映画『探偵物語』の感想

映画『探偵物語』を久しぶりに見ました。以下感想を書いていますが、ネタバレしていますので未見の方はご注意ください。

この映画、大学受験でしばらく芸能活動を休止していた薬師丸ひろ子さんの、復帰第一作ということで話題になりましたね。同時上映が「時をかける少女」でしたが、この二作品は対象年齢が違いすぎたと、今さらながら思います。

「時をかける少女」は小学生にもお勧めできる作品ですが、この「探偵物語」は大人向き。

昔見たときには、なんだかよくわからず、あまりいい印象がありませんでした。覚えてるのは、ラブホテルの殺害シーン、女性の裸だったり、松田優作さんの恐い印象だったり。

そしてあの、エンディングの長い長いキスシーン。かなりドキドキしたのを覚えています。優作さんが恐かった(^^; ひろ子ちゃんを食べちゃうんじゃないかというくらいの勢いだったので。

そしてあらためて、今この映画を見まして。

大人になってみると、印象が違うな~と思いました。

薬師丸ひろ子ちゃん演じる女子大生、新井直美が、松田優作さん演じる探偵、辻山と一緒に、殺人事件の解明に挑む、というあらすじなのですけれど。

登場人物に味があって面白いです。

最初から最後まで、直美の父親は登場せず。広いお屋敷で長谷沼さん(岸田今日子さん)と二人きりの描写は、直美の孤独感をうまく表現していたと思います。

家が無駄に広い、というね。

快く思っていない長谷沼さんと二人きりって、実質あの家に一人で住んでいるようなもので、直美が誰かを(恋人を)求める気持ちはよくわかりました。

そしてその恋人候補が、大学の先輩で永井(北詰友樹さん)であることも、必然だった。

これがまた軽くてダメな人なんだよね。ダメなんだけど、でも直美が憧れる気持ちがよくわかる。遊んでてカッコよくて、女扱いに慣れてる感じ。

直美がどこかで、傷ついてもいいって思ってるのが伝わってきたなあ。

一週間後には、彼女はアメリカへ行っちゃうわけで、なにか思い出がほしかったんだろう。暖かくて、それを思い出すだけで、「自分にだって素敵な思い出がある」なんて夢をみられるような。

辻山が、「直美の叔父です」と言って、永井をホテルから追い出すシーンは笑ってしまった。

そりゃ、永井もゴタゴタはごめんだと逃げ出すはずです。

辻山には、永井の気持ちなんか、手に取るようにわかっただろうし。仕事(直美のボディーガード)ということ以前に、直美を哀れむ気持ちもあったと思う。目の前の偽りの幸せに手を伸ばしても、どうせ、後で泣くのは目に見えてたから。

この映画で光っていたのは、辻山の前妻役の幸子(秋川リサさん)。

秋川さん、いい味出してました~。辻山とお似合いだったです。どうしようもなく弱い人間で、ずるくて、だけど憎めない。幸子は一人で暮らせない人間なんだろうと思いました。とにかく誰かが傍にいてくれないと、一日だって過ぎていかない人なんでしょう。

辻山とも、憎みあって別れたわけじゃないっぽい。

だから、関わりを持ち続けようとする。なにかあれば頼ろうとする。

それって、辻山にとっては、すごく迷惑なことなんですけどね。もう関係ないのに。困ったときだけ巻き込むってどういうことだよ、という。

だけど、完全にそれを突っぱねることのできない優しさが、辻山の魅力で。

幸子と辻山、ある意味お似合いでした。

でもこの二人は、長く一緒にいちゃいけませんね。

どちらのためにもならないと思う。

その点、最後にきっぱり別れを告げた辻山は、さすがでした。

いつもヨレヨレのスーツ着てる辻山ですが、なんだかカッコイイのです。なんでだろう。背が高いからかな? 直美との身長差がすごかった。

できればあまり部屋に入れたくない辻山と、強引にでも入ってしまいたい直美との、心理戦が面白かったです。

事件が解決した後、ちゃぶ台でお茶を淹れる辻山の姿が、妙にアンバランスで。

すっきり片付いた畳の部屋。お互いに落ち着かなくて。

直美が告白しようとした瞬間、そうさせまいと口をはさんだ辻山の優しさにじ~んとしました。

それを言っちゃあおしまいよってことですよね。言わせまいとした辻山の気持ちが、なんとなくわかります。だって、言われたって、受けとめることなんてできないから。

直美のことを大切に思うからこそ、その気持ちを十分理解した上で、言わせまいとしたんですね。言わなければ、直美が傷つかずにすむから。

しかし直美本人は、もうヤケクソとばかりに、帰り際に言い捨てて出て行ってしまいましたけど。若さは無敵ですなあ。周りをみる余裕がないというか、とにかく言わずにはいられなかった。胸にある気持ちを吐き出さずにはいられなかったということで。

