ギャル曽根ちゃんの涙

 先日見たテレビで、ギャル曽根ちゃんが泣いていた。

 彼女は母に電話で、こんなことを尋ねていた。「(離婚した)お父さんに私は捨てられたのかな」

 母の答えはこうだった。

 あなたが捨てられたんじゃない。お父さんは別にあなたを捨てたのではなく、家族を捨てた。だからあなたが悲しむ必要はない。お父さんは、家族よりもっと大事なものができたんでしょう。

 一言一句正確ではないが、母親は上記のようなことを言い、ギャル曽根ちゃんはさらに、泣いた。

 自分も出産して親となった今、お父さんに会いにいってもいいだろうかと母に問うギャル曽根ちゃんに、母は、あまり賛成しない、みたいなことを、お母さんはそうしないほうがいいと思う、みたいなことを、言葉ではっきりというより、微妙に言葉を濁しながら伝えた。

 母は、ギャル曽根ちゃんを慰めるかのように、お母さんはあなたたち(子供たち)がいてくれて本当によかった、感謝している、ありがとうというようなことを繰り返した。

 ギャル曽根ちゃんは泣きながら、そんなお母さんの言葉を受け入れ、父に会いにいくのはやめ、その様子をスタジオで見たタレントたちが、「いいお母さんだね」と褒めたたえたのだが、私はその様子をみて、ギャル曽根ちゃんがとても、気の毒で仕方なかった。

 私は、ギャル曽根ちゃんが父に会いたいというのなら、行けばいいと思うのだ。
 離婚により、家の中で一切父の話題が出せなかった(母に気遣って)という環境が、どれだけギャル曽根ちゃんの心の負担になっていただろうか。

 もちろん、母子家庭で子供三人を育てたというお母さんにはお母さんなりの、夫に対する恨みつらみもあり、お父さんを正当化することが難しいのもわかる。スタジオで森口博子さんも言っていたけれど、そうしなければ、気持ちを強くもたなければとても生きていけなかったという事情もあるだろう。

 しかし子供が成人して、「父に会ってみたい」と母に許可を求めたとき、その心中を思いやって、なぜ快く「行っておいで」と背中を押してやらなかったんだろうと、私は歯がゆく思ってしまった。

 ギャル曽根ちゃんは、いわゆるいい子、なのだ。
 そのいい子の鎖が、自分自身を縛りつけ、自由にしてはくれなかったのだ。子供の頃だって、いなくなったお父さんのことをいろいろ聞きたかっただろうし、会いたかっただろうし、でもそれをずっと我慢していた。お母さんへの優しさで。
 父のことを口にすればお母さんを傷付ける、そう思って、父親を「もとからいなかった人」のように、決して口にしなかったギャル曽根ちゃんの優しさを思うと、胸がつまる。

 世の中には、ひどい親もいるし、へたに連絡をとることで不幸になるケースもあると思うが、ギャル曽根ちゃんの場合は、むしろ会うべきなのではと、私はそう感じた。

 だって、本人が会いたがっているから。父の口から、「捨てたわけではない」と聞くことで、彼女は抱えてきた重い荷物を、下ろすことができるのではないだろうか。

 ギャル曽根ちゃんが中学生のとき、帰宅途中のところを待ち伏せしていて、お小遣いをくれたという父親。たった一度の その日の遠い記憶が、どれだけその後のギャル曽根ちゃんを励まし続け、勇気づけただろうと思う。
 親に愛されたという思いこそが、自己肯定の大きな原動力になるのだから。

 もう二十歳も過ぎた、いい大人なのである。まして、出産してお母さんになったのである。お父さんに会いたいと思うなら、たとえお母さんが反対しようとも、会っていいのではないかなあ。あまりお母さんに気を遣いすぎて、自分を押し殺してほしくない。

