飛びこんできたピンクの花束

 花束をもらった。思いがけないおすそ分けなのである(^^)

 ご近所さんが持ってきてくれたのだが、退職のお祝いでもらった花束が2つあり、家で飾るには多すぎるからとのことで。

 

 それが、うっとりするような素敵な花束だったのだ。全体をピンクでまとめてある。薔薇、カーネーション、トルコキキョウ、ストック、それらの優しい色が、葉蘭の緑に映えている。物凄く、私好みヽ(´▽`)/

 

 同じピンクでも、薔薇のは青みがかっているし、カーネーションは珊瑚っぽい。トルコキキョウは白地に薄く紅を溶いたような清楚さで、まだ先の方まで咲きそろわないストックは下から上に向かい綺麗なグラデーションを描く。

 見ているだけで、うきうきしてくるような華やかさだ。

 ただ、惜しいのは、香りがない。なぜだろう。こんなにも生き生きと花を咲かせているのに。普通は生の花を飾ると、部屋中が花の香りでいっぱいになるのになあ。

 一番匂いがあると思われる薔薇に鼻を近づけても、驚くほどに無臭で。香りのない薔薇なんて、初めてだ。
 温室で育てられた花束用の薔薇。品種改良され、野性を失って最後には、匂いまで失くしてしまったのだろうか。

 薔薇の香りは嫌い、という人にとっては、有難い品種なのかもしれない。私にとっては少し、物足りなかったけれど。

 花束を飽きずに眺めているうちに、気付いた。

 

 そうか。今、秋バラの季節だなあ。植物園に行かなくちゃ。ふらりと、出かけた。

 毎年、出かける植物園がある。春と秋には、咲き誇る薔薇を楽しむことができる。春の薔薇に比べ、秋の薔薇は種類も量も少ないが、秋には秋にしかない空気、風情がある。

 年ごとに少しずつ、栽培する薔薇も入れ替わっていて。ここの薔薇園には、あまり古株というのがないみたいだ。寿命がくれば新しい品種がそれにとって代わる。

 青い薔薇(厳密には白に近い紫、というのが多かった)のコーナーを、まず見て回った。紫のバラはどれも、弱弱しい株のものが多くて、見ていて可哀想になってしまう。いつも、息も絶え絶えに、ひっそりと佇んでいる感じ。強い風が吹けば、そのまま消えてしまいそうだ。

 薔薇園全体の中で、気に入ったのは「香澄」という品種。
 香りに驚かされた。なんと、春の空気の匂いがする。

 自分の鼻が信じられなくて、何度も嗅ぎ直してしまった。そのたびに、春の空気が脳裏によみがえってくるのだ。春の空の色。暖かさ。目を閉じて、幾種類もの春の花々が絶妙にブレンドされたような、不思議な香りを楽しんだ。

 秋に咲く薔薇なのに、春の匂いをさせているんだなあ。まあ、この「春の匂い」というのも、私の勝手なイメージなんだけども。私にとって、「香澄」は春の空気、そのものだった。

 そして、もうひとつ。「和音」。日本で作られた品種だけあって、いかにも日本的だと感じた。中心が黄色で、外に向かって色が薄く、白くなっていくのだ。静かで、優しい花。和服美人を想像させるような、凛とした美しさ。自己主張しないのに、個性も意志も、ちゃんと存在していた。

 家へ帰って来てから、部屋ではまた、花瓶に入った花束を見てうっとりしている。薔薇園も素敵だったが、この花束の絶妙なバランスも、本当に素晴らしい。どの方向から見ても、それぞれの花が互いを引き立て合い、全体として完成されたハーモニーを作り出している。

 どんな人が、この花束を作ったのだろう。花束を作る人のセンスがいいと、1+1=2、ではなく。2以上になるのだなあと、花を見て思う。個々の花を単品でもらったのだったら、ここまでの感動はなかっただろう。綺麗な花束に、感激の週末である。

賢者の言葉

 この世で起きた出来事は、すべて、この世で解決できる by 私の知人

 これ、折に触れ、思いだす言葉だったりします。聞いたとき、ものすごく納得したもので。どんな状況で発せられた言葉かと言いますと、とある、よくあるタイプの痴情沙汰で、死ぬの生きるのと大騒ぎになったバカップルに対し、彼らの職場の上司だった女性が、冷静に彼らを諭したときのものです。