そしてあの有名な、空港でのキスシーン。

昔見たときには、あまりに生生しくて、激しくてドン引きだったんですけど。今回あらためて見て、辻山の優しさがよくあらわれたシーンなのだ、ということに気付きました。

はじめ、彼は本当におずおず、と怖れるように手を重ねてるし。

最後、がばっと抱きしめてるところがいいなあって。すごく大切なものを、全身全霊で抱きしめてるって感じで。小柄な直美が、身動きできないくらいに抱きすくめられてる姿に、愛情を感じました。あのハグには、辻山の気持ちのすべてがこもっていたんだと思います。

辻山だって、直美のこと好きになってたはず。だけど、彼に抱きついたままの直美の腕を、外したのは彼のほうでした。

そして最後に、軽い小鳥キス。そのとき直美が、すがるような目で辻山を見るのがせつなかったです。「行くな」って言ってほしかったんだろうなあ。「待ってる」っていう言葉でもよかったはず。でも辻山は一切視線を逸らさずに、目だけで別れを告げた。

言葉がなくても、わかりあっちゃう空気がなんとも言えませんでした。

今さらなにも請うこともしない、直美の姿もよかった。

そしてずーっと、ずーっと見送っている辻山の姿に誠意を感じましたね。目をそらさないで、最後まで見ててあげる、見送ってあげるっていう。だってそれが最後だから。もう会うことはないから。どんなに寂しくても、背中を向けたりしなかった。

これ、主題歌がまたいいんですよね。

透明感のあるひろ子ちゃんの歌声が、胸に響くエンディングでした。

映画『トワイライト~初恋~』の感想

 映画『トワイライト~初恋』を見ました。以下、感想を書きますが、ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。

 

 正直、期待していたよりずっとよかったのでびっくりしました。

 最初はほんっとに期待してなかったんです。やっぱりあまりにも原作が良すぎたから。この世界を映像で表現って、どうしても限定されてしまうだろうなって。

 文章だと想像は無限に広がりますからね。

 それで、かなり迷って。

 がっかりしたり不満を持ったりするのを承知の上で、そこまでして見に行くべきものかなあ、とか。映画のタイトルに「初恋」というストレートで陳腐な言葉を並べたセンスにも、ちょっと思うところはありました。

 初恋っていうテーマはいいのですが、それを映画のタイトルにしてしまうと、あまりに狙いすぎているようで、ちょっと気持ちが引いてしまう人もいるんじゃないかと。むしろ『トワイライト』だけにしておいた方が、万人に見てもらえる可能性が大きかったような。「初恋」という言葉をつけると、大人としてはちょっと、照れを感じて足が遠のいてしまうような気がします。

 おまけに、雑誌の特集で主人公のベラ(クリステン・スチュワート)とエドワード(ロバート・パティンソン)の写真を見て、ますます、う~ん、と唸ってしまいました。

 特にエドワードのイメージが全然違ったから。

 写真だと、無理に肌を白く塗っているような、不自然さが拭いきれず。

 それと、すごく健康的に見えてしまって。なにかちょっと、吸血鬼のイメージとは違うかなと。

 そんなこんなでずっと迷っていたんですが、意を決して行ってきました。

 その結果、本当に予想以上に心を満たされて帰ってきました。

 そうそう、初恋ってこんな感じよね、みたいな(^^)

 映画だと、写真で見たときよりずっと、エドワードがかっこよかったです。動くと印象が全然違う。後でエドワード役のロバート・パティンソンのインタビュー動画なども見たのですが、彼は映画の中と、役を離れた普段の顔とで、全く違う人物に見えてびっくりです。

 どちらが素敵って、断然映画の中にいる方です~。

 こんなにかけ離れてしまう人も、珍しいんじゃないかなあ。私には、別人にすら思えました。

 映画の中のエドワードは陰鬱で、目の奥に果てしない闇の広がる印象ですけれども。各種のインタビューなどに答えるロバートは、どこにでも居そうな陽気な若者で。

 

 映画で彼のファンになったなら、実際に生で彼を見たら「え?違う人じゃん」と、ファンはひいてしまうのではないかと思いましたが。試写会などでのファンの様子を見ると、まったく戸惑う様子もないですから、こんなふうに感じているのは私だけなのかなあ。

