9月のトラブルというジンクス

私のこれまでの人生で、大きな出来事、それもネガティブなことは、9月に起きている。

そして今年、やっぱり9月はあんまりいいことがなかった。不思議だけど、そういうジンクスみたいなものって、あるなあと実感する。なんで9月?っていう。

ただ、今年のは大きいものではなく、出来事自体、小さいといえば小さい。ストレスは大きいけどね。

1つ目は、草刈のトラブル。畑前の草刈について、農道管理者の対応があまりにもひどく、腹を立てた。善意でこれまで私が草刈してたんだけど、いくらなんでもと思って今後は定期的に刈ってほしいと相談したら、「わかりました。手配します」と言ったきり、放置。相談後、4カ月間も草刈なにもしてもらえないままで、雑草の繁茂に耐えかねて電話したら、その時点で草刈の手配がなにもされていなかったという・・・。しかも、逆切れして、「自分はバイトだし。他にも管理してる土地があって忙しい」みたいなあり得ない言い訳をされてしまい・・・。いやいや、バイトで権限内なら、権限ある人につなぎなさいよ。他にも管理してる土地があるっていっても、4カ月も放置した言い訳にはならんでしょ(^^;なんでうちの件が4カ月も後回しにされて予定すら立たないの?って話だし。

2つ目は、回覧板のトラブル。我が家が、ある日突然回覧板飛ばされるようになっちゃったのだ。どうやら隣のAさんが何か勘違いしてる?のか、うちを飛ばしてうちの次の人にポスト投函するようになったみたいなんだけど、それならAさんに聞いてみればいいだけなのだが、そこにもう1人ご近所さんが関わってきて、いろいろと揉めている_| ̄|○

3つ目は親族のこと。この人がずいぶんトラブルを引き起こして、困っている。

3つのトラブルでストレスの多い日々を過ごしている私だが、どれも非常識な人達が引き起こした非常識な出来事っていうことは共通していて、ため息がでてしまう。

私の周囲の非常識な人確率、ずいぶん高くないか?

というのは、どれも、常識的な行動をとれば全く問題にもならない話だからなのだ。

1の草刈については、1のバイト君(市役所を退職した年配の人だった)が、仕事をしないのが元凶だし。業者に連絡して草刈をさせる、という、ただそれだけのことを怠ったわけです。別にバイト君のお金で草刈業者を雇うわけではないので、粛々と手続きを進めればいいだけ。

バイトで草刈業者を雇うなどの権限がないなら、権限のある上司に話をするべきだし。少なくとも、クレーム受けるまで4カ月放置でなんの話も進んでないっていうのは、ありえないと思う。

バイトとはいえ、お金をもらっているのだから、バイトの立場でするべき仕事はあるんじゃないのか?と思う。全部をやれっていうわけじゃない。バイトの権限外のことについては、上司に相談するべきだし。どうしてそれすらせずに、忙しいからとお客さんからのクレームを放置するんだろう?黙って放置しても、解決はしないのにな。

2の回覧板については、別に全然複雑な話じゃない。なにか問題があるなら、ご近所のことなので、本人に聞いてみれば話は早いし、「間違えてるよ。次からはちゃんと回してねー」で終わるわけです。でもそこに、いろいろ関係ない人が絡んでくると、揉めます。

私は、人間関係で、自分に関係ないことは、どれだけ変なことでもその人の自由だと思ってまして。だから、人のやることに口は出さないです。どれだけ奇妙なことやってても、その人がその人の責任でやってるんなら、それは自由だと思う。ただ、迷惑が掛かってくることは別で。

ご近所さんのことって、できるだけ穏便に解決するのが一番いい。今回の場合だったら、私が「実は回覧板が回って来てないんですが、お宅のおうちはどうですか?」とやんわり聞いてみれば、それで解決すると思う。だけど今回、人間関係が複雑で、それができない事情があり、ため息をつくしかない。ちょっとここでは書けないけど、要するに、ちょっと困った人がいて・・・。

正しいとか、正しくないとかで言えば、結論なんて出てるんだけど、ご近所関係ってそういうことじゃないよね。こっちが悪くなくても、我慢すべき場合もある。

私としては、とにかく穏便に、仲良く、ご近所さんとは良好な関係を保ちたいなーということで、解決に向けて努力してます(^^;だけどこれ、私が相当、我慢強いんだと思う。普通なら、喧嘩になってるんじゃないだろうか。

