元気な紫のバラ

 今年も春のバラを見に行ってきました。

 植物園のバラコーナーは、辺り一面に甘い香りが漂っています。
 今年も紫のバラ、「青龍」は弱々しく、今にも倒れてそのまま枯れてしまうのではないかという勢いで。ここの土が合わないのかな。

 その一方。元気いっぱいに咲き誇るのは、2006年に京成バラ園芸が作出した、「しのぶれど」

 紫のバラは、弱いもの、か細いものというイメージを、見事に打ち壊してくれました。こんな紫のバラもあったのね~。

 もうこれは、あれだね。ガラスの仮面の速水さんも、このバラをお庭で作るべきだね、と思いましたヽ(´▽`)/

 庭中にこの花を咲かせて、マヤを想えばいいよ。速水さんにぴったりのバラだと思いました。

 名前も「しのぶれど」なんてねえ。

 赤やピンク、オレンジの色鮮やかなバラの中で、紫はやはり、寂しい色でした。その寂しい色が、いくつもいくつも、数え切れないほどに花を咲かせていました。
 抑えても抑えても、湧き上がる情熱のように、です。
 決して表に出せない情熱は、目に見えないだけで、途切れることがないのです。

 紫織さんにぴったりの花もみつけました。
 「コティヨン」です。Dr. Keith W. Zary1999年の作出。こちらのバラは、同じ紫でももっとピンクがかっていて明るい。

 

 この明るさが、紫織さんにはぴったりではないかと思いました。

>真澄さま(*´Д`*)

 とかなんとか、速水さんの名前を呟きながら、頬を染めて自宅のバラ園で一日中妄想にふける紫織さんを想像してしまいました。

 

 でも「コティヨン」に混じる赤は、決して「しのぶれど」が抱える寂しさを、理解することはないんだろうなと。二つのバラを見て思ったのです。
 その違いが、二人の違いなんだろうなあと。

 『ガラスの仮面』50巻が発売延期になった一方で、ギャグアニメ化とか映画化とか。カルタのときも思ったけど、全く興味がわかない~(^-^;

 そこか?そこなのか? ファンの求めるものは。

 ちなみに、私が庭一面に咲かせてみたいと思ったのは、「ヨハン・シュトラウス」。
 なんて可憐なバラなんだ~と、清楚な色に釘付けでした。真っ白な肌。ぽっと頬を染めたような乙女のイメージです。

 可愛くて、かつ華やかで、でも清純なのです。

 バラには太陽がよく似合います。日差しがまぶしく、素敵な一日でした。

『ガラスの仮面』49巻 美内すずえ 著 感想

『ガラスの仮面』49巻 美内すずえ 著を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれ含んでおりますので、未読の方はご注意ください。

この巻を一言で表すならば、「真澄が四方八方から責められる巻」であったと思います。

もうね、どうすりゃいいんだと(^^;
悪い人じゃないのになあ、真澄さん。優しさも誠実さも持ってるのに、行く先々で責められ、悪者にされてしまうという。

じゃあどうすればいいんだーと、叫びたくなりますよね。
紫織に対する優しさ、病んだ人に対する憐れみや情は、人間なら当然のもので。でもそれを形にすれば、

「無理なさらなくても結構ですのよ 真澄さん 結婚する気もないのに 紫織のために会社を休んでまで付き添ってくださらなくても…!」by 紫織の母 とかなっちゃうし。
でもさ、あの状態の紫織さんを前にして、もしも

「確かにその通りですね。僕は彼女を哀れに思いこそすれ、愛情など欠片もありませんから。婚約者としての責任感はありましたが、母親であるあなたからそういうお言葉をいただけたのですから、これで安心して帰れます。婚約解消の咎は認めますし、この件に関して紫織さんの名誉ができるだけ傷付かないよう、大都の総力をあげてマスコミを押さえるつもりです。さっそく社に帰り、関係各所への手配をします。では、失礼」

