2024年9月6日は記念日

今日は記念日である。私の人生において、けっこうな記念日となった。あまりいい日ではないが、でも諦めがついたといえば、いい日なのかもしれない。

自分の半生を振り返ると、本当にいろいろなことがあって、もがいてもがいて、という時期が長かったのだが、その原因がわかった日でもある。

人ですね。人は、変わらないのである。そのことを、しみじみ噛みしめてる。

いや、よく言うよね。他人を変えることは難しい。だから自分を変えるんだって。それは、「そうですよねー」と軽く答えられるんだけど、いざ自分のケースとなると、やはり希望が生まれてしまうではないですか。変わってくれるかもしれないって。

それで、あれこれ努力するわけです。尽くすわけです。けれど、やっぱり人は変わらない。

それがわかるまでに、こんなにも時間が必要だったんだーと、しみじみ。

でもさ、確かに私、自分で納得するまでやり尽くさなかったら、きっと誰の言うことも聞かなかったと思う(^^;

そんなことないよ。そんな人じゃないよって。自分がやり尽くして、その結果がこれかーというのがあるので、もう納得するしかない。そうか、そういう人だよね。最初からそういう人だし、もう変わらない。というか、途中変わってくれたと思った方が幻想なわけで。

でも、納得してる、今は。

だから私の半生は苦しかったんだなあって今はわかる。原因がわかったので、今後はもう少し楽になるだろう。

だけど割り切れない感情は、しばらく私を苦しめるんだろうな。まあいいや。人生最悪のときよりは、ずいぶんましである。

これまでに何度か、占いや預言カフェのようなものに頼ったけれど、実は一番当たったのが、鶴ヶ峰のロイヤルマートの占い師さんだった。振り返ってみて、ずばり言い当てられていたのだ。私が1ミリも思ってはいなかったことを。

〇〇さんは、大変な人(悪い意味で)ですよ、と。

××さんのことを言われると思っていた私は、驚愕した。そして瞬時に反論していた。

占い師さんは、私の反論に、反論はしなかった。ただ、気の毒そうな目でみていた。

今ならわかる。ロイヤルマートの占い師さんは大当たりだ。そして、それをズバリ指摘した人って、これまでいないなあ。

人生は、すべて自分に委ねられている。どんな生き方も、自由である。いろんな選択肢があって、それを選ぶのは自分だ。

私がもし第三者なら、こう言うだろう。

好きにすればいい。君は自由。100%の幸福などありえないし、あるならとっくに選んでるでしょ?そんな道はない。
優先する項目を整理して、妥協できるところを妥協して、なんとかやりすごせばいい。できるだけ自分に負担がかからない形で。
もう後悔はないでしょ。あり得ない結果をみせつけられたんだから。
進むもよし、戻るもよし。自分が少しでも楽な道を選べばいい。
自分を大事にして。もう相手は変わらないよ。それがよくわかって、よかったじゃないか。
今は自分の気持ちを、一番大切にして。自分が望むように、すべては少しでも楽なように。

まあ、結局それしかない。

人それぞれ悩みはあるだろうけど、私にとっての大きな重荷の謎が解けた、2024年9月6日(金)は、記念日だ。備忘録として、このブログに綴っておこう。

私もお人よしのアホだったなあと思うけど、でも、がんばったねと、誉めてやろう。自分を。よくがんばった。偉かった。ヨシヨシヾ(・ω・`)

家系の因縁

母の従兄が亡くなり、お通夜とお葬式に行ってきました。従兄は本来、本家を継ぐ立場でしたが、いろいろ事情があって、家を継ぐことはありませんでした。そして、その本家は後を継ぐ子供がなく、途絶えてしまいました。

お葬式の間、ご先祖さまについていろいろと考えさせられました。もし本家を継いでいたら、従兄の人生も違うものになっていたかもしれません。

本家の菩提寺の和尚様は、高齢ですがお元気です。8月19日が、本家を継いだ伯父の23回忌でした。8という数字も、19という数字も、私の人生でたびたび登場する数字なので、なにか因縁を感じます。すべては、つながっているのかなあと。

