『わりなき恋』岸惠子 著 感想

『わりなき恋』岸惠子 著を読みました。以下、感想を書いていますがネタばれ含んでいますので、未読の方はご注意ください。

あまりにも主人公と著者である岸惠子さん自身が重なるので、これはもう小説というより岸さんの自伝なのかな~と思いつつ、わくわくしながら読みました。本が発売された頃には、相手の男性の名前も、具体的に取り沙汰されてましたし。

主人公、伊奈笙子は69才のドキュメンタリー作家で、お相手の男性は一回りも年下の会社員、九鬼(くき)兼太。最初の出会いは飛行機、ファーストクラスでの隣同士。

出会いの場面には、ぐいぐい引き込まれてしまいました。お互いに隣を気にする気持ち、それから「プラハの春」で話が一気に盛り上がり、心の垣根が取り払われていく過程。

そりゃあ好きになるだろうなあと。このときの九鬼はとてもスマートに描かれていて、かっこよかったです。笙子に対しての言動が、いちいち紳士でした。

そして九鬼の目に映る笙子が、とびきり新鮮に魅力的にみえたのも当然だと思いました。かつて遠い存在だった、自分とは違う世界の人。それが実際会ってみると、美しいだけではなく、プラハの春を語る唇からは、知識と意思と、興味深い過去があふれ出る。惹かれますよね。もっと話してみたい、と思っただろうし、話はいつまでも尽きなかっただろうし。

それは笙子にしても同じこと。放った言葉が、きれいに打ち返されてくる心地よさ。なかなかそういう相手に巡り会えることは、なかっただろうから。

九鬼の、別れ際のさりげなさも素敵でした。ふいっと消えてしまうと、余韻が残るから。笙子の中に、強い印象を残したのもうなずけます。

そして再会の演出もまた、ロマンチック。お店に、あらかじめ笙子へのプレゼントを託しておいたのですよ。小さな深紅の薔薇の花束。そして笙子の好きな銘柄の、チョコレート。

なぜ、そのチョコを選んだのか。それは、笙子が機内で5個ももらっていたのを見ていたから。好物なのをちゃんと、チェックしていたんですね。

でも、こういうことする人は間違いなくプレイボーイでしょう。遊び慣れてるのが透けてうかがえます。

>そうか、ぼくこういうの慣れていないんです

だとか、

>学生時代を通してもこんな手紙は書いたことがありません

だとか、

>これまでにこんなに愛したことはないんだ

だとか。

本の中に、「今までの人生で一番に、笙子だけを愛している」宣言が何度も出てくるのですが、これがもう嘘っぽくて、安っぽくて興ざめしました(゚ー゚;

本当にそうなら、絶対口に出さないよなあっていう。

笙子ほどの人が、どうしてそれに気付かないんだろうっていう。本当であればあるほど、言葉にするのをためらうはずなのになあ。

私がこの本の中で一番好きなのが、飛行機の中での二人の出会いでした。それを頂点に、どんどん盛り下がってしまうのが残念だったな…。

だって、その後の九鬼がちっともかっこよくないのです。それどころか、ずるい男の典型というか。なのになぜ、笙子がそれに気付こうともせず、二人の関係を「愛」という綺麗事に飾ってみせるのか。

想像ですけど。笙子の寂しさが、そして年齢を重ねたことによる自虐が、九鬼につけいる隙を与えたのかなあと思いました。

もし笙子が九鬼と、せめて同い年であったなら。私は笙子が、彼と深くつきあうことはなかったような気がしてなりません。

九鬼の、笙子に対する態度には傲慢さがあります。出会いのときはまだ、遠慮があったんですよね。だから、素敵だったけれど。

転換点になったのは、再会したときに額を合わせて笙子の熱をはかった瞬間。

このとき、二人の関係性が決まってしまったような気がします。笙子は、弱くなってしまった。無遠慮な行為を、咎めなかったから。

逆に九鬼は、自信を深めたのではないでしょうか。これはもう、大丈夫、みたいな(^-^;