もしも、真澄が上記のようなセリフを、端正な顔でにっこり言い放ち。踵を返して、すたすた鷹宮邸を辞したなら。

そしたらある意味、すっきりしたのかな。
もうとにかく。結婚は無理。婚約は解消ということで。「天と地がひっくり返っても、僕が紫織さんと結婚することはありません」なんて、真澄が終始その態度を貫き通したなら。ガラスの仮面はあと数巻で終わるような気がします(^^;

でも、マヤに誠実でありたいと願えば、鷹宮に糾弾され。鷹宮に屈すればマヤに不誠実を責められ。

マヤとの約束を守ろうとすればするほど、紫織の狂気が増していく現実の前に、自由の効く両手両足をどんどん、絡めとられていくマスミン。このままでは、完結の日が遠いなあ・・・。

揺れる描写なら、いくらでも描けそうです。

片方に揺らいだエピソードの後は、その傾きを取り戻すための反対エピソードを入れて。
これやっていたら、相当な長編になりそう。延々続きますよ~。

鷹宮翁の言葉も気になりました。自室に放火した紫織を気遣いながら、真澄に言い放った言葉。

>ただ このままでは紫織はもう…
>この通りだ 真澄くん…!
>どうか紫織と結婚してやってくれ…!

私、「このままでは」ってところが引っかかったのです。「このままでは」というと、「現状はまだ許容範囲」と言ってるみたいに聞こえるんですけど、もう現状が相当、おかしなことになっちゃってるのに、鷹宮翁気付いてないんだもん(^^;

紫織さん、入院レベルだと思うんですけど・・・。

放火するのもアレですが、妄想が行き過ぎて看護師さんを花切り鋏で襲うなんて、これは24時間の見守りがないと暮らせないレベルなんじゃ?
看護師さん、実際刺されて流血してるし。腕だからまだしも、お腹刺されたらどうするんだろう。
まあ、腕だって、動脈を切れば大変なことですよ。

鋏を取り上げようとしたマスミンの手も、傷つけちゃってるし。

こういうところ見てると、紫織さんがマスミンのこと、本当は好きじゃないのがよくわかります。

紫織さんが好きなのは、自分なんです。自分の思い通りにならないから、暴れてるだけ。本当にマスミンが好きなら、他の誰の言うことを聞かなくても、マスミンにだけは向き合うはず。たとえ狂気の中であっても。
そして、マスミンを偶発的にでも自分の鋏が傷つけたなら、流れる血液に気付いたなら。動揺して後悔して、マスミンの痛みを自分の痛みのように感じて、手当てをしようと慌てるはずだから。

もはや、紫織さんにとって、マスミンなんてどうでもいいんだろうなあ、と思いました。自分の傷付いたプライドの方が大事なんでしょう。
欲しいと思ったものが手に入らなかった。屈辱を感じてまで、「欲しい」と、人生初めて膝を屈して乞うたのに、それが叶わなかった。
そして、自分が欲しくて欲しくてたまらなかったそれを手に入れるのが、どうみても自分に劣る、みすぼらしい存在(マヤ)であることが許せない、まあ、要はそういうことなわけで。

紫織さんも狂ってますが、鷹宮家一同、歪んでおります。
我が子でありながら、親子関係が薄くみえる両親だったり。孫を盲目的に溺愛する権力者の祖父、だったり。
周りの環境が、紫織さんの狂気を育み、増大させていったのですね。

もしも紫織さんが、マヤの母である春さんの子供だったら。
子供時代、スーパーで「あのお菓子がほしい」と駄々をこねても、「うちにはそんなもん買う余裕はないんだよっっ!!」と一蹴され、それならばと嫌がらせで、その場でひっくり返って大暴れしてみたところで、「ああ、そんなに暴れたきゃ勝手にしなっ! わたしゃ帰るからね。お前はもう一生、そこにいればいいよ」と捨て置かれ。

しばらく泣き続けたものの、春さんは本当に家に帰ってしまったことを知り、仕方なく、とぼとぼと家路につき。
「食べたくなきゃ、食べなくていい」と言われて出されたいつもの夕食を、取り上げられないうちに慌ててがつがつ食べる・・・なんて子供時代を送ることになったわけで。