 結果的にギャル曽根ちゃんが幸せになれるなら、それがお母さんにとっても一番望むところではないだろうか。

 それにしても。私はお母さんの、「家族を捨てた」という発言は、もう二度と、使ってほしくないなあと思う。

 「お父さんはあなたを愛していたよ。お父さんは家族も愛していたけれど、あの時はどうかしてたんだろうねえ。なにか事情があったのかもしれないね。そうか。もしあなたが今、お父さんに会いたいと思うなら、会っておいで。お父さんもお母さんも、離婚はしたけれど、子どもたちを愛する気持ちは一緒だよ」

 今さら言っても仕方のない願望ではあるが、ギャル曽根ちゃんのお母さんにはぜひ、上記のようなことを言ってほしかったなあと思う。

 子供にとって、親は親、なのである。母親が父親を悪く言って、まして、「家族を捨てた」だなんて聞かされて、嬉しい子供がいるはずはない。

 離婚すれば、夫婦は他人になるけれど。子供には、半分ずつ、父と母の血が流れている。

 ギャル曽根ちゃんが父に会い、愛されていたという確信を持てる日が、早く来るといいなあ。そんなことを、思う。

佐村河内さんとゴーストライター

 佐村河内(さむらごうち)守さん、ゴーストライターに曲を作らせていたんですね。びっくりしました。

 私が以前に書いた、佐村河内さんの自伝の感想、記事を削除しました。万一、あれを見て「読んでみよう」と思われる方がいたら申し訳ないので・・・。だって、本の内容も嘘だと思うから。

 今回の件で、ゴーストライターをしていた新垣隆さんの会見は、とても誠実なものだったと思いました。今、新垣さんが真実をあきらかにしなかったら、被害に遭う人は増えたでしょう。

 人間性の違い、というものを、すごく感じました。

 他人の作った曲で賞賛されることに、全くなんの疑問も感じず、ますます増長していく人と。
 自分の作った曲が武器として使われることに、罪の意識を感じ、耐えられなくなった人と。

 武器、という言葉は激しすぎるかもしれませんが。結果的に、武器になってしまっていたんだと思うんです。
 聴力をすべて失い、24時間なりやまない耳鳴りの中で、あれほどの素晴らしい交響曲を書きあげた人、という栄光は。
 佐村河内さんにとって、新垣さんの作った曲は、究極のアイテム。それを振りかざせば、反論できる人はほとんどいない。

 新垣さんが今回、真実を明らかにしたのは。
 障害のある少女に、佐村河内さんが高圧的な態度をとったことが大きいのではないかなあと思いました。
 高圧的な態度に出る背景に、自分の作った曲の威光があったならば。それはたとえ意図的ではないにせよ、共犯になるわけで。

 たぶん、この少女ひとりだけの問題ではないでしょう。表には出てこないけれど、有名な作曲家という看板の前で、理不尽なことがあっても飲みこまざるを得ず、嫌な思いをした人は他にもいたんではないでしょうか。新垣さんが黙っていたら、これからもそういう人は増えていったはず。

 新垣さんが提供したのは20曲以上。700万円前後を報酬として受け取っていたそうですが、これは素人が考えたって、報酬に見合わない労力だったと思います。交響曲を書くのに、どれだけの時間がかかることか。
 それに、あれだけ人気が出た作曲家としての、佐村河内さん自身に入ったであろう収入と比較すれば、あまりにも少なすぎます。

 新垣さんは、本当に音楽が好きだったんでしょう。
 お金の問題ではなく、自分の作った音楽が世に出て、みんなが喜んでくれることが、嬉しかったんでしょう。

 けれど、その音楽を身にまとった人間が、勝手な振る舞いに及べば。それを見て、人として良心が痛むのは、当然のことです。

 自分の作った音楽が、詐欺師の道具として利用されるならば。道具を作った人間も、責任は免れない。そういうことだから、告発に踏み切ったんだと思います。その勇気は称えたいです。