私は、笙子が九鬼を本当に愛してたとは、思わないんですよね。出会いの場での一文。

>男は笙子の好みのタイプではなかった

もうこれが、すべてを表していると思いますよ。タイプでない、というのはもう決定的なことで。たとえそれが好感に変わったとしても。タイプでない、という原始的な感覚は、熱烈な恋や、どうしようもない感情には、変わりようがないのではないかと。

それなのになぜ、ずるずると二人はつきあったのか。愛というと、清いもののように響きますが、私はそんなに崇高なものでもなかったんじゃないかと、そう感じました。

まず、九鬼は笙子をどう思っていたか、についてですが。

そりゃあ、好きだったと思います。話していて、笙子のように話題が豊富で、刺激的な存在というのはなかなかいないでしょう。若くてきれいな女の子はたくさんいても、話が退屈なら飽きるのも早い。笙子は、九鬼の知的好奇心を満たしてくれる、貴重な女性だったと思います。

そして、国際的なドキュメンタリー作家という肩書きね。はっきりいってしまえば、笙子は岸惠子さんそのものだと思うので、ドキュメンタリー作家というより、昭和の大女優として考えてみると、九鬼の気持ちがより、見えてくると思うのですが。

九鬼の虚栄心は、大いに満たされたのではないかと。スクリーンの向こうにいた、誰にとっても遠い存在、憧れの大女優が、俺の愛人なんだぞっていう、ね。だからこそ、その関係をわりと、公にしてみせたんだと思うのです。

蘇州でも、デートに、自分の会社の支店長やその秘書を付き添わせるとか。もうこれは、自己顕示欲以外のなにものでもないと思いました。

そのくせ、支店長と笙子の話が弾んだら、嫉妬して不機嫌になり、無視攻撃とかね。なんて小さい人間なんだろうと、目が点になりました。自分が自慢したくて部下を連れてきたくせに。その部下と話が弾んだからって、無視ですか??

昔の岸惠子さんなら。(もう、笙子=惠子さんとして考えちゃってます。だってこれ、私小説みたいなものだと思う)

無視された時点でもう、九鬼をあっさり見限ったのではないですかね。ずいぶん失礼だもの。もうね、怒る価値もないと思います。だってそれが、九鬼という人の性格なのだし。そういう性格の人に、いくら怒ったところで考え方が変わるわけもない。怒るより先に、岸さんなら「あ、そ」とばかりに、荷物をまとめてさようなら。そういうさっぱりした、行動力のある女性ではなかったかと。

でも、この小説の中に描かれる笙子は、見ていて痛々しいのです。どうしてそんなに、九鬼にすがりつくんだろうっていう。

冷静に見て、あきらかに都合のいい女性になっちゃってるのに。

家庭は絶対に壊さない。でも愛しているのは君だけ、とか。そんな言葉、若い女性が信じるならともかく、笙子ほど人生経験重ねてきた人間が、それ単純に信じて喜ぶの?という。

九鬼の失礼なところはいろいろあるんですけど。まず、笙子の家にずうずうしく泊まりにいっちゃうところとかね。ちょっと食事して仲良くなったからって、女性ひとりの家に泊まりにいくかなあ、それなりの地位もある男性が。

まあ誘っちゃう笙子がそもそもおかしいのですが(;;;´Д`)ゝ

きっとさびしかったんでしょうね。でもこの誘いによって、見くびられたのは確かだと思います。もし見くびってなければ、九鬼は遠慮したでしょうから。

独身女性の家に泊まりにいくなんて。たとえ何もなかったとしても、もし悪い評判でもたてば、申し訳ない話ではないですか。相手を尊重する人なら、もう少しつきあいが深くなってからならともかく、まだ知り合ったばかりで、そういう行動には出ないはず。

まして九鬼は、妻帯者なのです。軽率な行動は、多くの人を傷付けてしまう。自分だけの気持ちでたやすく動けるような、無分別が許される立場ではないかと。

そして、たびたびかかってくる謎の着信とかね。笙子もうすうす気付いているようないないような、微妙な描写でしたが、あれは明らかに、女性からの電話。もしかしたら、妻からなのかも? もし笙子を本当に大事に思うなら、携帯は切っておくでしょう。会える時間は限られているのに。