今の紫織さんはいなかったですね。
環境が、作りあげたキャラと言えるのかも。

49巻の中で、聖さんがマスミンの本当の気持ちを確かめるために、わざとマスミンを挑発するシーンがあるんですけど。聖さんが京本政樹さんにしか見えなかったです(^^)

どうしよう、この絵柄は、京本さんに似すぎだ~(笑)
私の脳内では、京本さんがセリフをしゃべってました。

それと。マスミンは、マヤを桜小路君にとられるのは許容できても、聖さんにとられるのは嫌なのかなあっていう、その心理状態が興味深かったです。

あれですかね。自分の好きな人を、知らない他人にとられるのは我慢できても、親友に奪われるのは許せないとか、そういう心理なのでしょうか。

それにしても、聖のセリフには笑ってしまうものが多く、その挑発に、簡単に乗ってしまうマスミンも、滑稽なほど幼く見えました。いつもの、冷静沈着、鬼社長の姿が全く見えてこない。いくら心乱されているといっても、あまりにも動揺しすぎではないかと。

聖は、あくまで部下ですから。マスミンの命には逆らえないわけで。

聖がなんと言おうと、マスミンがビシッと「駄目だ」と言えば、そこで終わりなのにな。

>北島マヤはぼくがいただきます
>いいですね 真澄さま

そしたら、マスミンはこう言えばいいんです。(以下、☆は妄想セリフです)

☆お前はなにを言ってるんだ(にっこり、氷の微笑)
☆勝手なマネは許さん。これは命令だ。

>ぼくが紫のバラのひとだと名乗れば
>マヤさんはぼくを愛するでしょう

☆誰がお前にそうしていいなどと言った?
☆以後、お前はマヤに一切接触するな。
☆おれがマヤと関係を断つ以上、もはやお前を仲介役にする必要もなくなる。
☆話は以上だ。行け。

聖の一切の反論を許さず、自分の言いたいことだけ言ってしまうと、話しかけるなオーラをまといつつ、黙々と書類整理に戻る真澄様、という図が見てみたかったです。

そして、部屋を出て、扉が閉まった後、ひとり心の中でマスミンに語りかける聖さん、とかね。もう、想像が膨らむなあ。(以下、☆は私の妄想です)

☆気付いていらっしゃらないのですね真澄さま。
☆あなたの心の奥深くにいるあの方は、決して消えることはない。
☆自分の幸せだけを追いかければよろしいのです。
☆そのためならぼくは、どんなことでもするでしょう。

そして、寂しい微笑を浮かべる聖、だったりね。ああ、想像は果てしなくどこまでも広がっていきます。

ところで、マヤを自分のものにする宣言でマスミンを覚醒させようとした聖ですが、マスミンはこの状態で聖にペーパーナイフ投げつける男じゃないよなあ、という気がしました。

ここは、すっきりしないです。
この場合、私の想像するマスミンだと、平静を装いそうなんですよね。ぜーんぜん平気ですよーみたいな顔しながら、聖が出て行った後、自分の手から血が流れているのに気付く。
無意識に、ペーパーナイフを強く握りしめていて・・みたいな話だったら、いかにも速水さんらしいと思うんですが。

それで、自嘲したりね。ひとりになった部屋で、もう、自分で自分を笑っちゃう、みたいな。私の想像の中のマスミンだと、聖が出て行った後の彼は、以下のような感じです。(☆は勝手に想像したつぶやき)

☆おれは、動揺、していたのか・・・
☆馬鹿な男だ。ナイフの痛みに気付かないほど、動揺して。
☆聖なら、マヤを不幸にしない。だがおれは・・

白目で、さらにナイフを握りしめ続けるマスミン、なんてのも想像できます。もうね、痛みで自分を抑えるしかない、みたいな。
笑いながら泣いて。
自虐しながら、マヤを忘れるために呼吸している、という。そんな姿だったり。

49巻は、私の好きな速水さんとはちょっと、方向性が違ってきているのを感じました。やっていることが少し・・。紫織さんに振り回されてしまうのもそうだし、マヤに対しても。