3の親族のトラブルに関しても、正直、私の我慢の上に成り立っているというか。本当なら切り捨てていい話だと思うけど、結局私が見捨てられずに、面倒みちゃってるというか(^^;

この件も悩ましい。もう何年も前から悩んでて。自分が第三者だったらどうアドバイスするかなーなんてことも考えるんだけど、たぶん、「現状維持で」と言うだろうな。見捨てたときのデメリットが、メリットを上回ると思うから。

何もかも放り投げて、それでさようならができる状況ではないので。結局、見捨てたところで、本人含め周囲も困り果ててしまうだろうし。本当に今後一切、関わらずにできるなら「見捨てる」選択もありだけど、結局関わりを持たざるを得ないのであれば、「現状維持」がいいと思う。

一般的にトラブルというのは、どれも長い年月かけて出来上がったものが多いのかもね。上に挙げた私の3つのトラブルも、みんな根が深い。1は10年、2は40年、3は50年に遡る歴史があるトラブルだ。

だからこそ、根が深い。トラブルって、本当は発生した当初に、できるだけ速やかに解決した方がいいのよ。その方が簡単。先延ばししても、いいことはほとんどない。

そして近所の問題は、できるだけ穏便にっていうのが本当に一番だと思う。なんといっても、そこに住むんだからね。ギスギスした関係は悲しいよ。何かあれば気軽に声をかけあえる、ご近所さんとはそんな関係がいい。

お祓い代わりに、古代の祭祀場の写真を載せておく。ここは地元でもあまり知られていない素敵な場所だ。写真だけでもパワーがあると思う。

レイキを体験してみた結果

レイキというエネルギー療法を体験してみた結果、何も感じなかったという話です(^^;

レイキに対して批判的な感想になっておりますので、気分を害する方は続きを読まないでください。

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去年、鞍馬寺へ行ったときに、鞍馬がレイキという民間療法の発祥の地であることを知った。臼井さんという男性が、鞍馬山で断食の末に悟りを得て、レイキを発見したとか。

私は鞍馬山で、空気が澄んでて気持ちいいなあとか、この場所好きだなあ、という感覚は持ったけれど、なにか特別なエネルギーを感じることはなかった。だから、一度その、レイキというエネルギーを体験してみたいなあ、と思っていた。

つい先日、自宅の近所で、一日だけの体験セミナーが行われるのを知り、さっそく応募。とはいえ、別に本格的なものではない。そのレイキというのは回路を開く必要があり段階があるらしいのだが、私が応募したのはそれではなくもっと初歩。レイキの体験講座、というものだ。気楽なので申し込んでみた。

こういうのは、先生選びがとても重要だと思う。スピリチュアルセミナーとなると、変な感じの先生も多いから(^^;

私はまず、その講座に来る先生のブログを読んでみた。ふっくらとした丸顔の、笑顔が優しい女性の先生。写真がたくさんあったのだけど、先生の外観がまず、安心できる感じだった。ただ、ちょっとひっかかったのが、「私はすごい」アピールがさりげなく、そこら中に混ぜてあるところ。

他のレイキの先生より私の方が人格者だ、という意識が透けてみえるのが、少しだけ気になった。

でもまあ、自信があるのは悪いことではないしな。と考え直す。こういう業界は、詐欺みたいなものも多いし、同業者の悪いところが気になるのかもしれない、と。

そして当日、いそいそと会場へ。二つ部屋があって、事前の案内地図にあった方の部屋では、陶芸セミナーのようなものが開かれていた。うろうろしながらそっと部屋をうかがったけど、どう見てもレイキセミナーではなさそう。

でも、案内地図だと、明らかにこの部屋なんだよなあ。迷って、隣の部屋をちら見する。そこは電気がついておらず、暗い部屋だった。人が2人、椅子に座って話しているのが見えた。部屋の前には、「レイキセミナー」の文字。

う~ん。ここなのだろうか。場所は聞いてたところと違うけど、看板はこの部屋の前に出てるし。でも、部屋は暗く、とてもセミナーが開かれる場所とは思えない。例えるなら、なにかを開催する前の準備室?みたいな。人を招くような部屋ではなかった。

さんざん迷った末、聞いてみることにした。ドアは開け放たれていたので、近くまで行って「すみませんレイキのセミナーはここですか?」と、中にいる人に声をかけてみる。

おしゃべりしていた一人が、こちらに顔を向けて、「そうですよ」と一言。

その瞬間、思った。暗い。暗すぎる…なんだこの空間。落ち着くとか、そういう感じではなく、人を迎える感じの部屋ではないのだ。ちょっと引くぐらいの空気感。暗い。こんなに暗い場所に足を踏み入れるのもめったにないこと。