笙子を不安にさせることをわかっていながら、最初から電源を切っておかないのは、それが九鬼の、笙子に対する本当の気持ちなのだと思います。言葉より雄弁に、物語ってる。

あと、笙子が大家族への強い憧れと、疎遠になった子供、血縁者が少ない寂しさを早い段階で率直に話しているのに対し、九鬼はわりと、自分の家の話を無神経に自慢しているのが思いやりのなさ=愛のなさ、だと思いました。

大切な相手だったら、その人が嫌がる話は避けますからね。

どうやったら喜んでくれるだろう。どんなことをしたら嫌われるだろうって。恋におちたら、まずそれを考えると思うのです。九鬼は、あくまで自分中心。九鬼にとって、笙子はしょせん、それだけの存在だった。

ということで、本を読み進めるにつれ、九鬼のずるさと、必死にすがりつく笙子の哀れさが際立ってきて、読むのがつらくなりました。

最後、笙子から別れを決めたのは、綺麗事でしょう。これ、実際には、九鬼が笙子に飽きてしまったんだと思います。ますます投げやりに、態度もぞんざいになっていく九鬼に、笙子がため息をついて、形としては笙子から別れを告げたと、現実はそういうことだったんだろうなあと。

お話としては美しいエンディングですが、そこにいたるまでには、よくある痴話喧嘩が、どれだけ、うんざりするほど繰り返されただろうかと、そんなことを想像してしまいました。すがる女性、逃げる男性。

最後には笙子も、これはもう駄目だと覚悟を決めて。

現実には、小説のような美しい別れなど、なかったでしょう。九鬼のそれまでの言動を見たら、想像がつきます。

年をとっても、こんなにも美しい恋ができる、というお話ではなく。

年をとったら、寂しいからといって変な相手にすがりつくのはあまりにも惨めだと。そんなお話だと思いました。

なぜこの小説を岸さんが書いたのか。復讐なのかなと思いました。それと、自分の体験を脚色し美化して書くことで、本当に愛されていた、純愛だったと信じたかったのかもしれません。

でも本当は、そっと自分の胸だけにしまっておいた方が、誰も傷付かなくてよかったのにと思ったりもします。相手にはご家族もいるわけで。

出会いの飛行機の描写だけが、きらきらと光って素敵な小説でした。後半はもう、むしろ読みたくなかったです。二人の出会いの輝きが、汚されるような気がしました。

『永遠のゼロ』百田尚樹 著 感想

『永遠のゼロ』百田尚樹 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれ含んでおりますので未読の方はご注意ください。

この本は、とにかく泣きました。涙が流れて、何度本を濡らしそうになったことか。知らないうちに泣いてました。いつの間にか、涙は勝手に流れて、とまりませんでした。

百田さんの本を読むのは二度目です。最初に読んだ『モンスター』にはあまり心惹かれなかったので、この『永遠のゼロ』は全く期待せずに読み始めたのですが、同じ作者の方が書いたとは思えない内容に、ぐいぐい引き込まれました。

終戦間際、特攻で死んだ宮部久蔵という男を巡る物語です。久蔵の孫である健太郎が、祖父である宮部の足跡をたどり、彼がどんな男であったかを知るのですが、すべてを知ったとき、健太郎の人生は変わります。

この本には。日本人の血の中に流れるなにかを、目覚めさせるものがあるのではないか、という気がします。
もちろん、モデルはあっても、宮部久蔵はあくまで架空の人物です。
でも、健太郎が変わったように、そして姉の慶子や、久蔵の戦友、教え子たちが変わっていったように、これを読む日本人のほとんどが、久蔵という人物に心を打たれて、目覚める部分があるのではないかと、そう思いました。

死にたくない、生きて帰りたいとあれほどまでに願った凄腕の戦闘機乗りがなぜ、最後に特攻で死んだのか。

宮部が最後に特攻を受け入れた気持ちは、わかるような気がします。
教官として大勢の予備士官を教え、その優秀な教え子たちが絶望的な作戦で死に赴くのを何度も目の前で見送ったら。
「生きたい」と言えなくなってしまうのも、無理ないと思いました。
一番命輝く時代の若者たちが、目の前で死んでいくのです。それも、敵艦に体当たりする前に、迎撃機や対空砲、機銃の攻撃の中、空母にたどりつくことなくなぶり殺しになるのを、毎回目の当たりにしたら。

