自分に似た誰か、を思う

 たまにですが、初対面の人に顔を凝視されることがあります。

 最近は慣れてきて、すぐにピンときます。
 あ、また誰かに似てるんだな~と(^^;

 そっくりな誰かがいるみたいです。それも、声や喋り方含めて。世の中に三人は、自分に似た人がいるといいますが、会ってどのくらい似ているのか確かめてみたいですね。

 この間もそういうことがあり。
 自意識過剰?とも思いましたが、凝視する時間が長かったので、これはきっと知り合いの誰かと間違えてるんだろうなあと。
 いっそ聞いてみたかった。
 「あのう、私ってそんなに似てますか?」

 一番最初にそういうことがあったのは、高校生のとき。
 茶道部の先生に、「あなた○○さんと同じ顔よね。どちらがどちらかわからなくて困っちゃうわ」と言われました。仲良くしてた友人からはそんなに似てるとは言われませんでしたが、あまり付き合いのない部員からはやっぱり、「似てるよね~」と。
 複数からそう言われたので、本当に似てたんでしょう。
 私は○○さんを見て、自分に似てるとは思わなかったですが(;;;´Д`)ゝ

 次は、18才のとき。三週間だけアメリカで語学研修を受けたのですが、現地のアドバイザーが、到着後すぐの説明会でチラッチラ私を見るんですよ。
 そのとき部屋の中には、30人くらいいたんですけど。
 なぜかすっごく視線が合いまくるという。
 そして、そのときの話が、交通事故には気を付けましょうという話だったんですね。以前に、アメリカに留学した学生が、交通量の多い道路で事故死してしまったそうです。
 日本から御両親がおみえになり、現地のアドバイザー達も、とても悲しい、いたたまれない思いをしたとのこと。
 勉強うんぬん以前に、まずは健康で、無事に帰国すること、そのためにも道路を横断するときは、くれぐれも気を付けてくださいという話でした。

 そして、その話をするとき、アドバイザーが私の方をちらちら見るんですよね。
 壇上には二人立ってたんですけど、その二人ともが、です。

 見ないように、不自然にならないように努力してるんだけども、見ずにはいられない。だけどいざ視線が合うと、ずっと見ていられなくて不自然に、動揺したように視線を外す、みたいな。
 それが何度も続いたし、一人でなく二人ともだったので、私もピンときまして。
 もしかしてだけど、その交通事故で亡くなった方が、私に似ていたんではないだろうかと。

 まさか、と思いながらも気になったので。説明会の後でさりげなく、声かけてみたのです。雑談もまじえつつ。
 「さっきのお話の交通事故で亡くなった学生、もしかして私に似てました?」

 結果。一瞬すごく驚いた表情をして。その後、不自然な笑みを浮かべて、でも否定はしませんでした(^-^;
 私も事情は察したので、それ以上は何も言いませんでしたが。

 もし違っていたら、「似てないですよ」と当然言うだろうし、態度は明らかにおかしかったので、よほど似ていたんだろうなあと思います。

 3回目の「似た人シリーズ」は、バイト先にて。
 あるメーカーの販促キャンペーンを、単発のバイトでやっていたときのことです。
 通りすがりの人が、私の顔を見て、「○○さん~」と親しげに話しかけてきたのです。名前も違うし、全く知らない人だったのですぐに、「いえ、人違いですよ」と言ったのですが、それでもなお、「またまた冗談言っちゃって~。○○さんでしょ?」としつこい。
 「いえ。本当に私の名前は○○じゃないですし」
 「ええ? でも△△の□□にいたよね・・・(△△はバイト先のメーカーです)」
 「私、△△の人間ではないです。これはバイトなので、本当に人違いですよ」

 そこまで言っても、相手の人は首をかしげていましたから、よほど似ていたのでしょう。しゃべってなお、人違いに気付かないというのは、相当です。声も、喋り方も似てる人なんですね。そんなに似てるなら、会ってみたかった。

 4回目は仕事先。教育係に、「以前私をいじめた先輩に、あなたがとてもよく似ているから」という理由で、ものすごく嫌がらせをされました。

 これは、最初嫌がらせをされる理由がまったくわからず、とても不思議だったのです。特になにをしたわけでもないのに、最初から敵対感まるだしで、数々の嫌がらせをされまして。あんまり露骨だったので、同期の間でも話題になっていたし、よく知らない先輩からも「大変だね」と慰められたり。
 「それにしても、なんで○○(教育係)は、あなたを目の敵にするんだろう」。同期は不思議がっていましたが、教育期間終了間際の飲み会で、酔った教育係が、同期にぽろっと話したそうで。
 「私をいじめた、大っきらいな先輩に似てるのよね・・・」とぽつり。