結局マヤを選び、伊豆の別荘で会うことにしたみたいなんですが、それだとマヤが危険すぎる~。

速水さん、結局は今のところ、大都を離れる決意したのかな~という感じですが、たとえ一個人に戻ったところで、ハッピーエンドとはいかない。だって今のままだったら、一番守りたいはずのマヤが、守れないから。

私は、速水さんはマヤのためなら、自分を犠牲にする人だって思ってるから。自分の恋情なんかより、マヤの幸せを願う人だと思ってたから。だから、「マヤを守るために紫織さんと結婚する速水さん」は想像できても、「すべてをなくしてもマヤとのささやかな結婚を選ぶ速水さん」は想像できないなあ。

愚か過ぎる。その愚かさも、マヤを思うあまりの愚かさじゃなくて、単純に、世間知らず、的な。仮にも一企業で社長やってた人の判断じゃないよなーっていう。
今マスミンが伊豆なんかでマヤと会い、愛情を確認しあったら、鷹宮翁は全力でマヤをつぶしにかかるわけで。それがわからないって、どうなのよという。

次巻、50巻は伊豆別荘編になるのでしょうか。続きが気になります。

別冊花とゆめ2012年4月号『ガラスの仮面』美内すずえ 著 感想

別冊花とゆめ2012年4月号『ガラスの仮面』美内すずえ 著を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれしていますので未読の方はご注意ください。

読み終えてまず思ったのは。

こりゃ、紅天女の主演ゲットは、マヤで決まりだろうなと。
子供みたいに純粋に楽しんでお芝居をするマヤに、亜弓さんは勝てない、と思います。

ものすごい気合いで、自らのアイデンティティを賭けて、その証明手段として紅天女を選んでいる亜弓さんの演技・・・きれいかもしれないし凄みはあるかもしれないけど、それって、阿古夜のせつなさ、だせるのかなあ?と。

完璧な存在が、初めてみせる脆さ、みたいなものが、この「紅天女」というお芝居のメインテーマになってくるのではないかと思うのですが。人ではない存在が、人に恋して崩れた、その弱さこそが、魅力の舞台になるのかと。

亜弓さんの場合、そもそもハミルさんと恋愛関係が成立するのかどうか、疑問です。ハミルさんが魅力的に感じられないのは私だけ? 亜弓さんがどうしようもなくハミルさんに惹かれていくっていうシチュエーションが、この先あるんだろうか??

障害を乗り越えることで、自分の中のあらたな一面を発見し、それを舞台の上で表現する。亜弓さんの場合、ハミルさんとの恋愛うんぬんより、目のことが最大の障害になるのかな。
でもそれだったら・・・。あくまで、自分という個人の中での枠組みになってしまう。他人は関係なく、亜弓さん個人の中の問題。

やっぱり亜弓さんは、「演じよう」と努力する限り、「そのものになりきって、それを楽しむ」マヤには勝てない気がする。

そしてマヤは。
速水さんを失うんだろうなあ。自分の魂のかたわれとめぐりあい、その歓喜を知ったあとでの別離。

そのとき初めて知った感情を、舞台の上で表現することで、昇華させることで、救われるのかもしれない、なんて。そんなことを想像してしまいました。

出会えたことに意味がある、というなら。
速水さんと出会ったことで、マヤは紅天女を手にいれるのだろうか、なんて、つらつらと考えてしまいました。

もう、このへんは本当に想像にすぎないですけど。今月号を読んだら、そんな気がしました。

今月号で印象的だったシーンは、二か所あります。
まずは、これ。速水さんが紫織さんを見舞うときの表情。

なんだかもう、典型的なまでの仮面かぶり顔というか(^^;

すごくバリアー感じます。もう見た瞬間、ああ、こりゃだめだわっていう。私が紫織さんなら、この顔みた瞬間に諦める。こんな顔して見舞いにくる速水さんを、見たくない。

心なんて、まったくそこにはないような。
ビジネス、義理、大人としての理性。

>おはようございます紫織さん
>きょうは顔色がいいようですね

その台詞の、字面の優しさと内面のギャップがまた、せつないです。そういう台詞を相手に言わせる自分の卑怯さを、紫織さんは何も感じないんだろうか。まあ、感じないからあんな自殺未遂をしたんだろうけど。

