仕事が終わり、明日はお休みという日の夜。
街灯もほとんどないような、暗い夜道を自転車に乗っていたら。
車の音も聞こえなくて、空には上弦の月。
星もキラキラ瞬いて、なんだか非常に、いい感じ。
不意に、少し離れたところにある工場群から聞こえてきたのはオルゴール曲。
きっとシフトの交代を知らせる音楽なんだろう。そのときの空気が、とてもせつなくて
胸にぐっとくるものがあった。
その音は、優しくて温かかった。私はそこで働く人たちのことを想像して、
その一人一人の人生のことを思った。
そういえば、こんなことがあった。
昔。バス停でいつも会う女の子がいた。セーラー服を来た高校生。私は
その子のことなんて、名前も住所も、なんにも知らない。だけど、
1年以上毎日会えば、自然と慣れる。見知ったその顔がバス停にあるのは、私にとっての日常だった。
やがて春が過ぎた頃。その子の姿は見えなくなった。どうしたのかなと気になっても、
確かめるすべなどあるはずもなく。やがて、私自身がその子のことを忘れかけた頃に、
私は同じ道で、別の時間帯にその子と再会した。
再会なんて大げさなものではないけど。単にすれ違っただけ。でも、
顔立ちも歩く姿も、全然変わっていなかった。その子は、高校を卒業して
すぐに近くの工場に勤めるようになったらしい。
もう、セーラー服ではなかった。会社の作業着を着ていた。
私は感傷的な気分になって、その子のセーラー服姿を思い浮かべたのだった。
そうか。卒業したんだ。じゃあもう、あの制服でバス停に立つことはないんだね。
当たり前のように目にした風景も、もう永遠に、戻ってくることはないんだね。
工場のオルゴール曲。夜の空気を震わせる澄んだメロディ。
あのときの子が、そこの工場で働いてるわけじゃないんだろうけど。
でも、想像してしまった。夜勤で働くその子のことを。
淡々と、表情一つ変えずに、黙々と働いている幻の姿を。
いろいろ考えながら自転車のペダルを漕いだ。
家に帰ると、その日はすぐに寝てしまった。
翌朝目覚めると、なんと11時過ぎ・・・。
目ざましをかけない、自然の目覚めというのは、真に気持ちのよいものである(^^)
あんまり天気がいいので、家でぼーっとするのももったいない気がして、買い物を兼ねて
散歩に出かける。2月なのに、気温が高くて春の気配。
冬のコートを羽織ってきたけど、それが重く感じられるような、うららかな空気。
ぶらぶらとお店をまわり、大好きな明治のチョコレートを買った帰り道のこと。
昼下がりの道を、向こうから自転車がやってきた。人気のない道である。
ゆっくりとしたスピード。遠目には、少しふらついているようにも見えた。
お年寄りなのかな? そう思ったけれど、近づいてみれば、それは高校生のカップルだった。
男の子は、同級生?の女の子を後ろに乗せて、とても嬉しそう。
女の子の声が聞こえた。
「ねえ、どこかへ行こうよ」
「え?」
男の子は、戸惑ったように首を傾ける。
きっと、彼女は何処に行きたいのだろうかと、真剣に頭をめぐらせているのだ。
もしも具体的な場所を挙げてくれたら、彼はどんなに遠くであっても、
厭わず走ってくれるだろう。
走り去った自転車。それ以上の会話を、聞くことはなかったけれど。
微笑ましい光景だなあと、私まで温かい気持ちになったのだ。
たった一瞬でもね。付き合い始めたばかりの、幸福感が伝わってきたから。
男の子は、ペダルに感じる彼女の重さが、嬉しくて仕方ない。
大好きな人が自分のすぐそばにいて、自分の自転車に乗ってるんだからね。
だから、なんでもしてあげようって、本当にそう思ってるんだよね。
彼女の望む場所なら、それこそ地の果てだって、遠くはないはず。
だけどね。彼女の言葉の意味は、そういうことじゃないだろうなあって
私は思ったのでした。
どこでもいいんだよね、たぶん。
だって、本当にいい天気だったからさ。
公園とか、湖とか、見晴らしのいい丘とかさ。
付き合い始めたばかりの恋人となら、どこへ行ったって、そこが特別な場所になる。
のどかな空気。平和な田舎の午後。
だから彼女は、学校から家までの距離じゃなくて、とにかく
どこかへ行きたかったんだよね。彼と。
どこかへ行きたいっていうのは、彼女の本音。
だって本当に、素敵な午後だったんだもの。
彼が必死になって考える必要はないのに、でも、
その真剣さが、いいなあと思ったのでした。
夜と昼、それぞれに。私は、胸に残る風景を見ました。