エンジン不調の機を、大石に譲った行為。
宮部は、大石に一度命を救われたことを、忘れてはいなかったでしょう。あのとき、本当なら死んでいた。それなら一度失ったこの命を、大石に託そう。大石には生きてほしい。

そう考えるのも自然な流れのような気がしました。

自分の教え子を含む多くの前途ある若者たちが、次々と十死ゼロ生の作戦を遂行する毎日は、想像を絶する状況です。その中で、宮部がどんな気持ちでいたのか。

今の私の生活も、日本という国の今も。日本の未来を願った無数の宮部のような尊い犠牲の上にあるのだと、あらためてそう、思いました。

この小説の中で、健太郎の姉の慶子は、最後の最後でやっと、新聞社の高山と別れることを決めますが。
私は読みながら、「遅~~い!!!」と思わず心中でそう叫んでいました。そうです、見切るのが遅すぎるのです。高山が他の点でどんなに優れていようとも、私なら、元海軍中尉の武田と高山の会話、あの場に同席した時点で高山を見切ってます。彼に他にどんな美点があろうとも、あのときの高山の言葉で、心は一億光年離れますね。

失礼極まる言葉の数々を口にした後、武田に帰れと言われた高山は憮然として去りますが、それを慶子が追いかけるというのも腑に落ちませんでした。
追いかけるだろうか…。
久蔵の孫ですよ。武田と高山の論争を聞いた上で、それでも高山を追う、というのは、ちょっと考えられない行為です。
やがて戻ってきて、再び武田の話の続きを聞きたがる慶子。

おじいさんのことを、何も知らなかったときならまだわかりますが。何人かのインタビューを終え、その人となりを知って、その上での武田と高山の論争。慶子はなにも感じなかったのかな?

私は読みながら、高山もですが、慶子も軽蔑しました。あれを聞いて、まだ高山を追いかけるとか、理解不能です。
そして、そんな慶子と結婚するであろう藤木のことも、気の毒に思ってしまったり。すべてを知って、それでも藤木は慶子を選ぶかなあ? 私だったら、気持ちが冷めてしまうな。

小説の中では、景浦のエピソードにも心打たれました。もしかしたら、景浦が裏街道を生きていくきっかけになったかもしれない、あの出来事です。景浦は大きな犠牲を払いました。そして、恩人の家族を救いました。それは、誰も知らない、誰にも宣伝することのない美しい行為だったと思います。

>幸せな人生だったか

そう問いかけた景浦の心中は、いかばかりだったでしょうか。

>奴の家族には何の興味もない

その誤魔化しがまた、景浦の優しさです。一生秘密を抱えたまま、彼は黙って目を閉じるのでしょう。話さないことがまた、健太郎の祖母を守ることにもつながるから。

この本が売れるということは、日本が大丈夫な証拠かな、と思いました。日本人に読んでもらいたい本です。2013年、私が一番だと思った本です。

『アッコちゃんの時代』林 真理子 著 感想

『アッコちゃんの時代』林真理子 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれ含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

前から気になっていた本だったのですが、やっと読めました。小説ではなく、実話を元に描かれています。

バブル華やかなりし折。地上げの帝王の愛人の座を、やり手の銀座ママから奪った普通の女子大生。アッコちゃん。

もうここからして、すごいです。
バブルを背景に巨万の富を得た男。彼はなぜ、銀座のママではなく普通の女子大生を選んだのか。
魔性? 美貌? とにかく厚子という女性はいったいどんな人なのか、そこにどんな秘密があるんだろうと、興味津々でページをめくっていきました。