 5回目は、母がお世話になっていた習い事の先生。私はその先生に会うのは初めてだったんですけど、いろいろお話はうかがっていたので、失礼のないように挨拶しなきゃなあ、なんて緊張してました。

 先生は他の方と談笑していて、私が先生の元へ近付き、先生が私の方を振り返った瞬間。

 私の顔を見て、先生の顔がみるみる変わったんです。浮かんだのは、恐怖。恐ろしいものを目の当たりにしたかのように、先生は硬直して私を見据えていて。

 驚いたのは私の方です。笑顔を予想していたのに、まるで化け物を見たような態度に、私もびっくりしてしまいました。

 初対面の人に、あそこまで驚かれたのは初めてかも。ぎこちなく自己紹介をしたものの、先生はやっぱり、最後まで、不自然な感じで私を見てました。

 後で他の方から聞いたのですが、先生には私と同い年くらいの、娘さんがいたそうです。それも、その娘さんが小さい頃に離婚してしまい、それ以来会ってはいないということで。
 想像ですが、その娘さんと私が、似ていたのかもと思いました。
 あれだけ、おびえた?ように見えたのは、娘さんにたいして、すまないという罪悪感があったのかなあ、なんて想像しました。
 会えてうれしい、という顔じゃなかったから。

 6回目は、東京で働いていたとき。とあるビルの廊下で、すれ違いざまに「○○さん」と声をかけられました。振り返ってみても、全く知らない人です。
 うれしそうに話しかけてくるので、「すみません、人違いだと思いますよ」と話しました。
 「ええ?」と、かなり驚いた様子でしたが。
 私がはっきり「人違いです」と言い切ったので、それ以上は話しづらい様子で、なにか言いたそうに、でも遠慮して口には出さず、私の顔をじっと見てました。

 私もそれ以上、何を言うこともないと思ったので、また歩き始めたのですが。何か気になって振り返ると、その人はまだ、じーっと私を見てました。歩き去る後ろ姿を、凝視してたようです\(;゚∇゚)/

 7回目は、ある日、母から電話がかかってきました。なんと、テレビニュースで流れたある事件の被害者の顔が、あまりにも私に似ているものだから、気になって電話してしまったとか。

 名前も状況も全然違うし、まさか本人というわけはないのですが、それでもなお、あまりにも顔が似ていたものだから、気になってしまったとのことでした。
 それも話を聞くと、父と一緒に夕食を食べている時のニュースで。父が「電話しろ」と強く言ったらしいんですね。
 オカルトめいた話は一切信じない、虫の知らせなども信用しない父でしたが。その父が、胸騒ぎを感じたというのは、本当に相当似ていたんだなあと思います。
 なんでも、二人して画面に見入ってしまい、何度も「似てたな」と、確認し合ったそうです。
 実の両親からみて、それだけ似てるってどういうことだよ~と、私も苦笑してしまいました。

 8回目は、ある事故現場にて。たまたま通りすがった私と友人、それから見知らぬ男性の三人で、救護活動をしたことがあったんですが。

 その後、しばらく会わなかったその友人と食事した際に、そのときの話題になり、こう言われたのです。
 「あの時は言わなかったけどさ、あの一緒に助けた人、あなたのこと、妙にチラチラ見てたんだよ。あなたは全然気付いてなかったみたいだけど。なんかこう、言いたげな感じでさあ。あれ、もしかして気があったのかもよ」

 いえ、違うのです。さすがに、ここまでくると私にもわかりますΣ( ̄ロ ̄lll)
 懐かしいこのパターン・・・。似てたんでしょうね、その人の知っている誰かに。
 この、チラッチラっと見る感じ。
 あれ? まさか? でも似てる? どうしてこんなところに? もっと見たら、本人かどうかわかるのに・・・みたいな。

 それで、9回目がこの間あったんですけど。

 聞いてみたいな~と思ってしまいました。その人は、私に似た誰かに、どんな思い出があったんだろう。
 人に歴史あり、ですからね。
 いろいろ想像してしまいました。
 その人が私を見て、私もその人を見返した時間。
 私の中に、どんな記憶をたぐったんだろうなあって。

