ジンジャーリリーの贅沢

少し冷たい夜風に吹かれながら、ジンジャーリリーの香りに包まれる贅沢を堪能しています。この季節のお楽しみです。

秋の月は蒼く寂しく、風の中にはたくさんの植物の香気が混じり。玄関をあけて庭に出ると、もの悲しいような、ノスタルジイを感じながら、過去を思い返しています。香りと雰囲気が、一気に記憶を過去へと押し戻すのです。

一方、隣のおうちの、窓をあけた風呂場から漂う化学香料の匂いは、強烈です。シャンプーやボディソープに、なぜそこまでの強い匂いを持たせるのか。メーカーの考えることは、全然わかりません。このところ、香害の話をよく聞くようになりましたが、まさに香害です。強烈な香料を毎日使っていると、自然と鼻が麻痺してしまうのでしょう。これだけの強い香りを日常的にまとうのは、体によくないと本能でわかります。

知らず、息をとめて早足で裏庭へ。そこは楽園です。そこかしこに、ジンジャーリリーが咲き誇っています。葉っぱはまさに、しょうがそのもの。けれど我が家の庭は、季節がくれば確実に、白い清らかな花が開き、辺り一面が芳香に包まれる。

月明かりに、落ちて転がったフェイジョアの実を拾いながら、しばし庭を散策します。うっかり踏めばつぶれて、食べられなくなるのがもったいない。フェイジョアの酸味と甘みの入り混じったおいしさは、この季節だけの特別なもの。

風も吹かないのに、深まる秋の空気の中で、フェイジョアはひとつ、またひとつと重たい実を落とし。地面に転がったフェイジョアの実が、やるせなげに煌々と冴えわたる月を見上げているのです。

夜目にも白い、ジンジャーリリーの花。花嫁のブーケによく似あう、やわらかで清純な白です。咲き始めの、まだつぼみがいくつかついたジンジャーリリーを切り、玄関に飾れば、家中が香気に満たされます。大きな葉を落とし、いつも茎を短くして飾ります。葉は葉で、大きな花瓶にはよく似合うのですが。

昔は、きんもくせいの香りが好きでした。秋の定番。けれど今は、きんもくせいの香りのなかに、くどい甘さを感じてしまう。いい香りだとは思うけど、昔よりは、好き度が下がってしまったかな。きんもくせいの香りを厭う人の気持ちが、すこしわかる。強引すぎて、甘すぎて、辟易してしまうんだろう。

現在私の好きな香りを3つあげますと。

・ジンジャーリリー

・みかんの花

・ビワの花

これらが三本の指に入りますね。花瓶に飾って楽しむのには、ジンジャーリリーが一番合っているのかも。まるで蘭の花のように気品があります。

香りの女王、バラが入っていないのは、きんもくせいと同じく、そこに濃厚な甘さと強引さを感じてしまうから。香りは好きだけど、胸いっぱい吸いこむけれど、いつまでもいつまでもその場にいると、少し酔ってしまう。

ジンジャーリリーが終われば、やがてひそかにビワの花が咲く。小さな目立たない花だから、香って初めて、「ああそうか、ビワの花の季節なんだな」と思う。

自然の香りに勝る、人工の香りはありません。香水なんて不要だよなあ、と思うこの頃。今や、洗剤メーカーも、シャンプーも、ボディシャンプーも、競って強い香りをセールスポイントにしているけれど、人工的な香りの押しつけは、もはや暴力なのです。

こうして秋の夜更け、ジンジャーリリーの前に立ち、深く息を吸い込むとき、私はそんなことを思うのです。

甚振る

9月はなかなか、いろいろあった1ヵ月でした。打ち合わせで東京へ2度ほど出かけました。2度目が9月30日(月)だったのですが、この9月30日の打ち合わせがひどかった。悪い意味で(^^;

詳細は書けないのですが、権力者に甚振られる(いたぶられる)というストレスフルな経験をしました。(苦笑)

「いたぶる」って、「甚振る」って書くんだなあ。勉強になった。どんなことにも、ポジティブな一面を見つけて、前向きに考えて行こうと思う。

1時間強の話し合いでしたが、終わった後ヨレヨレになりました。その1時間で私がされたことって、どういう表現が近いのかなあとずっと考えていたのですが、そうだ、「甚振られた」だと気付いて、気に入ってこの言葉を使っています。