厚子のすごいところ。それは、地上げの帝王と別れた後、有名女優と結婚していたこれまた有名なレストランオーナーと付き合い始め、なんと略奪婚してしまうのです。

1度目はともかく、2度もすごい男性を虜にしてしまったのは、偶然ではないなにかがあるのでは?と思いますよね。

ただ、私が本を読み終えて思ったのは、人があれこれ言うほどには、本人は幸せではなかったんじゃないかという、ほろ苦さでした。

本の最後の方に、こんな文章があります。

>が、それはとても楽しい。
>選ばれた者だけ味わえる楽しい時代を過ごす。
>ふつうの人間よりも、はるかに濃密な時代をすごしていく。

これは、厚子の心の声、として描写されているのですが。

私は、著者である林真理子さんの感想なんだろうなあと思いました。林さんは、厚子をうらやましいと感じたんでしょう。

たしかに、まるでシンデレラのような、夢のようなストーリーではあります。ただ、私は思うのです。

もしこの二人のことを、厚子さんが本当に好きだったなら、幸せだったろうになあ、と。

そこに尽きるんじゃないか、と思ってしまいました。

どれだけ物質的に満たされても、いつか飽きる日が来る。
想像してみると、わかるのです。お姫様のようななんでもありの待遇はそりゃあ心地良いでしょうが、ふっと飽きる瞬間は、確実にやってくるでしょう。

そのときの虚しさ、というものは。

結局、厚子は流されただけのような気がしました。世間が騒ぐのは勝手だけども、本人にしてみたら迷惑な話で、自分が望んで動いた結末ではないのだから。

厚子の人生は波乱万丈です。
本の中では、略奪婚した夫といつしか別居し、お互いに別の恋人を持ちながら、籍だけはそのままにしているというところで終わっていましたが。

気になって、その後の厚子についていくつかの記事を読んだところ。
結局、略奪婚した夫とは離婚したそうです。
いえ、ここまでは予想通りでした。心が離れてしまってなお、一緒にいる意味は見いだせないですし、時間の問題かなと思っていたので。

ただ、ここからが凄い。
別居中に、籍はそのままで、夫ではない恋人との間の子供を出産していたのです。
いくらなんでも、それはあまりにも旦那さんに失礼なのでは・・と思ってしまいました。夫は夫で、遊んでいたかもしれないですが、それにしても夫でない人との間に子供を、というのはあまりにも。
ご夫婦はともかくとしても、子供の立場からしたら、とてもむごいことだと思います。

そして、離婚後、結局はその恋人とも別れてしまい、ひとりになったそうです。この恋人との間には、お子さんが二人ということで、この方のことは本当に好きだったんだろうなあと想像しました。
そして生活のため、銀座でホステスとなり、あっという間にナンバーワンに。
やはり天性の才能があったのでしょうか。
初めてホステスをしたとのことですが、それでナンバーワンて、これはもう努力とかいう以前に、天職なのかもと。

ただ、ホステスの仕事も一年経たないうちにやめ、その後は昼間の仕事に就く予定ということでした。

アッコちゃんの時代。その生き方をうらやましく思うかどうか。
一つわかったのは、たぶん林真理子さんは、そうした生き方に憧れがあったんだろうなあと。そう思いました。

『恋唄(コイウタ)に恋して』前川清 著 感想

『恋唄(コイウタ)に恋して』前川清 著を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれも含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

そもそもこれを読んだきっかけは、糸井重里さんの『ほぼ日刊イトイ新聞』を読んだことです。
糸井さんと、前川清さんの対談なのですが、そこにあった衝撃の一言。

>歌も嫌いだし 自分自身も嫌い

ええーーー!!! と、私はかなりの勢いでショックを受けました。
だって、私の中では、前川清ブームがおこってたからΣ(;・∀・)

初めて生歌聴いたときに、いいなと思ったのに。それから日を追うごとに、思い出がよみがえって、嬉しい気持ちになったのに。それだけの感動を与えてくれた前川清という人は、いったいどんな人なのだろうと。

興味を持ったので、前川さん関連の記事を捜して読んだら、いきなりこれです。もうビックリ。

まあ、歌嫌い自分嫌いの話をした後で、「べつに、いやいや歌ってるわけじゃないんです」と多少フォローの話もしていましたけども。でも、その少し後で、「歌いたくないんです」なんて言葉がまた、ふっと出てしまうという。

私、そんな人、聞いたことないや~と。
歌手なのに歌が嫌いって。おまけに自分が嫌いって、なんでなんで?と。いや、これがまだデビューしたての新人歌手ならわかるんですよ。
なんとなくデビューしてヒット曲も出したものの、実は、流れに乗っただけでどうしても歌いたいという自分の意志はなくて、これが本当に自分がやりたかったことだろうか、迷ってる、とかね。

