ふたご座流星群を見る

ふたご座流星群を見ていた。

だから今日は、ちょっと夜更かし。いいのだ。こういうときは夜更かしでも。

16日が新月だから、星の光が見えやすい。

空の一角をほんの15分くらい見ていただけで、4個は見た。

しかもそのうちの1つは、かなり長い尾を引いて輝きも格別。

一瞬で消える短い流れ星は、「あれ?今光ったような気がするけど」なんて

自分の目の錯覚なのかどうなのか、迷ったりする。

でも大きなものは、錯覚とは間違いようもないほどに強烈なきらめきで、

しかも長く光るから感動もひとしお。

私は、冬の大三角を中心に見ていた。

シリウス。相変わらず青白くて綺麗だ。

この青い光は、冬の夜空の帝王だね。

べテルギウスの赤は、いかにも年取った戦士の威厳を表しているようで、

重々しく気高く感じる。

なぜ戦士なのかって、それは単なるイメージでしかないのだけれど。

私はベテルギウスを人にたとえたら、絶対ガンコなおじいちゃんだと思うのだ。

白い無精ひげに、赤銅色の肌、深く刻まれたしわ。

きっと体には傷跡がある。

プロキオンは、シリウスやベテルギウスに比べるとなんとなく

平凡で目立たない星に思えた。

同じ冬の大三角の仲間でありながら、プロキオンには自己主張がない、ような気がする。

せっかく明るい星なのになあ、なんて思う。

もう少しだけ見たら、眠ろう。

廃墟に思う

 山に行ってきました。といっても、そんな山奥ではなく、空気の綺麗な田舎を散策~という感じです。

 もうずっと、「山に行きたい」と思っていたので。

 秋の山はちょっと寂しいけど、その寂しさがいいのです。

 もう冬に向かって、まっしぐらって雰囲気が胸にしみます。外で食べるお弁当はおいしいし、いい気分転換になりました。

 山道をなにげなく歩いていたら、崩れ落ちて自然に還りかけている平屋の豪邸を発見。それは、大きな道路からは見えない位置で、静かに朽ちていく木造の家でした。すぐ脇には、現在も人が住んでいる気配のあるお家があります。

 ということは、このお家は壊さずにわざと、そのままにしているのか? それとも持ち主はまったく別人だから、手をだせずにいるのか?

 詳細はわかりませんが、人の住む家からあふれる生活感と、もう誰も住まない家の持つ独特の息づかいのようなものが、とても対照的でズシっときました。

 崩れていくお家は、障子も破れ、戸も開け放ったままで。屋根には落ち葉やら枝がうずたかく積もり、風雨にさらされて今にも壊れそうで。でも凛とした佇まいが、往時の権勢を思わせるのです。屋根瓦も本格的。新築のときには、さぞかし見栄えがしただろうなあと、想像できるようなものです。

 家はそれほど広くありませんが、作りのひとつひとつが丁寧で、施主の思い入れが伝わってくるのです。

 外から見る限り、家の中にはそっくり荷物が残っていました。箪笥もテーブルも、生活のあとはそのままに、ただ埃が静かに積もっていて、なにもかも遠い昔のことだと主張しているようでした。

 乱雑に散らばった生活用品は、主がいなくなった後に、誰か侵入者があったんでしょうか。無粋なことをするなあ、と思いました。

 この家に最後に住んだ人は、どんな人だったんだろう。しばし、見知らぬ人に思いを馳せました。

 おじいちゃん、おばあちゃんだったんだろうか。この家を新築したときは、若夫婦だったのかも。若夫婦は自分たちの家を建て、この家で新しい生活が始まった。

 何人か子供が生まれ、忙しいながらも充実した月日が流れ、やがて子供たちは大きくなり。

 一人、また一人と都会に出て行ったまま、子供たちは遠くに根を下ろして。

 縁側でおじいさんとおばあさんは、ときどきは、子供たちの話をしたかもしれない。

 あの子は、小さいときあんなことがあったね。こんなときがあったね。楽しかったねえ。元気で暮らしているといいねえ。

 時が流れ、おじいさん、おばあさんは一人になり。子供たちは都会に来ないかと誘ったけれど、きっと最後まで、この家にいたいと答えただろうなあ。

 一人になっても、やっぱり家の中には子供たちの思い出がたくさん残っていて。あの柱の影で、この部屋で、走り回った子供たちのことを思いながら、時間を過ごしたんだろうか。

 やがて、突然に、最後の一人もいなくなるときはくるわけで。

 住む人のなくなった家は、急速に傷んでいく。

 家の脇に、樫の木の大木がありました。ちょうど、その崩れていく家を見下ろすような位置です。幹の太さからいって、おそらくこの家がそこに建ったときから、その歴史を見守ってきたのだと思います。