ある日突然この世にあらわれたわけではなく、ご先祖様のひとりでも欠けていたら、今の自分はいないのです。

もはや本家はなく、23回忌はささやかなものでした。和尚様と伯父は同級生です。本家の大伯父は、今の和尚様の父(先代のご住職)ととても仲が良かったそうです。大伯父は何かというとお寺に入りびたりで、草取りの奉仕など、お寺のために尽くしたとか。

時が流れて、もう本家は途絶えてしまいました。墓は、新しくできた永代供養の小さな墓へと移されました。私は年に数回このお寺を訪れて、永代供養墓に手を合わせています。

母の従兄のお葬式をきっかけに、ご先祖様に思いを馳せました。本家が途絶える家には、本家が途絶えるだけの因縁があるのだと思います。

私の人生も、大変なことが多かったので、これもまた家系の因縁かなと思います。結局本家ではないのに法要をしたり、永代供養の手続きをしたり、お寺との関わりは私が一番多いです。私の兄弟はなにもしていないのに、なぜか私にその役が来るという(^^;

お寺の和尚様と法要のたびにおしゃべりするのですが、先代のご住職も特別な縁で僧職についたそうです。そもそもお坊さんになる気はまるでなく、別の職業についたものの、どの職業に就いても必ず妨害が入り、しかも次々と家族が亡くなる不幸があり、とある方に「あなたがお坊さんにならない限り、身内の死が続く」と諭されたとか。その後、お坊さんの修行に入ると、身内の死はぴたりととまったそうです。

こうしたお坊さんや神主さんなどは、自分がなりたいと思うよりも、見えない縁に導かれてなるものなのかもしれないですね。

宝塚はもう見ない

宝塚歌劇団といえば、夢の世界。私が以前東京に住んでいたとき、和央ようかさんの「ファントム」を、東京宝塚劇場で見た。真っ赤なじゅうたん。豪華な衣装。熱狂的なファンの方々。

帝国劇場の舞台とはまた違う、独特の世界観。とても素敵だなあと思ったし、紡ぎ出される華やかな物語、ショーを堪能し、また観劇したいなあとそう思いながら帰途についた。

でもその後、96期のいじめ問題が発生。劇団の対応がおかしいのにびっくり。宝塚に対する疑念がわく。裁判にまでなって、長期にわたっていじめの被害者が結局、救われなかったことを大変気の毒に思う。

そして昨年。有愛きいさんの自殺を知り、事件の経過をみるにつれ、私の中で完全に、宝塚歌劇団に対する印象が変わった。

私が宝塚を見に行くことは、もう2度とない。あまりにもひどすぎる劇団だ。見に行こうという気持ちは、一生持てない。

有愛(ありあ)きいさんの双子の妹さんが、退団したニュースが決定打だ。その後どうなったんだろうと検索してみて、有愛きさんの妹である一禾(いちか)あおさんの退団を知り驚愕。どうして被害者の遺族が退団して、加害者一団にはおとがめなしなんだろう。人が一人死んでなお、被害者関係者が黙らせられる現状に、失望しました。これが宝塚かあ。清くも正しくも美しくもないよ。

96期のいじめの話も、有愛きいさんの話も、根っこは同じ。宝塚では有愛きいさん以外にも、2018年6月に宝塚音楽学校の生徒が、パワハラを苦に寮のバルコニーから転落、全治3週間の全身打撲を負っていたそうで…。

宝塚歌劇団のやり方はもういろいろ破綻しているのに。ガタガタと崩れていたのに。有愛さんが亡くなるまで、ずっとパワハラ体質は続いていたのか、とびっくりしました。この飛び降り事件のときに宝塚が改革をしていたら、有愛さんは亡くならなかったんじゃないかと思います。