 ともかく映画の中のエドワードは、とてもとても、哲学的だったような気がします。自分が吸血鬼であるということに、悩み苦しんでいるような。深い煩悶の中に生きている人。そして、その彼が見出した一筋の光明が、転校してきた一人の平凡な少女、ベラだったという。

 誰にも心を動かさなかった彼が、ベラに目をとめたのは。

 ベラの心だけは、読むことができなかったから。

 これは、必然的に興味を惹かれますよね。私がエドワードの立場でも、きっとベラを好きになっていたと思う。

 カフェテリアに入ってきた瞬間、いろんな人の思考がいちどきに洪水のように流れ込んでくる。それは、エドワードにとってのありきたりな、よくある風景だったはず。いつもと同じ一日の一コマ。

 

 自分たち、カレン一族に対する興味、嫉妬、詮索、憧憬、その思考の洪水の中で、彼はこちらを見つめる異質な存在に気付く。初めて見る顔。自分を射抜く目の光。なのにその心だけは、どうしても読めない。見つめ返しても、何一つ読み取れない。初めての経験。

 こんなことがあれば、エドワードがベラに注目するのは当たり前のことです。

 

 まして、ベラの血の香りが人一倍、芳しいものであったなら。

 

 でもこれでは、好きになった喜びと同じ位、苦しみも深いですよね。どう考えても、一緒に生きるのは無理だし。好きになっても、先なんて見えない。好きになって衝動を抑えられなければ、ベラの命を奪うことになってしまう。

 映画の中で、自分たちを「ライオンと羊」に例えてましたが。

 なんというか、ベラよりもずっと、エドワードの方が苦しかったと思います。ベラはエドワードを万能と思いこんで、安心して頼ってる部分があったようですが。この人なら、全力でぶつかっても大丈夫、みたいな。

 でもエドワードはよく自分たちの立場を、わきまえてた。

 感情に溺れたら、すぐにでもベラを殺してしまえる自分の力を知っていた。

 かといって、ベラに弱さを見せることも、自重を求めることもせずに。己の精神力だけを必死に鍛え、その力を最大限発揮して、耐えていたように思います。

 それを一番思ったのは、部屋でのキスシーン。ベラが積極的すぎて、エドワードが可哀想だった(^^; それは駄目でしょうと・・・。

 エドワード可哀想に、と思いましたよ。

 エドワードがキスするのは許せるんですけど(って、勝手なエドワード擁護)、ベラがそれを煽るような真似は、ちょっと惨いかなあって。

 ベラにはもうちょっと、消極的であってほしかったです。その方が、物語が盛り上がったような気がします。どうしてもベラに惹かれてしまうエドワードと、逃げられないベラと。

 映画の中で一番好きなシーンは、二人が草の上で寝っ転がるシーンです。

 こういうの大好き。

 なんにもセリフがなくても、二人の心の交流が伝わってきますね。その幸福感は、きっと誰の心にも思い出として残っているものではないでしょうか。

 そうですよね、好きな人の傍にいて、二人で同じ空を眺めていたらそれだけで。もうなんにもいらない、と思える一瞬です。

 山の風景がとても綺麗でした。人気のない山の静けさ、きっと耳をすませば、鳥の鳴き声だけが聞こえて。きっとエドワードは、過去にもその山の中で、狩りの合間にいろんなことを考えたんだろうなと。自分の来た道と、そしてこれからの長い、長い時間のことを。

 私は山が好きなので、映画の中の山の風景に心打たれて、山への思いが募りました。山へ行きたいなあ。

 少し開けた場所で、太陽の光で変化する自分の肌を、エドワードはベラに初めて見せます。ダイアモンドのように、キラキラ輝きを放つ肌。ここは、もっと誇張してもいいんじゃないかと思いました。もっと派手に輝いたほうが、「人とは違う」ことを表すのに効果的かと。

 エドワードは自分が吸血鬼であることを厭っていますが、そのエドワードとの思いとは裏腹に、ベラは彼の美しさに息をのむ。

 それを表すのには、キラキラの輝き具合が全然足りなかったです。

 エドワードが自分の運命を厭うといえば。まだベラが、エドワードの正体を知らない頃。

 二人が車の中で同時にエアコンに手を伸ばして、手が触れそうになる瞬間。慌てて手を引っこめたエドワードの、つらそうな顔が印象的でした。

 ああいう表情ができるから、この映画がヒットしたんだろうなあと思いました。

 見ているこちらの胸が、痛くなるような表情です。そのときエドワードが感じたであろう痛みが、ダイレクトに伝わりました。自分の手の冷たさが、ベラに知られることを怖れてた。もう人ではなくなった自分を、化け物である自分を、好きな相手に知られることが恐かったんですね。