でも前川さん大ベテランじゃないですか。
そんなことってあるのか? と。
これだけ長い時間たくさんのヒットも出し、順調な芸能生活送ってて、なにより私は生歌に滅茶苦茶感動したのに、じゃあ私は、歌が嫌いな人の歌を聴いて、これだけ感動してしまったのだろうかっていう。

私の反応も、決して特殊なものではないと思います。
嫌なのに無理して歌ってる人の歌とか、普通は「聴きたくない」じゃないですか。

でも私は歌を聴いたし、それがよかったし、心に響いた。
なんなんだーと。とても納得がいきませんでした。それで、前川さん自身が出した本があるなら、読んでみようと思ったのです。

前川さんが自分の口で語る言葉って、どんなものなのかなあと気になって。

糸井さんとの対談で出た、「歌は嫌いだし、自分も嫌い」発言は、「自分が嫌い」っていうところも、驚きましたね。

なんで? 私なんていきなりファンになったのに(^^;
前川さんが自分が嫌いって、実は人には見せない裏の顔があって、それが最低なのかな、とか。いろいろ想像がふくらんだり。

でもやっぱり納得がいかないわけです。
自分が嫌いって言いきっちゃう人を、なぜ私は好きになったんだろうという。

対談では、歌嫌い発言の後、こんなこともおっしゃってました。

>ぼくはね、単に食うためですよ。

いやいやそれだけじゃないですよね。それだけだったら、あれだけ多くの人を魅了することはできなかったし、一曲だけの歌手で終わってたのではないでしょうか。

一体全体、前川清さんとはどんな人なのだろう、という興味で、さっそく著書『恋唄(コイウタ)に恋して』を入手。

ちょっと前置きが長くなりましたが、さっそく本の感想を書いてみたいと思います。

本は、前川さん自身の生き方について書いてあるというよりは、ほぼ、馬の話でした(;;;´Д`)ゝ

そもそも、前川さんがオーナーだった「コイウタ」という馬が、2007年にG1レースに優勝したことが、本を出すきっかけだったようです。馬主って凄いなあ。相当お金ないと無理だから。競馬好きの人はいても、だから自分が馬主になるって、なかなかハードル高いと思う。

そして馬主になったからといって、その馬が優勝する確率なんて、普通はとても低いもので。しかもG1という大きなレースで一着をとるというのは、強運を持ってないと難しいですね。前川さんは、大きな運を持っている人なのだなあと思いました。

そういう経緯があって出版された本。
だからこそ、馬の記述が多いのは当たり前なのですが、それにしても馬の話題が多すぎ。

この本を買う層って、前川さんファンがほとんどだと思うのですが、ファンが求める内容と、乖離が激しいのでは?なんて思いながら読み進めていきました。
馬に興味がない人にとっては、その辺がちょっとつらいかもしれません。

ただ、馬の話が多い中にも、ちゃんと私生活のお話も入っていて、とても貴重だと思いました。なにより、ご家族のお話とか、名前まで公表してしまっているのです。ちょっとびっくりもしたり。オープンなんですね。

思わず笑ってしまったエピソードは、オーストラリアに、奥様と三人のお子さんと旅行していたときの話。馬を預けていた調教師の方から電話があって、「レース、見に来るでしょ?」と問われ、前川さんはなんと、旅行を途中でやめて、家族みんなで帰っちゃうんですよ。

なんと言ってお子さんにそのことを切り出したのか、言い方が笑えます。

>「みんな、帰ろうか」
>それ聞いて、みんな「えー?」です。
>「なんで帰るの?」って。
>「う、馬が、走るんだよ」
>「……帰ったら勝つの?」
>「うっ……」

なんとか家族で日本に帰れたのは、子どもがまだ親のいいなりになる年頃だったから。と書いてありましたが、当時、上から10歳、9歳、3歳とのことで、いやいやこれは、私は奥さんが素晴らしい方だったのだと思います。