 短い時間とはいえ、初対面にしては不自然なほど、みつめあってしまいました。

 今回は、相手の動揺は見えなかったです。すごく静かな感じで。冷静にみつめられてるような。
 でも、探られてる感はあった。
 私じゃない、誰かの記憶と重ね合わせているような。

 もし私がいたずらで、「お久しぶりですね」なんて、さも当人であるかのようにニッコリ笑ったら、相手はどんな返事をしただろう、なんて想像してしまいました。

 どんな言葉が返ってきたのかな。

 それだけ似ている人なら、私も会ってみたいです。

再び消えたアザ

 再びアザは消えてしまった。そう。去年の7月16日のブログに書いた、謎のアザ。

 右肩にはっきりあった3つのアザは、今日見たところ、完璧に消えていた。なんなんだろうΣ(;・∀・)

 だんだん薄くなってきてるのは確認してたけど。今日の時点できれいさっぱり。

 まったく、謎のアザである。また数年後に突然出現したりするのだろうか?

預言カフェ 感想

 先日、預言カフェに行ってきました。
 当たると評判だったので、前から気になっていたのです。

 場所は高田馬場。占い、ではなく。預言、なのですよ。預言ということは、神様の言葉。アライズ東京キリスト教会、というところがやっているコーヒーの専門店で、コーヒーを頼むと預言も同時に受けられる、というシステムです。

 すごい人気でした。
 開店は14時からですが、12時になるとお店の前にノートが設置されます。そこに名前を書くと、名前を書いた欄の横に目安の時間が書いてあるので、その時間に再び来店して名前が呼ばれるのを待つ、という流れ。

 

 私が行ったのは12時ちょっと過ぎだったけれど、すでにノートはたくさんの人の名前で埋まっていました。

 自分の名前を書きこんで、目安の時間まで近くのカフェで時間をつぶします。時間になって預言カフェを再び訪れると、店の入り口にずらりと並んだ椅子には、大勢の人の群れ。

 こんなに行列のコーヒー店は、他にないでしょう。それだけ、リピーターが多いということなのかも。わくわくしながら、自分の名前が呼ばれるのを待ちました。

 預言を受けた率直な感想。

 当たってました。私が一番聞きたいと思っていたことを、まずずばりと言われたのにびっくり。
 コールドリーディングではないですね。一方的に、預言を話すというスタイルですが、なんでわかったんだろう(^-^; と不思議になるくらい、いきなり言われましたね。

>○○についてあなたは知りたいと思っているでしょうが、答えは私が持っています。そして私があなたの目を開いていきますよ。あなたが求めるから。

 いきなり、そのようなことを言われて驚きました。確かに、それを一番知りたいと思ってたから。

 それと、何度か繰り返し言われたことは、

>私があなたを造りました。あなたが生まれる前からあなたを計画してきました。すべて私の計画通りです。何ひとつ計画外のことなどないのです。

 そのようなことを、言い方を変えて念押しされました。

 預言ですので、神様の言葉と思えばたしかに、人間はすべて創造物であるのだろうと思いますが、それにしても、日頃疑問に思っていたことの答えともいえる言葉を聞いて、妙に納得し、安心感を覚えている自分がいました。

 私には、起こった出来事に対し、「なんで?」「どうして?」と、思う気持ちがあったから。

 そのことに、いったいどんな意味があったのだろう、と。答えなんて、考えたところでみつかりそうにないのに、ふとした瞬間に考えこんでしまったり。

 

 でも、預言として断言されてしまうと、説得力ありますね。

>私があなたを造った
>私がすべてを計画した

 これ以上、明快な答えなどないわけで。

 他にもいくつか興味深い預言をしてもらったのですが、唯一、ん? と思ってしまったのは、

>私の前に、なにも隠さなくていいのですよ

 という言葉でした。

 私は、神様に隠しごとをする気なんて、全然ないのです。これっぽっちも。だって無理だってわかってるから(;;;´Д`)

 神様、というのがどういう存在なのか。
 この世界がどういう仕組みであるのか。諸説ありますし、私にはわからないですが、神様= Something Great に、隠しごとが無理だろうっていうのは、確信してますね。

 創造主であるなら、創造物のすべてはお見通しでしょう。あらゆる可能性も、行動も、手のひらの上でしかない。
 また、すべては一つ、Oneness という思想に基づくなら、「隠しごと」という概念すらなくなるわけで。

 神様に隠しごとしよう、なんて気持ちは、全くありません。
 なのに、「隠さないでね。大丈夫だよ」みたいに言われてしまったのは、少し違和感ありました。

 そして嬉しかったのは、

>必要なときは求めなさい。私はそれを喜ぶ

 的なことを、言われたことだったりします。ふっふっふ。神様のお墨付きをもらってしまった(*´ェ`*)

 もっと気軽にお願いしてもいいよって、ことなのでしょうか。そう解釈したのは即物的すぎるかな?