問題の構造、宝塚の体質については、ものすごく単純なことで。

要するに、上下関係が絶対だったら、必ず起こる事件だと思うのです。だって、世の中には意地悪な人間、理不尽な人というのは必ず一定数いるわけで。

宝塚では上級生が絶対正義。トップスターは雲の上の人。

その神様のような存在が、正義の人ならいいのですが。そうでない場合はどうなるのでしょう。そんなことわかりきった話です。

どこの世界でも上下関係が厳しい環境というのはあると思いますが、でも事件にまで発展するようなことがあれば、そこには正義が発動しますよね。調べて、誰の目にも明らかなリンチがあれば、加害者は処罰されるでしょう。職場にもいられなくなると思う。

意地悪な人が、絶対的な権力を握り、誰も逆らえなければやりたい放題になりますよね。いじめのターゲットにされればほとんどの人が逃げ出すだろうけど、逃げられなかった人が死を選んだ。その責任は誰がとるのでしょう。

もう団体の構造として、だめなんだと思う。これだけの騒ぎになって、事件になって、人が一人死んでいて。

加害者おとがめなし。謝罪文を提出したのも加害者全員ではない。書面だけの謝罪で、遺族と直接対面しての加害者の謝罪はなし。被害者の妹がひっそりと退団。宙組は加害者のトップスターはそのままに公演再開。

被害者の方が、死んでなおこの対応ですので、生きていたときには本当に地獄だったと思う。生きてどんなに上にパワハラを訴えても、これじゃ無理です。なにひとつ聞いてもらえないどころか、むしろパワハラがひどくなったんではないでしょうか。

信じられないのは、宙組の公演再開です。これを喜んで見に行く人がいるのかと思ったら、いるんですね。しかも大勢。

今回の一連の事件を批判して「もう見ない」「見る気になれない」とおっしゃってるファンの方も、少ないですがごく一部いて、救われる気持ちになりました。見に行くということは、加害者に加担する、加害者のパワハラ行為を容認するということなんだと思いますけどね。

私がもし熱狂的な宝塚ファンだったとしても、この事件を知ったら、即座に熱は冷めたと思います。パワハラの内容がもう、集団リンチだし。人数も一人ではなくて、劇団側が認めただけで10人。閉鎖された空間で、10人相手に罵倒を受け続ける日々は、地獄以外のなにものでもない。それは、芸を磨くことでもなんでもなく、単なるいじめでしょう。

有愛きいさんが本当にお気の毒だし、遺族の方々もすごく傷ついて、それでも精一杯劇団や加害者に立ち向かったと思うし。

事が公になったのは、よかったです。もし隠避されていたら、また続々と被害者が出たと思うから。遺族の方々、本当に勇気があった。遺族の方の勇気が、次の被害者を防いだ。

有愛きいさんのご冥福をお祈りします。

綺麗なものを見る、考える

嫌な出来事があったときこそ、綺麗なものを見る、考えることで気持ちをリセット。できるだけ綺麗なものだけを見ていたいものです。

ということで、また植物園で撮った写真を載せたいと思います。撮影は6月。早く記事にしないと、どんどん季節が過ぎ去ってしまう(^^;

元気な黄色のバラ。「伊豆の踊子」です。2001年フランス作出。とにかく元気いっぱいという感じで可愛い。どんどん上に向かって伸びていきますね。このバラは、晴れた空がよく似合う。「伊豆の踊子」という名前がぴったり。

お次は清楚な白いあじさい。

品種名はわかりませんが、白といっても部分的に薄く青みがかっていたり、クリーム色だったり、繊細なグラデーションがあり面白い。

あじさいというと、青もしくは赤というイメージがありますが、白もなかなかインパクトがあるなあと思いました。そう。この白いアジサイは、主張する白、という感じがしました。積極的なんです。ひっそり咲くというより、舞台の中央で静かにほほ笑む大物女優のイメージ。ことさら言動で表現はしないけれど、黙っているだけで周囲がひれ伏す、みたいな。

