犬を飼うならシーザー・ミランを見よう

雨が降るとほっとする。雨降りの日だけは、犬のフン尿被害がないから。

もう、目の前で犬のフン尿見るのが嫌なんだよね。一部の飼い主は、まったく悪気なく、公道や草むらで犬に排泄をさせている。けれど、自宅以外で排泄させていい場所なんて、どこにもないと思うんだよ。トイレは自分の家で!犬を飼う以上、犬を家族だというなら、自分の家でトイレをさせるべきだと私は思う。

草が生えてるからとか、土があるからといって、その場所はあなたの犬のトイレではない。一匹がしたら、他の犬も通りがかりに臭いにつられて排泄してしまうんだよ。

私は元々動物も、犬も大好きだったけど、近頃では散歩中の犬を見るとうんざりしてしまう。またうちの畑の前で、フン尿させるんだろうかってね。注意しても逆切れする人ばかりだし、そもそも注意されて「もうしません」と思う人は、最初から公道や他人の敷地で犬に排泄をさせないわけで・・・。

すべての犬飼いさんに見てほしいのは、シーザー・ミランの番組である。私はシーザーを本当に尊敬している。こんな風に犬を理解し、犬の問題を解決する人こそ、本当の愛犬家ではなかろうか。ただ溺愛し、しつけもせず、犬にやりたい放題やらせてるのは、本当の愛犬家ではない。犬も、好きで問題犬になっているわけではないのだ。犬を問題犬にしているのは、飼い主以外にあり得ない。

シーザー・ミランはアメリカのドッグトレーナー。ほえまくる犬、誰にでも襲い掛かる犬、そんな犬でも彼の手にかかれば、あっという間に問題解決。

できるだけ時間を作ってナショナルジオフィックのシーザー関連の番組は見るようにしているけど、いつ見てもハズレの回がない。シーザーは、おやつやエサ抜きでもあっという間に犬たちのリーダーになり、彼らを身にまとった空気で従えてしまう。犬は群れの動物だから、毅然としたリーダーがいれば、それに従うのは本能だ。

たいていの問題は、飼い主が頼りないことから発している。弱い飼い主なら、犬は飼い主をリーダーとは見なさず、自分が守らなければと張り切り、飼い主の不安を瞬時にかぎ取って、攻撃的行動に出る。

だから、飼い主が【真のリーダー】になれば、飼い主の命令には背かない。飼い主を強いリーダーとみなして、その指示を待つ犬の姿はけなげで、かつ、とても幸せそうだ。

散歩のとき、シーザーは、犬がリーダーに従うように指導する。犬が飼い主をリーダーとみなせば、勝手な行動(フン尿・マーキング)などありえない。

たとえば玄関を出るのも、リーダーが先だ。シーザーは犬を待たせる。犬が自分より先に出ようとすれば注意する。犬も素直に従う。

他の犬に見境なく吠えかかっていた犬も、飼い主をリーダーと認めれば、飼い主におとなしくしたがって安心したように付き添っている。当たり前だ。もう守らなくていいのだから。自分は飼い主に従って、飼い主の指示にさえしたがっていれば、脅威はどこにもない。犬なりの平和が、そこにあるのだ。

シーザーが指導するのは、飼い主が穏やかで、毅然としていること。エネルギーがすべてだという。犬は飼い主のエネルギーを敏感に受け取り、それに対応する。荒れ狂った犬、飼い主に全く従わない犬が、シーザーをリーダーとみなしてあっという間に豹変する様は、魔法のようだ。

シーザーの犬のしつけを見た飼い主も、努力して変わることができる。目の前で、自分たちの問題犬が変わっていく様を見ているから、シーザーを信じる。そして、穏やかで毅然とした態度を何度も練習し、犬に翻弄された記憶を上書きして、最後には強いリーダーの自信を手に入れる。

そうなれば、犬も人間も幸せだ。

犬がリーダーになってはいけないのである。リーダーウォークは散歩の基本。人間が主導権をとらなければいけない。もし犬自身がリーダーになってしまうと、犬は他の犬や人間に怯えて、攻撃的な行動に出ざるをえない。

穏やかで毅然としたリーダーに従っている犬は、本当に幸せそうである。なにかあっても、リーダーが守ってくれるという全幅の信頼感があるからだろう。シーザーの散歩訓練を見ると、犬はリーダーの顔色をうかがい、嬉々としてその指示に従おうとしている。