というのは、その話し合いには、絶対的な権力者Aさんがいるのですね。本来は自由なはずの結論を出すのに、私はめちゃめちゃAさんの意向に沿うように強要されたのです。終始一貫して。

9月30日の話し合いが、そういうものになるであろうということは、予想していました。でも、私が私なりの考えを述べることは自由ですし、そういう場であったはずなのですが、権力者Aさんの圧がすごかった(^^;

なかなか、あそこまで独善的にはなれないかなーと思いました。

9月30日の打ち合わせの目的は、そもそも私の意志表明(方向性の表示)だったんですよ。私が結論を出す日だったんですね。私とAさん以外に、3人参加して、計5人での話し合いです。

A「で、どうするんですか?」

私「いろいろ考えましたけど、〇〇に決めました。理由は〇〇と○○です。詳しくは~」

で、いろいろ説明したんですけどね。私としては、別に感情的に衝動的に出した結論ではなく、いろんな条件を理解し、検討した上でのことです。それを説明するために、理由も詳しくお話ししました。なぜ私がその結論に至ったのか、納得してもらえると思って。

そもそも、本来は説明をしなくても別にいいし、結論だけで押し通してもいいことだったんです。私が「ともかくこれに決めました」と、押し通してもよかった場でした。けれど、理由や経緯をお話しした方が、Aさんも納得しやすいかなと思って、きちんと説明はしました。

その後が、すごかったのです(^^;

考えをあらためるよう、同じ話で繰り返し説得されました。

A「でも~だから~でも~だから~それに~だし~」

B「全部承知しています。その上で、よく考えて自分で決めました」

おかしいのは、上記会話を5回以上繰り返したんです。5回は異常でしょう?

実はこのケース、最終的な判断を出すのは、Aさんなんですね。だから別に、私の意志がどうであろうと、AさんはAさんで判断すればいいだけの話だったんですけど。このAさん、どうしても私から、自分の思い通りの言葉を引き出したくて、ずっと同じ会話を繰り返すんですよ。

途中でさすがに、その異常性に気付いた私です。

だって、大の大人が、同じ内容を5回繰り返すって、どうかしてますからね。私もさすがに、

「だから何回も同じこと言ってるじゃないですか!」と言ってやりたくなりましたが、なにぶんAさんは権力者なので、私は立場上絶対に逆らえないポジションでして。だから、馬鹿みたいだなと思いながら、ほぼほぼ同じ会話を繰り返しましたね。

たださすがに、5度目には、私も静かに(できるだけ感情を抑えて)言いましたよ。

私「さっきから、同じ会話をずっと繰り返しています」

A「あなたのためを思って、これが最後の忠告なんです」

あなたのためを思って、というのは嘘です(^^; Aさんは自分の言う通りの結論を、私の口から言わせたいだけ。けれど、ここは私が自由意志を表明する場所ですから、屈するわけにはいきません。

結論から言うと、私は最後まで、妥協しなかったです。脅すようなことを言われても、最後まで自分の自由意志を表明しました。それでよかったです。というか、それが目的の場だったはずなんですけど。私の出した結論を、確認する場だったのでね。

権力者のAさんには、権力者のAさんの考え方がありました。それはいいんです。でも、それを私に押し付けて、私の意志としてその言葉をいわせようとする、それは違います。

権力者のAさんは、自分の出したプランαを飲め、と言うのです。私は、「あなたはどう思いますか」と問われて、「私はこのプランαは受け入れられないです」と言いました。普通はそこで終わりです。プランαをどう思うか、私の意志を確認する場が、9月30日だったから。