 この樫の木は、全部見ているんだなあと思いました。

 新築の、希望に満ちた始まりの日のことも。子供たちの笑い声も。そして、最後の一人が去った日のことも。

 どんな気持ちで見守ったんだろうと思うと、せつないです。思わず幹に手を触れました。

 この木だけが、全部見てたんだなあ。

 人の住んだ歴史というか、空気には、独特のものがありますね。それは、残留するような気がします。時間が経っても、過去は残るわけで。

 学校に勤める知人の言葉を思い出しました。生徒たちが帰った後、一人で遅くまで残っていると、もう誰もいないのに、教室には昼間のざわめきのようなものが残っているんだよと。本当に不思議なものだし、きっと錯覚だと笑われるかもしれないねと、自嘲するように。

 そのざわめきの感覚。

 想像できるような気がします。

 もう誰もいないのにね。昼間のエネルギーがそのまま残っている感じ。決して錯覚ではなく、そういうのって、あると思う。

 建物に残る雰囲気は、独特だ。そこにいた人の思い、みたいなもの。

 廃墟を見て感じるノスタルジイです。

 古い建物の持つ歴史には、惹きつけられます。そこにどんなドラマがあったんだろうって思う。自然に、胸がざわめく感じ。

 秋の山で、思わぬ廃墟をみつけ、物思いにふけりました。これから冬に向かう時期特有の、午後の光の弱さも、廃墟には似合っていたような気がします。もう二度と、時間が遡らないことを思い知らされるようで。ただひたすら、朽ちていくしかない。誰も、あそこに住む人はいない。もう、あの家に人の声が響くことはないと。

 秋らしい一日でした。

またこの季節に

 楽しみにしていた白洲次郎のドラマ、その第3回でさえ、見ている途中で眠ってしまうほど、慌ただしい9月、10月でありました。

 白洲次郎。ラスプーチンの涙。

 ラスプーチンと呼ばれた男は、信念を持っていたからこそ怯まなかったし、その生き方に魅せられる人が多いのでしょうね。

 横になってテレビを見ていたら、いつしか意識がなくなり。第3回のドラマの内容は、ところどころしか覚えていません。たまたまふっと目が覚めたとき、年老いた次郎さんがなにかを燃やしているシーンだったような。

 そのとき、知人から聞いた話を、すぐに思い浮かべました。戦後に大活躍した次郎さんですが、回顧録のようなものは一切残さなかったと。すべての秘密を自分の胸におさめたまま、静かに余生を送り、そして静かにこの世を去ったと。晩年、庭で手紙や書類の類など、燃やしていたとか、そんなことを昔、聞いたような気がします。

 ドラマを見ながら眠ってしまい、ふっと目が覚めたときに、そのシーンを見たような記憶があります。あれ、夢じゃないと思うんだけどなあ。たぶん、現実だと思います。

 すごく、胸を打たれたのです。

 そのシーンが、一番心に残ってます。

 5年前にもやっぱり9月、10月は忙しかったのですが。

 今年もいろいろあり、それがまた、9月10月で。私にとって、9月10月は、なんだか特別な月なのかもしれません。

 数日前、真夜中に玄関の扉を開けて空を見た瞬間、流れ星を見ました。

 突然の光にびっくりでしたが、オリオン座流星群の季節だったんですね~。

 本当に一瞬の出来事で、願い事を言う暇もないくらいでした。25日までは見やすいそうなので、今日もこれから空を少し眺めて、それから寝ます。

 星を見ていると、人の意識とはなんだろうという気分になりますね。今ここに、こうして存在することの意味を、自分自身に何度も問いかけてしまいます。宇宙とは、世界とは、自分とは、なんだろう?という尽きない疑問。

 星を眺めるのが、大好きです。

許せば自分が救われる

スピリチュアル系の本を読んでいて、ふと思った。

本当は、憎むよりも愛するほうが、ずっと楽なんだよねえ。

誰かをずっと憎むのって、疲れる。

エネルギーが必要だもの。

魂は、愛することのほうが得意だし、それが自然なんだ、きっと。

わざわざ、憎みたくないよね。

そして、ずっと憎み続けるなんてことは、

とてもとても、つらいことなんだよね。

相手がどうとかいうより、

憎み続ければ、それは自分をいじめてるのと同じことで。

その憎しみをおろせば楽になれるのに、

あえて重荷を背負うのは、ちょっと引いた視点からみたら、

ひどくバカバカしいことなのかもね。

だってさあ、みるからに重い荷物をいっぱい背負って、

重いんです、苦しいんです、つらいんです、

どうして私がこんな目にって、泣き叫んでるようなもので。

まあ落ち着きなよ。

その両手の荷物と、背中に背負った荷物を下ろして、

熱いお茶でも一杯飲みなよって、薦めたくなるかも。

そして荷物を下ろした人はきっと、

キョトンとした顔で、目を丸くするだろうね。

あれ、なんか急に楽になったんですけど、なんてね。

体中が軽いです。これなら、どこまでも歩いていけそう、なんて。

それで、よほど大事な荷物かと思いきや、

意味のない岩石だったりね。

これ運んでどうするんだよっていう。

目的もないまま、持てる限りの石を運んで

ひーひー言ってるのが苦しさの原因だった、なんてさ。

誰かを憎み続けることは、そういうことなのかもしれないと、

ふと思ったのでした。

緑道に降る雨

 遅い時間に投票所へ向かったら、雨だった。一日家で寝てたから、雨が降っていることにも気がつかなかった。玄関のドアをあけたら空気がひんやりしていて、秋だなあとしみじみ。