 いつ、どのタイミングで告白をするのか。
 オリンピック前、高橋大輔選手がフィギュアスケートで滑る前であることを批判する人もいますが、私は、滑る前でよかったんではないかと思いました。曲そのものに、罪はないです。その曲の良さは、何も変わらない。むしろ、汚れた虚飾を脱ぎ捨てて、本当に美しい作品として使われることができ、良かったのではないかと思います。
 高橋選手の大活躍を祈ります。

 もし自分が新垣さんの立場だったらと考えると、そこに至るまでの新垣さんの苦しみがみえてきます。

 恐いです。大きなお金が動いている。佐村河内さんひとりだけの問題ではありません。その周囲に、多くの人間がいる。
 その人達は、真実を知ってなお、甘い汁にたかり続けた。その人たちがどう出るか。

 そして、自分の今の職も。やめざるをえなくなるかも。また、将来も、大好きな音楽に関わっていくことが、難しくなるのかもしれません。

 言えば、つらいことばかりです。
 けれど、真実を告白した。その勇気を考えれば、新垣さんは正しい決断をしたのだし、結果は、それでよかったのだと思います。私は、新垣さんを佐村河内さんと同じだとは、思いません。

 今さら・・・という言葉を言い訳にして、ずっと黙り通す道もあった。けれどきちんと告白したことで、新垣さんは真の音楽家だということを、はからずも証明したのだと思います。新垣さんは本当の、音楽家です。

 では、結局のところ、一番に責められるべき人は誰なのでしょう?

 佐村河内さんを特集し、持ちあげたテレビ番組の責任は、重いのではないかなあ・・・。気付いてなかったはずはありません。ドキュメンタリーで、本人の言い分をそのまま流したらプロじゃないです。ある程度、きちんと裏付けとるのは当たり前だし、それをやったら破綻を見抜けたわけで。

 見抜いてなお、虚偽を放送した責任は重いです。
 名前は出てこないけれど、全部知っていてこの詐欺に加担し、私欲を満たした人物こそ。さもしい人間だと思いました。

明けましておめでとうございます

 初夢の話を書く前に、そういえば新年の挨拶をしていませんでした。

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします(^^)

 今年はどんな年になるだろう?
 去年以上に、素敵な年になる予感がします。

 年末に、樹齢1300年と言われる大木を見にいきました。山奥にある木です。山道は険しく、ところどころ陥没していて、車の運転にはかなりの気を遣いました。

 人家もなく。ひたすら山道をいくこと約2時間。

 辿りついた先には、厳かなお寺。ですが鳥居があり、また本堂を守るのは二匹の山犬。

 狛犬ならぬ、山犬です。あばら骨が浮いた、野性味あふれる姿。私の目には妙に、懐かしく映りました。親しみがもてるお顔です。

 お参りしたあと、すぐ近くにある大木の元へ。

 その日、最初は曇っていたのです。薄暗い空を見上げました。

 木の保護のため、木の根元には近付くことはできません。少し離れた位置で、木と向かい合うことになります。冬だし、道は悪いしで、観光客もあまりいませんでした。
 到着したとき、最初はそれでも数人の観光客がいたのですが、しばらくたつとその人たちも去り。

 静かな、他に誰もいない空間。冷たく清浄な空気の中で、しばし瞑想していると。

 やがて、雲間から陽が射したのです。雲が切れ、眩しい陽の光が、さーっと頭上から降り注ぎ。それはもう、幻想的な光景でした。

 歓迎されている気がして、嬉しくなりました。

 今年もいい年になりますように。

2013年を振り返る

 2013年も後少しで終わりです。

 今年はどんな年だったかと振り返ると、前に踏み出せた年だったなあと、そんなことを思います。

 臆病だったり、不安だったりする気持ちを抑えて、一歩前に歩き出せたような。

 年末には、初めてのディナーショーを楽しんできました。8センチのヒールを履いた自分にびっくりです。ちゃんと歩けました(^^;