そして次の画像も変わり種のアジサイ。

これは、宇宙とか星のイメージだなあと思って眺めてました。品種はわかりませんが、一般的なアジサイとはずいぶん違う形ですね。夜に月明かりで眺めてみたい。漆黒の宇宙で映える、花火のような。闇を背景に、華やかなダンスを披露しているような花だと思いました。

最後は、女王様の椅子の写真。

この椅子を見たときに、どこかの国の女王様の椅子みたいだなあ、と思ったんですね。おとぎ話に出てくるどこかの王国の、お庭にあるイメージです。

ちょうど陽が射してきて眩しくて、光がきれいだなあと思って撮りました。この植物園の担当者さん、センスがいいですね。花だけじゃなく、オブジェも光ってます。入園者はどこか遠くの異世界に迷い込んだような気持ちになる。

この植物園、広いので1日歩き回るとくたくたになるんですが、365日いつ訪れても新たな発見があり、同じ景色はありません。心が癒される場所。

そして重要なのは、「ペットの入場が禁止されている」ということ。

園内の芝生のどこでも、安心して座ってくつろげるんです。今やどこの公園も犬のトイレと化している現代、貴重な存在だなと、つくづくそう思います。ありがたいです。

ペットを連れて入りたい、という声がないわけではないし、圧力もあると思います。でも、人間のための園を続けてくださっていることに感謝しています。

園内では、犬のフン尿を見かけることはありません。散歩中の飼い主が、マーキングさせている姿もみません。そのことが、なによりもありがたいです。

初夏のバラ園

いつもの植物園へ出かけて癒されてきました。薔薇は定期的に植え替えられるので、気に入ったバラも数年でいつの間にかなくなったり。寂しいけど、そうやっていつも目新しい品種を入れることで、たくさんの新しい出会いがあったり。

今回お気に入りのバラはこれ。

カインダブルーというんだそうです。2015年ドイツで作出。

青っぽいバラはたいてい樹勢が弱いものですが、このカインダブルーはとても元気。群れて咲き誇る姿は壮観です。晴れた空より、少し曇った空が似合う。

この植物園で年々弱っていった「青龍」という品種は、とうとう撤去されてしまったようで、姿をみることはできませんでした。代わりに、この「カインダブルー」が堂々の入場。

見惚れていて、ちゃんと匂いを嗅ぐのを忘れてしまった。次回は香りも楽しみたい。

写真を撮っているときには匂いにむせるということもなかったので、そんなに強い香りではないと思います。もう1枚どうぞ。

美しいバラ。そして紫だから、少し寂し気。でも誇りをもって咲いてる感じ。

紫のバラといえばガラスの仮面ですけど、このバラは紫織さんのイメージではない。かといってマヤちゃんでもないな。

人間ならば、たおやかで、でも凜とした美人さんです。

次は、白いバラ。こちらも曇り空がよく似合うなあと思って撮りました。白って地味な色ですが、でも個性がある。

明るい太陽の元より、これぐらいの雲の下の方がより、美しく映える気がします。

この品種は「チャイコフスキー」です。フランスで2004年作出。

チャイコフスキーと言えばロシアの作曲家。すぐに思い出すのは「白鳥の湖」。うんうん。この白いバラは、いかにもロシアって感じがする。白鳥の湖がぴったりくる。

バラの品種名って、本当にぴったりくるものが多いなあと思います。それだけ、作り出した人が魂を込めて命名しているのかな。

この白には、雪の清純さと、冷たさを感じます。遠い異国の、静かな白です。

この植物園が大好きで、とうとう年間パスポートを買ってしまいました。園内を散策していると、春夏秋冬癒されます。薔薇も素晴らしいけど、年中いろんな花を楽しむことができて、心が癒されるのを感じます。

植物のパワーってすごいですね。花も。そして山の木も。広い園内を歩いていると、ざわざわしていた心が空っぽになって、優しい気持ちになれるのです。また行こう。