そこにいた二人、おしゃべりをやめて私を見たのはいいけど、笑顔なし。そのおしゃべりも、深刻そうにぼそぼそと低い声でささやいていたので、なんだか中断させたのが申し訳ないような気持ちになる。

私は室内に入り、空いていた椅子に適当に座った。部屋の中には、さっきまでおしゃべりしていた二人と、私だけ。二人はまたおしゃべりを始めて、なんとなく疎外感を感じる私(^^; 深刻な悩みを抱えた二人なのかなあ。とにかく、まとった空気が重いのだ。

しかし、講座が始まってびっくり! なんと、二人のうち一人は、レイキの先生でした。ブログと顔が全然違う。

ブログだと、ふっくらした顔立ちでいつも笑顔、穏やかで優しい先生だが、実物はやせすぎて、健康に不安を感じるくらいの顔、体。眉間にしわこそないものの、あってもおかしくないくらいの険がある。はっきりいって、ブログに登場する人とは別人だ。あれはいつの写真なんだろう。ずいぶん前に撮ったものを、何度も使い回ししているんだろうなあ。

なにより、笑顔がないのが気になった。いつも、厳しい顔なのだ。たぶん自分ではあまり気付いてないんだろうけど、なんというか、ウェルカムの雰囲気がない。いつも何かに不満をもち、苛立っている印象。

講座が始まってすぐ、来るんじゃなかったと後悔した(^^;

だって、レイキの歴史や概要を、延々と読み上げるだけなんだもの~。あと、チャクラの話とかね。そういうのは事前にもうある程度勉強してあるから、読み上げられても今さら、という感じ。2時間の講義中、1時間はそういう、もう今さらの話だった。まあ、これは仕方ないのかな。初心者向けの講座ということだから。

しかし、座学が終わり、いざ体感ということになって、残っていたわずかな希望が消えた。全く、なにも感じなかったから。

先生は、口ではいろいろ言うんですよ。レイキは素晴らしい。レイキは万能。できないことなどなにもない。人間にも動物にも、無生物にもかけられる。でも、いざかけてもらっても、拍子抜けするくらいなんにも感じなかった…。

この部屋も、事前にレイキをかけて浄化してあります、と先生が自慢気に言った瞬間、軽いショックを感じる。うそぉ、これで、浄化した? じゃあなんなんだ、このねっとりと重く、絡みつくような空気は。

部屋の照明が暗い、という問題ではなくね。もう、なんともいえない嫌~な空気なわけです。本当はもう、途中で帰りたかった。だけど参加人数も少ないし、私が帰れば先生も不愉快だろうし、ここは我慢して残りの時間を耐えることに(^^;

そしたら先生が、「緊張してるでしょ、もっとリラックスして」と私に要求。内心、私は苦笑するしかありませんでした。そりゃもう、初対面の人と一緒なんですから、普通程度に緊張はしますが、別に言われるほどのことでもなく。

それからがもう、しつこかった。「緊張しないで」の連呼。なんなんだこの人は。私が「さすがレイキ。巨大なエネルギーが通り抜けていくのを確かに感じました!」とほめないからなのか、緊張するから感じないのよと言いたいのか、とにかく、「緊張しないで」を連発なのです。

ある時点で、私も諦めました。相手に合わせて、「すみません~。緊張しちゃって、エヘヘ」と。先生は満足そうです。「そうでしょう。そうでしょう。いいんですよ、さあ心を開いて。緊張しないで」

でも私は内心思っていました。もし私が本当にすごく緊張してたとして、「緊張するな」なんて言ったら、普通はもっと緊張するんじゃないの?「緊張するな」なんて言わずに、その力なり、言葉なり、態度なりでリラックスさせるのが先生なんじゃないの? レイキは万能というわりに、緊張する相手に「緊張するな」の連発とか、おかしくない?