 原作『twilight』の本の装丁。表紙に描かれた、白い腕が差し出す赤いリンゴ。それを意識したシーンが、映画の中にもありました。

 カフェテリアでリンゴを差し出すのは、なんとエドワード。

 う~ん、そうきたか~と思いましたね。私は、本の表紙のあの腕は、ベラだと思っていたから。

 でも、この映画には合っていたような気がします。この映画で強く感じたのは、エドワードがベラに懸ける思いだったから。愛情度は、エドワード>ベラ でした。

 きっとベラにはまだ、エドワードの愛情の深さと、同じ重さの苦悩とが、理解できていないと思います。

 エドワードは眠らない吸血鬼なので。眠りこんだベラを、愛おしそうに眺めるところも、せつなかったですね。ベラはなんにも知らないけど、いったい幾晩、彼はこうした時間を過ごしたんだろうって。そうした時間、彼の胸にはどんな思いがよぎったのだろうと、想像してしまいました。

 ベラ役のクリステン・スチュワートは、実際にはすごく綺麗な人なのです。でも映画になると一気に、地味で内気な女の子になるのがすごいと思いました。エドワード同様、映画を離れたときのイメージが、全然違います。

 続編の映画、日本での公開が楽しみです。

『早春物語』の感想

『早春物語』を、久しぶりに見ました。以下、感想を書いていますが、ネタバレしています。未見の方はご注意ください。

もう20年以上前に製作された映画です。時代の違いが画面いっぱいにあふれ出して、昭和の香りがなんとも懐かしく。

赤面するような、違和感のあるセリフも多々ありましたが、全体に流れる穏やかな雰囲気がよかった。

この頃の、角川映画が好きなんですよね。なんというか、女優さんをきれいに撮ってる感じがする。その子の良さを、その年代にだけしか出せない、一瞬で変わっていく輝きをちゃんと、切り取ってると思うのです。

『早春物語』の撮影当時、原田知世さんは17才。若いですね~。知世ちゃんが演じるのは、沖野瞳という高校生。林隆三さん演じる、商社マンの梶川真二、42歳と知り合い、好きになっていく・・・というお話です。

久しぶりに見て、あらためて梶川さんのカッコよさを確認。これは惚れるでしょう。17歳だったら尚更、夢中になるでしょうね。

劇中、タバコ吸ってるのは残念ですが。

この時代は、今ほどタバコの害が言われてなかったから、仕方ないのかな。

瞳と一緒にいるときにタバコを吸う梶川さんは、居心地の悪さをごまかすために、タバコを吸って気持ちを落ち着けているようにも見えました。居心地が悪いっていうのが適切な言い方かどうかわかりませんが、あまりの年齢差に、落ち着かないというか。

瞳の積極さは、若いからこそ許される、無鉄砲さなのかなと思って見ていました。梶川さんにとって瞳は、恋愛対象としてはあまりに幼く、それこそ、話していて新鮮な「気晴らし」のような存在だったと思うのですよね。これは、劇中で本人も、そんなようなことを言っていましたけど。だから別に、追いかけるような対象でもなくて。

会社名すら教えていなかったのに、探し出してアポイントメントもなしにいきなり訪ねてくるって、分別のある大人がしたことだったら恐いかも。瞳は梶川には、20才だと年をごまかしていましたけどね。

瞳の亡くなった母が、梶川の昔の恋人だったことを知り、しかも出世のために母を捨てたのだと知って、彼を憎む瞳ですけども。う~ん、そんなことよりも、母親と昔つきあいのあった相手だと知った時点で、普通はドン引きではないかなと・・・。捨てたとか捨てないとか、そんなものはお互いの自由意志なわけで。

私が梶川さんを素敵だなと思うのは、瞳を相手にするとき、一貫して紳士的なんですよね。子供扱いしていないところがいい。

子供だと思って軽くみるところがあってもおかしくないかな、と思う年齢差なんですけども。表面上は丁重で、ちゃんと敬意をもって接してるというか。瞳が、それに合わせて精一杯背伸びをするのが、見てるこちらが恥ずかしくなるような感じでした。