 知人と言っても、私が直接は存じ上げない、面識はない方なのですが。
 この一言はすごいな~と、感動しました。達観してますね。素直に、すとんっと落ちてくる言葉です。

 本当に、つきつめてしまえば、その通りだと思います。この世で起きた出来事に、この世で解決できないものなど、ないのだと。

 周囲を巻き込み、大騒ぎしたカップルは、クールな上司に諭されて現実を取り戻し、おさまるべきところに収まって、一件落着となったらしいですが。
 この言葉、すごいな(^^;
 インパクトと説得力が、半端ありません。

 熱くなって周りが見えないときには、解決策などどこにもないような気がしたり、そういうの、わからなくもないですが。

 本当は、道なんて無数にあって。
 本人が思うほど、他人にとっては、たいした問題でもなくて。

 もう無理、とか。どうすればいい?、なんて孤立無援に苦しむ人の嘆きを聞いていると。意外に、解決の選択肢を本人が狭めていることが多かったりして。

 いくらでも道はあるのに。「あたしはこれしか駄目。これ以外認めない」といって、自分が決めた選択肢の紙を、渾身の力で握りしめて、身動きとれなくなっていたり。

 そんなものかもしれません。

昔住んでいたマンションを偲びつつ、考えたことなど

 私が今の地に引越すまで住んでいた以前のマンションは、隠れ家のような静かなところだった。構造上、私の部屋は他の部屋と隣接していなかったので、まったく音に悩まされたことはない。
 都会だから、土地の形がちゃんとした長方形じゃなかったのだ。
 オーナーは、少しでも多くの部屋を作ろうと思ったのだろう。法規制と土地の形の間で綱引きが行われた結果、誕生したのはちょっと変わった形の建物。

 その部屋で、私は息をひそめるように、静か~に5年、暮らしていた。
 自分で言うのもなんだけど、本当に地味で、静か~な暮らしだったと思う。引越しが多い私としては、ずいぶん長く住んだ方である。

 独特の形の小さなベランダは、エアコンの室外機が多くの部分を占めていて、狭かった。
 ごちゃごちゃと建ち並んだビルやマンションのせいで、ベランダから見える空は365度視界良好とは言えず、星を見るには不利な状況。

 流星群を見るときには、深夜にこっそり非常階段で、7階の踊り場まで上がった。遠くには、西新宿の高層ビルの夜景が見えた。たいていの住人はエレベーターを使うので、階段で(まして7階)誰かと鉢合わせする可能性は低いと思ったのだが、一度だけ深夜にも関わらず誰かが階下から上がってくる音が聞こえて、非常にあせった。
 もし鉢合わせしたら、向こうもさぞかし驚いたし、怖かったろうと思う。真夜中に非常階段に佇む人影なんて、不審者すぎる(^^;

 私の部屋から唯一よく見えたのは、隣のマンションの一室。
 永谷園の景品?と思われる、バスタオルがよく干してあった。あのおなじみのパッケージそのままのバスタオルは、目立ってた。

 5年間、そのバスタオルは使い続けられ、風にはためくその色は、順調に経年劣化していった。色褪せても、部屋の持ち主は大切に、そのバスタオルを使っているようだった。
 それを見るたび、「ああ、まだ同じ人が住んでるんだ」と、なんとなく親しみを覚えていた。洗濯物を干すその人を見たことは一度もないので、いったいどんな人が住んでいたのか、とうとう最後までわからなかった。
 あの人は、今もあそこに住み続けているのだろうか。

 私の部屋は、当時不動産屋さんに最初に勧められた物件で、即決したのだったが直感に間違いはなかった。「暗い部屋」と思ったけれど、静かに暮らしたいと思っていたから、それがよかった。

 ほら、こんなところに間接照明がありますよ~、オシャレでいいじゃないですか、という営業さんの笑顔が記憶に残っている。
 たしかに、壁にはなぜか、間接照明がついていた。だが、その照明のスイッチを押すことは、五年間で一度もなかった。

 その部屋を引越す、一年くらい前からは、管理人室の前で封書やダイレクトメールをまき散らす、迷惑な人(一回も顔見たことないけど)とのバトルが始まった。

 その人は、郵便受けの前で封書やダイレクトメールを読んだ後、必要なところだけを抜いて、それ以外のチラシを、ぽいぽい辺りに捨ててしまうのだ。

 みんなが使う、共用部分である床や、管理人室の棚の前に、チラシの類がしょっちゅう汚く散らかっていた。宛名の部分もそのままポイ捨てしてあったので、何号室の誰か、ということはすぐにわかった。外国の人らしき名前だった。チラシを捨てるゴミ箱も常備されていたのに、その人はいつも、ポイ捨て。

