて。僅かな期待は、あっという間に砕けた。暗闇に浮かんだのは、割れたガラスと、穴のあいた壁。
 この状態で、工場が稼働しているとは、とても思えない。灯りもない。人影もない。人の残すざわめきの名残もない。

 昔、川沿いに建つその工場で、印象的なお花見の光景を見た。

 月も出ない、曇り空。工場の窓から漏れるほのかな明かりと、ほんの申し訳程度に設置されたポールライト。

 照らし出されたのは、簡素な長机と、そこに並べられた料理や飲み物。作業着姿の人達が席につき、それはそれは、静かなお花見を楽しんでいた。

 囁きのような談笑。
 酔っぱらった大声は、そこにはなくて。耳をすませても、言葉の内容なんてまるで聞こえてこない。おしゃべりは意味のとれない、純粋な音のさざ波。そこに咲く桜の花と同じような、ささやかでしとやかな、夢のような宴。

 ぼんやりと浮かびあがる白い桜の下で、幻のような人達が、なにごとかを話しながら花を愛でていた。その川の向こう、フェンスの向こうの光景は、なんだかこの世のものとはおもえないような。異次元の空間を、のぞき見たような。

 端の方に座る、ひとりの男性に目がとまった。仕事の後だからか、疲れているようだった。他の人たちよりほんの少しだけ、距離を置いて座っているのが気にかかった。誰とも話さずに、でもちゃんと、他の人達と繋がっている感じがした。そしてそのことを、嬉しく思っているように見えた。

 そのとき、私は勝手に想像した。
 毎年この会社は、この季節に親睦のお花見をするんだろうな。みんな、いつも会社と家との往復で、厳しい夜勤も含めたシフトの中、同僚同士で親しくなる機会も、なかなかなくて。
 口数も少なく、大人しい人にとって、この花見はくすぐったいような、でも貴重なイベントなんだろう。

 全員参加。っていうのが、社長命令なのかもしれない。
 離れた店へ行くのではなく、終業後にそのまま外に机を並べ、食べ物飲み物を用意したなら。時間のロスもなく、誰もが参加しやすい。
 せっかく、こんなにも見事な桜を、何本も持っているのだもの。逆に、外部の人間が花見をしようにも、私有地だからできない。この会社だからこその特権。年に一度の贅沢。

 嬌声も、まばゆい灯りもない、静かなお花見。

 同僚と、少し距離を置いて座る人も。こそばゆいような嬉しさがあったような。照れながらもね。同じ桜を、しみじみ愛でるこの瞬間を。共に働くひとたちと共有していた。それは、どこかへ場所取りして、わいわい賑やかにやるお花見とはまた別の、全く違う種類のお花見だった。

 廃屋になったその工場に、今、人影はない。桜は今年も見事に咲き誇っていたけれど、あのときのぼんやりとした灯りさえない、深い闇の中。誰ひとり、咲きこぼれる花を見上げる人はいなかった。

 別れは突然やってくるんだなあと思った。
 明日からいなくなります、さようなら、なんて。挨拶できる別れの方が、希少なんだと。なんの予告もなく、ある日突然気付いたら。二度と再現されない光景。会えない人達。

 あのとき、他の人達から少し距離を置いて、ひとり紙コップを持ち、桜を眺めていたあの人は。今どうしているんだろう。どんな気持ちで、今は別の桜を見ているんだろうか。

 もう稼働していない工場のことがどうしても気になって、後日また見に行ってしまった。だけどやっぱり、そこには誰もいなかった。