若きピアニストの疲弊

 若手ピアニストのコンサートに行ってきた。チケットもぎりのお姉さんがにっこりと笑うその数歩先に、異国の若い女性が立ち、プログラムを手渡してくれた。

「いらっしゃいませ」

 習ったばかりの言葉には、くせの強いなまりが残ったまま。幼い顔立ちには、不安の色が見えた。その瞬間、ピンときた。
 そうか。今日のピアニストの奥さんだなと。

 なぜ瞬間的にそう思ったか、理屈ではなく、確信していた。
 同時に、その女性の感情を、覗き見たような気がしていた。才能あふれる夫への誇りと、コンサートの評価に対する不安を。

 「こんばんは」と私が挨拶すると、彼女は嬉しそうに、そして、はにかんだように小さく笑った。笑うと、ますます子供のように幼く見えた。

 知名度のあるコンクールで優勝し、世界中を演奏してまわる新進気鋭のピアニスト。若く二枚目の彼には、女性ファンが多いみたいだ。客席には、熱っぽい目をした女性が多かった。

 それなのに奥さんが目立ってしまっては、集客にマイナスではないのかな? 席に座り、開演を待つまでの間、私はそんなことを考えていた。客を迎えるスタッフ側に加わることを、彼女は自分から希望したんだろうか。主催者はそれを、快く了承したんだろうか。そしてピアニスト自身は、どう思ったんだろう。
 ツアーに同行することはともかく、異国の彼女の姿は目立つ。ホールにいれば、関係者と気付く人は多いだろう。反対する意見もあったのではないのかなあ。

 それでも、熱心に訴えたのだろうか。
 少しでも手伝いたい。できることはなんでもやりたい、と。客層や客の反応を見るのには、確かに会場スタッフとして参加するのが一番、いい方法だろう。

 きっと結婚したばかりなんだろうな。
 純粋な、きらきらした先ほどの瞳を思い出していた。コンサートの成功を願い、またその一方で、不安をぬぐいきれない瞳の色を。

 幸い、二列目ど真ん中という良席。顔やペダルの動きもよく見えるはず。あんなに可愛らしい女性の夫となった人は、どんな人だろう。どんな音を響かせるんだろう。
 私を含め、会場中がコンサートの主役を、いまかいまかと待ちわびていた。ステージの上にはピアノだけが置かれていた。これ以上はない、シンプルな構成。

 大勢の視線が集中する、その絡みつくような独特の空気の中。現れたピアニストは、絡みつく視線の糸の重さなど、まるで感じさせない軽い動きで。丁寧に頭を下げ、ピアノの前に座った。気負いなどまるでなかった。
 彼にとっては、ピアノと向き合うことは日常。大勢の視線に囲まれることも、これまた日常。何千回ある機会の、単なるひとつにすぎないのだなと。見ていて感心してしまった。普通の人なら、これだけの張りつめた空気の中でピアノに向き合ったら、それだけで腕も指も、意志に逆らってぶるぶる震えだしそうだ。

 それから長い時間。彼はピアノを弾いた。
 最初の曲を聴いたとき、私の目には涙がじんわり浮かんだ。懐かしい感じがしたから。いつの時代かもわからないが、今よりもっと遠い時代の、ここではない異国の地の風景が、脳裏に浮かんだ。
 音はイメージを想起させる。
 それはやはり、日本の風景ではなかった。作曲者もピアニストも、どちらも異国の人だったからかもしれない。ピアニストは寒い国の出身で。その人の故郷の空気の冷たさが、伝わるような演奏だったように思う。

 私は、行ったこともない、その人の国のことを思った。

 その後に続いた、プログラムの曲は。どれも有名で、けれど定番と言われるほどではなく、その絶妙な選曲の加減は、おそらく主催者の苦労のあと。あまりにも定番すぎては飽きられる。かといってマニアックすぎては、万人受けしない。

 けれど、演奏が進むうちに、私は気がついてしまった。

 もちろんテクニックは素晴らしい。大きなコンクールで優勝したのだから、実力は保証されている。ピアニストも当然、全力で演奏し、手抜きなどしていない。

 だけど彼は、楽しんでいなかった。疲れていた。

 無論、正確なタッチはいささかも乱れない。彼自身に、演奏を投げ出す気持ちなどまるでないだろう。けれど彼は、「楽しくない」のだと分かった。楽しくないのだが、弾いている。彼はピアニストで、大勢の人が彼の演奏を待っていて、彼を支える大勢のスタッフがいて。

 コンサートの最後の曲が終わったとき、会場は大きな拍手に包まれた。スタンディングオベーションはなかったが、それに近い興奮が場を満たしていた。満席だったし、それは大成功といえる公演だったはず。
 だけど、お辞儀する彼は、あまり幸せそうにみえなかった。笑顔を見せたけど、その笑顔はひどく、疲れているように私には見えた。

 何度も何度も、鳴りやまない拍手は、袖に消えた彼をステージに呼び戻し、彼は幾度も深くお辞儀し、聴衆の賞賛に答えた。
 けれどその顔に、疲弊の色は濃い。

 結局、彼はアンコールで二曲、短い曲を弾いた。そのうち最初のは、観客へのサービスをこめた曲だったように思う。そして、それに飽き足らない拍手の波に押されるようにして、本当に、その日の最後となる曲を弾いた。

 その曲は、彼自身が本当に好きな曲だった。私にはそう聴こえた。

 大きな盛り上がりもない。超絶技巧を披露する見せ場もない。優しく、静かで、ゆったりとした水の流れを思わせる曲。海? それとも川? 穏やかな水の流れだなあと、私は思った。

 コンクールに優勝した日の彼の報道を、見たことがある。若い情熱と、興奮に輝く瞳。ついに、ピアニストとしてはばたく、大きなチャンスを手にしたのである。どんな未来が待っているのだろうか。その目はただ、明るい未来だけをみつめていた。その日の嬉しさには、一片の曇りもなかった。喜びが、爆発していた。

 疲れていたのは、好きな曲を弾けないことが原因か。強硬なスケジュールが原因か。本当のことなどわからない。もしかしたら、疲れたようにみえたのは私の目の錯覚なのかもしれない。

 けれど私は、ピアニストが疲れているなあと思った。それは演奏の疲れではなく。

 袖に戻る背中は、ひどく華奢で、不安定に揺れているように思えた。ふらつくのを、必死に耐えているようにさえ見えた。

 私はあらためて、今日、開場のときに見た、若い女性のことを思い出した。彼女が妻なら、彼女の存在は彼にとって必要なもので。こんなに倒れてしまいそうなほど繊細で、疲弊している彼をなんとか、現実につなぎとめているものは、彼女なのかもしれないと。

 最後の曲だけが、本当に彼らしい曲なのだと思った。なんの衒いも迷いもなく。彼がそれを弾くと、昔の、プロになる前の自分に戻れるのではないだろうか。そりゃあ、コンサートの目玉にするには、主催者にとっては勇気のいるような、地味な曲かもしれないけれど。

 私がその日いちばん心打たれたのは、アンコール最後の、その曲だった。

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