 私はいつも、そのチラシを拾って、ゴミ箱に捨てていた。
 その人が捨てる→みつけた私が、ゴミ箱に捨てる。それが毎日の日課になった。

 不毛な追いかけっこは、いつまでも続いた。いつか、その人が気が付いて、ちゃんとゴミ箱に捨ててくれる日が来るんじゃないかと思っていたが、とうとう、引越す日まで、その人が改心してくれることはなかった。
 (ちなみに、引越したのはその人とは全然関係ない、別の事情である)

 今も、ときどきあのマンションの事を考えることがある。
 私が拾わなくなったから、また、チラシは散乱しているんだろうかと。そしたらその人は、「この頃チラシが片付かないな~」なんて、少しは不思議に思うんだろうか。
 いや、思わないだろうなあ(^^; 散らかっていることに、不快感なんて覚えないだろう。無関心だから、できたんだろうから。

 そして、三年前に引越してきた、この、地方のマンション。単純明快、地震に強い長方形。
 まず、明るい。日の差し込み具合が、段違いだ。そして、両隣とはベランダで、仕切り一枚でつながっている。(非常時の際は、ここを破って避難して下さい、というあれである)

 ベランダでつながっているということは、日常生活がある程度、わかってしまうということにもつながる。窓を開けていると、隣の声が響いてくるから。

 当初、私の両隣は女性だった。どちらの部屋の女性も、恋人がいた。時折、明るい笑い声やおしゃべりが聞こえてきたが、幸せそうで微笑ましかった。やがてその女性は二人とも、引越していったけれど、私は「結婚したんだろう」と勝手に想像している。

 そして、新しく引越してきたのは、ちょっぴり迷惑なギャル(^^;であった。

 なにが迷惑って、とっかえひっかえ、男性を部屋に入れて大騒ぎすることなのである。最初は、かなり面食らった。まあ、あれよね。引越したばかりで、浮かれてるのよね、きっと。などと、いいほうに解釈しようとした。

 引越しパーティーで、浮かれているのだろうと。時間が経てば、日常に戻るだろう、と甘く考えていたが、状況は時間がたっても、あまり変わらなかった。

 

 一時期よく来ていた男性とは、何度か、大喧嘩していた。そりゃあもう、凄まじい物音と怒鳴り声と、女の子の泣き声と。大丈夫なのか、と心配になったりもした。しかし、男女の仲はよくわからない。大喧嘩の数時間後には、窓全開で、なんの恥じらいもなくエロい声が響いていたり(^^;
 せめて窓は閉めてほしい・・・・というか、閉めるだろう、普通。頼まれても、そういう声なんか聞かせたくないだろう、と思うのは、私が古い人間だからなのか。

 しかしさすがに、朝五時に、その手の声で目が覚めたときにはさすがに、私もブチ切れた。こちらが窓を閉めているにも関わらず、聞こえてくるほどの音量。これが続くのなら、おちおち眠ってもいられない。
 後で管理会社に電話すると、即「すみませんでした。すぐ、職場に連絡しますから」との回答。
 どうやら、私以外にもずいぶん苦情の電話が入っていたとみえる。しかし、職場に電話って、すごいな。普通は、まず全部屋に騒音注意の紙を投函するとか、そういう穏便な方向だと思っていたけど。

 迷惑な隣室の、真上の部屋の人は、ほどなく引越していきました。連日の騒音に、とうとう耐えられなくなったと思われます・・・。

 ある日、隣室でまた、大喧嘩があった。翌日。私が帰宅したところ、なんと隣室のドアの前で、男がひとり座りこんでいるではないか。ギャルを待っているのだろう。喧嘩したから、入れてもらえないのか?

 しかし、私にとっては気持ち悪いことこの上ない。遅い時間でもあり、内心かなり動揺したものの、部屋に入らないわけにはいかないので、平静を装いつつ、解錠してドアを開けた。
 そして、万一を考え、そのとき使っていた電子錠の暗証番号は、即効変えた。解錠の際の音で、番号の解析は可能だから。気にしすぎかもしれないが、とにかく気持ち悪いのは確かで。

 その日からしばらく。ギャルは部屋には帰ってこなかった。大喧嘩して、あの男性と切れるために、引越したのかな、と勝手に想像していたのだが、甘かった。しばらくたつと、ギャルはちゃっかり戻って来た。それまで部屋に戻らなかったのは、その男性と縁を切るために、一定の時間が必要だったのだろう。