そんな速水さんの仮面の向こう側も見ずに、顔を赤らめて、ありがとうございますと嬉しそうに答える紫織さん。ああ、この返答で、おそらく速水さんの心はまた1キロメートルくらい、彼女から離れていったんだと思う。偽りの笑顔をはりつけたまま。

そして、私がいいなあと思ったシーンは、車の後部座席で、ぼんやりと車窓を眺める速水さんの横顔だったり。

紫織さんの前にいるときの、「速水真澄」を演じていたときの鎧は脱げて。

私も、透明人間になってその横顔を見ていたいなあ、と思ってしまいました。その人の心って、やっぱり顔に映し出されると思うんですよ。気をゆるめて、心のバリアを解いた瞬間の表情。
そのときにこそ、その人そのものが、あらわれるんだと。

英介は、ほどなく真澄のマヤへの気持ちを知ってしまうんだろうなあ。そのときは、ためらいなくマヤをつぶしにかかりそうです。パフェ食べていたときの好々爺ぶりは、あくまで、マヤとの間に特別な利害関係がなかったからであって。

ひとたびその存在が邪魔になれば。
えげつない手段で、潰しにかかりそうな気がします。そして、それを阻止すべく、真っ向から対決する速水さん。

ところで、今月号にはガラスの仮面国民的名シーンと題うった特別企画が載っていましたけれど。この企画の意味がわからないというか、これを面白いという人、いるんだろうか・・・。

いや、過去の名シーンを集めるっていうのはいいんですけど、それをコスプレさせて再現というのが、なんとも・・・。どうせコスプレさせるなら、いろんな人に、真剣にやってもらいたかったです。別に有名人でなくてもいいので、実写版の絵が見たかったなあ。

以上、今月号の感想でした。

『ガラスの仮面 48巻』美内すずえ 著 の感想

『ガラスの仮面 48巻』美内すずえ 著を読みました。以下、感想を書いていますが、ネタばれしていますので未読の方はご注意ください。

まず帯です。帯。ここに注目。
なんで劇団ひとりが、マヤや月影先生のコスプレしてるんだろう(^^;

意味がよくわからないというか、むしろ不快というか。
こういうキャンペーンのセンス、私はあまり好きではないです。以前にやっていた速水真澄は誰だ、みたいなクイズもどうかと思うけど、今度のはさらに・・・です。

これって販促になるのだろうか(^^;
というか、どのあたりの年齢層をターゲットにしてるんでしょう? ガラスの仮面の読者の年齢層って、結構高いと思うんですが、それを踏まえての企画なのでしょうか??

最初に帯を見て、多少脱力しながらも気を取り直し、、読み進めました。そして、読み終えて最初に思ったこと。

そうかー。やはり別冊花とゆめは、少女を対象にした雑誌なのだなあと。
雑誌連載がそのまま単行本になったわけではなく、改稿されていまして。その改稿が、「よりわかりやすく説明を加えた」ものになっていたのです。

それは、少女にもわかりやすく、というコンセプトがあったからではないかと、そう思いました。

大人なら、暗黙の了解だとか、言葉に出さない気遣い、みたいなものを理解できるけれど、子供にはなかなか難しいから。

雑誌連載の原稿を、さらに何度も推敲したことによって、単行本はより、わかりやすいものになっていたけれど、私は雑誌連載のときの方が好きでした。

いちいち、登場人物の心情をこと細かに説明したりしていなかったから(^^;

こういうのは好みなのかもしれませんが、私は「秘すれば花」派です。敢えて顕にしない方に美学を感じるし、その方が余韻や、解釈の違いを楽しんだりもできるわけで。

今回の48巻は、説明が多すぎて、勢いが失われてしまったように思いました。わかりやすく、綺麗ではあるけれど、魅力を損なってしまったような・・・。

一番それを感じたのは、速水さんが紫織さんに婚約解消を告げにいくシーンです。待ち合わせの店に到着した速水さんが心に思ったことが、文字になっていまして。たとえば、以下の台詞。

>ただひとつ ぼくはあなたに 嘘をつく…!

