祈りの場所

 今日は終戦記念日です。

 明治神宮へ行ってきました。駅から明治神宮までの道はよく晴れていて、日差しがまぶしかった。

けれど一歩鳥居をくぐると、壮大な森に囲まれた北参道に、強い太陽光は直接届きません。

 360度。どの方角からも、セミの鳴き声が聞こえます。雨のように降り注ぎます。木の匂いと、セミの声と、湿気を含んだこの暑さと、小石を踏みしめて歩く自分の足音と。

 明治神宮は、本当に不思議な場所です。落ち着くというか、とても癒される場所ですね。私は明治神宮の空気が好きです。

 蝉時雨の中、前を歩く若いカップルを追い越しました。その直後、女性が感慨無量の声色で、ため息交じりにこうつぶやくのが聞こえました。

 「静かね・・・」

 一瞬の沈黙の後、それに同意する男性の低い声が聞こえました。

 私は、はっとしました。

 静か? この蝉時雨が? 

 

 その女性の声は、私の胸に深く響きました。女性が心底、感激しているのが伝わってきたからです。単なるおしゃべりというのではなく。

 証明する手段などありませんが、なんの根拠もありませんが、私はその女性が感動した気持ちをそのまま、その純粋な思いをそっくり、自分も感じとったような気持ちになったのです。

 自分も同じ思いだった、というのではなくて。その人が感じた真摯な気持ちが、心にそのまま飛び込んできた、というか。

 暑さと溶け合ったこの蝉の声を、静かと感じることに、私は不思議な感慨を覚えました。

そうかー、静かだと感じたのか。幾重にも重なるこの、波のように絶え間ない蝉の声。それが、女性の耳には聞こえていても、心は音として捉えていなかったということで。彼女の目の前には、荘厳な小石の参道と、それを包む森の静寂だけが広がっていたわけです。

 同じ場所に位置していながら、私と彼女が感じたものは、まったく違う景色だったのですね。

 もしかしたら、彼女は交通量の多い道路沿いの部屋で、車のエンジン音やクラクションに囲まれた生活をしているのか? それとも繁華街の、人のざわめきが一日消えることのない、賑やかな通り沿いに暮らしているのか? だったら蝉の音は自然と一体化して、もはや音とはいえない静寂のジャンルに、無意識に分類されてしまうものなのかなあ。

 いやいや、もしや。

 禅の高僧の境地。瞑想の向こう側の世界に、彼女は飛んでいたのかもしれない。すべての音が消え去った、無我の境地に。

 「静かね・・・」という彼女の声はとても印象深く、考えさせられるものでした。

 私は瞑想が苦手です。呼吸に集中すると、苦しくなるのです。いつも何気なく、当たり前のようにしている動作が、意識したとたんに苦痛になります。

 吸えば吐きたくなり、吐けば吸いたくなり、深い呼吸を心がけるほど、耐え難い欠乏感に襲われてしまうのです。実際にはなにも不足していないのに、酸素が不足するのではないかという恐怖感で、苦しくなってしまうのです。

 でも、見知らぬ彼女が経験した静寂の世界。それが瞑想の向こうにあるのなら、また瞑想をやってみたい。参道で、私はそんなことを思ったのでした。

 本殿でお参りをしました。手を合わせて、何か特定のことを祈るというよりも、ただ、祈っていました。何を、という目的語、抜きです。こうして祈る場があることに、感謝しつつ、ただ祈りました。

 明治神宮の森は、人工の森だそうです。約100年前に、荒地だった土地に、全国から10万本もの木が奉献され、11万人に及ぶ青年団の勤労奉仕があったとのこと。

 うっそうと茂った森の様子を見る限り、ここが100年前には荒地だったとは、とても信じられないような光景です。

 杉や檜ではなく、なぜ樫や椎などの照葉樹林が植えられたかというと、そこには当時の内閣総理大臣大隈重信と、林苑関係者のバトルがあったそうですね。方向は違っても、両派とも立派な森を作ろうという固い意志は、一致していたのだと思います。