プランαを飲みこませようとするAさんの態度があまりにあからさますぎて、私はAさんにこう尋ねました。

私「私はこのプランαを受け入れられないんですが、受け入れることは強制ですか?」

A「いえ、強制ではありません。受けるも受けないも、あなたの自由です」

私「では、私は受け入れられないです」

それで終わると思いません? しかしAさんは違う。Aさんはひたすら繰り返すわけです。

A「プランαは~だし~だし~だし、だから受け入れてはどうですか?」

私「おっしゃったデメリットは全部承知していますし、よく考えた上で、私はαの受け入れはしたくないです」

本当に不毛で、苦痛な1時間強の打ち合わせでした。

私に、なんとしてでも「αを受け入れます」と言わせたいAさんの思惑がみえみえで、本当に不愉快でした。でも最後まで、私は自分の意志に反した嘘はつきませんでした。

思ってもないことを言わせる、というのは、嘘をつかせるということですよ。人の思いはそれぞれ自由なのではないでしょうか?「どう思いますか?」と聞くのですから、正直な思いを話してOKだと思いますし、Aさんの思い通りの答えを言わせようとするのは、あまりにも傲慢です。

もしAさんが権力者でなかったら、私も不毛な会話はもっと早く、切り上げていました。時間の無駄ですから。同じ会話を、100回、200回繰り返したら、私の考えが変わる? それは強制や嫌がらせでしかありません。

Aさんは、これまでもこういう行為を繰り返してきたのかな?と思いました。普通の人なら、屈していると思います。あなたのために、とAさんは言うけれど、それはつまり。

「あなたが自分でする判断より、私のアドバイスの方が正しい。だから私の言う通りに言え。あなたの判断は間違いだ」と言っているのと同じこと。

相手が自分に逆らえない、自分の方が立場が上、それを踏まえて相手に言葉を強要するのは、本当にゲスな行為だし、やってはいけないこと。

私の意志を確認するための打ち合わせだったのに、なぜか、Aさんに、Aさんのアドバイスに同意するよう、強制されるという1時間。よく耐えたよ、自分。

自宅に帰ってきたその晩は、悔しさでなかなか眠れなかったし、いったん寝た後も3時頃に目が覚めてしまい、それからまた眠れなくて、外に出て庭で空を見ながら深呼吸をしたり、体操したり。

ずっと頭から消えることはありませんでしたね。Aさんは本来、私がプランαを受け入れるか受け入れられないかを確認するだけだったのに、なぜここまでの強引な行為に出たのか。

感情を沈め、冷静な判断をしなければなりません。まだ終わりではなく、この件は解決までもう少し時間がかかりそうです。

2024年9月6日は記念日

今日は記念日である。私の人生において、けっこうな記念日となった。あまりいい日ではないが、でも諦めがついたといえば、いい日なのかもしれない。

自分の半生を振り返ると、本当にいろいろなことがあって、もがいてもがいて、という時期が長かったのだが、その原因がわかった日でもある。

人ですね。人は、変わらないのである。そのことを、しみじみ噛みしめてる。

いや、よく言うよね。他人を変えることは難しい。だから自分を変えるんだって。それは、「そうですよねー」と軽く答えられるんだけど、いざ自分のケースとなると、やはり希望が生まれてしまうではないですか。変わってくれるかもしれないって。

それで、あれこれ努力するわけです。尽くすわけです。けれど、やっぱり人は変わらない。

それがわかるまでに、こんなにも時間が必要だったんだーと、しみじみ。

でもさ、確かに私、自分で納得するまでやり尽くさなかったら、きっと誰の言うことも聞かなかったと思う(^^;

そんなことないよ。そんな人じゃないよって。自分がやり尽くして、その結果がこれかーというのがあるので、もう納得するしかない。そうか、そういう人だよね。最初からそういう人だし、もう変わらない。というか、途中変わってくれたと思った方が幻想なわけで。

でも、納得してる、今は。

だから私の半生は苦しかったんだなあって今はわかる。原因がわかったので、今後はもう少し楽になるだろう。

だけど割り切れない感情は、しばらく私を苦しめるんだろうな。まあいいや。人生最悪のときよりは、ずいぶんましである。

これまでに何度か、占いや預言カフェのようなものに頼ったけれど、実は一番当たったのが、鶴ヶ峰のロイヤルマートの占い師さんだった。振り返ってみて、ずばり言い当てられていたのだ。私が1ミリも思ってはいなかったことを。

