レベッカの目線 マキシムの目線 その3

 昨日のブログの続きです。舞台『レベッカ』を見て思ったことなどを書いています。ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

 こういう強烈な体験をしてしまうと、どこかでちゃんと断ち切らない限り、幸せにはなれないと思いました。たとえばマキシムを助けてくれる人が目の前にいても、それが正しく見えなくなってしまうんじゃないでしょうか。普通ではなく、独特のフィルターを通して見てしまうようになるから。レベッカの透明な腕が、彼をぎゅっと抱きしめて、幸せな道へと向かわせない。

 レベッカの見えない腕で操られていることにすら気付かずに、その手の導く方へ、ふらふらと歩いていく。

 マキシムが不幸であればあるほど、レベッカは高笑いをして彼をさらに、地獄へ地獄へと誘う。この世で、幸せになんて絶対させないという、恐ろしい執念。

 山口さんが演じたマキシムを見ていたら、こんなレベッカ像が浮かんできました。最初はモノクロで輪郭も定かでない人物が、カラーになり、言葉を話し、音楽を身に纏ったのです。私は山口さんの声の向こうに、数えきれないほどの物語を、見たような気がしました。マキシムがそこに到るまでの物語です。

 こんな風に、観客の心に、目の前に広がる舞台以上の幻想を描き出す演技って、すごいなあと思いました。もちろん、脚本や演出や美術、衣装、音楽という連携があってこそですけれど、やはり中心にいるのは役者だと思うので。幾人もの手を経て彩られた物語を、最後に、観客に渡す役割はやっぱり俳優さんです。

 それで、山口さんの場合、歌が凄い。台詞もいいけど、歌でも鮮やかに伝わってくる。声に感情が乗っているのです。目を凝らせばいくらでもその奥に、風景が広がっている。だから客席にいながら、私は瞬時に別次元へ、マキシムの暮らす土地へ飛べたような気がしました。

 今回の観劇は、席が後ろの方だったのでよけいに、歌を堪能しました。表情の細かい部分は見えないので。声が伝える情報は、劇場という空間の中では日常以上に、大きいのだと思います。

 山口さん自身は、マキシムをどうとらえているんだろう? どんな目でレベッカを見て、「わたし」に出会い、そしてレベッカを回想しているんだろう? 山口さんがどんなマキシムを心に描いているのか、聞いてみたいです。きっと独特の言葉で、その目に映る景色のことを解説してくれそうですね。

 死者には勝てない。そんな言葉を思い出しました。

 いい思い出だけが残るそうです。だから、その後どんなに素敵な人が現れても、一番はその、亡くなった人だそうです。生きていればその人の嫌な面を見ることになったかもしれない。でも、記憶の中のその人はもう、意地悪なんてしないから。いい思い出だけを繰り返し、たどることになるわけで。日がたつごとに、遠い日の風景は美化されていきます。

 精神的呪縛や記憶を、完璧に消すことなんて、無理なのかもしれません。いくつもの過去が、現在のその人を作り上げるわけで。「わたし」が出会ったとき、マキシムはすでに「レベッカ」を心に抱いていた。そして「わたし」が好きになったのは、レベッカごとの、マキシムだったと。

 ここらへんの感情は、高橋留美子さん原作の「めぞん一刻」、五代くんにも通じますね。実はこれを書いているとき、私の頭の中には五代くんの台詞が頭の中にありました。お墓の前での誓い。名シーンです。

 マキシムにとってレベッカは。いい思い出ばかりではなかったかもしれないけどとにかく強烈で、魅力的な人だったでしょうね。どこかで繋がるものを、直感で感じたのだと思います。たとえ破滅することがわかっていたとしても、近付かずにはいられないほど。

 舞台をバトンに例えるなら。

 ほい、って手渡されて、渡された観客が、そのバトンをしばし握り締めて、物語の世界に身を浸す。そのバトンを持っていると、遠い記憶が甦ってうずうずするみたいなところがあって。そして、その刺激が絵筆となる。観客は、バトンに自分の思う色を塗る。

 だから、元は同じものでも、見た観客の数だけ、違うバトンが出来上がって。

 きっと何度も見に行けば、そのたびごとに、違う色が塗られていくバトン。私が見た日の『レベッカ』バトンには、まだ白い部分が所々ありました。何の色にも染まっていない代わりに、どんな色にでも変わることのできる可能性。

 次の観劇日には、どんな色のバトンがもらえるんだろうか。楽しみに待っています。何度も、舞台を思い返しているのです。

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