前川さんを信頼して、後をついていくという姿勢の方なのではないでしょうか。奥さんが前川さんを尊敬しているから、そのことが子どもたちにもちゃんと伝わっていて。
この年の子どもだったら、せっかく旅行に来たのになんでいきなり帰らなきゃいけないのか、理解もできずに泣いたり怒ったりしても無理ないかなあと。
子どもたちが抵抗もせず、帰国に同意したのは、日頃から奥さんが子どもたちに「お父さんが一番よ」っていう姿勢だったんだと思います。

いい方と結婚したんだなあ、と思いながら読んでいました。

私だったら、反論してしまったかもしれないです。急な仕事だったら仕方ないけど、馬でしょ? 自分の趣味なのに、どうしてせっかくの家族旅行が中止なの?って。そしたら喧嘩になってるなあ。

奥さんの人柄が浮かび上がってくる、素敵なエピソードでした。

でも、本を読み終わっても、さっぱり疑問は解消されません。どうしてこんなに理想的な御家族がいて、お仕事も順調で、それなのに「自分が嫌い」って言葉が出てくるのか。

それと、「歌が嫌い」という部分も、本の中では、元々ロックが好きだったけど、キャバレーで歌う関係上、歌謡曲を歌わざるをえなくなった経緯が書かれていて。
そうか、いわゆる歌謡曲とよばれるものは、そもそも前川さんの好みじゃなかったんだな~というのは、わかったんですけども。それから40年近くの月日が経ってるわけで。

その間、ほぼ歌謡曲だけを、歌ってきたわけですよね。それでまだ、「歌は嫌い」って糸井さんとの対談で言いきってしまったのは、どんな心境なんだろう、どんな思いがあるんだろうと。それを知りたいと思いました。

気持ちは、変化したのでしょうか。
糸井さんとの対談は、約三年前。本を書いたのが約五年前。それから心境の変化で、歌が好きになっていたのではないか、少なくとも私が行った時のコンサートでは、歌を好きな気持ちで、いてくれたのではないか、そうだったらいいなあと。

じゃなきゃ、あれだけ魅了されてしまった自分って一体…という( ̄Д ̄;;

「こう思え」だなんて、人に強制するのは傲慢だし、失礼なこととはわかっています。だから願望として。

前川さんには歌を好きでいてほしいし、ご自分のことも好きでいてほしいなあと、心からそう、思いました。

『華麗なる一族』山崎豊子 著 感想

『華麗なる一族』山崎豊子 著 を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれしていますので未読の方はご注意ください。

この小説は、タイトルが素晴らしいです。

本当に、この小説の中身を端的に表すとしたら、これ以外の言葉はないのではないだろうかと。

一族。それも、華麗なる、きらびやかな上流社会のお話。

いつか、聞いた言葉を思い出しました。「どこの家にも、表に出せない秘密がある。そーっとタンスの奥にしまわれているから、見えないだけだよ」と。

銀行の合併をめぐる、凄まじい駆け引きと頭脳戦。
その裏にある、万俵家の父、大介と、長男鉄平との、生生しい確執。

でも私にとっては、ひとつだけ解せない展開がありました。それは、鉄平の最後です。

鉄平がああした最期を遂げるなんて、違和感ありすぎで、納得いきませんでした。話の展開上、とどめとなったのは、彼が父の最終目的=大同、阪神銀行の合併を知ったこと、なのでしょうが、だからといってああいう最期を選ぶかな~と、その部分だけもやもやしたものを感じてしまいました。

鉄平が受けた痛手は、確かに相当のものだったとは思いますが。
同時に彼は、家族としてとうとう父から得られなかった愛情を、妻の早苗から受けていたからです。

子供を連れて実家に帰ってほしいと頼んだ鉄平に、早苗はこう答えていました。

早苗>あなたのご指示通り、この家を出ることは承知いたします。

早苗>ですが、あなたご自身はどうなさるのです?