左遷が決まって、酔っ払ったあげくに昔なじみのお店の女性と、ホテルに帰ってきたシーン。梶川さん独身だし、別に瞳とつきあってるわけじゃないんだから、瞳があれこれ文句を言う筋合いなんてないんですが。瞳の前だと、神妙なところが真面目だなあって。だって女性と二人、ホテルのエレベーターに乗ったところで、急に瞳が飛び込んでくるんですよ。そしたら「ごめん、今日は帰ってくれないか」だったかな、そんなことを、瞳じゃなくて、女性に対して言っちゃうんですよ。

いや、それ、瞳に言うべきセリフじゃないのか(^^;

と一瞬思って。でもよく考えると、梶川さんは瞳の姿を見た瞬間、自分の理性を取り戻したのかなあと。別に享楽的に逃げても構わない状況ではあるのですが、結局、お酒と女性に逃げてる自分の姿に、はっと気付いた、みたいなところがあるのかなあって。

若さって潔癖だから。純真だったときの自分の姿を、見るような錯覚があったのかもしれないと思いました。それで、瞳の目に映る自分を、瞬間的に恥じた、というかね。

「私、帰らないわよ」と怒る女性。エレベーターという密室の中で気まずい3人。部屋のある階に到着して扉が開いたとき、誰も動かなくて、どうなることかとドキドキしました。結局女性は帰りました。大人だな~。まあ、帰れと言われて、残っても仕方ないか。

梶川さんが部屋に瞳を招きいれるときの、「どうぞ」っていう声が好き。自分を恥じてる声だったな。お酒と女性に逃げた自分を、反省してる声。

しかし、その前に、部屋に未成年を入れてはいけないと思う。そうか、この時点ではまさか17歳とは思ってないか。

瞳も堂々と入っていくし、おいおい、それはまずいだろうと。

部屋での梶川さんはあくまで、大人の対応だったなあと思います。これが梶川さんじゃなかったら、どんなことになっていたか・・・。

その後、病院のシーンで、お母さんとの思い出を瞳に聞かせるところがよかったです。それで初めて、梶川さんが独身な理由が、わかったというか。

梶川さんはずーっと、瞳のお母さんの思い出をひきずってたんだなあと。もちろん、頭では整理された過去の話なんですが、感情の面で。どうしてもわりきれないところがあったんだろうなあ。

お互いに嫌いになって別れたなら、すっきりですけど。そうじゃなくて、好きでも別れざるを得なかったら、そりゃあ忘れられないと思う。

梶川さんは、自分が瞳に誤解されたまま悪者になってることには頓着しなかったでしょうが、瞳が真剣に自分をみつめる目にほだされて、本当のことを話す気持ちになったんでしょうね。

その前に、梶川さんが「人間には回復する力がある」みたいなことを話していたけど、それをなにより裏切ってるのが今の梶川さんで、せつない気持ちになりました。回復する力があるって、自分に言い聞かせてる言葉だったのかもしれません。そう言って、自分を騙すようにして生きてきたのかなと。

その後、キスシーン。

生生しいというか、赤面するくらい長くて、アイドル相手にいいんだろうかというようなキスでしたが。

私はこれ、瞳にキスしたんじゃなく、瞳のお母さんにキスする気持ちだったんだと思いました。時を超えて、封印していた記憶が蘇って、気持ちが高ぶったというか。あくまで、瞳に対しては恋愛感情とか、ない気がするのです。可愛いとか、愛しいという気持ちはあったとしても。

空港の別れのシーンにも、それは表れていたように思います。きっぱりと別れを告げて、すっきりした顔で颯爽と去っていく瞳に対して。梶川さんも、やれやれ、と苦笑しているように見えました。

そして、きっと梶川さんも、瞳のことは遠い記憶にしてしまうだろうなと、そんな気がしたのです。少なくとも、引きずったり、傷つくことはなかったでしょう。つまり、そういうことで。

梶川さん、優しい人だなあと思いました。瞳に対しては、最初から最後まで本当に、包みこむような愛情で。無茶をする瞳に対して、恐い姿を見せたりもしたけど、それもまた瞳のためを思ってのことだと。

むしろ、恐い思いをさせたのは愛情かもしれません。そうでもしないと、瞳はいずれまた、無茶をやらかすかもしれないし。そのとき相手は、梶川さんではないわけで。そしたら傷つくのは瞳なわけで。