 ギャルが戻ってきた、ある日の早朝。彼女はベランダで、洗濯物を干しつつ、大声で携帯電話をかけていた。ベランダの声は、そこらじゅうに響き渡るということに気付いていないようだ。
 その声に起こされる私。勘弁してくれよ~と眠い目をこすっていると、内容が丸聞こえになってるのにも気付かない彼女の、長電話が耳に飛び込んでくる。

 びっくりした。
 恐らく相手は男性だろうけど、お金を要求してたから(^^;
 それって売春だよね・・・とドン引きする。しかし、なんというか、すごい子だな~と。
 恥ずかしい、という感覚は、本当に人それぞれなんだなあ。私だったら、そんな内容、絶対に隣人になんか聞かれたくないけど。部屋の中でこそこそ話すならともかく、あっけらかんとベランダで大声で話す、その神経が凄い。

 そして、彼女の甘い声に引かれ、やってくる男性もまた凄い、と思った。

 需要あるんだな。なんだか、すさまじい。古今東西、遍く存在する職業であることを、実感する。

 男性は、美人局の心配は、しないのだろうか。
 ギャルの部屋に、男性の出入りは絶えない。彼らは、怖くはないのだろうか。おそらく、飲み屋で知り合った可愛い女の子に「うちに遊びに来て」と囁かれ、ほろ酔い気分でやってくるんだろうけど。
 部屋に上がった瞬間、怖いお兄さんに「てめえ、オレの女に手を出しやがって」と凄まれる展開も、まんざら確率が低いわけではないと思うのだが。

 知り合ったばかりの女性の部屋に安易に上がれば、美人局ではなくても、前彼とのトラブルにまきこまれたり、以後その女性に執拗に依存されたり、恐ろしい可能性のパターンはいくつもあると思う。
 だが、甘い蜜に惹かれる蟻のように、男性はギャルの部屋へ、次次とやって来る。彼らは、ギャルが不特定多数を相手にしていることを、知っているのだろうか? 
 それとも、自分だけが特別だと、甘い夢を見ているのだろうか?

 

 プロのお店ではなく、素人の女性と遊ぶのはひとつのファンタジーでもあるのだろうか、などと想像した。たとえその女の子が、時折お金を要求したとしても。それは、商売とはまた無縁で、これもひとつの恋愛の形だと、脳内では納得するのだろうか。

 正直に言えば、できれば隣人は、普通の職業であってほしいなあと思ってしまう。贅沢かもしれないけど。それと、静かな人であってほしいなあ。

 だが、ギャルが隣人になったのも、なにかの縁なのだろう。人は、縁のない人間とは、決して知りあうことはないと、そう思うから。ギャルの姿を通じて学ぶことが、きっと何か、あるんだろう。などと、無理やり自分に言い聞かせている、この頃である(^^;

海へ行こう

 夏が終わった。8月が終わればもう、秋はすぐそこである。
 日が沈むと、虫の音が季節の変わり目を告げている。

 夏の思い出といえば、私は先日、海へ出かけた。太平洋岸の、なだらかな砂浜が続く場所へ。
 たまに、無性に海へ出かけたくなるときがある。平日の昼間が、お勧めなのである。ほとんど人がいなくて、一人になれるから。

 表向き穏やかな波が楽しめる場所なのだが、実は離岸流が発生するため、海水浴場にはなっていない。遊泳禁止。
 けれど、表面上の波の大人しさに騙されて、昔から何人もの人が亡くなっている。

 

 危険な場所だが、泳がずに波打ち際で遊ぶくらいなら、大丈夫。
 海水浴場になっていないため、観光客もほとんどいない。広い砂浜を独り占めだ。

 靴を脱いで濡れた砂浜に素足を踏み入れると、沈みこんでいく感覚が心地いい。

 波から離れた場所にトートバッグを置いて、私は波打ち際でぼーっと水平線を見ていた。空には雲がたちこめていて、強い日差しを遮っている。見えない紫外線は容赦なく降り注いでいるだろうけれど、あからさまな焼けつく光がない分、過ごしやすい日だった。