鉄平>僕は役員寮に入って(中略

早苗>それはいやです、この家を出ることは明日からでも致しますが、あなたと私たちが別れて生活するのはいやです、どんな住まいでもいいから、ご一緒したいと思います

私は、この状況でこれ以上の対応なんて、あり得ただろうか、と感動してしまいました。
憎しみ合った実の親子。
それなのに。夫婦は他人なのに。なにもかもなくした鉄平を夫として尊敬し、ついていくという妻。

思えば、鉄平と早苗の結婚なんて、始まりは典型的な閨閥作りだったわけですよ。でも出会った二人は共に時を過ごし、かけがえのない子供が生まれ、心を通わせあった。そして、家族が生まれた。

小説の中で鉄平がああした結末を選んだのは、絶望だろう、と推測します。ならば、この早苗の言葉は、その絶望を救う、光になったはずだと、確信するのです。

本当に絶望させるのなら。こんな展開だったと思います。

万俵家の後ろ盾を失った鉄平に、冷たく離縁を言い放つ妻、だったり。
もしも妻の口から、「私はあなたに嫁いだのではない。万俵家の長男という立場に嫁いだのだから、当主に勘当されたあなたを、もはや夫とは認めない」などと、そんな言葉が漏れたなら。
鉄平のなかで、ぷつんと切れるものがあっても、おかしくはないのですが。

親に愛されたいというのは、子供なら誰もが持つ、原始的な欲求。
だけど、常に誰もがその欲求を満たされるわけではない。駄目ならばその代償を求めるし、それに代わるものが得られたなら、生きていける。

30をとっくに過ぎた男で、会社では専務まで務めて、子供も二人いて。

どうしても父に愛されない→救いのない絶望

単純に、そういう図式にはならないんじゃないかなあ。いやもう、私の願望かもしれないけど、そういう鉄平であってほしくないというか。

早苗の言葉は、家族としての愛、だと思いました。何があっても、私たちは家族ですよっていう。
鉄平にはきっと、これから大変なこと、たくさんあるだろうし。今までみたいな順調な人生では、ないだろうけど。

装飾やおまけを一切排除した、裸の鉄平を。
夫として尊敬し、ついていくという早苗の決意。これがわからないほど、鉄平は鈍感じゃないと思うんですよね。
そしたら、ああいう最期は選ばないはず。早苗と子供たちのために。

まあ、そもそも罪深いのは大介ですけどね。憎み、対決するのは、息子じゃなく父親であるべきだったのに。なんで怒りの矛先を、なんの罪もない子供に向けちゃってるんですかーという。大人げなさ(^^;

母の寧子も、ひどいなあと思っていました。おひいさまだから仕方ないのかもしれませんが。自分の本当の父親は誰なのか教えてほしいと、真剣に乞う息子に対して

>許して、許しておくれ!

そんなこと、言っちゃいけなかった。言ってる場合じゃないのに。どんなに自分がつらくても苦しくても、母親なら、真正面から鉄平を見据えて、言ってやらなくちゃいけない言葉が、他にあった。嘘だろうが真実だろうが、そんなことはどっちでも関係なく。
とにかくあのときの鉄平にかける言葉は。母親なら、たった一つしか、なかったはずなのに。

言ってあげてほしかったなあ。
「あなたの父親は、万俵大介です」と。

この小説を原作としたドラマが、2007年に放映されましたね。鉄平役の木村拓哉さんと、大介役の北大路欣也さんのキャスティングがよかったなあ。私が原作を読んだイメージ、ほぼそのままでした。

逆に、これはイメージだいぶ違うなあと思ったのが、相子役の鈴木京香さん。

美しすぎるし、気品があって貴族的で、「華麗なる一族」に対する卑屈さが皆無だから。

私が思う相子のイメージはもっと。やぼったい感じなんです。綺麗ではあっても、どこかに垢抜けない素朴な部分が残っていて。どこまでいっても、「華麗なる一族」に染まりきれないことへの、コンプレックスみたいなものを、抱えている女性。

また、意外なハマリ役だと思ったのは、万樹子役の山田優さん。演技というよりも、存在そのものが万樹子の雰囲気にぴったりでした。大事に育てられたお嬢様としての素直さと、自然な我儘さと。気の強さと、そして華やかさと。

ドラマと小説を比べた時には、ドラマは甘口、小説は辛口だと感じました。ドラマはよりわかりやすく、説明的に作られていたように思います。

実際には、大介や鉄平は、あそこまで饒舌じゃなく、思いをぐっと、胸の中に飲み込むタイプだと思いますし、そういうバージョンのドラマも、見てみたかった気がしました。