もう途中で、面倒くさいので全部先生の言葉に合わせていましたが、うるさかったです。何度も、「感じるでしょう?」と確認するので。なにも感じないとも言えず、つないでいた手が温かかったので、「手が温かいです」と答えました。嘘ではないからね(^^;

レイキはすごいエネルギーで、飲食物の味も変えられるのだ、と力説していましたが。参加者(私も含めて二人)の前には水が用意されていたので、なんでそれを変えてくれないのか不思議でした。言葉で語るより、まずはやってみせたら説得力増すのになあ。水に味がついたらすごいことだと思う。でもそれはやってくれませんでした。

そして決定的に、この人ダメだ~と確信したのは、先生のこの言葉。

「私が頼まれて、手術する患者にレイキをやったら、今のところ手術の成功確率は100パーセントです。一度治ったのに、しばらく来なくなった人がいて、そしたら亡くなってしまった。私のところに通い続けてたら結果は違ってたと思う(つまり生きていたと)」

いや~、この発言はアウトでしょう。人の生死をどうにかできるのって、神様のレベルではないですか。端的に言っちゃえば、私を頼らなかったから死んだ、ということですよね。自分をどれだけ大きな存在だとおもっているんだろうか、この人は。

私は不思議な出来事、オカルト、スピリチュアル、そういったことにすごく興味がありますし、たとえば手を当てる療法、気功などで、痛みが軽減したり病が回復したりっていうのも、実際ありうることだと思ってます。

ただし、100パーセントだとか、私がやらなかったから死んだとかいう人は、詐欺師かもしくは、自分を見失った可哀想な人ですね。少なくとも、先生、ではない。そういう人から何かを教わろうとは思いません。信用できない。

講座は二時間の予定が、先生の熱弁で三十分オーバー。その時点で、社会人としてもこの人はないなーと思いました。まずは、いったんお開きにすべきでしょう。その上で、やりたい人だけ残ればいい。決められた時間があったら、決められた時間に終わるのがビジネスのルール。先生は、「私のありがたいお話を無料で聞かせてあげてる」つもりかもしれないけど、私はもう、帰ることしか考えてなかったです。

そして、最終的に先生は、私ではなくもう一人に、営業の猛攻撃。いろんな料金表をみせて、あなたは本格的にやってみるべきだわと、猛プッシュです。そのもう一人の参加者の方は、顔色が悪かったので(先生もそうだったけど)たぶん病をお持ちなのではと思ったし、ぽつりぽつりと家庭の悩みなども口にする方だったので、ターゲットにされたのだと思います。

そうか~こうやって取り込まれていくのか~と、少し気の毒に感じました。弱ってる人がぐいぐい来られると、洗脳されてしまうかもしれませんね。

私もいろんなメニューの料金表を渡されて、また来てね~と言われて帰ってきましたが、当然のことながらその先生を訪ねていくことは二度とありません。別に営業などしなくても、本物なら口づてにどんどんお客さんは増えると思いますし、あれだけ宣伝に必死な姿を見たら、逆に引きます。

そして思ったのですが。

宇宙のエネルギー。確かにあると思うんですよ。太陽だって、すごいエネルギー。でも、そういうものを、お金を払って回路を開かないと利用できないという考え方が、なんか違うような気がする。それこそ、選民意識ではないかなあ。誰にだって等しく、宇宙はちゃんと、愛情注いでくれていると思う。

誰かのために祈ること。そして、痛いところ、苦しい場所に手をあてること。それは、別に習わなくてもできる。

私はレイキの先生だから私から習わないとダメとか。そうでなきゃ病気も治らないとか、そういうのって、典型的な霊感商法だなあと。

セミナーでは全くといっていいほど、なんのエネルギーも感じなかったですし、むしろ部屋の空気の重さが、とても気になりました。こんなことなら、山とか海とか、好きな神社に行く方がよほど、心地いいと感じることができたなあと。

私はもっと、わかりやすい何か、わかりやすいパワー、みたいなものを求めていたけれど、それは違っていたのかもなあ、なんてことを思いました。なぜだかわからないけど気持ちいい、すっきりする、心地よい、そう感じるだけで十分なのだと思います。だから去年、私は鞍馬寺の風が気持ちよかったと感じた、本当はそれだけでよかったんだなあ。感じられなかったわけじゃない。ちゃんと、感じていたじゃないかと。

そして、人はみんな、自分に合ったレベルの人としか出会えない、ということを思いました。きっと世の中には、本物の不思議なパワーを持った人、というのもいるのでしょうが、少なくとも今の私が出会えたのは、この、セミナーの先生だったわけで。