これ、あらためて文字にしてしまうと、興醒めでした。

嘘をつくと宣言されてしまうと、う~ん。

この台詞はない方が、いろいろ想像できてよかったように思います。紫織さんと真摯に向き合った速水さんの言葉。そのどれが真実で、どれが嘘なのか。
速水さんが何を思い、何を意図して動いているのか。

すべてを言葉で説明しない方が、奥深かったような。
ただひとつの嘘、と言いきってしまえば、答えは明らかですもん。
マヤに対する気持ちを、ファンだと言いきったことですよね。

こんなふうに速水さんの心情をつらつらと文字で表現されてしまうと、う~ん。私は雑誌連載時の、読者に考えさせる曖昧さを残した表現のほうが、好きでした。

そしてこの48巻。亜弓さんとハミルさんの恋模様も、かなりのページを割いて描かれているのですけれども。

ハミルさんが素敵に見えず、亜弓さんにも全く共感できないため、正直、この二人はどうでもいいや・・とか思ってしまいました。

ハミルさんは、う~ん。全然かっこいいと思わないです・・・。

なにか魅力的なところがあれば、と思うのですが、う~ん、う~ん。まったく私の好みではなかったです・・・。

そして亜弓さん。
相変わらず、目標のピントがずれてるような。有名人の二世であることに強烈なコンプレックスを持ち、それを払拭したい、親は関係なく私が私であることを証明したい、その気持ちはわかるのですが。

失明の危険を冒してまで、紅天女の試演にこだわるところが理解不能すぎて。それこそ、そこまでしてたとえ試演で主役の座を勝ち取ったとしても。

その後どうするの?という単純な疑問が。手術の時期を逸したことにより失明したら、当然、本公演とか無理だろうし。
すべてが明らかになった後で、世間は「さすが亜弓さん。親の力でなく、自分で主役を勝ち取ったのね~」なんて思うわけはないしなあ。

世間の評価は関係ない。自分自身が納得できればそれでいいのだ、といえばそれまでですけど。本当に、そこのところは理解できないのですよ・・・。なんで、試演に勝てば親の七光りを脱出できると、亜弓さんは固く信じているのだろうかと。

そして、そんな亜弓さんに惹かれていくハミルさん。

ああ、亜弓さんにもハミルさんにも両方共感できない(^^; 読みながら、「マヤや速水さんのパート、早く出てこないかな」と思ってしまいました。

その他、この48巻で、がっかりした加筆部分について、2つ語ります。

まず1つ目。

伊豆の別荘で寛ぎ、マヤのことを思いながら、別荘番に「殺風景だから花でも飾ってくれないか」的なことを頼む速水さんです。

うぉー、これは、思わず笑ってしまいました。ないわぁ。これはないですよ。こんなことしてる場合じゃないし(笑)

婚約解消で、これから鷹宮グループを敵にまわそうとしている立場の人が、やっちゃいけないことです。いくらでもやるべきことがあるのに、伊豆の別荘でのんびり妄想って、いやー、それだけはないわ。速水さんに限って。
彼がもしもそんな人なら、とっくの昔に英介に見限られて、養子を解消され平凡な人生を送っていたでしょう。

それに、マヤとのこれからの生活を大切に思うからこそ。心を鬼にして、必要以上に近付かなかったのが、あのアストリア号ではなかったでしょうか。それは、速水さんが責任感のある人だからこそ、と思うんですよね。

あのとき。速水さんはまぎれもなく、「婚約者のいる人」だった。だからこそ、甘い、楽観的な約束などできなかった。

有言実行、ですよね。まずは、全力で動こうと。あのときの速水さんは決意していたはずです。どんなことをしても、すべてをクリアにすると。そして、その暁には、誰にはばかることなくマヤと一緒になろうと。

そんな速水さんが、あの後、伊豆でのんびり・・・ あり得ないです。むしろ、仕事中に苦悶してほしかったです。どんなに仕事に没頭しようとしても、脳裏に浮かぶマヤの甘い声に、心がかき乱されて、「こんな気持ちは初めてだ・・(白目)」的な表現があったら、萌えます(@^^@)