 だから林苑関係者たちは、総理大臣の不興をかってでも、照葉樹林を進める根拠を粘り強く説いたのでしょう。そして総理大臣も、意地で関係者の意見を握りつぶすのではなく、照葉樹林という意見をきちんと熟慮して、最終的には納得したのですね。

 その結果が、この素晴らしい森です。空気が澄んでいて、ここへ来ると元気がでるような気がします。明治神宮にかけた人々の思いがそのまま、この森を守っているのかもしれません。

 この日本の国を守ってきた、神様とご先祖さまに感謝します。ありがとうございます。

月は昇り、銀色の魚は跳ねる

 数年前に読んでから、ずっと心に残っている文章があった。

 まるで詩のようで。言葉なのに、それを目にしたとたん、映像も音も匂いも、鮮やかに広がるのだ。

 それは圧倒的な力を持っていて、読んだ私は、しばらくその世界に浸っていた。

 今日、とある橋を通りかかったとき、ふとその文章を思い出した。

 文章は、真夜中の情景を描く。

 主人公は橋の真ん中で、欄干にもたれて川面の魚が跳ねるのを見ている。月は高く昇り、青白くさざ波を照らす。

 魚は銀色の鱗を持ち。白い腹をみせては、空中に踊る。

 夜更けのオフィス街は静まり返り、まるで世界には主人公しかいないかのように、時間がとまる。

 主人公は独りなのに、その光景は寂しさよりも、強烈な美しさを感じさせるものだった。その瞬間は、切り取られた絵画のように完璧なもので。

 その静けさや、空から降る光の強さに。読み手の私はすっかり魅せられて、息を呑んだ。ただ見つめていた。本当に綺麗なものを目にしたとき、声を出すことはできないから。ただただ、感嘆して見てる。綺麗だなあって。そして心は勝手に、震え出すのだ。

 その情景は夏だ。昼間の熱風とは違う、いくぶん涼しい風が主人公を吹き抜ける。その風に吹かれて、主人公は魚を見る。月を見上げ、川の向こうの見えない景色に思いを馳せる。

 主人公の立つ世界はクールだけれど。

 その世界をじーっと眺めていると、やがてそこにある熱に気付く。 

 主人公の体を巡る血液の熱さなのである。

 橋の真ん中で、世界にたった一人立ち尽くす主人公。その体をめぐる血潮の熱さが、伝わってくる。なんなんだ、この感覚はと、俯瞰している私は思う。

 主人公も人間なんだなあって。

 その鼓動が、なんだか愛おしくなって耳を澄ませる。規則的なその音と、温かさに、手を触れたくなってしまう。

 そうかー、夜風に吹かれているのはだからなのかーって。

 幻だから、どんなに手をのばしても実際に、現実世界でその絵を体感することはできないんだけれども。

 私が今日通ったその橋は、本当にその詩の、モデルだったのかもしれないと思った。

葉ずれの休日

 数年ぶりに熱海に行ってきた。温泉でのんびり~と思ったのだが、意外にも一番癒されたのは、温泉よりも2泊目の宿で聞いた、葉ずれの音だった。

 眺望は決してよくない。窓の外には、木々が広がっていた。洋室のベッドに寝転がって目を閉じると、強い風が木を揺らす音が聞こえた。

 ああ、懐かしいなあ。そう思った。

 

 そう、この音は、初めて就職した会社の研修所で聞いたのと同じ音だ。あの頃も、朝から晩までびっちりのスケジュールで、休む暇もない緊張が続いて、土日はバタンキューで、ベッドにゴロリ、動けないままに葉ずれの音を聞いていた。

 研修所で同室の友人たちは、元気に外出していった。人気のない寮の静けさ。午後3時くらいの感じだ。

 風が木を揺らして、それは思いのほか、重厚な音で。波音のように、それは際限なく繰り返すのだ。よく晴れた日ざしが、室内に忍びこむ。

 過去の私はそのとき、ぼんやりと未来のことを思っていた。

 未来の私はなにを考えているだろう?と。

 熱海の小さな宿で。

 こうして同じ葉ずれの音を聞きながら目を閉じている自分のことを、想像はしていなかった。

 やっぱり。どんなに時間がたっても。

 私は私だなあと。そんなことを思った。本質的なところは変わらない。あの頃の私にもし、なにか伝えることがあるとしたら。

 素直になるってことだ。

 誰かへの意地のために、選択肢を狭めないでって言ってあげたい。余計な考えを全部捨てたら、自分が本当に求めてるものが見えてくるから。

 何にも考えないで、うとうとしていた。生産的なことなんてなんにもできず。起きているのか眠っているのか、半分起きていて、半分夢の中で。

 