つまり、今の私は、このセミナーの先生と同じ。客観的にはこんな感じなんだな~。そんなことを思った、レイキ体験でした。

鳳凰の雲

今年、夏祭りの夕暮れに、鳳凰のような雲を見た。あんまり綺麗なので、写真に撮った。

ずっと空を見上げていたら、不思議な気持ちになった。この世界は何なのだろう。時間も場所も、曖昧な概念。

私は誰だろう? こんなふうに考えている自分の本体は、何なのだろう。

盆踊りの音楽が鳴っていた。やぐらを中心に、みんなが踊っていた。その音に導かれるように現れた、鳳凰形の雲。
やがて空が真っ暗な闇にのみこまれるまで、ずいぶん長いこと、その雲は浮かんでいた。

預言カフェ 6回目 感想

先日、また預言カフェへ行ってまいりました。これで6度目の訪問になります。

 6度目ともなると慣れたもので、開店前の店の前に出されたノートへの記入も、時間になって再び店へ戻ったときの、時間のつぶし方も、全部余裕でした。
 お店は相変わらず混んでいて、指定された時刻に店へ行くとすでに、待合の椅子は満席。
 初めて行ったときは、ドキドキしたなあ、などと懐かしく思いつつ、店の外の、通行の邪魔にならない位置で待機。
 できれば、待合の椅子は、詰めて座ってくれると、皆座りやすいのですけどね。混みあったときに、ど真ん中の椅子だけ空いても、座りにくかったりします。
 誰かが呼ばれて空席になったら、ちょっとずつ詰めて、道路側の椅子がなるべく空くようにしたら、来た人が座りやすいのではないかと思ったりしました。
 店の外で待つとどうしても、道路を通る人の邪魔になったりしがちですから。私も気をつかいつつ待っていましたが、椅子に座って待っていることができたらそれが一番いいです。
 呼ばれたときにいないと後回しになってしまうので、外で待ちながらも中の様子を常にチェックして、なかなか大変でした。
 それにしても、お店はテレビで取り上げられるたびに、どんどん混んでくるような(^^;
 もうあんまり宣伝しなくてもいいのではと、そう思ってしまいました。身勝手な願いと知りつつ。
 指定の時間から15分。ようやく名前が呼ばれ、席に着きます。私はコーヒーをフレンチプレスで頼みました。フレンチプレスのおいしさを預言カフェで知ってから、いつもそうしているのです。
 今回、預言で言われたこと。
 今決めなくていい。来年の春にはニコニコ笑いながら希望通りの場所にいるのだから、と。
 まさに、迷っていたことの回答、そのものでした。預言者の方の、なんの迷いもない断言が嬉しかった。
 預言が終わり、ほっとひと息つきながら、コーヒーを飲みます。店内は満席。私の隣の席では、三人組の女の子たち。そのうちの一人が、預言を聞きながら泣き出しました。よほどの悩みがあったみたいです。
 私は残りのコーヒーを、急いで飲み干してお会計をすませ、お店を出ました。いつもすごく混んでいるので、預言さえ聞けたら、後はできるだけ早く退店するように心がけています。たくさんの人が待っているから。
 来年の春の自分が、楽しみです。