伊豆の別荘で夕焼けを見つめながらのこの台詞。

>はじめてだ…
>誰かのために部屋の中を気にするなんて…
>マヤ…きみがおれの何かを変えようとしている…

これがもしも、婚約解消に伴う大都の損失を最小限にしようと、東奔西走した速水さんがやっと帰りついた自室での台詞であったなら。もっとぐっときたのになあ、なんて思ってしまいました。
昼間は冷静沈着の仮面をかぶり、どんな脅威にも平静を装い、激務をさらりとこなした速水さんが。ひとり、深夜の自室で。マヤを思ってつぶやくとか。
想像すると、かなりいい感じなんですが(^^)

では、次に、2つ目の加筆がっかりポイント。自殺未遂をはかった紫織さんを、ネクタイで止血するシーンです。

わかります。確かに、なんでこれが加筆されたのかは、わかる、気がする。

人として、怪我をした人を前に、助けようともしないのは倫理的に問題がありますもんね。ただ、この場合。
紫織さんを前に、ただ立ち尽くすしかなかった速水さんのほうが、読者にとっては彼の受けた衝撃の大きさを想像できたと思うのです・・・。

そのとき。きっとすごく、複雑な気持ちだったと思います、速水さん。いろんな感情が一気に湧き上がって、ぐるぐる渦を巻いていたような。

紫織さんを哀れと思う気持ち。気の毒に思う気持ち。痛ましいという気持ち。まさかという気持ち。

そして同時に、これを境に起きる出来事に対する憤り、こんなことをしでかした紫織さんへの怒り。なぜこの場で、という苛立ち。

マヤへの愛情。将来への不安。鷹宮側がどう出るかわからない恐怖。

いくつもの思い、感情が。入り乱れてきっと、速水さんは立ち尽くすしかなかった、というのが、自然なことかと。

人間、本当に予想外のことが起きたりすると、動けなかったりするのではないでしょうか。頭が真っ白になって。
いろいろ情報は頭をめぐるのだけれど、それをうまく制御できず。整理もできない状態。

後から、ああすればよかった、こうするべきだったというのは簡単だけれど、いざそうした場に立ってみると。
意外と、「動けなかった」なんてことになるのではないでしょうか。とてもじゃないけど、とっさにネクタイを緩め、駆け寄って止血する、という行動、そんな冷静な行動など、とれないのではないでしょうか。もしも速水さんの、立場だったなら。

以上、48巻の感想でした。
次回は、今月号の雑誌連載の感想を書きます、たぶん。

亜弓さんとハミルさん

 『ガラスの仮面』、今月号の連載も、速水さんとマヤちゃんのエピソード出てこないみたいですね。じゃあ、買うのやめよう(^^;

 今月は亜弓さんとハミルさんのお話だそうですが、私はどちらにもあまり興味がないので・・・。

 ところで、女優の寺島しのぶさんて、亜弓さんぽいなあと思ったりする今日この頃です。

 両親が有名で、業界で一目置かれる存在で。その両親の存在から、独立しようと必死な感じが、亜弓さんぽい、と思ってました。今はもう、結婚されてそういうコンプレックスとか、なくなってしまった感じですが。

 結婚相手も、フランス人で芸術系のお仕事されてる、年上の方でしたよね。ハミルさんに似てるなあ、と思います。結婚で、すごく満たされた部分があったのかなあと。結婚前の、なにか思いつめたような迫力ある雰囲気が、ふんわりと柔らかなものに変わって。幸せなんだなあ、というのが伝わってきます(^^)

 亜弓さんもそうですけど、親の名前ってそんなに重いものかなあ、と考えさせられました。
 寺島さんも、お母さんの富司純子さんが名女優と謳われた方ですから、もちろん同じ職業を選んだ時に「意識しない」方が不自然なのはその通りなんですけど。

 他人が思う以上に、自分で見えない影と戦い続けていたようなイメージがあります。
 わたしが○○の娘だから、この人はこういう対応をするの? と、常に疑心暗鬼でいたような。