 なんとも贅沢な時間だったけれど、癒された。

 音や匂いには、一瞬にして時間を超える効果がある。

 熱海で聞いた葉ずれの音に、過去の幻をみた休日だった。

スーザン・ボイルさんの歌声

 歌い手によって、曲の印象が全く変わってしまう、というのを体感しました。

 レ・ミゼラブルの「夢やぶれて」です。

 Britain’s Got Talent というオーデション番組で、審査員3人から、文句なしの合格をもらったスーザン・ボイルさん、47歳。

 見かけは、本当に普通の、どこにでもいそうなおばちゃんなのです。その番組に出演し、舞台の上に立ったとき、審査員だけでなく観客の反応も冷ややかなものでした。どうせ、不合格に決まってる、みたいな。

 まして、何を歌うのかと聞かれて、“I dreamed a dream” ですもん。この難曲を歌い上げることが、この素人のおばちゃんにできるはずがない。会場にいる誰もが、そう考えているようでした。

 でも、おばちゃんは全く動じません。会場の、どこか馬鹿にしたような雰囲気の中でも、卑屈になることなく、まっすぐ前を見ています。

 そして曲が流れ、スーザンさんの声が流れ始めたその瞬間! 誰もが息をのんだのです。私もです。目の前にいるこの人から、この声が出ているのか? それが信じられなくて、ただ呆然と、彼女の表情を見ていました。

 声は、20代の女性のものに思えました。それほど若く、力強いものでした。どよめく会場にも、スーザンさんは全く動じません。ただ淡々と、自分の信じる歌を、自分の歌を、歌い上げるのでした。

 審査員の顔つきが、豹変するのが見ものです。どうせたいしたことはないだろう、と鼻で笑っていたようなその顔が、見る間に、「本物を見た」という恍惚の表情に変わるのです。

 尊敬と、憧れが見てとれます。心を動かす存在を前に、ただ、敬服するしかないのです。特に、サイモンという毒舌で有名な審査員が、笑顔になるのがすごいんですよね。この方は、アメリカン・アイドルという番組でも審査員をしていて、すっごく厳しい批評で有名なんです。

 審査員なんだから、お世辞ばかり言っていられないのもたしかなんですけどね。見てる方が「もう少しオブラートに包んだ言い方をしてあげればいいのに」と同情してしまうくらい、思ったことをポンポン、遠慮なく言ってしまうという。

 アメリカン・アイドルを見ていた方ならわかると思うんですが、過去にはサイモンがあまりにひどい言い方をするので、他の審査員がたしなめることもあったり。

 そのサイモンが、笑ってるんです。とても満足そうに。こんな風に笑うサイモンを、初めて見ました。お世辞を言わないサイモンですから、本当に素直に、スーザンさんの歌が気に入ったんだと思います。

 私はレ・ミゼラブルという舞台を何度も見ましたが、そのときには、あんまりこの“I dreamed a dream” (邦題は「夢やぶれて」)という曲、ここまで綺麗な曲だとは思わなかったんですよね。落ちぶれた我が身を嘆くファンティーヌの、哀しみが伝わってくる曲だ、とは思いましたけど。

 綺麗だとか、優しい、とか、癒されるとか。

 レミゼの舞台のときには、全く抱かなかった感情がわいたのです。

 歌詞は、本当に悲劇なんですが。でもスーザンさんの声が伝えるものは、どこまでも優しい、まるで天上から降る音楽のようで。

 こんなに美しい曲だったんだなあと、その印象の違いに驚きました。そして、曲の途中で、スーザンさんがにっこり笑って、うなずくんですよね。その姿が、なんだか女神様みたいだなあって思いました。いいのよって、言ってくれているような。なんだか、自分の抱えてる全てのものを認めてくれて、許してくれて、いいのよって、そういってくれているようで。