エンディングに流れる主題歌がまた、よかったです。

>もとのわたしに もどれなくても

>かまわないから 抱きしめてとだけ

瞳の心情、そのまんまだなと思いました。心に残る映画です。

『雪の断章 ~ 情熱 ~』

映画『雪の断章~情熱』を見ました。以下、感想を書いていますがネタバレしてます。未見の方はご注意ください。

もう1度見たいか?と問われれば、もう1度見たいです、とは答えないのだけれど。妙に心に残る作品でした。見終えた後、いくつかのシーンがふとした瞬間に蘇ってくるのだ。そして、胸にいつまでも残る、このもやもや感はなんなのだろうか・・・。

原作は佐々木丸美さん。主演は斉藤由貴さんで、これは1985年の作品。デビューしたばかりの初々しい由貴ちゃんがとにかく可愛い。これは、主人公に由貴ちゃんを起用した時点で、大成功だと思った。

孤児だった伊織(斉藤由貴さん)を引き取ったのが、お坊ちゃまな雄一(榎木孝明さん)で、その親友が大介(世良公則さん)。伊織が大人になるにつれ、この三人の心境が微妙に変化していく。要するに、三角関係になる。三人とも、それを顕在意識ではなかなか認めようとしないが。

これは、まるっきり光源氏と紫の上の話だ。もちろん、現実にあったら、こんなことは許されないと思う。そもそも、独身の男性が少女を引き取って育てることなどありえないけれど、そこはもう、ファンタジーの世界ということで。

映画の中では、殺人事件が軸となって、物語が展開していく。しかし、本当は事件などなくても、この三人はやっぱり同じような三角関係に発展したのではないかと、そう思った。

雄一と大介が、とても対照的に撮られている。雄一は、顔のない人物として描かれているように感じた。透明な存在。そして、高みにあって、伊織が憧れる存在。現実感はなく、常に伊織の救い主として彼女を見守っている。

対する大介は。

とても伊織に身近な存在のように感じた。伊織が手をのばせばいつでも触れられるような。同じように息をし、同じような体温を持つ存在。伊織は大介を通して、雄一を見つめ、そしてまた彼を一段と神聖視していく。

大介がストレートに愛情を向けるのに対し、雄一が一歩引いて、低い温度で伊織をみつめるのがちょっと、ずるいかな~と感じた。観客の側からすると、大介はもう、みえみえだから。段々、伊織を好きになっていく過程が。北大に受かった直後に、伊織に「自分についてきてくれ」みたいなことを言ったときには、最初、なんという強引な・・・という嫌悪感さえ感じたけれど、よく考えてみればそれも無理はないと納得。

なぜなら、そのまま放っておけば雄一と伊織は一緒になるだろうから。二人のそばにいて、それを実感するからこそ、少々強引でも、大介は伊織を遠くにさらっていこうと考えたのだろう。

雄一のずるさは、絶対に自分から動かないところだ。伊織の心が自分に向けられるのを知りながら、大介の心を知りながら、自分は頑なに沈黙し続ける。そのくせ、伊織には声にならない思いを、その視線で訴え続ける。

もし、全く違う立場で出会っていたら、伊織は雄一を好きになったかな?と思うと、疑問に感じるところもあるなあ。

結局、見捨てられる不安みたいなものが、伊織にはあったんじゃないかと。境遇からして、頼るものは雄一だけだったわけで。やっとみつけた安住の地を。もしも追われることになったら、自分という存在の意味を見失ってしまう。

泣いてた自分を救ってくれた人。帰る家を作ってくれた人。その人が自分を好きだという。それなら自分は答えなくちゃ。そんな気持ちは、心のどこかにあったと思う。雄一がくれる感情を、ばっさりと拒絶して家を出て行くことは、到底できないでしょう。

家政婦のかねさんの言葉は、きついなあと思った。残酷すぎる。かねさんにとって雄一は身内で、伊織は他人なのだ。長い時間を過ごしても、結局伊織は「よその人」でしかなかったのだなあと、悲しい気持ちになった。伊織の受けた衝撃や、どうにもならない嫌悪感など、画面から痛いほど伝わってきた。

最後、曖昧な終わり方をするから、その後の彼らの生活は観客が想像するしかないのだけれど。雄一は最後まで、顔のない存在として描かれていて、それがとても印象的だった。榎木さんハマリ役です。他の人が演じていたら、全然違う雰囲気になっていたと思う。