本能として、犬はリーダーに従うことが幸せなんだと思う。やりたい放題させるのが犬の幸せと勘違いしている人の、なんと多いことか、と思う。

宝塚はもう見ない

宝塚歌劇団といえば、夢の世界。私が以前東京に住んでいたとき、和央ようかさんの「ファントム」を、東京宝塚劇場で見た。真っ赤なじゅうたん。豪華な衣装。熱狂的なファンの方々。

帝国劇場の舞台とはまた違う、独特の世界観。とても素敵だなあと思ったし、紡ぎ出される華やかな物語、ショーを堪能し、また観劇したいなあとそう思いながら帰途についた。

でもその後、96期のいじめ問題が発生。劇団の対応がおかしいのにびっくり。宝塚に対する疑念がわく。裁判にまでなって、長期にわたっていじめの被害者が結局、救われなかったことを大変気の毒に思う。

そして昨年。有愛きいさんの自殺を知り、事件の経過をみるにつれ、私の中で完全に、宝塚歌劇団に対する印象が変わった。

私が宝塚を見に行くことは、もう2度とない。あまりにもひどすぎる劇団だ。見に行こうという気持ちは、一生持てない。

有愛(ありあ)きいさんの双子の妹さんが、退団したニュースが決定打だ。その後どうなったんだろうと検索してみて、有愛きさんの妹である一禾(いちか)あおさんの退団を知り驚愕。どうして被害者の遺族が退団して、加害者一団にはおとがめなしなんだろう。人が一人死んでなお、被害者関係者が黙らせられる現状に、失望しました。これが宝塚かあ。清くも正しくも美しくもないよ。

96期のいじめの話も、有愛きいさんの話も、根っこは同じ。宝塚では有愛きいさん以外にも、2018年6月に宝塚音楽学校の生徒が、パワハラを苦に寮のバルコニーから転落、全治3週間の全身打撲を負っていたそうで…。

宝塚歌劇団のやり方はもういろいろ破綻しているのに。ガタガタと崩れていたのに。有愛さんが亡くなるまで、ずっとパワハラ体質は続いていたのか、とびっくりしました。この飛び降り事件のときに宝塚が改革をしていたら、有愛さんは亡くならなかったんじゃないかと思います。

問題の構造、宝塚の体質については、ものすごく単純なことで。

要するに、上下関係が絶対だったら、必ず起こる事件だと思うのです。だって、世の中には意地悪な人間、理不尽な人というのは必ず一定数いるわけで。

宝塚では上級生が絶対正義。トップスターは雲の上の人。

その神様のような存在が、正義の人ならいいのですが。そうでない場合はどうなるのでしょう。そんなことわかりきった話です。

どこの世界でも上下関係が厳しい環境というのはあると思いますが、でも事件にまで発展するようなことがあれば、そこには正義が発動しますよね。調べて、誰の目にも明らかなリンチがあれば、加害者は処罰されるでしょう。職場にもいられなくなると思う。

意地悪な人が、絶対的な権力を握り、誰も逆らえなければやりたい放題になりますよね。いじめのターゲットにされればほとんどの人が逃げ出すだろうけど、逃げられなかった人が死を選んだ。その責任は誰がとるのでしょう。

もう団体の構造として、だめなんだと思う。これだけの騒ぎになって、事件になって、人が一人死んでいて。

加害者おとがめなし。謝罪文を提出したのも加害者全員ではない。書面だけの謝罪で、遺族と直接対面しての加害者の謝罪はなし。被害者の妹がひっそりと退団。宙組は加害者のトップスターはそのままに公演再開。

被害者の方が、死んでなおこの対応ですので、生きていたときには本当に地獄だったと思う。生きてどんなに上にパワハラを訴えても、これじゃ無理です。なにひとつ聞いてもらえないどころか、むしろパワハラがひどくなったんではないでしょうか。

信じられないのは、宙組の公演再開です。これを喜んで見に行く人がいるのかと思ったら、いるんですね。しかも大勢。

今回の一連の事件を批判して「もう見ない」「見る気になれない」とおっしゃってるファンの方も、少ないですがごく一部いて、救われる気持ちになりました。見に行くということは、加害者に加担する、加害者のパワハラ行為を容認するということなんだと思いますけどね。

私がもし熱狂的な宝塚ファンだったとしても、この事件を知ったら、即座に熱は冷めたと思います。パワハラの内容がもう、集団リンチだし。人数も一人ではなくて、劇団側が認めただけで10人。閉鎖された空間で、10人相手に罵倒を受け続ける日々は、地獄以外のなにものでもない。それは、芸を磨くことでもなんでもなく、単なるいじめでしょう。