 歌詞は全然、そんな歌詞じゃないんですけどね。

 でもその瞬間、本当に慈愛の表情で、うなずいてくれるスーザンさんの姿に、癒されました。

 震えながら消えていく、最後の音。

 スタンディングオベーション。会場に広がる興奮がリアルに伝わってきて、胸がいっぱいになりました。

 スーザンさんは47歳。未婚で、無職で、猫と一緒に暮らしていて。芸能人という容姿ではなく、どこにでもいる街中のおばちゃんで。

 この声、会場を熱狂させるだけの才能を持ちながら、誰にも見出されることなくひっそりと生きていたその人生を思いました。舞台上に初めて姿を見せたときの、あの、会場の蔑んだような空気は、今までの人生にもきっと、ずっとあったものなんだろうなあと。

 審査員の一人アマンダも、歌う前の会場の空気を指して、“I know everybody was against you”という言い方をしていました。against という言葉に含まれる強い響きは、そのままスーザンさんが生きてきた道のりに、重なるものがあったのかなと思いました。

 それでも、スーザンさんは全然、卑屈じゃなかったのです。自分に自信を持つ姿は美しいです。決して傲慢になることなく、かといって、卑下することもなく。私は私。その強さが、全身からあふれていたような気がします。会場の雰囲気がどう変わろうとも、内側にあふれる自分自身への信頼感は、決して揺らがなかった。

 歌い始めから最後まで、一貫してブレがありませんでした。

 だから、みんな聴き惚れたんだと思います。それはスーザンさんの世界だったから。みんながそれに飲み込まれて、スーザンさんの内面世界を垣間見たような。

 さっそくCNNのラリーキングライブに、ゲストとして呼ばれたスーザンさん。司会のラリーに、「髪形や服装、スタイルは変えるのか?」と問われて、「なぜそんなことをしなければならないの?」と、あっさり切り返していました。

 たしかに、スーザンさんが舞台で着ていたベージュ?金?のドレス、とっても似合ってた。

 スーザンさんが急に、まるでハリウッド女優のように大変身したら、きっと彼女固有の魅力は、薄れてしまうでしょう。

 ラリーキングライブに出ていたときの服装も、なにげない装いではありましたが、お洒落でしたね。落ち着いた茶色が、白い肌を引き立てていて。落ち着いた色だからこそ、大振りのネックレスが華美にならずに、ちょうどいいバランスだったような。

 その人にはその人にしか出せない美しさがある、そう思いました。

 スーザンさんの歌には、悲愴感がなかったです。

 まるでどこまでも、夢の世界のようで。歌詞にある“hell”(地獄)という激しい言葉も、スーザンさんの声にかかれば、淡い色彩の、夢の出来事だった。

 この日のために、この日の輝きのために、全部必要なものだったのかな?と思いました。スーザンさんが生きてきたその全ての、どれが欠けてもこの日はなかった。

 まるで魔法のような瞬間です。 

 この曲でなければ、これほどの感動はなかったでしょうし。その日のスーザンさんの服装も、声も、表情も。

 審査員も、会場の観客も、その全てが絶妙のバランスだった、と思います。

 レミゼを観にいって、聴き慣れたはずのその曲が。歌い手と場所によって、こんなにも印象を変えるのだと、それは新鮮な驚きでした。 

行く春に

 お昼休みにビルの外へ出たら、今にも降りだしそうな暗い空。その光の加減と、嵐の前のような静けさに、ふと胸を衝かれた。実際には、街には人のざわめきと車のエンジン音が、いつものようにあふれているのだけれど。

