昨日はあるイベントの行われている植物園へ行ってきた。土曜日だし、当たり前といえばそれまでだが、とにかく人が多い。
広々とした敷地には、人があふれていた。ちょっとすいてるなと思うところを歩いていても、次の瞬間には人の流れが変わり、人だかりができていたりする。人が人を呼ぶ、というのは実際、あると思う。人だかりは人だかりを呼ぶ。イベントと休日の相乗効果で、今日の植物園はかつてないほどのにぎわい。駐車場ももちろん満車。どこを歩いても人から逃れられない。
一息つこうと、人のいなそうな木陰に座りこんでも、まるで人影に引き寄せられるかのように、にぎやかな家族連れが通りがかったり。
もう東京には住めないなあ、とぼんやり思った。
かつて、そこに当たり前のように暮らしていた自分を遠く感じる。今の私は、もうあの不夜城のような空気にはなじめないだろうな。
好きな場所だし。思い出はたくさんあるし、懐かしくて楽しくて、遊びにいくことはあっても。生活の拠点をあそこに置き、そこで生きるということはもうないなあ。そんなことを思った。
満員電車や、道を歩けば時間を問わず誰かがいる環境、いつも誰かが周りにいる、という感覚。
その感覚を、不快と感じる自分がいる。
森の中で、ひとりでいる快適さを思ったり。
昔、寂しがり屋の人の話を聞いたことがある。急に人恋しくなったとき、、意味もなく賑やかな場所へ出かけたりすると。
たとえば混む時間のスーパーとかね。
そして、うろうろとする。ただそれだけで、気持ちが楽になるのだという。自分が世界で独りぼっちじゃないということが、認識できるんだとか。
私にはその気持ちはわからなかった。そんな目的で、スーパーへ足を運んだことはないから。
逆に、人疲れして、誰もいない自然の中に逃げ込みたくなったことは何度もある。
寂しいと口にする人を、甘えだと冷めた目で見たこともある。
世の中には寂しさなんかよりもっと、つらくて苦しい感情があると思ったから。
けれど。深く「寂しさ」について考えていくと、結局は、「じゃああなた本当に世界中でひとりぼっちの状態になっても楽しいの?ずっと平気なの?」という疑問に辿りつく。
ある日気付いたら、世界には自分以外の誰もいませんでした。最初の一日はのんびりできるかもしれない。だけど一年後、そして二十年後。その世界に楽しみは残っているのだろうか。
人以外の動物を、仲間として生きていくとしても。
そりゃあ動物は可愛い。裏切らない。けれどそこに、生きる喜びみたいなものは、残っているのだろうか。
ないだろうな、と。いつも、私の結論はそこに行きつく。
動物は可愛いが、人ではない。
生きる上での究極の幸福は、人との関わりにこそ、あるのではないだろうか。
昔、私が憧れていた人が、「そりゃあ最後は人間だよ」みたいなことを言って。私はしみじみと、その言葉の意味を考えたものだ。
その人は、一人が好きな人だった。誰かといるより、一人を望んでいるように思えた。だからその人の口から、「最後は人間」という言葉が出てきたことが、とても不思議で。
何度も何度も、考えたものだ。
しかし今あらためて、自分自身のこととして考えてみても。感情の揺れは、結局のところ、人によってもたらされるものが一番大きい。
自然の中で美しいものに感動しても、それよりももっと大きな、圧倒的な幸福のうねりをもたらせてくれるのは、人間だ。
音楽や小説、映画、そして言葉そのものなどなど。自分の心に共鳴するものに触れたとき、心は大きく動く。それは、表現された物の中に、その人の心を見るから。
誰かの心に、自分と同じ部分をみたり。あるいは、自分にない新鮮な驚くべきものを発見したり。
それが喜びで、幸福で。それ以上のことなど、あるのだろうか。
西脇順三郎さんが描くカルモヂインの田舎には憧れるけれど、もしその世界に永遠に飛ばされたら、きっと私は元の世界が恋しくなると思う。
今、Polina Gagarina の歌う Kolybel`naja という曲を聴いているのだが、初めて聴いたとき、カルモヂインの田舎という言葉を耳にしたときと同じ、強烈な異国感を感じた。異国感というのが、正しいのかどうか。もはや、同じ次元世界でさえ、ないのかもしれないとも。
それは、日本語じゃないからというだけではなくて。音から伝わる世界が、まるでこの世のものとは思えなかった。
懐かしくて、美しくて、遠い場所。その場所が何かを、強く訴えているような。
気になって、曲の歌詞の意味を調べてみた。英語に翻訳してくれたサイトがあったのでそれを見たが、歌詞が曲をそのまま伝えているようには思えなかった。
むしろ、音から伝わるのはもっと何か。別の、それ以上のもののような。
だから、この曲に関しては、歌詞はあまり大事ではないのかもしれない、と思う。言葉の意味がわからなくても全然構わない。音が伝えるメッセージや印象が、言葉以上のものを雄弁に物語っている。
polina gagarina が描くその場所は、とても美しい。行ってみたいと、単純にそう思った。