有愛きいさんが本当にお気の毒だし、遺族の方々もすごく傷ついて、それでも精一杯劇団や加害者に立ち向かったと思うし。

事が公になったのは、よかったです。もし隠避されていたら、また続々と被害者が出たと思うから。遺族の方々、本当に勇気があった。遺族の方の勇気が、次の被害者を防いだ。

有愛きいさんのご冥福をお祈りします。

綺麗なものを見る、考える

嫌な出来事があったときこそ、綺麗なものを見る、考えることで気持ちをリセット。できるだけ綺麗なものだけを見ていたいものです。

ということで、また植物園で撮った写真を載せたいと思います。撮影は6月。早く記事にしないと、どんどん季節が過ぎ去ってしまう(^^;

元気な黄色のバラ。「伊豆の踊子」です。2001年フランス作出。とにかく元気いっぱいという感じで可愛い。どんどん上に向かって伸びていきますね。このバラは、晴れた空がよく似合う。「伊豆の踊子」という名前がぴったり。

お次は清楚な白いあじさい。

品種名はわかりませんが、白といっても部分的に薄く青みがかっていたり、クリーム色だったり、繊細なグラデーションがあり面白い。

あじさいというと、青もしくは赤というイメージがありますが、白もなかなかインパクトがあるなあと思いました。そう。この白いアジサイは、主張する白、という感じがしました。積極的なんです。ひっそり咲くというより、舞台の中央で静かにほほ笑む大物女優のイメージ。ことさら言動で表現はしないけれど、黙っているだけで周囲がひれ伏す、みたいな。

そして次の画像も変わり種のアジサイ。

これは、宇宙とか星のイメージだなあと思って眺めてました。品種はわかりませんが、一般的なアジサイとはずいぶん違う形ですね。夜に月明かりで眺めてみたい。漆黒の宇宙で映える、花火のような。闇を背景に、華やかなダンスを披露しているような花だと思いました。

最後は、女王様の椅子の写真。

この椅子を見たときに、どこかの国の女王様の椅子みたいだなあ、と思ったんですね。おとぎ話に出てくるどこかの王国の、お庭にあるイメージです。

ちょうど陽が射してきて眩しくて、光がきれいだなあと思って撮りました。この植物園の担当者さん、センスがいいですね。花だけじゃなく、オブジェも光ってます。入園者はどこか遠くの異世界に迷い込んだような気持ちになる。

この植物園、広いので1日歩き回るとくたくたになるんですが、365日いつ訪れても新たな発見があり、同じ景色はありません。心が癒される場所。

そして重要なのは、「ペットの入場が禁止されている」ということ。

園内の芝生のどこでも、安心して座ってくつろげるんです。今やどこの公園も犬のトイレと化している現代、貴重な存在だなと、つくづくそう思います。ありがたいです。

ペットを連れて入りたい、という声がないわけではないし、圧力もあると思います。でも、人間のための園を続けてくださっていることに感謝しています。

園内では、犬のフン尿を見かけることはありません。散歩中の飼い主が、マーキングさせている姿もみません。そのことが、なによりもありがたいです。

初夏のバラ園

いつもの植物園へ出かけて癒されてきました。薔薇は定期的に植え替えられるので、気に入ったバラも数年でいつの間にかなくなったり。寂しいけど、そうやっていつも目新しい品種を入れることで、たくさんの新しい出会いがあったり。

今回お気に入りのバラはこれ。

カインダブルーというんだそうです。2015年ドイツで作出。

青っぽいバラはたいてい樹勢が弱いものですが、このカインダブルーはとても元気。群れて咲き誇る姿は壮観です。晴れた空より、少し曇った空が似合う。

この植物園で年々弱っていった「青龍」という品種は、とうとう撤去されてしまったようで、姿をみることはできませんでした。代わりに、この「カインダブルー」が堂々の入場。