 まるでチャンネルを切り替えたみたいに、聞こえてるけど、聞こえてない、みたいな。日常の音はそこにあるけど、まるで別の次元にある、他人事のようだった。

 そんなことより、この暗い空。

 雨を予感させる灰色の雲。懐かしい胸の痛み。

 雷が鳴るんじゃないかと予感するほどに、辺りを支配する不穏な空気。

 ああ、あのときもこんな雲の色だった。

 雨が降り出すのを、軒下で眺めてたなあ、と思い出す。

 こういう感覚、好きなのである。痛いんだけど、嫌いじゃない。どこかでワクワクしている自分がいる。

 ときどきあるこの感覚は、本当に不思議だ。

 それは音楽だったり小説の一節だったり、誰かの語る言葉だったり。たまたま通りすがり、見かけただけの建物の佇まいにも、同じ刺激を受けることがある。

 郷愁というのが、一番正しい表現なのかなあ。ノスタルジィ。甘くて苦くて、時間も場所も全部、超越してしまうような感覚。

 そして、いつもと全然違う(ように私には見えた)街を歩き始めてすぐ、雨が降り始めた。最初は遠慮がちに、そしてすぐ、激しく叩きつけるように。

 道路に積もる細かな埃が舞い上がり、そしてまた、空中の雨に絡み取られて落ちる。独特の匂いがたちこめる。

 ああ、この匂いも好き。暗い空と、激しい雨と、降り始めだからこその、この埃臭さと。

 雨音は究極のヒーリングミュージックだと思う。

 信号待ちのとき、数秒間目を閉じて耳を澄ませた。傘を打つ雨の音が近い。

 雨が降っても、もう刺すような冷たさはなくて。冬は終わったのだと実感した。生温かいような空気。この雨で桜はほぼ完全に散って、また季節は動いていくんだなあ。陽光の桜の季節は終わり、すぐに新緑の眩しい、初夏がやってくる。

 今年は絶好のお花見ポイントを見つけたので、昼休みには毎日のようにお花見を楽しんだ。あんまり人もいないから、ゆっくりできる場所だ。

 一番よかったのは、散り始めの頃。よく晴れた日。ぼーっとしながら、座って桜を見てた。桜と、その向こうに見える青い空と。公園は学校に隣接していて、吹奏楽部の演奏がBGM。

 今演奏している生徒たちも、数年経てばこの学校を卒業し、ここにはいなくなる。それでも桜は、同じように咲くんだろうなあ。

 強風ではないけれど、風が吹くたびに花は、どうしようもなくこぼれ落ちた。そんなに急いで散らなくてもいいのに。花が次から次へ、音もなく舞い落ちるさまは本当に綺麗だった。それで私は、宇宙の始まりについて考えたりした。

 連続して、一つの物事が次の事象を引き起こすなら、その始まりはいったいなんだろう? 絶対的な無からはなにも生まれない。なにも変わらない。変化し続けるこの世界の始まりは、いったいなんだろうか。変化の始まりなど、あるのだろうか? 変化の向こう側にあったものとは、いったいなんだろうか。

 そもそも、こうして考えている今の私を生み出したものとは、何なのだろう???

 古来、桜を読んだ歌はたくさんあるけれど。

 万葉集の桜児(さくらこ)の話など、一見美談のようでいて、実はそうでもないなあと思った。

 昔、桜児という娘がいて、二人の男がどちらも彼女に惚れてしまう。二人が争うのを悲しんだ桜児は、「私が死ねば、争いはなくなる」と自ら命を絶つ。

 残された二人の男は、それぞれに彼女の死を悲しむ歌を詠んだ。

 私が男なら。彼女の傲慢さに唖然とするだろう。桜を偲ぶ歌を詠むことは、なかったかもしれない。だって、「彼女はただ選べばよかった」のに。なぜ選ぶことすらせず、気持ちを明らかにすることもなく、死んで解決をはかろうなどと愚かなことをしたのだろう。どちらを選ぶのも自由で、どちらを選ばないのもまた自由で。

 彼女が下した決断を、きっと、二人は受け入れただろうに。

 

 結局彼女は、二人をある意味、「どうせわかってくれない」相手だと思いこんでいたのではないかと。私が残された男の一人なら、ショックだ。彼女がいなくなったこともそうだが、それ以上に、自分はそこまで信頼されていなかったのかと嘆くだろう。

 そして、愛した人は、自分の心が作り上げた幻だったと知るだろう。「二人の人に愛された。争うのを見るのは嫌」そんな理由で死を選ぶような人だとわかっていたら、きっと好きにはならなかっただろうなあ。

 毎年桜の季節が来ると、去年はどう過ごしていたんだっけ?と思う。そして、ああ、また1年が経ったなあと思う。