 そういえば、私は最近、神様に真剣にお願いごとをするという機会、なかったかもしれない・・・。

 こうなればいいな、ああなればいいな、というちょっとしたお願いごとは、たいてい自分の努力で叶ってしまうことだったりするので、神様になんとかしてもらう、というよりは、「あ、いいですいいです。自分でなんとかするから」という気持ちが強かったかも。

 そういえばついこの間、お気に入りの神社に行ってきた時も(ここでキリスト教でなく神道を出すのはおかしいかもしれないけど)、手を合わせたときに、お願いすることがなにもないことに気付いて、思わずお願いごとを探してしまったりもしたなあ。それでも特になくて、結局、「ありがとうございます」とだけ心の中で唱えました。

 以前は、手を合わせてお願いごと「○○をお願いします」っていうのは自然にしていたのですが、いやいや、もちろんこれから先、そういうことはあるのかもしれませんが、とりあえずここ最近に関しては、「どうしても神様に叶えてほしい」ことは、特に思いつかなかったり。

 でも、預言として

>求めなさい

 という言葉は、ちょっと嬉しいものがありますね。ということは、いろいろ大きな夢とか、お願いしちゃってもいいのかなあ。

 預言カフェ、初めて行ったのですが、とても素敵な場所でした。私の個人的な感想としては、言われた言葉はかなり、心当たりのあるものでした。

 また機会があったら、行ってみたいと思います。

16回目の引越し

 先月、人生始まって以来、16回目の引越しをしました。

 決して、引越しが趣味なのではありません(^-^;

 いつも何かしら理由ができるのですが、それにしても16回目の今回は。なんというか、人生ってどこまでが自由なんだろう、とか考えさせられる機会でした。

 運命っていうんですかね。
 もちろん、人は、その場にとどまっている方が楽だと思うのです。昨日も今日も明日も、変わらない生活を送るでしょう。何事もなければ。

 今回の引越しは、隣接する部屋の住人が原因でした。最初は、騒音から始まりまして。しばらく我慢していたのですが、とにかくひどくて。
 こちらが窓を閉め切っていても、真夜中にベランダで大声で携帯を使うのです。話の内容は丸聞こえで、しかも、その内容は、聞くに堪えないもので。

 部屋の借主は若い女性のようでしたが、入れ替わり立ち替わり、さまざまな男性が部屋を出入りし、大騒ぎです。

 ある早朝、聞きたくない声を耳にした私はとうとう、昼間になって管理会社に電話をしました。すると、社員さんは平謝りでした。(後日、担当さんと話したところ、私以外の部屋からも、同じようなたくさんの苦情電話があったということです)

 管理会社は部屋の住人に注意をすると言ってくれましたが、騒音は一向に収まらず。

 やがて、一部屋、また一部屋と。その騒音主の部屋に隣接する人たちが、引越していきました。

 それでも私はまだ、迷っていました。
 もう少し我慢しようか・・・もしかしたら、そのうち収まるかもしれないし、と。

 しかし、そのうちしゃれにならない事態になりました。問題の部屋で事件がおこり、パトカーがやってきたのです。その事件が起こった時、部屋にいたのは借主である女性ではなく、男性(元彼?)でした。

 その後、なんとその男性は、部屋に住みついてしまったらしく。彼は夜になるとベランダで携帯電話をかけ、友人にその顛末を語っていました。

 その他にも、この騒音主の部屋にはいろんなことがありまして。
 さすがに私も、部屋の出入りに危険を感じるようになりました。その部屋に住んでいるのが、まともな人でないのはよくわかったので・・・。

 騒音主の周りの部屋は、次々と空室になりました。
 私もついに引越しを決意し、管理会社に退室を申し入れました。電話でまずその旨を告げると、社員さんは「あの・・・やっぱりあの部屋が原因ですか?」と。
 周りの空室は、みんな騒音主の部屋が原因だったそうです。