 波の音。細かな飛沫が、風に煽られて散っていく。天然ミストシャワーだ。

 ふと足元に目をやると。うごめく小さな影が数個。

 んん? と見やれば、なんとあさりが、波で打ち寄せられたのか砂の上で、もぞもぞと動いているではないか。見ていると、素早い動きで砂の下へ潜ってしまった。

 自分の目が信じられずに、その場所を指で掘ると、まさに先ほど潜ったばかりのあさりが、ちゃんと出てきた。

 すごい~。こんなの初めて見た。

 急きょ、潮干狩りならぬ、あさり拾いを敢行。砂を掘る必要はなかった。波に打ち寄せられたあさりを、ただ、拾うだけ。

 あさりに混じって、小石も打ち寄せられていた。だけど、小石は砂浜に上がった後も動かないので、あさりと区別するのは簡単。

 慌てて砂に潜ろうとするのは、あさりだ。
 波が引いた後、うごめく影を、狙えばいい。

 しばし、あさり取りに夢中になる。あさりも運が悪かった。いつもなら誰もいない砂浜なのに。潜ってしまえば、カラスも狙わない。安全な場所だったけれど。

 あさりが波で打ち上げられるなんて、珍しい現象なのかもしれない。
 そういえば私は昔(10年以上前だが)、アカウミガメの赤ちゃんが一斉に、海へ帰っていく場面に遭遇したことがある。
 保護されて、人間の手で埋められた卵ではない。(そういうのは、ちゃんとした場所に保護されているから)

 私が見たのは、何百匹という赤ちゃんの自然の孵化だったと思う。そのときもやっぱり、私の周りには誰もいなかった。私はたまたま海が見たくなり、一人で砂浜に座り、ぼーっとしていたのだ。

 自然の神秘である。
 卵が産み落とされてからの日数、気温、湿度、潮の加減、アカウミガメにとっての、最良の日が、その日、その時だったのだろう。

 自分のすぐそばをヨタヨタと這う小さなカメの姿に驚いて辺りを見回すと、そこらじゅうで、同じカメが海に向かって歩いていた。その光景は、今も胸に残っている。自分一人で見るにはもったいないくらいの、貴重な場面だった。

 生まれたばかりで、なにも知らないのに。海の方角はわかるのだ。そして、そこへ行かなければならないということも、赤ちゃんにはわかっていたのだ。

 海は優しい。
 海を見ていると、心が静まる。

 いろんなサプライズがあるから、また海にはやって来たくなる。

 帰りがけ、ハマボウフウを摘んでお土産にした。自然の恵みは素晴らしい。過酷な直射日光、激しい塩風、少ない雨。植物が生育するには厳しい環境なのに、広範囲に自生するハマボウフウは、しっかりとこの地に根付いている。

 5月の頃の柔らかい茎とは違って、少しかたいけれど美味である。独特の香味は、クセになるおいしさだ。
 私は酢味噌で食べるのが好きだけど、生でかじってもOKだ。摘みながら、茎の固さを確認すべく、口に放り込んでみると塩味がちょうどよかった。

 なんのドレッシングもいらない。抜群の塩加減。

 与えられた環境の中で生きる、とはこういうことなのか、と考えさせられもした。

 ハマボウフウは、化成肥料のまかれたフカフカの畑で、たっぷりの水分をもらって育てられる出荷野菜を、羨んだりはしないだろう。そして、その立場を望むこともないだろう。

 ハマボウフウにとっては、今いるこの地がすべて。
 弱い株は枯れ、強い株は生き残り。黙々と増えていくだけ。いいも悪いも、幸せも不幸せも、ない世界がここにはある。

 私が勝手に、「すごい生命力の植物だな~」と感心するだけで、当のハマボウフウにしたら、すごいもなにも、それがハマボウフウのすべて、なのだ。

 なんてことを考えながら、海をあとにした。

 ハマボウフウもあさりも、とても美味しかった。

食べられる花びら、フェイジョア

 フェイジョアの花びらは、食べることができるのである。

 知らなかった。その実は毎年食べてたけど、まさか花びらが食べられるなんて、知らなかった。

 満開のフェイジョアの木。芳香はない。おしべが散って、地面を赤く染めていた。その中にどうして白い花びらがないのか、不思議だったけれど。

 ある日。フェイジョアの木に近付くと、一斉に物凄い数の鳥が飛び立っていった。食べるものなどないだろうに、なぜ? 一瞬疑問に思ったけれど、そうか。考えてみたら、鳥はあの白い花びらを食べていたんだなあ。

 白い花びらをちぎって、口に入れてみた。甘味がある。それは、果実と同じ風味だ。ちょっと、バナナに似てる。南国のスピードで進む時間みたいに、まったりした味である。

 花びらを食べながら、そよ風に吹かれていた。空は晴れていた。

 平和な午後である。