この映画、主題歌がいいですね。

そして舞台が北海道だということも、ねじれた愛情のドロドロさを、遠い世界のように清潔に見せて、効果的だと思いました。

>別れの切符胸に押し付けた手を 冷たいねってあたためたでしょう

主題歌は由貴ちゃんが歌ってますが、私はこの一節がとても好きです。別れるときには、嫌いにさせるのも愛情のひとつで、でもふと優しい思いやりなんかみせたりして。冷たい手を、それと知りながら押し戻して、知らんふりすればいいのに。

なんにも考えてない無邪気な顔で、こういうことやっちゃう恋人が実は、一番罪作りだなあと。雄一っぽい歌詞です。

由貴ちゃんは北海道とセーラー服、そしてポニーテールがよく似合ってました。

『人でなしの恋』

パソコンの中身を整理していたら、以前書きためていた映画の感想が出てきました。『人でなしの恋』です。以前にやっていたブログ(現在は閉鎖)に載せたものですが、こちらのブログに載せることにしました。

ネタバレもしていますので、未見の方は十分、ご注意ください。

(2003年・記)

江戸川乱歩原作、人でなしの恋のビデオを見た。

羽田美智子さんが主人公の京子を、

阿部寛さんが夫の門野を演じている。

8年ほど前に作られた映画なんだけど、

当時から「見たいなー」と思っていた。

なんといっても、パッケージの表紙にある

白無垢姿の羽田美智子がとてもきれいで、

それを見ただけで、どんな内容の映画か

興味がわいてくる。

それが、江戸川乱歩原作ときた日には、

見て損はないだろう。

私は昔から、江戸川乱歩が描く世界が好きだった。

小学生のとき、夢中になって怪人二十面相を

読みふけったのを覚えている。

少年向けに書かれてはいるものの、

言葉の端々に、なにか子供の想像を越えるような

深い闇を見るようで、ドキドキしたものだ。

私の洋館好きの原点は、ここらへんにあるのかなと

思ったりもする(^^;

怪しくて、残酷で、せつなくて、息をのむくらい

きれいで。

乱歩の小説って、なんだか、覗いてはいけない

大人の世界をそっと盗み見るような、

そんな感覚があった。

表と裏があるなら、間違いなく裏だ。

人の醜さも、美しさも、非情なほど

赤裸々に描かれている。

乱歩作品には、子供向きと大人向きがあるが、

「人でなしの恋」は、大人向き。

原作の方は、昔ちらっと読んだような気もするが、

あんまりはっきりは覚えていない。

今回映画を見たのがいい機会なので、

あらためて、原作を読んでみようと思った。

以下、映画の感想です。

ネタバレあります。

見たくない人は、ご注意ください。

私がこの映画の中で、一番の見どころだと思ったのは、

なんと一番最初の方のシーンだ。

普通は、エンディングに近い部分が盛り上がると

思うんだけど、この映画は最初が良かった。

美術学校の教室で、生徒達がモデルを前に、

熱心にデッサンをしてるのね。

それなのに、講師は窓辺で、ぼーっと外を見ながら

なにやら憂い顔。

線の細い、やわらかな印象。

これが、美術講師の門野なのです。

それに対し、モデルをデッサンするふりをしながら、

実は門野を描いている京子。

周囲に気付かれぬように、こそこそしながら、

でもとても楽しそうで、表情がいいのだ(^^)

はにかむところが、なんとも初々しい。

まさに、恋する乙女ここにありって感じ。

何枚も、何枚も、少しでも多くその表情を描きたい

という京子の気持ちが伝わってきて、

微笑ましくなってしまう。

当時は手軽に写真を撮るわけにもいかないし、

門野の横顔をデッサンすることが、

唯一、彼に近づける道だったんでしょうね。

こっそり、家に飾ろうとしたんだろうか。

そんなことにも全然気付かない門野、

なんだか浮かない様子です。

私、最初に門野を見たとき、まさか阿部寛だとは

夢にも思わず、

「へえ、なかなかいい感じのキャスティングだな」

と感心したのでした。

少女の初恋の相手としては、涼やかで繊細で、

ぴったりのイメージだったから。

私がそれまで阿部ちゃんに抱いていたのは、

背が高い、濃い、というイメージだったのです。

だから、後で知ったときびっくりしました。

その後のシーンなどを見れば確かに阿部ちゃん

なのですが、いかにも画家、という感じの

線の細さがよく表現されていたからです。

こういう役も演じられるんだなーと、ちょっとびっくり。

「はいからさんが通る」で少尉役をやったとき、

その濃すぎるキャラが原作のイメージと大違いで、

がっかりさせられたんですけどね(^^;