 申し訳ありません、と社員さんは謝ってくれましたが。このまま部屋に住むのは気持ち悪すぎて、私には退室以外の選択肢はありませんでした。

 空室が多くなれば、ますます不気味さは増します。
 他の部屋が空室になったことで、そのとき私は唯一、騒音主の部屋に隣接する住人になっていました。

 なにかあったら嫌だなあ。でも、うちの部屋と接してる反対側のお隣さんは普通のサラリーマンぽいし、その人がいればまだ、少しは安心か・・・なんて一時は思っていたのですが。ある日、そのサラリーマンは私より先にあっさり引越して行きました。(;ω;) 彼もまた、騒音主の尋常ではないありさまに、恐怖を感じたのだと思われます。

 そして、私自身も、引越しするまで気が気じゃなかったです。引越しが完了する日まで、緊張の日々が続きました。

 引越してほっとした今、新しいカーテンなどを眺めながら思うわけです。人はどこまで、自由なんだろうと。

 何事もなければ、たぶん私は当分、あそこに住み続けていただろうなあと。だけど、引越しをせざるをえなかった。そこには何か、運命というか、「今、引越しなさい」という流れのようなものを感じるのです。

 私は、あの場所に居続けることができなかった。そこに、自由はなかった。引越す方向へ、動かざるをえなかった、ということで。

 引越した後、引越し先のご近所さんが偶然、花束のおすそ分けをくれたことも、なんだか運命に祝福された印のような気がしてきました(゚▽゚*) それでよかったんだよって。
 だって、花束のおすそ分けって、めったにあることじゃないと思うから。

 いろいろあるけれど、運命ってある程度、流れが決まってるのかなあと。そんな気がしなくもない出来事でした。逆らおうとしても、決まった流れに戻るまで、これでもかこれでもかと修正されるような。抵抗するだけ、無駄なのかもしれない。
 むしろ運命には、ゆったりした気持ちで身をゆだねたほうが、無駄に傷付かなくてすむような気がしてきました。

 新しい場所に住むことで。なにかが始まるのかもしれません。

モンサンミシェルとクリソコラ

 先日、Chakra(チャクラ)という雑誌を、衝動買いした。

 「モンサンミッシェルのすべて」という表紙の見出しの文字が、目に飛び込んできたからである。

 私はモンサンミッシェルが大好きなのだ。ある漫画に登場したその地が、本当に存在する場所であることを知ってから、ずっと憧れを抱き続けていた。

 小島にそびえ立つ教会の美しい姿と、潮が満ちると孤立するという立地のドラマチックさに、圧倒された。
 孤立する土地、は、私を魅了してやまない。
 モンサンミッシェル以外にも、人の侵入を拒む高い山の頂上などで、通いではなく寝起きして祈りを捧げる宗教人や宗教施設には、なぜか惹かれてしまう。

 ちなみに、日本で言えば、江の島にも激しく心惹かれるものを感じる。あの地に足を踏み入れたときの新鮮な驚きと感動は、自分でも戸惑うくらいのものがあった。
 江の島も、夕暮れ時、観光客が島を去るとき、なんともいえない寂寞感に包まれるから。
 そこに住む人と、帰っていく人との、明確な違い。
 外界とつながれた道の、頼りなさ。なんとも形容しがたい気持ちが、胸の奥底から湧き上がってくる。

 孤高のモンサンミッシェルに。いつか行ってみたいと思っていた。そんなところに、飛び込んできた雑誌の文字。どういう内容かはわからないし、チャクラというタイトルからして、「ムー」系かなという気はしたけど、とにかく買ってみることにした。

 モンサンミッシェルに関しては、それほど多くのページ数が割かれているわけではなかったけれど、文章よりも島の内部の写真が掲載されているのが嬉しかった。

 修道院の高い天井は、きっと実際にそこに立って見上げたら、眩暈を覚えるだろうな、とか。中庭からの日差しを受け、風や光を感じられる静かな回廊を、いつか自分も歩いてみたいな、とか。ますます、憧れの気持ちは大きくなった。

 たくさんの観光客が訪れていることで、現代化された部分も少なくはないだろうけれど。

 今もまだ、修道院として実際に使われている事実は、素晴らしい。建物の石や木材も、修復を重ねてはいるものの、歴史をそのまま伝えている。古いものが語りかけてくる時間の流れ。体感してみたい。