〇〇さんは、大変な人(悪い意味で)ですよ、と。

××さんのことを言われると思っていた私は、驚愕した。そして瞬時に反論していた。

占い師さんは、私の反論に、反論はしなかった。ただ、気の毒そうな目でみていた。

今ならわかる。ロイヤルマートの占い師さんは大当たりだ。そして、それをズバリ指摘した人って、これまでいないなあ。

人生は、すべて自分に委ねられている。どんな生き方も、自由である。いろんな選択肢があって、それを選ぶのは自分だ。

私がもし第三者なら、こう言うだろう。

好きにすればいい。君は自由。100%の幸福などありえないし、あるならとっくに選んでるでしょ?そんな道はない。
優先する項目を整理して、妥協できるところを妥協して、なんとかやりすごせばいい。できるだけ自分に負担がかからない形で。
もう後悔はないでしょ。あり得ない結果をみせつけられたんだから。
進むもよし、戻るもよし。自分が少しでも楽な道を選べばいい。
自分を大事にして。もう相手は変わらないよ。それがよくわかって、よかったじゃないか。
今は自分の気持ちを、一番大切にして。自分が望むように、すべては少しでも楽なように。

まあ、結局それしかない。

人それぞれ悩みはあるだろうけど、私にとっての大きな重荷の謎が解けた、2024年9月6日(金)は、記念日だ。備忘録として、このブログに綴っておこう。

私もお人よしのアホだったなあと思うけど、でも、がんばったねと、誉めてやろう。自分を。よくがんばった。偉かった。ヨシヨシヾ(・ω・`)

家系の因縁

母の従兄が亡くなり、お通夜とお葬式に行ってきました。従兄は本来、本家を継ぐ立場でしたが、いろいろ事情があって、家を継ぐことはありませんでした。そして、その本家は後を継ぐ子供がなく、途絶えてしまいました。

お葬式の間、ご先祖さまについていろいろと考えさせられました。もし本家を継いでいたら、従兄の人生も違うものになっていたかもしれません。

本家の菩提寺の和尚様は、高齢ですがお元気です。8月19日が、本家を継いだ伯父の23回忌でした。8という数字も、19という数字も、私の人生でたびたび登場する数字なので、なにか因縁を感じます。すべては、つながっているのかなあと。

ある日突然この世にあらわれたわけではなく、ご先祖様のひとりでも欠けていたら、今の自分はいないのです。

もはや本家はなく、23回忌はささやかなものでした。和尚様と伯父は同級生です。本家の大伯父は、今の和尚様の父(先代のご住職)ととても仲が良かったそうです。大伯父は何かというとお寺に入りびたりで、草取りの奉仕など、お寺のために尽くしたとか。

時が流れて、もう本家は途絶えてしまいました。墓は、新しくできた永代供養の小さな墓へと移されました。私は年に数回このお寺を訪れて、永代供養墓に手を合わせています。

母の従兄のお葬式をきっかけに、ご先祖様に思いを馳せました。本家が途絶える家には、本家が途絶えるだけの因縁があるのだと思います。

私の人生も、大変なことが多かったので、これもまた家系の因縁かなと思います。結局本家ではないのに法要をしたり、永代供養の手続きをしたり、お寺との関わりは私が一番多いです。私の兄弟はなにもしていないのに、なぜか私にその役が来るという(^^;

お寺の和尚様と法要のたびにおしゃべりするのですが、先代のご住職も特別な縁で僧職についたそうです。そもそもお坊さんになる気はまるでなく、別の職業についたものの、どの職業に就いても必ず妨害が入り、しかも次々と家族が亡くなる不幸があり、とある方に「あなたがお坊さんにならない限り、身内の死が続く」と諭されたとか。その後、お坊さんの修行に入ると、身内の死はぴたりととまったそうです。

こうしたお坊さんや神主さんなどは、自分がなりたいと思うよりも、見えない縁に導かれてなるものなのかもしれないですね。

宝塚はもう見ない

宝塚歌劇団といえば、夢の世界。私が以前東京に住んでいたとき、和央ようかさんの「ファントム」を、東京宝塚劇場で見た。真っ赤なじゅうたん。豪華な衣装。熱狂的なファンの方々。

帝国劇場の舞台とはまた違う、独特の世界観。とても素敵だなあと思ったし、紡ぎ出される華やかな物語、ショーを堪能し、また観劇したいなあとそう思いながら帰途についた。

でもその後、96期のいじめ問題が発生。劇団の対応がおかしいのにびっくり。宝塚に対する疑念がわく。裁判にまでなって、長期にわたっていじめの被害者が結局、救われなかったことを大変気の毒に思う。

