『レベッカ』訳者によって、マキシムは別人になる

 昨日のブログに書いた「マキシム扮装の動画」があまりに素敵だったため、それに触発されて、小説『レベッカ』の日本語訳を、読み比べてみました。日本では、大久保康雄さんの訳と、茅野美ど里さんの訳と、2種類の翻訳本が出版されています。以下、ネタバレを含んでおりますので、未見の方はご注意ください。

 大久保康雄さんの訳を読みましたが、原文で読んだときの淡々としたイメージがそのままで、違和感が全くありませんでした。英語だからとか、日本語だからという枠を超えて、原作の香がそのまま訳されているように感じました。

 『レベッカ』という作品。私は、湿度の低さを感じるんですよね。じめーっとしてない。乾燥している。冒頭、延々とマンダレイの記述が続くのですが、それは決して、陰鬱とした日陰の植物のイメージではなくて。

 そして主人公の「わたし」も、涙からは遠い位置にいる。メソメソしてない。

 彼女が泣くときは、涙はただ流れ落ちるのみで。その涙を武器にする姑息さも、いつまでも誰かの腕にぶらさがろうとする執拗さも、なくて。

 そんな「わたし」の、べたつかない心地よさを、うまく表した文章だと思いました。簡素といえば簡素。でも、必要な要素は全部つめられていて、なにげなく、しかし全部が。きれいに、丁寧に整えられている。

 対する茅野美ど里さんの訳は、大久保さんの役よりもやや湿り気があるイメージ。大久保さんよりも現代的で、原作にやや、ドラマチックで派手な要素を加えた感がありました。

 どちらの訳が好みかは、人によって分かれると思います。

 私は断然、大久保さん派です。

 この、原作と同じ、淡々とした雰囲気がいいのです。停滞することなく、指の間から砂がこぼれおちるように、ただ粛々と、登場人物たちが踊っている感じ。

 二人の訳者の対照的な部分といえば、たとえばこの箇所などは典型的です。

【大久保訳】

>そして身をかがめて、わたしのひたいに接吻した。

>「けっして黒繻子の衣装なんて着ないと約束なさい」

【茅野訳】

>身をかがめて頭のてっぺんにキスした。

>「黒いサテンのドレスなんて絶対着ないって約束してくれ」

 この部分を読めば、二人の訳者のカラーがわかると思います。私は大久保さんの、距離感のあるマキシムの描写が好きです。距離感です。マキシムは決して、「わたし」に不用意に近寄ろうとはしない。マキシムの前に引かれた見えない一線は、他者の立ち入りを許さない。誰かがそれを超えようとすれば、二度と彼は、愛想以上の笑みを、その人に見せようとはしないでしょう。

 貴族ということも、年長であるということも。「わたし」の目からみたマキシムをよけいに、遠い存在にさせていたはずです。だから、言葉遣いも大事だと思うんです。

 マキシムは親しい口調で「わたし」に話しかけることはなかったと、そう思います。あくまで一人のレディに対するように。敬意をこめて、よそよそしく。

 マキシムの前に引かれた見えない一本の線は、他者の立ち入りを拒むためだけのものではありません。マキシム自身が、他者の聖域に侵入しないための目印でもあるのだと思います。だから、マキシムはあくまで一定の距離を崩すことなく、「わたし」と触れ合うのです。

 「わたし」がレベッカの影に怯えるのは、マキシムのこの、よそよそしさもあったと思うんですね。マキシムと「わたし」が最初から近い位置にいたなら、前妻だろうがなんだろうが、2人の間に入り込む余地などなくて。「わたし」はもっと自信を持って振舞っただろうし、過去に不安を抱くこともなかったでしょう。

 だからこそ、大久保訳の「・・・なさい」という、優しくも毅然とした物言いが、マキシムには合っているという気がします。茅野訳だと、言い方が乱暴な分、親しみを感じさせるのですよね。「わたし」はその、ぶっきらぼうな物言いに、心理的な近さを感じてしまうと思います。

 それだからこそ、こだわりたいのです。「わたし」は決して、マキシムを近く感じてはいけないのです。近く感じた次の瞬間に、ふいっと遠くへ行ってしまう存在でなければ。それがために、「わたし」は不安で、心配で、恐怖を覚えるのですから。

 マキシムが「わたし」に結婚を申しこむ大事なシーン。訳者によって、こんなにも雰囲気は違ってきます。

【大久保訳】

>ところで、あなたはまだぼくの質問に答えていませんね。ぼくと結婚してくれますか?

【茅野訳】

>まだ答えを聞いてないよ。ぼくと結婚する?

 事ここに至っては、同じマキシムでも、キャラが億万光年ほど離れたものになってしまいました。大久保訳のマキシムが素敵すぎます。

 たぶん、何年も付き合ったカップルであったなら、「僕と結婚してください」というのが、私的には理想のプロポーズなんですね。何年とはいわないまでも、ともかく、心の交流があり、十分にお互いをわかりあえた間柄であれば。有無を言わさず、片膝付いてお願いする、みたいな姿勢こそベストだと思うんですが。でもマキシムの場合。2人はまだ、友人と恋人のギリギリの境界線に立っている段階なので、それならこれが、最上の言い方になると思うんです。

「ぼくと結婚してくれますか?」

 この、率直でありつつも相手への敬意を忘れない言葉遣い。NOという選択肢、逃げ道を残してあげる配慮がいいですね。これなら、イエスもノーも、言いやすい。どちらを言うにしても、心理的負担が少ない。

 このへんは本当に、個人的な好みだとは思いますが。私がもし、「わたし」の立場で茅野訳のような言い方をされたら、興醒めして断りますね。「結婚してあげてもいいよ」みたいなニュアンスを感じてしまう。一見、相手に選択権を与えているようで、でもかすかに、侮蔑の気配が漂う。

 「結婚という人生の一大転機を、あなたはどうとらえてるの? あなた自身は、結婚したいと思っているの?」と、逆に詰問したくなってしまうでしょう。

 訳によって、原作の雰囲気もずいぶん違ってしまうことが、よくわかりました。細かいことですが、物語の舞台をマンダレイと訳すか、マンダレーとするか、というのにもセンスが分かれていますね。私は「マンダレイ」という字面が好きです。大久保訳はやはり、「マンダレイ」としています。

 大久保訳の、厳かな雰囲気が好きです。目の前に、冷たい、遠い目をしたマキシムが浮かんでくるようです。

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