 そして、振り返ってみると、預言カフェの言葉が当たっているのに驚きます。後で音声を文字に起こして書いたのですが、直後よりも後から読み返したときのほうがびっくりですね。最初は意味のわからなかった言葉が、後になって大切な意味を持つことに気付いたり。

 私自身も忘れていた事実を指摘されていました。

 2013年は、自分の中の自信を、少し取り戻せた年でもありました。こういうところは、自分のいい点なのではないか?というところに気付けたから。

 2014年は、一生懸命「生きる」年にしたいです。今年も一年、ありがとうございました。
 ブログを読んで下さる皆様も、よいお年をお迎えください。

若きピアニストの疲弊

 若手ピアニストのコンサートに行ってきた。チケットもぎりのお姉さんがにっこりと笑うその数歩先に、異国の若い女性が立ち、プログラムを手渡してくれた。

「いらっしゃいませ」

 習ったばかりの言葉には、くせの強いなまりが残ったまま。幼い顔立ちには、不安の色が見えた。その瞬間、ピンときた。
 そうか。今日のピアニストの奥さんだなと。

 なぜ瞬間的にそう思ったか、理屈ではなく、確信していた。
 同時に、その女性の感情を、覗き見たような気がしていた。才能あふれる夫への誇りと、コンサートの評価に対する不安を。

 「こんばんは」と私が挨拶すると、彼女は嬉しそうに、そして、はにかんだように小さく笑った。笑うと、ますます子供のように幼く見えた。

 知名度のあるコンクールで優勝し、世界中を演奏してまわる新進気鋭のピアニスト。若く二枚目の彼には、女性ファンが多いみたいだ。客席には、熱っぽい目をした女性が多かった。

 それなのに奥さんが目立ってしまっては、集客にマイナスではないのかな? 席に座り、開演を待つまでの間、私はそんなことを考えていた。客を迎えるスタッフ側に加わることを、彼女は自分から希望したんだろうか。主催者はそれを、快く了承したんだろうか。そしてピアニスト自身は、どう思ったんだろう。
 ツアーに同行することはともかく、異国の彼女の姿は目立つ。ホールにいれば、関係者と気付く人は多いだろう。反対する意見もあったのではないのかなあ。

 それでも、熱心に訴えたのだろうか。
 少しでも手伝いたい。できることはなんでもやりたい、と。客層や客の反応を見るのには、確かに会場スタッフとして参加するのが一番、いい方法だろう。

 きっと結婚したばかりなんだろうな。
 純粋な、きらきらした先ほどの瞳を思い出していた。コンサートの成功を願い、またその一方で、不安をぬぐいきれない瞳の色を。

 幸い、二列目ど真ん中という良席。顔やペダルの動きもよく見えるはず。あんなに可愛らしい女性の夫となった人は、どんな人だろう。どんな音を響かせるんだろう。
 私を含め、会場中がコンサートの主役を、いまかいまかと待ちわびていた。ステージの上にはピアノだけが置かれていた。これ以上はない、シンプルな構成。

 大勢の視線が集中する、その絡みつくような独特の空気の中。現れたピアニストは、絡みつく視線の糸の重さなど、まるで感じさせない軽い動きで。丁寧に頭を下げ、ピアノの前に座った。気負いなどまるでなかった。
 彼にとっては、ピアノと向き合うことは日常。大勢の視線に囲まれることも、これまた日常。何千回ある機会の、単なるひとつにすぎないのだなと。見ていて感心してしまった。普通の人なら、これだけの張りつめた空気の中でピアノに向き合ったら、それだけで腕も指も、意志に逆らってぶるぶる震えだしそうだ。