そして昨年。有愛きいさんの自殺を知り、事件の経過をみるにつれ、私の中で完全に、宝塚歌劇団に対する印象が変わった。

私が宝塚を見に行くことは、もう2度とない。あまりにもひどすぎる劇団だ。見に行こうという気持ちは、一生持てない。

有愛(ありあ)きいさんの双子の妹さんが、退団したニュースが決定打だ。その後どうなったんだろうと検索してみて、有愛きさんの妹である一禾(いちか)あおさんの退団を知り驚愕。どうして被害者の遺族が退団して、加害者一団にはおとがめなしなんだろう。人が一人死んでなお、被害者関係者が黙らせられる現状に、失望しました。これが宝塚かあ。清くも正しくも美しくもないよ。

96期のいじめの話も、有愛きいさんの話も、根っこは同じ。宝塚では有愛きいさん以外にも、2018年6月に宝塚音楽学校の生徒が、パワハラを苦に寮のバルコニーから転落、全治3週間の全身打撲を負っていたそうで…。

宝塚歌劇団のやり方はもういろいろ破綻しているのに。ガタガタと崩れていたのに。有愛さんが亡くなるまで、ずっとパワハラ体質は続いていたのか、とびっくりしました。この飛び降り事件のときに宝塚が改革をしていたら、有愛さんは亡くならなかったんじゃないかと思います。

問題の構造、宝塚の体質については、ものすごく単純なことで。

要するに、上下関係が絶対だったら、必ず起こる事件だと思うのです。だって、世の中には意地悪な人間、理不尽な人というのは必ず一定数いるわけで。

宝塚では上級生が絶対正義。トップスターは雲の上の人。

その神様のような存在が、正義の人ならいいのですが。そうでない場合はどうなるのでしょう。そんなことわかりきった話です。

どこの世界でも上下関係が厳しい環境というのはあると思いますが、でも事件にまで発展するようなことがあれば、そこには正義が発動しますよね。調べて、誰の目にも明らかなリンチがあれば、加害者は処罰されるでしょう。職場にもいられなくなると思う。

意地悪な人が、絶対的な権力を握り、誰も逆らえなければやりたい放題になりますよね。いじめのターゲットにされればほとんどの人が逃げ出すだろうけど、逃げられなかった人が死を選んだ。その責任は誰がとるのでしょう。

もう団体の構造として、だめなんだと思う。これだけの騒ぎになって、事件になって、人が一人死んでいて。

加害者おとがめなし。謝罪文を提出したのも加害者全員ではない。書面だけの謝罪で、遺族と直接対面しての加害者の謝罪はなし。被害者の妹がひっそりと退団。宙組は加害者のトップスターはそのままに公演再開。

被害者の方が、死んでなおこの対応ですので、生きていたときには本当に地獄だったと思う。生きてどんなに上にパワハラを訴えても、これじゃ無理です。なにひとつ聞いてもらえないどころか、むしろパワハラがひどくなったんではないでしょうか。

信じられないのは、宙組の公演再開です。これを喜んで見に行く人がいるのかと思ったら、いるんですね。しかも大勢。

今回の一連の事件を批判して「もう見ない」「見る気になれない」とおっしゃってるファンの方も、少ないですがごく一部いて、救われる気持ちになりました。見に行くということは、加害者に加担する、加害者のパワハラ行為を容認するということなんだと思いますけどね。

私がもし熱狂的な宝塚ファンだったとしても、この事件を知ったら、即座に熱は冷めたと思います。パワハラの内容がもう、集団リンチだし。人数も一人ではなくて、劇団側が認めただけで10人。閉鎖された空間で、10人相手に罵倒を受け続ける日々は、地獄以外のなにものでもない。それは、芸を磨くことでもなんでもなく、単なるいじめでしょう。

有愛きいさんが本当にお気の毒だし、遺族の方々もすごく傷ついて、それでも精一杯劇団や加害者に立ち向かったと思うし。

事が公になったのは、よかったです。もし隠避されていたら、また続々と被害者が出たと思うから。遺族の方々、本当に勇気があった。遺族の方の勇気が、次の被害者を防いだ。

有愛きいさんのご冥福をお祈りします。