 寺島さんは多くの作品で過激なシーンを演じてましたよね。二世のお嬢様なら、そうしたことで知名度を上げなくても、作品に出演することはできただろうに。あえてそうした大変な道を選んだところに、亜弓さんと共通するものを感じます。
 親の名前で勝負しているだなんて、絶対に思われたくない、という強烈な矜持です。

 勝手な想像ですけど、たとえばなんの後ろ盾もない女の子が、もし女優になりたくて、チャンスをつかめそうなら「なんでもやります」と言いきっちゃうのも、わからなくはないんです。

 でも有名なご両親がいて、なぜあえてそこまで過激なシーンを?みたいなところには、なにか寺島さんの悩みというか、葛藤があったのかなあ、なんて思いました。
 親の名前を利用しない証拠に、ここまでやる根性をお見せします、みたいな。

 それは、私にとっては「すごい」とは、あんまり思えなかったです。むしろ、痛々しく思えてしまった。「わたし、傷付いてなんかいないから」と言いながら、体中に茨をまとっているような。

 女優という仕事に、真剣なのはすごく伝わってくるのに。向かう方角がひどく自分自身を傷つけているような気がして、はらはらしました。

 話をガラスの仮面に戻しますが、亜弓さんに感じる違和感も、そうなんです・・・。がんばる方向が、違う気がする。

 目が見えないから、見えるようにみえる演技をする、のではなく。
 すぐに治療して、また次のチャンスを待てばいいじゃないか、と私は単純にそう思ってしまう。

 紅天女という作品は、別に消滅するわけではないのですから。たとえ自分が試演に欠席して、上演権がマヤのものになっても。体調が万全になってから挑戦したっていいわけで。
 うまくいくとはかぎりませんが。可能性はゼロじゃないです。

 そんなことより、役者にとって体の管理は最優先。
 健康な体あっての、演技ではないかと。
 不調を隠そうとすれば、そこに力がとられて、演技どころではないと思います。

 失明のリスクを冒してまで、病状を隠し試演に臨もうとする亜弓さんの姿は、ただのわがままにしか思えなくて・・・。それを偉いとか、役者魂だ、とか、賞賛する気持ちにはなれません。

 マヤちゃんの試練には、ホロリとさせられるんですが(^^; 
 亜弓さんのはいつも、「お嬢様がなに言ってんだろ・・・」と冷めた気持ちになってしまうというか。

 亜弓さんは、ハミルさんくらい異文化の人じゃないと、なによりも亜弓さん自身が、心を許せないだろうなあと思いました。
 自分で牢獄をつくってしまっている感じがします。
 「わたしが姫川監督の娘だから、姫川歌子の娘だから、あなたはそうなんでしょう?」と。出会う人すべてを、突き放しているような。

 有名人の娘目当てに群がっている輩が多いのも事実でしょうが、そうでない人たちも、亜弓さんのそうした心の声を察したとき、なにも告げずに遠ざかってしまうだろうなあと思いました。
 そうなればますます亜弓さんは、「やっぱり、みんなわたしのバックが目当てだったんだわ」と、心を閉ざしてしまいそうです。

 素の自分に価値を見いだせないから。親という価値をなくしても、輝くものが自分に欲しいから。その手段が演劇、なのかなあ。亜弓さん。演劇で、マヤという強力なライバルに勝って、そのとき初めて自分に自信がもてる。自分を好きだと言ってくれる相手を、信じられる、みたいな。そういうことかなと思いました。

 ハミルさんは。遠い西洋の、まったく文化の違う国の人で。すでに自分の道でキャリアを積んでおり、亜弓さんの両親の力など、まったく不要な状況にある。そのことが亜弓さんを安心させ、心を開かせているのかと。
 少なくとも、彼は亜弓さんという人間そのものに興味をもって、近付いているのであって。そのことがわかるから、亜弓さんも、心を開きかけているのかな。

 私は、最終的にはハミルさんと亜弓さんは結婚すると思ってます。そのとき、亜弓さんの演劇に対する考え方も変わるのではないでしょうか。もう、戦う必要がなくなって。戦うんじゃなく、楽しむ方向で、舞台に向かうのではないかと思いました。