 それから長い時間。彼はピアノを弾いた。
 最初の曲を聴いたとき、私の目には涙がじんわり浮かんだ。懐かしい感じがしたから。いつの時代かもわからないが、今よりもっと遠い時代の、ここではない異国の地の風景が、脳裏に浮かんだ。
 音はイメージを想起させる。
 それはやはり、日本の風景ではなかった。作曲者もピアニストも、どちらも異国の人だったからかもしれない。ピアニストは寒い国の出身で。その人の故郷の空気の冷たさが、伝わるような演奏だったように思う。

 私は、行ったこともない、その人の国のことを思った。

 その後に続いた、プログラムの曲は。どれも有名で、けれど定番と言われるほどではなく、その絶妙な選曲の加減は、おそらく主催者の苦労のあと。あまりにも定番すぎては飽きられる。かといってマニアックすぎては、万人受けしない。

 けれど、演奏が進むうちに、私は気がついてしまった。

 もちろんテクニックは素晴らしい。大きなコンクールで優勝したのだから、実力は保証されている。ピアニストも当然、全力で演奏し、手抜きなどしていない。

 だけど彼は、楽しんでいなかった。疲れていた。

 無論、正確なタッチはいささかも乱れない。彼自身に、演奏を投げ出す気持ちなどまるでないだろう。けれど彼は、「楽しくない」のだと分かった。楽しくないのだが、弾いている。彼はピアニストで、大勢の人が彼の演奏を待っていて、彼を支える大勢のスタッフがいて。

 コンサートの最後の曲が終わったとき、会場は大きな拍手に包まれた。スタンディングオベーションはなかったが、それに近い興奮が場を満たしていた。満席だったし、それは大成功といえる公演だったはず。
 だけど、お辞儀する彼は、あまり幸せそうにみえなかった。笑顔を見せたけど、その笑顔はひどく、疲れているように私には見えた。

 何度も何度も、鳴りやまない拍手は、袖に消えた彼をステージに呼び戻し、彼は幾度も深くお辞儀し、聴衆の賞賛に答えた。
 けれどその顔に、疲弊の色は濃い。

 結局、彼はアンコールで二曲、短い曲を弾いた。そのうち最初のは、観客へのサービスをこめた曲だったように思う。そして、それに飽き足らない拍手の波に押されるようにして、本当に、その日の最後となる曲を弾いた。

 その曲は、彼自身が本当に好きな曲だった。私にはそう聴こえた。

 大きな盛り上がりもない。超絶技巧を披露する見せ場もない。優しく、静かで、ゆったりとした水の流れを思わせる曲。海? それとも川? 穏やかな水の流れだなあと、私は思った。

 コンクールに優勝した日の彼の報道を、見たことがある。若い情熱と、興奮に輝く瞳。ついに、ピアニストとしてはばたく、大きなチャンスを手にしたのである。どんな未来が待っているのだろうか。その目はただ、明るい未来だけをみつめていた。その日の嬉しさには、一片の曇りもなかった。喜びが、爆発していた。

 疲れていたのは、好きな曲を弾けないことが原因か。強硬なスケジュールが原因か。本当のことなどわからない。もしかしたら、疲れたようにみえたのは私の目の錯覚なのかもしれない。

 けれど私は、ピアニストが疲れているなあと思った。それは演奏の疲れではなく。

 袖に戻る背中は、ひどく華奢で、不安定に揺れているように思えた。ふらつくのを、必死に耐えているようにさえ見えた。

 私はあらためて、今日、開場のときに見た、若い女性のことを思い出した。彼女が妻なら、彼女の存在は彼にとって必要なもので。こんなに倒れてしまいそうなほど繊細で、疲弊している彼をなんとか、現実につなぎとめているものは、彼女なのかもしれないと。

 最後の曲だけが、本当に彼らしい曲なのだと思った。なんの衒いも迷いもなく。彼がそれを弾くと、昔の、プロになる前の自分に戻れるのではないだろうか。そりゃあ、コンサートの目玉にするには、主催者にとっては勇気のいるような、地味な曲かもしれないけれど。

 私がその日いちばん心打たれたのは、アンコール最後の、その曲だった。