閏日(うるうび)の参拝と雷雨

 その神社に、奥宮があるというのを知ったのはつい最近のことで。
 私はいつものように参拝を終えたあと、ふと、奥宮もお参りしようと思い立ったのだ。神社のわきにある川沿いに、ずっと道が続いている。この道をたどれば、奥宮に行けるんじゃないか、と。
 スマホで確認。確かにこの道を歩いていけばたどり着く。奥宮は標高500メートルほどの山頂にあるらしい。ただし、問題は時間だ。ここから往復で4時間半。
 山の日暮れは早いしなあ。その時点で、時刻は12時をとっくに過ぎていた。微妙。
 走ればなんとかなるかな。
 深く考えるより先に、歩きだしていた。いいや。行ける所まで行こう。往復の時間を計算して、帰るのに困らない時間まで行けばいい。
 空気はまだひんやりと冷たい。けれど、川沿いには梅が花を咲かせていた。春だなあ、と思う。
 林道を歩きだす。人気はまったくなし。この先も、誰にも会わずにいくのかな。気楽な反面、怖い気もする。
 大丈夫。ここは神域。変な人もいないだろう。もしここで何かあれば、私にはよほど、徳がないのだと諦めよう。
 早足になって10分。さっそく分岐点に到着。大きな看板が出ていた。
 なんと、この先の道路は崩れていて通行止めだという。ただし、別荘までは行けますと。
 午前中、小雨が降ったりやんだりしていたせいで、足元はぬかるんでいた。この状態でそんな道路を通るのはまずいかな。せっかく奥宮へ行けると思って、早足で歩くうちに、なんだかウキウキ、心が弾んできたのに。
 今行きますよ~って、神様に向かって叫び出したいくらいに。
 でも、別荘まではいける。
 私はその言葉を、もう一度読んだ。
 別荘までは行けるのか。じゃあ、そこまで行くのは別に悪くないよね。立ち入り禁止というわけじゃない。
 というか、そもそも別荘って何?
 この付近に別荘があるだなんて、聞いたこともない。特別な景勝地というわけでもなく、道だって整備されてないこの地に、別荘?
 奥宮にも興味があったけど、別荘にも興味が出てきた。どんなお家なんだろう。よし、行ってみよう。
 誰にも出会わないまま、どんどん林道を進んで行った。道は細くなったり太くなったり、途中工事中の箇所もあったけれど、人気は全くなし。
 30分進んだところで、なんと家が出現。これがあの看板の言っていた別荘なのだろう。7~8軒はあるみたいだ。木に隠れて、全部は見通せないけど。どの家も、一部屋か二部屋あるくらいの、小さな家だった。
 しんと静まり返って、誰もいない。見晴らしがいいわけでもないこの場所に、なぜ家が、こんなに建っているのか謎である。たとえば週末に、独りになりたくて、隠れ家をここに建てたのか?
 でも1軒じゃない。複数の家がこの近辺に集まっているのは、仲間で建てたの? それにこんな細い道、建築会社の車、通れたのかな。
 
 はてなマークばかりが、頭の中を駆け巡ったけど。
 私はこの場所の雰囲気がとても好きだと、そう思った。夜になれば、真っ暗。こんなところを通る車もない。部屋には暖炉があるのかな。煙突ないから、それは無理か。でも暖炉あったら、素敵だろうな。
 人気がないと、防犯上は不安だけど。でも、喧噪から離れたこの空間は貴重だ。こんなところで一晩を過ごす気分は、どんなだろうか。
 別荘地に到達した後、道は行き止まりになっていて。
 その代わり、その横に山へ登る道があった。奥宮はこの先らしい。狭くて、車は通れない。傾斜のきつい坂道。両側から鬱蒼とした木が覆いかぶさって、かなり薄暗い。足を踏み入れるのには、かなりの勇気が必要。
 なにより、道の入口には立入禁止の掲示があった。
 この先は、歩行者も立入禁止だという。道が崩れていると。
 細く暗い、不気味な道(それも立入禁止の掲示あり)に、足を踏み入れよう、なんて気はおこらなかった。迷うことなく、引き返すことを決意。
 いい雰囲気の別荘だったなあ。どんな人が住んでるのかなあと、そんなことを思いながら、歩き出すとすぐに。
 いきなりの雨。それも、あっという間に、音をたてて豪雨になった。
 そりゃたしかに、午前中は小雨が降ったりやんだりしてたけど。午後はたしか、晴れると言っていたのに。ここに来るまでは、降ってなかったのに。
 雨宿りしようにも、建物なんてなにもない。戻って別荘の軒下を借りることもちらっと頭をかすめたけど、辺りの暗さ、豪雨は一時的なものとは思えず。
 何時間も、誰もいない場所で雨宿りしたあげく、増水した川を横目に泥だらけの道を帰る、というのは考えただけで恐ろしい。
 私は雨の中を急いだ。走ると転びそうだったから、早歩きで。目の前が白くなるほどの、土砂降りの雨。そして極め付けは、雷。
 
 雷鳴は、山全体を振動させるほどの勢い。こういうとき、木の下っていうのもたしか、危ないんだよなあ、なんて考えながら。バッグから買い物用のエコバッグを取り出し、頭にかぶった。厚手のコートを着ていたから、上着は濡れなかったけど、ズボンは、足元から膝あたりまでびっしょり。
 雷は、おさまることなく鳴り続けた。30分たって、やっと私が出発点の駐車場まで戻った頃に、やっと雨がやんで。なんと雲間から陽が射した。
 さっきまでの雷と大雨はなんだったんだろう、みたいな(^^;
 道が復活するまでにはまだ時間がかかるだろうから、すぐに再チャレンジはしないけれど。工事が終わったら、今度こそ奥宮へ行ってみたいと思う。5月くらいなら、季節もいいし、道も出来上がっているだろうか。