 そう。もう8月も明日一日で終わり。空気の匂いは、すっかり秋である。

 投票を終えた後、お気に入りの緑道を通ってスーパーへ買い物に行く。ここの緑道、最近みつけたのだけれど、かなり雰囲気がいい。車が来ないから、ぼーっとしながら散策するのには最適。立ち並ぶ家々から、食器の音がしたり、夕餉の匂いが漂ってくるのを楽しむ。

 ときどき、はっと胸をつかれるような家がある。私が気になるのは、どうも廃墟というか、人の気配のない家が多い。

 まだ新しい家なのに、ひっそりしずまって、両隣のにぎやかな話し声の中、そこだけがぽっかりと、異質な空間となっていたり。

 

 要塞のように固く閉じられた雨戸を見ると、ここが最後に開いたのはいつだったのだろうと、意識が空想に飛んでしまう。

 そして、ツタの這う家。窓も半分はツタに覆われて。やがてすべてが覆い尽くされるのも、時間の問題かと思われるような、人々から忘れ去られたような家。

 あるアパートの2階に、ふと目がとまった。古びたドア。なにか気になる。

 ドアに続く外階段を見たとき、その理由がわかった。なんと、錆びて崩落した部分があるのだ。かろうじて残った部分も、人の体重がかかれば、たやすく崩れ落ちてしまうだろう。

 つまり、そのアパートの2階には、もう誰も住んでいないのだ。かなりの時間、そこには誰も立ち入っていない。立ち入ろうとしてもできない。唯一の道が、途切れているのだから。

 扉を開ければ、どんな風景が広がっているのだろうと思った。時間がとまっているはずだ。最後にそのドアを出た人は、どんな思いでそこを出ただろう。一度は振り返っただろうか。その眼には、どんな光景が映ったんだろう。

 それとも。新天地へ向かうあれやこれやで精一杯で。振り返る余裕もないまま、慌しくそこを出て行ったのだろうか。思いなど欠片も残さないで。

 夜の緑道は、雨ということもあって、人気がなかった。傘に当たる雨の音が心地よかった。昼間の喧騒も埃ぽさもすっかり洗い流されて、まるで異次元に迷い込んだように思えるほど、静かだった。

 私は一年前に、ある人がつぶやいた言葉を思い返していた。

 その人は、こう言った。

 「とりたくない人は、とらなくていい」

 内心嫌なことがあっても、いつも笑顔で、気持ちを決して露にすることがない人だった。私はその人が笑顔でいるところしか見たことがなくて、だからその人が初めて口にした辛辣な言葉を、そして一瞬の不機嫌な背中を、驚いてみつめていた。

 面と向かって言われたわけではないけれど、それは私に向けられた言葉だと直感した。だって、私は「とりたくない人」だったから。

 とりたくないものは仕方ない。だってそれは苦痛だった。とりたくない気持ちも理由も、わかってくれているのではないかと、甘い期待を寄せていた。立場が逆なら、その人だって、とりたくないのではないかと勝手に想像をしていた。

 でもそれは違ってたんだなあと、今日しみじみ思った。

 冷たい言葉を口にしたその人は、次の瞬間、何事もなかったかのように笑顔の仮面をつけていた。私も、ただ、笑ってた。辺りにいた他の人たちも、うきうきとはしゃいでた。

 誰も、その言葉の意味に気付かなかったのではないだろうか。その人と、私以外。

 いや、そう思うことさえ、もはや私の思い過ごしなのかも、しれないけれど。

 初めて本音をみせてくれた。それくらい、あの瞬間には気を許してくれたのかもしれない。だけどその本音は、はっきりと私を拒絶していた。

 自分ではけっこう、空気を読めるつもりでいたんだけれど。その人のことも、わかっているつもりでいたけれど、あのとき聞いた言葉は、どんな推測よりもパワーがあった。

 だとしたらずっと、私は勝手にいろんなことを思いこんでいたんだなあと、今はそれがわかる。

 雨の中で、その人のことを考えていた。一年もたって、やっとその言葉の意味が、ちゃんとわかった気がする。

 ただ単純に、聞いてみたいことも、話してみたいことも、いっぱいあったんだけれども。それは私の勝手であって、相手の気持ちに背いたことだったと。

 なんで私はこの緑道で、一年も前のことを鮮明に、今になってこんなにも考えているのだろうと、冷静に考えれば笑ってしまうような話なんですが。心に残る言葉というのは、あるものです。たとえその場では流してしまっても、深く残った言葉は、なにかの瞬間にふと、浮かび上がる。

 この緑道や、ツタの絡まる家や、壊れた外階段に、感慨深い夜でした。