 というわけで、モンサンミッシェルの特集記事を堪能したのだが、それ以外は、予想した通り不思議記事というよりも、怪しい広告が多くて笑えた。こういうの、昔から変わってない。『ムー』を愛読していた時代から、あまり変化はないと思った。

 弱っているときには、確かな言葉が薬になることもあるんだろうな、と思う。

 これさえあれば、あなたは大丈夫。

 そう言い切れる存在って、ときには必要なのかも。悪徳でなければ。

 ところでこの雑誌、今月号は、なんとパワーストーンのブレスレットがおまけについていた。なんとゴージャスな。二ヶ月に一度ずつ、計6個プレゼントする企画だそう。
 今月号は、ヒマラヤ水晶とクリソコラの組み合わせ。

 クリソコラ・・初めて聞く名前。緑の綺麗な石だ。石の効能を調べてみたところ、心身を深く癒したり、情緒を安定させるとか。ストレス軽減効果もあり、身につけると、恐怖と罪悪感を軽くする手助けをしてくれるという説もあるらしい。

 色も気に入ったし、うわー楽しみ♪と思ってさっそく手首にはめて寝たところ。

 悪夢をみた(^^; 起きてからもまだ、夢の中を引きずるような重さのある夢。

 そして翌日、現実世界でもストレスフルなトラブルが勃発。

 まさかね。このクリソコラのブレスレットはめたときに嫌なことがおきたからって、偶然だろう。そう思ったものの、はめて翌日に結構なダメージを受けたので、なんとなく気味が悪い。すぐに外した。

 数日経って。ふと思い立ち。寝る時に枕元に置いてあったブレスレットを、再び手にとった。そして装着、就寝。

 私はまた、悪夢をみてしまった。
 そして翌日は、再び不愉快な出来事が起き、対応に悩まされた。

 なんなんだ、クリソコラ。見たり、実際触った感触も、全然嫌じゃないのに。このブレスレットをはめていると、あきらかにあんまりよろしくない出来事が起こる。
 偶然かもしれないけど、気持ち悪い。もう使うのはやめよう。

 ほぼ新品だし、もったいないから誰かにあげようかとも思ったが、自分が気持ち悪くて捨てたいと思うものを人に譲るというのも、失礼な話である。それに、譲った先でもしまた不運がおきても、申し訳ないし。自己責任で、処分することにした。

 後日、ネットでクリソコラの画像を見ていたら、急に思いだしたことがある。
 私、昔、確かにこの石のネックレス持ってた・・・・・。おまけのブレスレットに使われていたクリソコラはほぼ緑色で、あまり他の色が混ざっていなかったから、同じ石だとは気付かなかったけど。

 ネットでは、青や黒など、他の色が混ざった複雑な模様のクリソコラの画像があった。例えるなら、宇宙からみた地球、みたいな。

 それを見て気付く。この石、私は確かに持ってた。ネックレス。それも、鷹? 竜? 何物かの三本の爪が、がっしり丸玉をつかんでいる、というデザインのものだ。色が綺麗で、模様を眺めていると飽きることがなくて、すっかり気に入って買い求めたことがあった。
 私がアクセサリーを買うことなんて、滅多にない。なぜか気に入って、買ったものがまさにこれだった。
 そのときは、クリソコラという言葉を知らず・・・。

 そのネックレス。失くしてしまったのだ。失くすはずもないのに、それは、引越しの荷解きが終わって気付いた。どこにもないと。それからもう、長い時間が経って。このネックレスのことを思い出したこと自体、何年ぶりだろう。

 石は、役割を終えれば自然と姿を消すという話を、聞いたことがある。だから、失くしたことをあまり深くは考えてはいなかった。だけど、今回の件で私は初めて、あの石の名前を知った。これも、不思議な縁だ。

 クリソコラのネックレスを持っていた時期の自分を振り返ると。感情的にはひどく乱れていた。

 石のせい、だなんて単純に信じるわけではないが、でも、確かに、穏やかではなかったな。

 捨てた記憶もない。大切にしていたネックレス。どこかにまぎれてしまう可能性も考えづらくて。あのネックレスをなくしたのとほぼ同時期に、私の生活にも、大きな変化があった。
 

 やっぱりそうなのか。私とクリソコラは、相性が悪いのだと思う。