見惚れていて、ちゃんと匂いを嗅ぐのを忘れてしまった。次回は香りも楽しみたい。

写真を撮っているときには匂いにむせるということもなかったので、そんなに強い香りではないと思います。もう1枚どうぞ。

美しいバラ。そして紫だから、少し寂し気。でも誇りをもって咲いてる感じ。

紫のバラといえばガラスの仮面ですけど、このバラは紫織さんのイメージではない。かといってマヤちゃんでもないな。

人間ならば、たおやかで、でも凜とした美人さんです。

次は、白いバラ。こちらも曇り空がよく似合うなあと思って撮りました。白って地味な色ですが、でも個性がある。

明るい太陽の元より、これぐらいの雲の下の方がより、美しく映える気がします。

この品種は「チャイコフスキー」です。フランスで2004年作出。

チャイコフスキーと言えばロシアの作曲家。すぐに思い出すのは「白鳥の湖」。うんうん。この白いバラは、いかにもロシアって感じがする。白鳥の湖がぴったりくる。

バラの品種名って、本当にぴったりくるものが多いなあと思います。それだけ、作り出した人が魂を込めて命名しているのかな。

この白には、雪の清純さと、冷たさを感じます。遠い異国の、静かな白です。

この植物園が大好きで、とうとう年間パスポートを買ってしまいました。園内を散策していると、春夏秋冬癒されます。薔薇も素晴らしいけど、年中いろんな花を楽しむことができて、心が癒されるのを感じます。

植物のパワーってすごいですね。花も。そして山の木も。広い園内を歩いていると、ざわざわしていた心が空っぽになって、優しい気持ちになれるのです。また行こう。

逆切れおじいさん再び

以前、我が家の前の道路で犬に下痢便をさせ、私に注意されて「こんなとこ、二度と通らない」と逆切れしたおじいさんが、今も変わらず、毎日我が家の前を通っていることが判明しました。げんなりです。

夫婦で、朝早く毎日我が家の前を、犬の散歩をさせているそうで・・・。4時や5時だそうです。どうりで私が気付かなかったわけです。(ひょんなことから判明しましたが、詳細は複雑なので省きます)

我が家では、おじいさん逆切れ事件のその後、1度も下痢便の被害はありませんでした。でも、つい1週間前にも芝生にこんもりと犬フン被害があったばかりなので、おじいさんを疑ってしまう私。そうなんです。また芝生に犬のブツが・・・。まあ、毎日犬の散歩をさせているからといって、その人が犬フン放置の犯人と決めつけてしまうのはよくないですが。現場をおさえたわけではないので、そこは断言できない。いくら疑わしくてもね。

道路から、1メートルほど家の敷地内に入ったところ、芝生の上にこんもりと犬のフンを発見した時の気持ちといったら・・・。

そのすぐ後のことでした。逆切れおじいさんが、「こんなとこ、二度と通らない」と言ったわりに、今も変わらず我が家の前を通っていることを、知ったのは・・・。

まあ、発見した犬のフンは、おじいさんが散歩させている小型犬にしては大きなもので量も多かったので、おじいさんではないかもしれないけれど。

再びのフン被害に加え、おじいさんが変わらず我が家の前を散歩道にしていることを知り、落ち込みました。あれだけ逆切れして「もう来ない宣言」したのに、ああいう迷惑な人って、自分の言った言葉を忘れてしまうのね。

もう通らないでほしいです。二度と。

それから、少し離れた畑で、先日因縁つけたおじさんにも、ニアミスしてしまい、畑の見回りに出かけるのも怖くなってしまいました。怖いというのは違うか。嫌なんですよ。もう二度と、あんなジジイ(失礼!)に会いたくない。気持ちが悪い。

なんでああいう変な人って、嫌がってる人の周りにわざわざ来るんでしょうねえ。二度と会いたくないですし、我が家の周辺をウロウロしないでほしい。

なんでこっちが避けなきゃいけないのかと思いますが、先日、因縁つけたおじいさんとニアミスしたときには、全力で別の道に逃げました(^^;そいつはキョロキョロしてたので、こちらを認識したのかもしれませんが、追いかけてくることもなかったのでよかったです。また因縁つけられたり話しかけられても、全力で無視しますが。

あんまり神経質にならないように、忘れるようにしたいですが、犬のフンも、因縁つけられるのも、向こうからやってくることなので、なかなか逃れられなくて苦しいです。世の中変な人が増えたのかな?もう懲りてしまって、とにかく今は自衛策として、おじさんやおじいさんには、挨拶しないようにしています。(知っている人は除く)変に愛想よく挨拶すると、粘着されるかもしれないので。

犬のフンも、変なおじさんも、もう本当に勘弁してほしい。気持ちを切り替えたいですが、憂鬱です。でもちょっとだけブログで吐き出せて、少し気持ちが楽になりました。書くって大事(^^)