成長したんだなあ。

それとも、少尉役があまりにもキャラ違いで、

演技うんぬんでカバーできるレベルを超えていたのかな。

なにしろ少尉は、ドイツとのハーフで

さらさらの金髪という設定だったし(^^;

ともかく、阿部ちゃんの登場シーンは

とてもよく撮れていたと思います。

この映画の監督は、松浦雅子さんという方。

さすが、女性の視点をちゃんと押さえてるなあと

思いました。

光差す窓辺の優しい空気だとか、

デッサンする京子の、早鐘を打つ心臓の音だとか、

そういうものが伝わってくる映像だったと思います。

門野の投げやりな横顔は、一幅の絵のようでした。

その瞬間を、あますことなく捉えたくて

ペンを走らせた京子の気持ちが、よくわかります。

ただ眺めているだけでは、もったいないもの。

あんまりきれいで、その一瞬を永遠のものにしたいと

思ったんでしょう。

一秒一秒を惜しむように、急いで描いてましたね。

門野は美術学校の講師には向いていなかったようで、

仕事を辞めてしまうのですが、内気な京子は

思いきって別の先生に事情を告白。

話はとんとん拍子に進んで、二人は結婚することに

なります。

白無垢姿で、赤い傘の下、船に揺られて門野の元へ。

なんて、平和な光景なんでしょう(^^)

京子の幸せが、あたり一面の空気の色まで

ぽーっと桜色に染めているようです。

門野は広大な屋敷に一人暮らし。

職業は画家です。

京子は、実家から連れてきたお手伝いの少女、かよに

家事を手伝ってもらいながら、新婚生活を満喫します。

まあ、ここまでは幸せいっぱいのお話なのですが・・・。

夜中に、門野がふとんを抜け出して、どこかへ

こっそり出かけていくんですね。

それは土蔵。後をつけた京子は、門野が女性と話す声を

聞いて浮気だと思い、そこから苦悩の日々が始まる

のです。

私、土蔵というのが、昔から大好きでした(^^)

中にはいろんな骨董品が入っていて、それぞれに

人々の思い出がつまっているわけでしょう?

そういうことに思いをめぐらすと、胸の奥がつーんと、

痛いような、せつないような気持ちになるんですよね。

洋館と同じように、土蔵も、いろんな歴史を

背負っているんだなあと思って。

そんな土蔵に消える門野。

どんな秘密を抱えているんだろう?

見ていてドキドキしました。

ただ、映画の後半は冗長すぎるような気がしました。

嫉妬に狂う京子を、ただ淡々と撮っているような感じ。

なにかぴりっとしたエピソードを入れたりしたら、もっと

ひきしまったんじゃないかと思いますが。

もしくは、門野と京子の、息詰まるようなやりとりが

ほしかったなあ。

せっかく、阿部寛も羽田美智子もいい演技してるので、

二人の会話シーンをもっと入れてほしかった。

エンディングが近くなると、門野の相手が誰なのか

わかってしまうのよね(^^;

これも、もうちょっとなんとかすればいいのに、と思う。

最後のシーンに、驚きがないのは寂しい。

脚本を少し直せば、観客に気付かれずにエンディングまで

もってこれるんじゃないかな。

その方が、ずっといい作品になると思う。

ラストは、時がたち、おばあさんになった京子が

出てくるんだけど、おばあさんになっても

魂は門野のものなんだなあ(^^;

あれだけ衝撃を受けて、それでも

門野への思いは消えなかったのか。

京子にとって、門野は初恋の相手だったと思うけど、

それ以上の深い深い愛情もあったんだね。

ただの初恋の相手なら、あの時点で

逃げ出しているだろう(^^;

百年の恋も冷めるような、場面を見てしまったんだから。

この映画の隠れた見所は、京子が着ている着物です。

登場ごとに違う着物を着ていて、帯との組合せとか、

柄や色合いを見るのがけっこう楽しかった。

そのときの心理状態によって、着るものにも

気を遣っているのかなと思いました。

人でなしの恋、うーん、どうだろう。

門野の場合、人でなし、とはちょっと違うかも。

そこに至るまで、門野の人生にはなにがあったのか、

思いをめぐらせてしまいました。

門野が歪んでしまった原因、それはやっぱり、

門野が育った家庭環境だったのだろうか。

少年時代の門野は、どんな生活をしていたのか。

父は、母は、どんな人だったんだろう。

あの広大な屋敷で、どんな悲劇が起こったんだろう。

いろいろ、考えてしまいました。

いかにも、江戸川乱歩らしい作品でした。